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ヨブ記講解(23) - ヨブの錯覚

9月8日
読了時間: 8分

説教:イ・スジン牧師

本文:ヨブ記10:3~12


きょうはヨブが錯覚して神様に訴える姿を調べて、私たち自身を省みられるようにメッセージを伝えます。


1. 悪い神様だと決めつけて反論するヨブ


「あなたが人をしいたげ、御手のわざをさげすみ、悪者のはかりごとに光を添えることは良いことでしょうか。あなたは肉の目を持っておられるのですか。あるいは、人間が見るように、あなたも見られるのですか。」(ヨブ10:3~4)


ヨブは神様が自分を造ったのに、試練や患難や病気で苦める方だと言っています。また、神様は悪人のはかりごとに光を添えることは良いと思っておられると主張します。ヨブの心はさらにひねくれて、続けて悪い神様のように決めつけています。自分のように正しい人を苦しめる神様、正しい人をしいたげてさげすみ、悪者のほうを愛する神様だとさばいているのです。


また、ヨブは「神様は心を見る方なのに、どうして人間のような目で見るのですか。友だちは私のうわべを見て、おまえは罪があると言っても、心をご覧になる神様は私が正しくて潔白なことを知っておられるので、当然祝福を下さるべきではありませんか」と問い詰めています。


「あなたの日々は人間の日々と同じですか。あるいは、あなたの年は人の年と同じですか。それで、あなたは私の咎を捜し、私の罪を探られるのですか。」(ヨブ10:5~6)


これは「神様は初めも終わりもない方であり、永遠におられる方です。神様の日々は永遠ですが、人の子らの日々はつかの間ではないですか。それなのにどうして神様と同じように扱って、このように苦しめられるのですか」と訴えているのです。


ヨブは創造主の神様を崇めているようですが、実は皮肉を言っています。心の広い神様がつまらない人間をしいたげて罪に定めて言い争うのは、結局は心が狭いのではありませんか、と言っているのです。


私たちの神様は子どもたちの小さい罪も見逃さない方です。「嘘つきは泥棒の始まり」という言葉のように、「これくらいは」と思って一つ、二つと受け入れていくなら、ますます罪が大きくなって死の道に向かうからです。大小を問わず罪から立ち返るまでには、試練が伴うしかないのです。私たちが私生子ではなく、神様の本当の子どもだからです。


しかし、罪を悔い改めて立ち返りさえすれば、神様は以前の罪を全く思い出さず、かえって傷を包んでくださり、慰めてくださる愛の方です。


ですから、もしかして試練や患難が皆さんにやって来たならば、ヨブのように問い詰めずに「父なる神様、感謝します。私の罪を発見できる恵みを下さって、すべてを働かせて益としてください」と祈らなければなりません。そうするとき、すみやかに変えられて試練や患難が離れ、栄える祝福を受けることができるのです。


2. ヨブの錯覚


「あなたは、私に罪のないことを知っておられ、だれもあなたの手から救い出せる者はいないのに。」(ヨブ10:7)


自分に罪のないことを神様は知っておられると言っていますが、これは前に神様を非常に悪い方だと罪に定めておいて、その後こう言っているのです。つまり、ヨブに罪がないことをよく知っておられる神様がヨブをこんなに苦しめておられるという意味なので、自分は正しくて神様は悪いという結論なのです。


ヨブがこのように言うのは、試練に会う前の自分の姿を思い出しているからです。「神様、知っておられるでしょう。あの時は多くの財産で貧しい者に施しをして、みなしごとやもめを助けたし、人々を訓戒して正しい道に向かうようにしました。神様が財産と子どもたちを取られた時も恨まないで、かえって感謝しました」と訴えているのです。ヨブは、前は教養と知識で自分の心を支配して守っていたことを考えているのです。


このように肉の人は自分が間違っていること、欠けているところを見るよりは、よくやったことを見て、自分に高い点数をつけます。そして、他の人が自分のことをわかってくれなければ、不満を抱きます。真理によって完全に変えられるまでは、ヨブのように自分自身の心もわからないのです(箴言16:2)。


私たち人は誰も神様の御手からのがれることができません。創造主の神様は時空間を超えて全宇宙万物を統べ治める方だからです(詩篇139:7~10)。


ヨナが神様のみことばに聞き従わず、タルシシュへ行く船に乗って船底で眠っていても、神様は全部見ておられました。神様は私たちがどこにいても炎のような御目で見守っておられるのです。


また、すべての人は神様のさばきの御手から逃れることはできません(ヨハネ5:29,黙示録20:12)。神様は心を見て、ただ真理であるみことばによって公義に従ってさばかれます。


ところで、今ヨブが「だれもあなたの手から救い出せる者はいないのに。」と言っているのは、このようにすべてが神様の公義に従ってなされるという意味ではありません。自分が神様の御手に捕らえられて逃られないと嘆いているのです。


3. 神様に不満を持って問い詰めるヨブ


「あなたの御手は私を形造り、造られました。それなのにあなたは私を滅ぼそうとされます。思い出してください。あなたは私を粘土で造られました。あなたは、私をちりに帰そうとされるのですか。」(ヨブ10:8~9)


ここで「あなたの御手は私を形造り、造られました。」とは、神様が私たちの目、鼻、口、骨と肉、3血だけでなく、目に見えない霊とたましいも造られたことを言っています。


神様はちりで人を形造られたとき、他のどんな被造物よりも愛と心を込めて造ってくださいました。ところが、ヨブは「神様が隅々まで心を込めて造られた私を、どうして滅ぼそうとされるのですか」と問い詰めています。ヨブは神様が自分をあまりにもしいたげておられると思うので、不満をぶちまけているのです。そして、神様が自分をどれほど真心を込めて造られたかを思い出してくださいと言っています。


ところで、続くヨブの話では「神様が私を造られたとき、粘土で物を造るように簡単に造られたので、今はちりに帰そうとされるのですか」と訴えています。


これはつじつまが合わない話です。少し前には、神様は自分を隅々まで心を込めて造っておいて、滅ぼそうとされるのですかと言っていました。ところが、今回は言葉を変えて、神様が自分を粘土をこねるように簡単に造られたので、簡単に捨てたと言っています。


このように人に不満が募ると、皮肉を言って、とんでもないことを言うのが見られます。


「あなたは私を乳のように注ぎ出し、チーズのように固め、」(10:10)


赤ちゃんにとって母乳はいのちのように大切なものです。しかし、いくら大切な母乳でも、赤ちゃんが飲まないで残ったものは捨てるように、ヨブは自分を使い道がなくて捨てられた乳にたとえています。もし残った乳を捨てないで、絞って置いておけば、時間が経つとにおいがして固まってしまい、赤ちゃんが飲めません。


ヨブは全身に悪性の腫物ができては膿が出るを繰り返して、からだがチーズのように固まっているので、非常に適切なたとえだと言えます。


ヨブは「産婦がいらない乳を捨てるように、私も使い道のない人になってしまいました。神様が私を固まった乳のようにみじめな身の上にしてしまいました」と言っているのです。


しかし、私たちの神様はヨブが考えているように悪い神様ではなく、善と愛の方です。このような神様の善と愛を信頼していた信仰の昔の人々は、どんな迫害や死の脅威の前でも神様を恨むことがありませんでした。


初代教会の使徒たちは信仰を守るためにいのちを少しも惜しまなかったし、たとえ獅子の餌食になって、刃物で首を切られるとしても、最後まで信仰を守って喜んで殉教しました。このような信仰で殉教の血を流したので、ローマが福音化されたのはもちろん、全世界に福音が伝えられる基礎になったのです。


私たちも神様の愛を深く悟って、どんな試練や患難が来ても、信仰を守ることはもちろん、さらに信仰が成長して神様に喜ばれなければならないでしょう。


4. 自分がよくやったことだけを考えて神様に訴えるヨブ


「皮と肉とを私に着せ、骨と筋とで私を編まれたではありませんか。あなたはいのちと恵みとを私に与え、私を顧みて私の霊を守られました。」(ヨブ10:11~12)


神様は人にいのちを下さり、恵みを下さいました。人の霊、たましい、肉を創造され、日光と空気、水、自然万物を下さって、人が生きていけるように環境を造ってくださいました。ですから、ヨブは自分にいのちと恵みを下さった方は神様だと告白しています。


しかし、ヨブのこのような言葉の中には別の意図が込められています。ヨブは神様に「前は私にいのちと恵みを下さって大切にしてくださったのに、どうしてもう使い古した履物のように捨てられたのですか」と言っているのです。


ヨブは「私の霊を守られました」と言いましたが、ここで「私の霊」とは「自分の心」を意味しています。神様がヨブの心を守られたとは、以前ヨブは神様を信じていたので、罪を犯さないで、みなしごとやもめに施しをして善良に生きてきたということを意味します。ヨブは以前よくやったことだけを考えて、神様に逆らっていても自分の過ちに気がついていません。


同じように、神様を愛して信仰があるという聖徒たちの中にも、真理を完全に悟れないので、神様のみこころから離れる場合があります。するとサタンが訴えて試練をもたらしますが、この時、知恵のある人は神様の前に謙遜にひざまずいて祈り、自分の過ちを省みようとするでしょう。しかし、そうしないで「神様、私は礼拝もちゃんとささげて、一生懸命祈ったのに、十分の一献金もちゃんとささげたのに、どうしてこんな試練に会わせるのですか」と問い詰めるなら、サタンはもっと思いを支配していくでしょう。そのうちに心までサタンに捕らわれて、悪い言葉を吐き出すようになります。一方では「こうしてはいけないのに」と思いながらも、自分に勝てないから、ますます大きい罪を犯していくのです。


したがって、困難がやって来たとき、謙遜に自分を省みて、主のしもべや信仰の兄弟が勧める真理のみことばに耳を傾ける知恵ある聖徒の皆さんになりますように。


次の時間に続いて伝えます。

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