ヨブ記講解(26) - 患難は罪から来る
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記11:12~20
きょうはすべての患難の原因は罪にあることと、私たちが罪から立ち返るとき、どんな祝福が臨むのかについて伝えます。
1. 賢くなく無知な人間
「無知な人間も賢くなり、野ろばの子も、人として生まれる。」(ヨブ11:12)
「賢い」とは、辞書では「頭の働きが鋭く、知能にすぐれている。利口だ。賢明だ。」という意味ですが、霊的には「生きてきた過程の中で積まれた知識を糧とすること」を意味します。
賢いなら無知な者になりません。霊的に賢い人はみことばが糧となって、私たちを生んでくださった父なる神様を知っているので、決して偶像に手を合わせません。
野ろばの子は飼い主がいないため、自分勝手に歩き回ります。すると罠にかかったり、猛獣に食われたりもします。
これと同じように、無知な人は霊的に賢くないので、たましいの主人である創造主の神様を知らず、偶像に手を合わせるなど、野ろばの子のように自分勝手に生きていきます。また、神様のみこころと反対であるやみのわざ、真理と反対のことを行います。そのうち敵である悪魔・サタンの餌食になって、結局は永遠の死に向かうことになります。
私たちは決して愚かな野ろばの子のように行う無知な人にならず、ただみことばに聞き従って、まことの神を恐れかしこんで生きなければなりません。
2. 神様が望んでおられるまことの悔い改め
「もし、あなたが心を定め、あなたの手を神に向かって差し伸べるなら、──あなたの手に悪があれば、それを捨て、あなたの天幕に不正を住まわせるな──」(ヨブ11:13~14)
ここで「手を神に向かって差し伸べる」とは、神様の前に降参するということです。悔い改めの賛美「よるべなきわれは主に近づかん」を歌いながら両手を挙げるように、自分を頼りとする心を悔い改めて、自分の過ちを認めるのです。つまり、それまで神様のみこころからそれていた心を正しく定めていくということです。
ところで、なぜ心の悪を捨てなさいと言わないで、手の悪を捨てなさいと言ったのでしょうか。旧約時代は行為的な救いの時代だったからです。
イエス様がこの地上に来られる前の旧約時代には、人の力だけでは罪を捨てられないので、心には罪があっても、行いで罪を犯さなければ罪人だと言われませんでした。目に見える行いとして現れるとき、罪と認められたのです。
ところで、心にあるものは、結局手、行いとして現れます。心に欲があるので手で盗みをし、心に高ぶりがあるので後ろ指を指します。心に憎しみがあるので、手で人をなぐったりもします。
このようにすべての罪は根本的に心から出てきます。ですから、ツォファルがヨブに手の悪を捨てなさいと言ったのは、心の悪を捨てなさいということです。
「あなたの天幕に不正を住まわせるな」とは、私たちがいるすべての所で不正を取り除きなさいという意味です。つまり、心と思い、家庭、職場、事業の場など、あらゆる分野で罪と悪をなくしなさいという意味です。
私たちが悔い改めるとき、罪と悪を心から認めて、神様の前に真実に罪を告白します。それがまことの悔い改めならば、実際に罪と悪から立ち返らなければなりません。憤って争っていた人はかんしゃくを捨てて、争いをやめなければなりません。不平を言って不満を抱いたことを悪だと認めて、感謝の条件を探して告白し、喜ばなければなりません。
ただ悔い改めた場面だけ逃れるのではなく、自分の心と思い、すべての日常でそうしなければなりません。これが父なる神様が望んでおられるまことの悔い改め、変化です。
3. 罪と悪を捨てる時に臨む祝福
「そうすれば、あなたは必ず、汚れのないあなたの顔を上げることができ、堅く立って恐れることがない。こうしてあなたは労苦を忘れ、流れ去った水のように、これを思い出そう。」(ヨブ11:15~16)
「汚れのない顔を上げる」とは、神様の前に後ろめたいところがなく、堂々と顔を上げることができるという意味です。人は罪があれば不安で悩み、苦しいし、罪悪感のために神様の前に大胆に出て行けないでしょう。また、真理を深く知るほど自分の欠けているところが見えるので、神様の前に申し訳ないと思うようになります。
しかし、真理の中に完全にとどまっていて、自分の心に責められない段階になれば、神様の前に大胆に出ることができ、求めるものは何でもいただくことができます。
反対に、罪と悪があれば、神様の前に立つことができず、いくら熱心に祈っても答えていただけません(詩篇66:18,イザヤ59:1~3)。
しかし、ヨブの場合は大きい罪があって患難に会っているのではありませんでした。試練を通して心の中の罪と悪を悟って捨て、さらに完全な姿になるように、神様が練ってくださったのです。ところが、ツォファルはこのような神様の愛の摂理を知らなかったので、ヨブが罪を犯したのでこんな目にあったのだと誤解しています。
ツォファルはヨブに「あなたは労苦を忘れ、流れ去った水のように、これを思い出そう。」と言いましたが、これは罪から立ち返れば、労苦を忘れるようになるだろうという意味です。川の水が流れて海に入ってしまえば、その水を再び汲むことができません。新しい水が続けて流れ去るからです。これは歳月の流れを言っています。
もし皆さんが病気にかかったとか、家庭や職場に問題が起きても、歳月が流れてその問題が解決されたなら、過去のことでずっと悲しんでいるわけではないでしょう。すべての問題が川の水のように流れ去って解決されたなら、かえって過去の思い出話が楽しくなって、感謝する心になります。試練の時も、その時はお先真っ暗で行き詰まりのように見えていても、信仰によって行軍すると、涙が喜びに、ため息が笑い声に変わって、神様が慰めと平安で満たしてくださいます。
「あなたの一生は真昼よりも輝き、暗くても、それは朝のようになる。望みがあるので、あなたは安らぎ、あなたは守られて、安らかに休む。あなたが横たわっても、だれもあなたを脅かさない。多くの者があなたの好意を求める。」(ヨブ11:17~19)
心の罪と悪は、神様のみことばである光が入ってきたとき、悔い改めて立ち返ることができます。真理が自分の中に入ってくるので、心の罪と悪を発見して捨てることができ、家庭、仕事場、事業場からも不義を退けることができます。
したがって、「あなたの一生は真昼よりも輝き」とは、いのちの光が入ってくることによって、世と友になっていた暗い過去は過ぎ去って、今は真理と友になって、真昼のように輝くことができるという意味です。
また「暗くても、それは朝のようになる。」とは、イエス様を救い主として受け入れていのちの光が入ってくれば、今は試練や患難の中にいて暗くても、すぐ朝が来るという意味です。
ここで「朝」とは、新しい日、新しい希望、新しい生き方を意味します。また、希望がなかった人が神様を見つけると、試練や患難が退くので、新しい力を得て新しい日々が始まります。
まことの光であられるイエス・キリストのうちにあるなら、誰でも暗やみから出てきて、光である神の子どもとして新しく生まれます(第二コリント5:17)。敵である悪魔・サタンの手から父なる神様のふところへ、死から永遠のいのちへ、病気の泥沼から健康な毎日へと移されて、まことの平安を得るようになります。このように完全に新しい世界に入るので、新しい朝を迎えるのと同じなのです。
「望みがあるので、あなたは安らぎ、」とは、難しい問題が解決されて新しい日を迎えるので、安らぐようになるという意味です。前は試練や患難の中で苦しんできたけれど、今はすべてが解決されて新しくなった、希望があるという意味です。神の子どもなら、神様が問題を解決してくださり、新しい希望が生まれたので、さらに真理にあって堅く立つようになります。霊的には、イエス・キリストに、岩の上に立つという意味です。
また「あなたは守られて、安らかに休む」とありますが、この意味は、罪と悪を捨てることで家庭と職場、事業の場からすべての不正が離れると、神様が炎のような御目で、天の軍勢と御使いで、聖霊の炎の壁で守ってくださるので、心の安らぎを得るようになるということです。
自分が変えられれば、相手と環境を支配していた暗やみが離れます。すると問題が解決されます。東西南北を見渡しても試練や患難とは関係がなく、いつも平安になります。
「あなたが横たわっても、だれもあなたを脅かさない。」とは、真理に堅く立っていれば、敵である悪魔が働けないので、ぐっすり眠れるという意味です。神様の愛のふところの中で、平安で安全な生き方ができるのです(詩篇4:8)。
「好意を求める」とは、憐みと助けを求めるという意味です。したがって「多くの者があなたの好意を求める。」とは、多くの人がヨブに近づいてきて、好意と恵みを求める、つまり、多くの人に尊敬されて愛され、物質などで人を助けるということです。罪から離れて真理の中で生きていくので、神様が人々の心をつかさどって、入るときも祝福され、出て行くときも祝福されるのです。
4. 悪者どもの望みは断たれる
「しかし悪者どもの目は衰え果て、彼らは逃げ場を失う。彼らの望みは、あえぐ息に等しい。」(ヨブ11:20)
真理の中で生きられない悪い人は、霊的な目がさえぎられているので、神様のみことばを受け入れず、信じようとしません。また、神様を信じると言いながら守り行わなければ、相変わらず霊的には盲人と同じです。ですから、彼らは目がよく見えなくて、逃げ場を見つけられないのです。
それなら、どこからどこへ逃げなければならないのでしょうか。死の泥沼からいのちの道、永遠のいのちの道へと逃げなければなりません。試練、患難を抜け出して光へと逃げるべきなのに、霊的な目がさえぎられていれば、逃げ場を失ってしまいます。自分のせいで困難がやって来たのに、認めないで、環境のせい、人のせいにするから、問題を解決する道が見つけられなくて、ずっとさ迷っているのです。
私たちが真理の中で生きないで罪を捨てないならば、自然に霊の目が衰え果てることを知っていなければなりません。結局、逃げ場を失ってしまい、悪者どものの望みはあえぐ息に等しいのです。悪に悪を積んでいくから、ついには逃げる力を失って、永遠の死である地獄に行くしかないのです。
愛する聖徒の皆さん、
事故や病気、災いや患難の危険が潜んでいる今日、多くの人が将来を心配して生きています。それで健康診断をしょっちゅうして、保険や投資などで対策を立てますが、それで解決されたりはしません。
人生の最も完璧な対策は、全知全能の神様により頼むことです。箴言1:33に「しかし、わたしに聞き従う者は、安全に住まい、わざわいを恐れることもなく、安らかである。」とあるとおり、すべての罪と悪を捨てて真理に変えられるほど患難が離れて、恐れることなくまことの平安を得ることができます。
したがって、ただ神様のみことばにとどまることでいつも安らかで栄えますよう、主の御名によって祈ります。
