ヨブ記講解(24)
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記10:13~22
きょうはヨブが高ぶって無知なため神様に訴える姿を調べて、神様が私たちに望んでおられるみこころは何かを伝えます。
1. 神様の前に知ったかぶりをするヨブ
「しかし、あなたはこれらのことを御心に秘めておられました。私はこのことがあなたのうちにあるのを知っています。もし、私が罪を犯すと、あなたは私を待ちもうけておられ、私の咎を見のがされません。」(ヨブ10:13~14)
これは前の12節の「あなたはいのちと恵みとを私に与え、私を顧みて私の霊を守られました。」に続く聖句です。「神様は私にいのちも祝福も下さって、私の心と思いをつかさどって神様を恐れて善を追い求めるようにされました。ところが、そのように恵みを施されながらも、私に患難を下すことをあらかじめ計画しておかれたのですね」とさばいているのです。
ヨブは「私はこのことがあなたのうちにあるのを知っています」と言って、また知ったかぶりをしています。このように自分は知っていると思うこと自体が恐ろしい高ぶりです。神様をよく知っていて、そのみこころのとおりに行うなら祝福ですが、ヨブのようによく知らないのに自分は知っていると思って、かえって神様のみこころに逆らうことをするからです。
箴言16:18に「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。」とあります。このように高ぶりは人生に破滅をもたらすものだと悟って、いつも謙遜でなければなりません。
ヨブが言ったとおり、罪を犯せば、神様が罪人だと認められるのは真理です。しかし、罪を犯した人が心から悔い改めて立ち返れば、赦してくださいます。ですから、ヨブが「私の咎を見のがされません。」というのは正しくありません。ヨブはまるで一度罪を犯せば赦されないかのように言っているからです。
神様は、私たちが罪を悔い改めて立ち返れば、東が西から遠く離れているように赦して、思い出すこともないと言われました。また「『さあ、来たれ。論じ合おう』と【主】は仰せられる。『たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」(イザヤ1:18)とあります。
このように私たちの神様は限りない憐れみと赦しを施される愛の神様です。ただし、私たちが罪から立ち返って光の中を歩んでいてこそ、主の尊い血で罪からきよめられるということを心に刻まなければなりません(第一ヨハネ1:7)。
「もし、私が罪ある者とされるのなら、ああ、悲しいことです。私は、正しくても、私の頭をもたげることはできません。自分の恥に飽き飽きし、私の悩みを見ていますから。」(ヨブ10:15)
ここで「罪ある者とされるのは悲しいことだ」というのは当然のことです。聖書を読むと、民全体を偶像礼拝に陥るようにした北イスラエルのアハブ王、ダビデをねたんで絶えず追いかけて殺そうとしたサウル王、師であるイエス様を銀三十枚で売り渡したイスカリオテ・ユダなど、悪い人々の結末は惨めでした。
悪い人がしばらく栄えるように見える時もありますが、結局は神様の公義のとおりにさばきを受けることになります(詩篇1:5)。
ヨブは自分が考えるに正しくて潔白な人で、試練が来る前は多くの人から尊敬されていたし、富も名誉もありました。ところが、一瞬にしてすべてを失って、ひどい皮膚病で苦しんでいるのに、友だちでさえヨブを罪に定めてさげすんでいるので、恥ずかしくて自分に飽き飽きしているのです。
世の人の中でも、事業に成功して偉そうにしていた人が一日にして潰れて病気にまでかかれば、恥ずかしく思います。
しかし、神様を信じる聖徒なら、たとえこのような状況に置かれていても、神様の前に堂々としているならば、人に対して恥ずかしいことはありません。戒めを守っている人は神様の前に大胆に求めることができ、答えていただけるのです(第一ヨハネ3:21~22,第一ヨハネ5:14)。ですから、試練や患難に会ったからといって人から隠れて苦しむのではなく、喜びと感謝のいけにえをささげることができるのです。すると、前より大きい祝福を受けるようになります。
2. 獅子のように無慈悲な神様だといって恨むヨブ
「私の頭が上がると、あなたはたける獅子のように、私を駆り立て、再び私に驚くべき力をふるわれるでしょう。あなたは私の前にあなたの新しい証人たちを立て、私に向かってあなたの怒りを増し、私をいよいよ苦しめられるでしょう。」(ヨブ10:16~17)
「頭が上がる」とは、霊的には高ぶりを意味します。もちろん、ここでヨブは自分が高ぶっていると言っているのではありません。自分がちょっと知っているかのように言って、自分が正しいと主張すれば、神様が獅子のように自分を駆り立てられるという意味で言ったのです。
ヨブはあきれたことに神様をどう猛な獅子にたとえています。まるで獅子が飢えたとき餌物を駆り立てるように、神様は正しく生きてきた自分を無慈悲に駆り立てて苦しめておられる、ということです。
また、「再び私に驚くべき力をふるわれるでしょう。」と言っていますが、ヨブが正しいと主張して神様に問い詰めるたびに神様の驚くべき力で自分を苦しめられる、ということです。まるで獅子に駆り立てられるように、全身の傷口から血と膿が出てきて、さらに苦しんでいると訴えているのです。
もし試練や患難に会ったなら、悔い改めるべきことを探すべきですが、そうではなくて正しくない言葉を吐き出して悪を行うほど、さらに心が苦しくなります。
たとえば、神様は敵をも愛しなさいと言われたのに、敵でもない人や信仰の兄弟を憎んで互いに争うならば、心のうちにおられる聖霊様がうめかれるので、心が苦しくなるしかありません。
箴言16:7に「【主】は、人の行いを喜ぶとき、その人の敵をも、その人と和らがせる。」とあるので、たとえ自分をいじめて苦しめる人がいても、善をもって打ち勝つべきです。私たちが完全に神様のみこころに従うとき、神様が働いてくださり、敵である悪魔が退くのです。
ヨブは力強い神様の前に恐れおののきながらも、相変わらず恨んでいます。今日も真理を知らない人は恐れもなく神様に立ち向かいます。患難が来たとき、気を落として恨むのではなく、祈って感謝すれば、神様は私たちをすべての苦難から救い出してくださると書いてあります(詩篇50:15,ヤコブ5:13,詩篇34:4,詩篇50:23)。私たちがこのようなみことばに聞き従って神様のみこころに従えば、神様が働いてくださるので、もつれた問題が解決されます。
しかし、神様を誤解して恨むなら、神様は助けることがおできにならないのです。反対に、善をもって神様に喜ばれるなら、神様は思う存分祝福してくださる方です。
「あなたの新しい証人たちを立て」とは、神様が次々と使いを出されることを意味します。つまり、神様が使いを次々と送って自分を打っておられるというのです。まるでよく訓練された軍隊が代わる代わる攻撃して来るように、ヨブというターゲットに向かって恐ろしく御怒りを注いでおられるということです。
「なぜ、あなたは私を母の胎から出されたのですか。私が息絶えていたら、だれにも見られなかったでしょうに。私が生まれて来なかったかのように、母の胎から墓に運び去られていたらよかったものを。」(ヨブ10:18~19)
ヨブは神様が自分を母の胎から出されたと誤解しています。神様は摂理のうちに人に新しいいのちをみごもるように根本の種を下さいましたが、子どもを生むか生まないかは親の意志にかかっています。神様は胎内で誰かは生きて誰かは死ぬと、いちいち干渉する方ではありません。
神様は人の生死禍福をつかさどられますが、霊の世界の法則によってなさいます。ところが、結婚や事業、家庭の問題など、すべてにおいてうまくいかなければ、神様を恨む場合があります。自分の過ちによって試練に会っているのに「神様が私を打たれた」と言う場合もあります。
私たちは何か問題が起こるなら、必ずみことばによってその原因を見つけなければなりません。申命記28章を読むと、神様のみことばに聞き従って、そのすべての命令を守り行うなら、地のすべての国々の上に高くあげられるようにして、すべての祝福が臨むようにされるとあります。反対に、神様のみことばに聞き従わないで、そのすべて命令とおきてを守り行わないなら、呪いが臨むとあります。
ですから、もし何かの災いや呪いが臨んだとすれば、自分の過ちによってサタンに訴えられて自分が招いた結果だと悟らなければなりません。この時、神様の前に何が壁になったのか祈って見つけて悔い改めてこそ、問題が解決されるのです。
3. 後の世について知らないヨブの訴え
「私の生きる日はいくばくもないのですか。それではやめてください。私にかまわないでください。私はわずかでも明るくなりたいのです。私が、再び帰らぬところ、やみと死の陰の地に行く前に。そこは暗やみのように真っ暗な地、死の陰があり、秩序がなく、光も暗やみのようです。」(ヨブ10:20~22)
ヨブは「神様、私は年もいっていて、死ぬ日も遠くないから、どうかこの地上で生きているわずかな間、幸せに暮らせるようにしてください。私が死んでから行く所は真っ暗で希望のない所だから、そこに行く前に苦しまないで生きてから死ぬようにしてください。私を放っておいてください」と言っているのです。
ヨブはまるで後の世についてよく知っているかのように話していますが、実は死後の世界について知らないので、地獄に対する恐れもなかったのです。しかも天国への希望は少しもなかったのです。
もしヨブが言っているように天国も地獄もなく、ただ人が死ねば無に帰るならば、多くの人は罪を犯して世と友になって生きていくでしょう。そして「もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。」(第一コリント15:19)とあるとおり、神様を信じる人が一番哀れな人になるでしょう。
しかし、私たちは天国と地獄があることを知っていて、いつも喜んでいて、すべての事について感謝することが神様のみこころであることを知っています。また、天国がどれほど美しい所なのか、反対に地獄はどれほどむごたらしい所なのかもよく知っています。
ですから、試練や患難に会っても、ヨブのようにつぶやいたり嘆いたりするのではなく、いつも喜んでいて感謝しながら変えられようとするでしょう。試練を通してさらに堅い信仰に成長して、深い神様の愛と心を悟って、さらに熱く愛するようになります。
愛する聖徒の皆さん、本当に神様を信じる聖徒ならば、苦しみの中にあっても神様への信頼と愛を失いません。苦しみと試練の期間にさらに善と真理を追い求めて行います。それが時間が流れても変わらないのです。
「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。──【主】の御告げ──天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ55:8~9)とあるので、浅くて狭い人の思いで神様をさばく愚かな者になってはなりません。
ただ信仰と善、神様のみことばによって深くて広い神様の心と愛を理解するまことの子どもになりますよう、主の御名によって祈ります。
