ヨブ記講解(21) - ヨブの無知②
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記9:19~26
きょうは、霊的に無知なので神様を誤解してさばいて罪に定めるなど、次々と現れるヨブの悪と心の中について調べます。
1. 神様をさばきを行う恐ろしい方だと誤解するヨブ
「もし、力について言えば、見よ、神は力強い。もし、さばきについて言えば、だれが私を呼び出すことができるか。」(ヨブ9:19)
ヨブは、神様が一日で自分のすべてを奪った恐ろしい方だと思ったので、神様を力強いと表現しています。つまり、神様は強い力を思いのままに振るう方だというのです。
しかし、神様は私たちを愛してくださって、ひとり子イエス様をこの地上に遣わされました。イエス様は私たちの罪を代わりに負って十字架につけられて死なれましたが、三日目によみがえられることで敵である悪魔の死の力を打ち破られました。したがって、神様の強さは死の力を打ち破った強さであり、よみがえりの強さです。
このように何より強くて偉大なのは愛の力です。神様の愛はイエス・キリストの血の代価によって人類を救い、永遠のいのちへと導く強さです。この愛の力は罪人を悔い改めさせ、頑なな心をやわらげ、敵とも和解させます。この強い愛の力によってイエス・キリストは全人類に救いの道を開いてくださり、王の王、主の主となられました。
また、神様は行ったとおりに報いてくださる、さばきを行う力ある方です。ところが、ヨブは神様が主権を振るって、あらかじめ定めておいて思いのままにさばく恐ろしい方だと表現しています。
私たちは、岩であり、真理そのものであるイエス・キリストによって正しいさばきが行われることを知っておくべきです(ヨハネ5:26~27)。神様が御子にさばきを行う権を下さった理由は、イエス様だけがいのち、すなわち真理だからです。真理そのものであるイエス様がこの地上で教えてくださったすべてのみことばと、手本となって行われたすべての行いがさばきの基準になるのです。それで、イエス・キリストを信じていのちを得た人は天国へ、いのちを得ていない人は地獄へ行くのです。
2. ヨブの二面性のある心
「たとい私が正しくても、私自身の口が私を罪ある者とし、たとい私が潔白でも、神は私を曲がった者とされる。私は潔白だ。しかし、私には自分自身がわからない。私は自分のいのちをいとう。」(ヨブ9:20~21)
ここで「罪ある者とし」とは、自分が犯した罪に対する報いを受けることを意味し、「曲がった者」とは正しい者の反対です。ヨブは心の中では相変わらず自分が正しくて潔白だと思っていますが、友だちはそうではないと言うので、ヨブはやむを得ず自分を罪ある者とし、自分の曲がっていることを認めると言っているのです。本当に過ちを認めるのではなく、「そうか、私が間違ってたことにしよう」というニュアンスなのです。これはヨブの二面性のある心を表わす言葉です。
よく人は憎んでいながらも愛するふりをし、愛していながらも憎むふりをし、心の中では怒っているのに、うわべでは優しく話をしたりもします。心にもないことを言いながらも、それさえ気づいていない場合もあります。そうでないふり、聖なる人のふりをするすべてが偽りで二面な姿です。
心をご覧になる神様は、うわべだけで罪を認めたり、形式的に愛を表現したりすることに欺かれません。心から悔い改めて立ち返ることを望んでおられ、心から湧き上がる愛を望んでおられることを悟って、行いが伴う真実な心にならなければなりません(第一ヨハネ3:18)。
ヨブは自分は潔白だと結論を出しておきながら、自分は何の過ちもないのに全能者によって人生がめちゃくちゃになった、自分のいのちをいとうと言います。
信仰生活をしている人々の中にも「私は前は豊かだったし、名誉と権力もあったのに、一日でつぶれてしまいました」と言う場合があります。この時、問題の原因を自分の失敗と欠けていることのせいにして悔い改めなければならないのですが、まるで神様が環境をそうしたかのように言うのです。
たとえ言葉を口の外に出さなかったとしても、そう考えること自体が間違いです。あまりにも神様を悲しませることです。お金や名誉があるからといって天国に行けるのではありません。もし事業がつぶれて、それが神様を捜すきっかけになったとすれば、むしろ感謝しなければならないでしょう。神の子どもとされて永遠のいのちと天国を得ることが一番大きい祝福だからです。
したがって、ヨブのように言い訳をしたり、二面性のある心を持つのではなく、真理に照らして自分を低くして、素直に認めなければなりません。
3. 正しくない神様だとさばいて、罪に定めるヨブ
「みな同じことだ。だから私は言う。神は、潔白な者をも悪者をも共に絶ち滅ぼされる。にわか水が突然出て人を殺すと、神は罪のない者の受ける試練をあざける。」(ヨブ9:22~23)
ヨブは、神様は予定の神であり、思いのままに権力を振るう方なので、人が正しく生きようとしても何の役にも立たないと言っています。つまり、自分のように潔白で正しく生きていた人もこのように苦しめる神様は、良い者も悪い者も同じように扱う方だと言っているのです。
しかし、神様は善であれ悪であれ正確にさばく方です。燃えるかまどのようなさばきの日が来れば、高ぶる者と悪を行う者はあっという間に焼き尽くされるわらのようになりますが、神様を恐れる人にはいやす主、回復させてくださる恵みの主になるのです(マラキ4:1~2)。
また、申命記28章には、私たちが神様のみことばに聞き従えば、地のすべての国々の上に高くあげられるし、すべての祝福が臨むようにすると書いてあります。反対に、私たちが神様のみことばに聞き従わないで、そのすべて命令とおきてを守り行わなければ、すべての呪いが臨むのです。
このように神様は良い者と悪い者を同じように扱われるのではなく、悪者は自分が行った悪の報いを受けるようにして、潔白な者は善を行ったとおりに報いてくださる方です(伝道者12:14,マタイ16:27)。
しかし、ヨブは正しくない神様だと誤解するだけでなく、罪のない者の苦しみをあざける神様だとさばいています。「にわか水が突然出て人を殺すと、」と表現したのは、自分に突然臨んだ災いについて言っているのです。
よく人は、自分が悪ければ他の人も悪いと思います。自分が嘘をつく人なので相手も嘘をついていると思い、自分が姦淫しているので相手もそうだと思います。相手は真実を言っているのに「心の中はそうじゃないだろう」と決めつけます。
人を誤解する人は神様も誤解します。単なる被造物である私たちがどうやって心の広くて妙なる創造主の神様の心をすべて推し量ることができるでしょうか。ところが、ヨブはまるで神様の心を全部知っているかのように言い、ますます神様に対して皮肉を言って、自分の悔しさを訴えています。
4. 自分の心の中を見られないヨブ
「地は悪者の手にゆだねられ、神はそのさばきつかさらの顔をおおう。もし、神がそうするのでなければ、そうするのはだれか。」(ヨブ9:24)
神様は人の深い心を探られます。ヨブは試練が来る前には潔白で正しい者だと認められていましたが、神様はヨブの深い心の中にある悪を知っておられました。
サタンもこの悪を知っていたので訴えて、神様もそれを聞き入れてくださいました。試練に会ってこそ心に潜んでいる悪が現れて、結局悔い改めて変えられるからです。
ところが、ヨブはまだ自分の心の中を知らないので、自分のように潔白で正しい人にこんなに苦しみを与えているのは、神様のさばきが正しくないからだと思っているのです。わいろをもらって公義を曲げる裁判官のように、神様も同じだとさばいたのです。
神様は公正な方です(詩篇9:8)。しかし、ヨブは現在の試練が自分の深い悪によるものだと悟れないので、続いて神様につぶやいています。心の奥深く潜んでいた悪が一つずつ出てき始めると、もうよどみなくあふれてきます。ヨブ自身も知らなかった悪です。
しかし、ヨブは試練が来る前、神様を恐れて誠実に全焼のいけにえをささげていたし、行いで罪を犯さなかったし、熱心に隣人を顧みるなど、正しい生き方をしていたので、神様も認めてくださったのです。その時は明らかになっていなかった内面の悪を暴かれたのではなく、ヨブの姿そのままを認めてくださったのです。ヨブも自分がよくやったことだけを考えているので、自分の悪を発見できなくなっています。
「私の日々は飛脚よりも速い。それは飛び去って、しあわせを見ない。それは葦の舟のように通り過ぎ、獲物に襲いかかる鷲のように通り過ぎる。」(ヨブ9:25~26)
飛脚とは、手紙や荷物を配達する人を言います。こういう人々は早く動きます。ヨブが「私の日々は飛脚よりも速い。」と言ったのは、それほど時間が虚しく過ぎていることをたとえたのです。つまり、自分が決めておいた答えの時間があったのに、もうその枠を越えたことを意味し、「もうだめだ」とあきらめているのです。
また「それは葦の舟のように通り過ぎ、」とあります。船が通り過ぎると水しぶきを立てますが、通り過ぎた後は、その跡さえ残りません。このようにヨブは今の自分の日々は何の益もなく、実もなくて虚しく過ぎていることをたとえで話しているのです。
次に「獲物に襲いかかる鷲のように通り過ぎる。」とあります。鷲は空を飛んでいて餌を見つければ、素早く降りて来て捕まえます。これは、ヨブが虚しく早く過ぎて行く時間についてもどかしい心を表現しているのです。同時に、切実さを訴えている言葉です。苦しみが一日も早く解決されることを切に望む心の表現であり、虚しく過ぎる一日一日があまりにもつらいと言っているのです。
友だちがこのようなヨブの心を理解できたとすれば、彼の心に合わせて愛をもって勧めたでしょう。私たちは試練に会っている人に対して、ヨブの友だちのように冷たく厳しく責めたてるのではなく、その心を理解して温かく包んであげなければなりません。真理の定規でさばいて責めたてるのではなく、まず痛みに共感して、愛によって悟らせ、相手が悔い改めて立ち返るように助けてあげるべきなのです。
愛する聖徒の皆さん、慈しみ深く完全な神様の心を知っていて信頼していたアブラハムは、ひとり子イサクを全焼のいけにえとしてささげなさいと言われても、少しも誤解しませんでした。むしろ神様の心を推し量って信仰を見せ、喜ばれたのです。神様はすべての子どもたちがこのような信仰に至ることを望んでおられます。その過程でつまずいたりする人がいても、まことの子どもを得るために私たちを練っておられるのです。
したがって、第一ペテロ1章7節に「あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。」というみことばが皆さんすべてに臨みますよう、主の御名によって祈ります。
