ヨブ記講解(22) - ヨブの無知③
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記9:27~10:2
きょうはヨブが霊的に無知なので、ますます悪い神様として扱う姿を調べて、神様が私たちに望んでおられることを伝えます。
1. 条件付きの信仰を見せるヨブ
「たとい『不平を忘れ、憂うつな顔を捨てて、明るくなりたい』と私が言いましても、私の受けたすべての苦痛を思うと、私はおびえます。私は知っています。あなたは、私を罪のない者とはしてくださいません。私はきっと、罪ある者とされましょう。ではなぜ、私はいたずらに労するのでしょうか。」(ヨブ9:27~29)
ヨブはあまりにも悔しいけれど、友だちが度々指摘するので、その指摘どおりに不平を忘れて楽しい顔をしようとしても、何の役にも立たないと言っています。
「私の受けたすべての苦痛を思うと、私はおびえます。」とは、たとえ自分が立ち返っていやされたとしても、神様がまた訳もなく自分を打ってしまうだろうから、また苦しみを受けるようになるのでおびえている、という意味です。
しかし、神様は私たちが悔い改めて行いで立ち返るとき、過去の過ちを覚えてもおられない方です。詩篇103:12~13に「東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。父がその子をあわれむように、【主】は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。」とあります。つまり、私たちが神様を恐れるとき、あわれんでくださり(箴言8:13,詩篇103:17~18)、主の尊い血で洗い清めてくださるので、神様の前に正しいと認められることができるのです。
ところが、ヨブは、友だちが立ち返るようにと繰り返し勧めているのに受け入れません。たとえ友だちの勧めを受け入れて立ち返るとしても、神様は自分を相変わらず罪ある者とされるから、苦しみの中に生きていくしかないというのです。だから、労して悔い改めて立ち返っても何の代価もないので損だ、と言っているのです。これは条件付きの信仰です。
私たちは神様の前に条件を付けている姿はなかったのか、省みましょう。まだ信仰が弱い聖徒の中には「神様、これこれの問題を解決してくだされば、教会で奉仕します」「神様、自分なりに断食して徹夜で祈ったのに、なぜ答えてくださらないのですか」と言って、教会を離れてしまう人がいます。
救われたことだけでも感謝すべきなのに、かえって条件を付けるのです。このように神様の前に条件を付けること自体が信仰ではないことを知っておくべきです。
2. ますます悪い神様として扱うヨブ
「たとい私が雪の水で身を洗っても、灰汁で私の手をきよめても、あなたは私を墓の穴に突き落とし、私の着物は私を忌みきらいます。」(ヨブ9:30~31)
「雪の水で身を洗う」とは、井戸や川の水もない、水が貴重な状況を言います。灰汁は、草や木の灰を水に浸して上澄みをすくった液のことで、石けんがなかった時期に洗濯するとき、漂白剤として使いました。こういう灰汁で悪性の腫物ができた手を洗うならば、どれほど痛いでしょうか。
こんな苦しみに耐えて灰汁で手を洗っても、貴重な水できれいに身を洗っても、神様は自分を墓の穴に突き落としてしまうでしょう、とヨブは言っているのです。だから、生命のない着物でさえ自分を忌みきらうと言っているのです。
「神は私のように人間ではないから、私は『さあ、さばきの座にいっしょに行こう』と申し入れることはできない。私たちふたりの上に手を置く仲裁者が私たちの間にはいない。」(ヨブ9:32~33)
ヨブの言葉どおり、神様は人ではなく神です。ところが、人と話をしない方ではなく、子どもたちといつも交わりたいと思っておられる方です。それで、夢や幻でご自分の姿を示してくださったり、めったにないことですが声を聞かせてくださったりもします。今日は聖霊の声で神様のみこころを教えてくださる場合が多いです。
アブラハムやモーセなど昔の信仰の人々は神様といつも交わっていました。ヨブはこういうことを知っていたのに、自分は神様を呼んでも答えてくださらないと、神様を無視して否定しているのです。ヨブはみことばを聞いて知っている知識的な信仰だったし、本人が体験していなかったし、心に信じられる霊の信仰がなかったので、信仰の告白ができなかったのです。
「ふたり」とは、裁判の原告と被告を言っています。ヨブは、神様が自分に病気を与えて苦しめているので、神様が原告で自分は被告だと思うのです。自分は被告になっているが、正しい裁判をしてくれる仲裁者がいない、訴えることもできない、と言っています。みずから被害者になって、自分を呪っているのです。
ここで私たちは人の子らの心を悟らなければなりません。私たちがこの世を生きていると、いろいろな試練がやって来ます。ある人は財産を使い果たして、自分の力では問題を解決することができません。助けてもらうような人もいないから、落胆して落ち込んでしまい、自分から被害者になって自分を呪う人もいます。
しかし、神様を信じて頼る人は、いくら貧しくなっても神様に感謝しながら天国への希望を持って喜んで信仰を見せることができます。
また、信じていた人に裏切られた場合、その人を恨んで憎むだけでなく、信じた自分を悪いと思って苦しんでばかりいるなら、被害者意識を持って憂うつになってしまうでしょう。
しかし、肉の愛の空しさを徹底的に悟って、主のまことの愛で心を満たせば、恨みも苦しさもなくなって、かえって霊的に成長できるようになります。このようにすべてにおいて霊的な解決方法を見つけて、勝利者にならなければなりません。
「神がその杖を私から取り去られるように。その恐ろしさで私をおびえさせないように。そうすれば、私は語りかけ、神を恐れまい。いま私はそうではないからだ。」(ヨブ9:34~35)
ここで「杖」とは、神様の権威を意味します。モーセの杖やアロンの芽が出た杖など、旧約聖書で杖は「神様の力」を表します。
ヨブは、神様が自分を杖で打とうとしているのでおびえている、と言っているのです。もし神様が杖を取り去って、自分をおびえさせないならば、この不満を思う存分神様にぶちまける、ということです。
ヨブはこれまでどれほどふさわしくない言葉を激しい風のように口から出したでしょうか。それにもかかわらず神様を恐れていたから、この程度で我慢して自制したのです。そうでなかったならば、今より何倍もぶちまけていただろう、と言っているのです。その一方で、今はそうしていないと弁解しています。
3. 加わる苦しみのため悪がさらに現れるヨブ
「私は自分のいのちをいとう。私は自分の不平をぶちまけ、私のたましいの苦しみを語ろう。私は神に言おう。『私を罪ある者となさらないように。なぜ私と争われるかを、知らせてください。」(ヨブ10:1~2)
ヨブは自分のいのちをいとうほど苦しみを受けているので、このように自分の身の上を訴えています。自分は何の過ちもなく正しく生きてきたと思っているのに、友だちが叱責して指摘する言葉で疲れさせるので、ヨブは耐えられなかったのです。友だちの言葉は、まるで傷に塩を塗るように心も苦しめました。今は心の苦しみが肉の苦しみよりひどいので、「私は自分のいのちをいとう。」と表現したのです。
前にヨブは、言いたいことはたくさんあるが、神様がおびえさせるから言えないと言っていました(ヨブ9:12,9:14)。ところが今は、不平を全部ぶちまけよう、言いたいことを全部言ってしまおう、と言います。苦しみが加わるので、ヨブの悪がより一層現れている場面です。
ヨブの心に「自分は友だちより優れている」という高ぶりがあるので、自分がどれほど真理に反しているのか悟れません。先に友だちのビルダデは真理のみことばで悟らせましたが、ヨブはその話を聞きませんでした。このように「自分のほうが上だ」という高ぶりがあると、相手の話が耳に入らないのです。
ヨブは「今はたとえこんな目にあっていても、前はおまえたちより財産も多かったし、知識も多かったし、家庭もちゃんとあったし、多くの人に尊敬されていたのに、なぜ今の姿だけ見て指摘して訓戒するのか。もう相手にしたくもない」という態度です。
前はそれでも「友よ、私は正しい。おまえは正しくない」と言い争っていたのですが、今は心がかたくなになって、友だちを無視しています。そして、神様に直談判しようとします。ヨブは神様に「訳もなく私を罪ある者としないで、何のために私と争われるか、理由を知らせてください」と問い詰めているのです。
しかし、原因のない試練はなく、理由もないのに罪に定められることはありません。罪によって試練に会うこともありますが、神様がさらに美しく変えさせて、大きい器にして尊く用いようとして練ってくださる場合もあります。
アブラハムも試練の過程を通って信仰の父になれたし、モーセも試練を通して神様と顔と顔とを合わせられる次元に至ったのです。ダビデ、使徒パウロなど昔の信仰の人々はそれぞれに合う試練の時間を通して練られ、神様に認められる器になりました。
ヨブはすでに友だちがいろいろ真理のみことばで勧めて指摘してくれたのに、相変わらず悟れなくて、高ぶっています。このように高ぶっていると、みことばを聞いても悟れず、霊の信仰を持つこともできません。
それで、イエス様は「あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。」(マタイ18:3)と言われました。霊的な子どもは純粋で、単純で、謙遜です。神様の前に自分が正しいと言い張ることはしません。たとえみことばの中で理解できない部分があっても、さばくのではなく、ひとまず信じて聞き従って、謙虚に学ぼうとします。
このように子どものように謙遜な心になってこそ、みことばを聞いて悟って悔い改められるし、どんな試練がやって来ても、へりくだった姿勢で自分を変えさせることができます。また、自分より信仰や務めが低い人が勧めてくれても、耳を傾けて自分を省みて変えられるのです。
したがって、第一ペテロ5:5~6の「神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」というみことばを心に留めなければなりません。
愛する聖徒の皆さん、私たちが善で愛そのものであられる神様を完全に信じるなら、どんな状況でも神様を誤解することがありません。ひとり子も惜しまず十字架に渡してくださった神様の愛を覚えているならば、いくら崖っぷちに立っているような状況でも、必ず神様はともにおられて助けてくださることを信じます。そういう信仰があるなら、何としてでも神様のみこころ、真理のとおりに行うでしょう。
愛なる神様は私たちのためにまず多くの犠牲を払ってくださいました。私たちが神様の心を少しでも知っていれば、神様は喜ばれます。「わたしは何を与えようか。何をもっと与えようか」というのが父なる神様の愛です。このような愛をさらに悟って、神様を第一に愛することが私たちがすべきことです。
したがって、みことばと祈りですみやかに変えられて、父なる神様の心を理解し、神様と深い愛を分かち合うまことの子どもになりますよう、主の御名によって祈ります。
