ヨブ記講解(25) - 言葉の重要性、不信実な人
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記11:1~11
きょうはヨブの三人目の友だちツォファルの言葉を調べて、言葉の重要性と不信実な者について伝えます。
1. 言葉の重要性
「ナアマ人ツォファルが答えて言った。ことば数が多ければ、言い返しがないであろうか。舌の人が義とされるのだろうか。」(ヨブ11:1~2)
ヨブの三人目の友だちツォファルはヨブがことば数が多いことを指摘して、正しくないと責めます。ここで「舌の人」とは、おしゃべりでことば数が多く、偽りを言ってむなしい話をする人を意味します。
人が感情的になるとイライラして口数が多くなりますが、こんな状態ではよく大げさなことを言って、真実は語れないのです。
神の子どもたちは一言でも真実で慎重にしなければなりません。おしゃべりは聞く人がおもしろがって楽しいと思うかもしれませんが、そういう人を心から信頼したり認めはしないでしょう。聖書には言葉の重要性についての聖句が実に多いです(箴言10:19,マタイ12:36~37,ヤコブ3:2)。
全能の神様を信じる私たちは、いくらつらくて大変なことが起こっても、祈って、すべての事について感謝して、肯定的なくちびるにならなければなりません。「大変だ」「死にそう」「疲れた」など、否定的な言葉を口にすれば、ますます大変でつらいことが起こって、もっと疲れます。「難しい」「できそうもない」と告白すれば、サタンが喜び踊ります。これらは真理に背く言葉なので、神様が働かれる道をふさいでしまうことになるのです。
反対に「神様、信じます。神様がなさいます」など、信仰によって告白すれば、神様がその信仰のとおりに道を開いてくださいます。
「あなたのおしゃべりは人を黙らせる。あなたはあざけるが、だれもあなたを恥じさせる者がない。あなたは言う。『私の主張は純粋だ。あなたの目にも、きよい』と。」(ヨブ11:3~4)
ヨブはいつも自分は正しくて良い人だと思っていたし、友だちに「私はあなたたちより優れている」と思って無視していました。友だちがそういうヨブの言葉を聞いて、どうして黙っていられたでしょうか。
ここで私たちは自慢することがどれほど愚かなのか悟るべきです。それで、聖書には「愛は自慢せず」(第一コリント13:4)、「自分の口でではなく、ほかの者にあなたをほめさせよ。自分のくちびるでではなく、よその人によって。」(箴言27:2)とあるのです。私たちはこのような肉的な自慢を捨てて、「誇る者は主を誇れ」(第一コリント1:31)とあるように、ただ主を誇らなければなりません。
ヨブは自慢して、友だちを無視して、さらに神様まであざけったし、神様を冒涜するような言葉を口にしました。これに対してツォファルが我慢できなくて「あなたはあざけるが、だれもあなたを恥じさせる者がない。」と皮肉を言います。しかし、相手がことば数が多くて、自慢してあざけるとき、自分も一緒に自慢してあざけるなら、同じような人になるしかありません。
私たちは、傷もしみもなく清くて聖なる神様の前に正しいとは言えません。ところが、ヨブは神様の前で自分が正しいとどれほど多く主張したでしょうか。
だから、ツォファルは「ヨブ!悔い改めて立ち返ろうとしないで、神様の前で自分だけ純粋できよいと言っているのか。それなら、あなたが正しくて、神様が間違っているということか?あなたが本当に罪がないなら、どうして神様がサタンの訴えを聞き入れて、あなたを厳しい試練に会わせられたのか」と問い詰めているのです。
2. 大いなる全能の神様の前に臨む私たちの姿勢
「ああ、神がもし語りかけ、あなたに向かってくちびるを開いてくださったなら、神は知恵の奥義をあなたに告げ、すぐれた知性を倍にしてくださるものを。知れ。神はあなたのために、あなたの罪を忘れてくださることを。」(ヨブ11:5~6)
神様の力と知識がどれほど大いなるものなのか、人の知識ではとうてい推し量ることができず、ただ信仰によってだけ理解できます(イザヤ40:26,ローマ11:33)。
聖書には、海が分かれて数百万人が乾いた地を歩いて渡ったこと、難攻不落のエリコの城壁が一瞬にして崩れ落ちたこと、太陽と月が止まったこと、死んだ人が生き返ったこと、不利な戦いで勝利したことなど、神様の力によって現れた奇跡が多く書かれています。
ところが、ツォファルが見ると、このように神様は力と知恵が無限なのに、神様に立ち向かっているヨブをそのまま見守っておられるようです。神様はヨブのいのちを取るべきなのに、そうされずに忘れてくださるようです。だから、ヨブの罪の重さに比べると今の苦しみのほうが軽いことを知れと、ツォファルは勧めているのです。
「あなたは神の深さを見抜くことができようか。全能者の極限を見つけることができようか。それは天よりも高い。あなたに何ができよう。それはよみよりも深い。あなたが何を知りえよう。それを計れば、地よりも長く、海よりも広い。」(ヨブ11:7~9)
ヨブは高ぶって神様の前に知ったかぶりをして、自分が正しいと主張しています。しかし、実は神様の深さも全知全能さも知らないため、神様につぶやき、親を呪いました。それで、ツォファルはヨブに「あなたは神の深さを見抜くことができようか。全能者の極限を見つけることができようか。」と問い詰めているのです。
ツォファルは霊の世界についてよく知らなかったので、よみとはただ死んだ人々が行って永遠に眠っている、計り知れないほど深い所だと考えていました。それで、人が天の高さも、よみの深さも知らないように、神様は限りなく高くて深い方だと説明しているのです。
そして、神様の思いと心は地よりも長く、海よりも広いと言っています。神様は人としては推し量れないほど深い心を持っておられます。神様は宇宙万物を創造して、すべてが正確に動くようになさいました。広大な宇宙は、神様がつかさどっておられる霊の世界に比べれば小さい点にすぎず、また、この宇宙空間で地球はかすかな光を出す小さい点にすぎません。
ですから、ツォファルは「このように広い宇宙空間を抱いておられる神様の心と思いは計り知れないほど広くて深いのに、あなたはなぜ知ったかぶりをするのか」と言っているのです。
私たちがイエス・キリストを受け入れると、聖霊が心の中に来られて神様の愛を感じさせ、神様の深い心も悟れるようにしてくださいます。信仰が成長するほど、神様の心に似ていくほど、御霊によって神様を深く知ることができます。また、神様のみことばが心に刻まれて自分のものになっていると、それが生きて働き、神様をさらに明らかに知って交わることができます。
したがって、私たちが神様の全知全能さと深さを知っているなら、試練や患難がやって来ても、つぶやいたりあきらめたりするのではなく、主を呼んで祈ることで神様の力を体験して答えを受け、栄光を帰さなければならないのです。
3. 不信実な者
「もし、神が通り過ぎ、あるいは閉じ込め、あるいは呼び集めるなら、だれがそれを引き止めえようか。神は不信実な者どもを知っておられる。神はその悪意を見て、これに気がつかないであろうか。」(ヨブ11:10~11)
これは神様の権威についての説明です。呼び集めるとは、裁判を始めようと法廷を開くことですが、ここでは「神様の主権」を表しています。つまり、神様がさばきを行おうとなさるなら、だれがそれを引き止めることができようか、と言っているのです。
しかし、神様は何の理由もなく人を閉じ込められる方でもなく、思いのままにさばく方でもありません。ただ霊の世界の法則に従って治められる方です。必ず善であれ悪であれ、公義に従ってすべてを治められるのです。
特に神の子どもが罪を犯したり不正を行ったりすれば、その報いとして試練に会わせて懲らしめられます。これはその人が立ち返って完全に救いの道に向かうように導かれるためです。これは私たちへの神様の愛であり、神の子どもたちが受ける特権です。天国のいのちの書に名が記されて、父と子の関係が成立しているので、神様は私たちが罪を犯せばそのままにはしておかれずれず、深く関わってくださるのです。
神様は不信実な者だけでなくすべての人の心を見て、炎のような御目で探り、髪の毛さえも数えておられます(箴言15:3)。また、どこにでもおられるので、人のすべての行いはもちろん、心と思いまで神様の前に隠すことができません。時には悪いことでも良いことでも介入してくださらないように見えても、神様はすべてを探っておられ、結局は行ったとおりに報いてくださいます。本文で「不信実」とは、偽りが多くて人を欺くことです。ただし不信実な者とは、偽りが多くて人を欺く人だけではなく、偶像に仕える人、むだな言葉をよく口にする人、約束をしょっちゅう破る人もこれに当てはまります。
もし周りの人たちが自分を信じられない人と思っているなら、それだけ信用を失ってきたということなので不信実な者でしょう。心を守れずしょっちゅう移り変わって約束を破る人、状況によってああしたりこうしたりするずる賢い人も不信実な者です。感謝するようなことがある時だけ感謝して、感謝の条件がなければ不満を持つ人も同じです。
ヨブがこれまでに言ったことは夢も希望もなく、ただ不平、不満、恨み、嘆き、そして早く死にたいということだけでした。それで、ツォファルはヨブを不信実な者にたとえているのです。
世で不信実な者とは夢がない人です。すべてがつぶれた状態でやけになって生きている人です。こういう人の口からはむなしくて愚かな言葉、偽りの言葉が出てきます。
それなら、信仰にあって不信実な者、すなわち神様を信じると言いながら不信実な者とはどんな人でしょうか。
第一、永遠のいのちが何か、まことのいのちが何かを知りながらも、その道を歩まない人です。まことのものを知っているのに世を捨てられず、むなしいものを追い求めていく人です。天国と地獄があることを知っていると言いながら地獄へ行くようなことをしているなら、どうして信仰があると言えるでしょうか(ヤコブ2:14,ヤコブ2:19~20)。まして生ける神様の証拠を無数に見たのにみことばどおりに生きていなければ、これもまた不信実な者なのです。
第二、信じると言いながら神様を汚す人です。こういう人は教会には通っていながらも、かえって神様の心に逆らうことをして、教会と主のしもべを汚して、神様の栄光をさえぎります。口では「主よ。主よ」と呼びますが、実は神様のみこころを行わないから救われないし、むなしいものを追ったので、結局死の道に向かうことになります。
第三、神様を信じると言いながら悪を行う人です。「悪を捨てなさい」とは神様の命令なのに、神様を信じると言いながら悪を行うので不信実な者なのです。
マタイの福音書5:48に「だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」とあり、第一ペテロ1:15に「あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。」とあります。
したがって、私たちは聖なる完全な神様の子どもらしく、悪はどんな悪でも避けて、決して不信実な生き方ではなく、美しくて聖められた生き方をしなければなりません。
