ヨブ記講解(20) - ヨブの無知①
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記9:13~21
きょうは、霊的に無知なので、神様を誤解してひねくれているヨブの心について伝えます。
1. 怒りを翻さない神様だと誤解したヨブ
「神は怒りを翻さない。ラハブを助ける者たちは、みもとに身をかがめる。いったい、この私が神に答えられようか。私が神とことばを交せようか。」(ヨブ9:13~14)
神様は怒るのにおそく、私たちが悔い改めて立ち返れば、怒りを思い直してくださる方です。
旧約聖書を読むと、イスラエルの民が偶像に仕えて神様から離れると、周りの国から侵略されて捕虜になりました。ところが、彼らが心を砕いて罪を告白して再び神様を求めると、神様は赦してくださり、奪われた国を取り戻すようにされました。
ニネベの民の場合、彼らの悪がひどくなって、神様が滅びを告げられましたが、王から民、家畜に至るまで断食して悔い改めると、神様はさばきを思い直して、彼らを救ってくださいました。
このように神様は心から悔い改める者には怒りを静めて、憐れんで赦してくださいます。詩篇103篇12節に「東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。」とあり、ヘブル8章12節では「なぜなら、わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや、彼らの罪を思い出さないからである。」と約束されました。
このように憐み深い神様を、ヨブは誤解して「怒りを翻さない神様」だと言っています。
ここで「ラハブ」とはエジプトを意味します(イザヤ30:7,イザヤ51:9)。
また、「ラハブを助ける者たち」とは、ヨセフとその兄弟とその子孫を意味します。
ヤコブの息子ヨセフは、神様が下さった知恵でエジプト全土を七年間の凶年から救い出しました。エジプトの王と民にとって、ヨセフは命を助けてくれた恩人のような存在です。ところが、歳月が流れて、エジプトは恩人だったヨセフの子孫、すなわちイスラエルの民を奴隷にしました。
ヨブはこれについて、神様がエジプトの恩人であるイスラエルの民を奴隷にしてしまい、「身をかがめる」ようにされたと言っています。そして、神様を恐れて全焼のいけにえをささげていたヨブも、イスラエルの民のようにみじめな目に会っているのではないかと反問しています。ヨブは、神様はこのように正しくない方だから、どうして神様と自分が言葉を交わせるだろうか、というのです。
ヨブはイスラエルの民をエジプトの奴隷に転落させた悪い神様だと言っていますが、神様の摂理を知らないのでこう言っているのです。
神様はアブラハムのいけにえを喜んでお受けになり、彼に祝福のみことばを下さり、同時に、後日、彼の子孫が体験することについて具体的に知らせてくださいました。
「そこで、アブラムに仰せがあった。『あなたはこの事をよく知っていなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。しかし、彼らの仕えるその国民を、わたしがさばき、その後、彼らは多くの財産を持って、そこから出て来るようになる。」(創世記15:13~14)
これは、将来、イスラエル民族がエジプトに入って400年間奴隷生活をした後、エジプトから出て来るようになるということです。ここでイスラエルへの祝福とともに、とても正確な神様の公義と愛を感じることができます。
神様は、エモリ人の咎が満ちた時はじめてさばくことがおできになるのです。正しい神様なので、エモリ人の咎が満ちてさばきの基準を超えたとき、正確な公義によってその土地をアブラハムの子孫に与えられたのです。
約400年という期間は、イスラエルの民が大民族になって、カナンの地に入れるような信仰に成長する時間でした。これと同時に、カナンの地に住んでいた部族には、罪から立ち返って悔い改められる機会の時間でした。
神様はイスラエルという一つの国を造るために、まずヤコブの息子ヨセフをエジプトに送って、そこで統治者として立てた後、ヤコブの全家族がエジプトに入るようにされました。ヤコブの十二人の息子たちを通して形成されたイスラエルが一つの民族として土台を整えるまでには、エジプトという安全な所が必要だったからです。温室ではなく野原で育った雑草が生命力が強いように、イスラエルの民はエジプトで奴隷生活をしながら逆境の中で強くなったので、カナンの地を征服できたし、強い民族に成長できました。
このように、アブラハムの子孫がエジプトで奴隷生活をしたことには、神様の大きい摂理が込められていました。ですから、奴隷生活をしていた逆境の時間も祝福の時間なのです。
しかし、ヨブはこのような摂理を悟ることができないので、ヨセフが大きい国を救っても、神様は彼の子孫を奴隷の境遇に転落させられたのに、ましてつまらない自分も、全焼のいけにえをちょっとささげたからといって、神様が正しくさばいてくださったのだろうかと反問しているのです。
2. ツイストドーナツのようにひねくれたヨブの心
「たとい、私が正しくても、神に答えることはできない。私をさばく方にあわれみを請うだけだ。たとい、私が呼び、私に答えてくださったとしても、神が私の声に耳を傾けられたとは、信じられない。」(ヨブ9:15~16)
これまでヨブは自分が正しいと強く主張していましたが、ここではあえて「たとい」という言葉を使って「たとい、私が正しくても、」と言っています。
今、ヨブは二つの心が葛藤を起こしている状況です。自分の考えでは正しいのに、友だちは度々自分は正しくない、罪があると言います。また、神様の正しさに比べて、自分はそこまで正しくないから、確信をもって強く言えないのです。つまり、自分では正しいと思っているのに、神様の前では完全に正しくないようだから葛藤しているのです。
ヨブは、もし自分が神様を呼んで捜すなら、たとえ答えてくださったとしても、自分の声に耳を傾けられたとは信じられない、と言っています。
ヨブの心は次第にひねくれて、ますます神様に立ち向かっています。神様はヨブ記を通して人の心を一つ一つ明らかにして解剖しておられるので、ヨブを通して自分の心を発見しなければなりません。
ヨブはあれこれの方法で神様に求めてみたのですが、何の答えもないと、自暴自棄になって嘆いています。
このような姿はよく初心の者に見られます。多くの人々が問題の解決のために教会に来ます。自分の力で解決できない問題にぶつかって、まぐれ当たりを期待する心で神様を捜すことがあります。
この時、神様が心をご覧になって、まず問題を解決してくださって信仰を植えつけられることもあります。しかし、ほとんどの場合、答えを受けるような信仰になるまで待ってくださいます。それが霊の世界の法則だからです。
ところが、聖徒の方では、断食もして徹夜で祈りながら神様に切に求めたのに、待っても待っても答えが来なければ、あきらめてしまいます。「私はこんなに熱心に求めたのに…」とヨブのようにつぶやいたりがっかりしたり、嘆いて信仰のないことを言うのです。
しかし、信仰生活の根本の目的は魂の救いです。まずは自分が救われる信仰を持たなければならず、救われる段階になったなら、さらにまめにみことばを聞いて霊の糧として、信仰が成長していかなければなりません。「【主】をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」(詩篇37:4)とあるので、神様に喜ばれる信仰になってこそ、すべての問題が解決され、心の願いがかなえられるのです。
ところが、目の前の問題を解決することだけに執着すれば疲れてしまい、そうなれば心がツイストドーナツのようにますますひねくれていくのです。ツイストドーナツは、ねじる時は楽ですが、ねじれたドーナツをほどいて元に戻すのは難しいです。
したがって、神様の前でも、人との間でも、心がひねくれ始めたとき、すぐ解くことが賢いのです。そうでなければ、ますます自尊心と高ぶり、負の感情などがもつれて、さらにひねくれるようになり、ますます解くのが楽ではなくなるからです。
3.ヨブが醜くてぞっとする病気で練られている理由
「神はあらしをもって私を打ち砕き、理由もないのに、私の傷を増し加え、私に息もつかせず、私を苦しみで満たしておられる。」(ヨブ9:17~18)
「あらしをもって私を打ち砕き」とは、ヨブが今までに体験した途方もない苦しみを表現しています。つまり、神様が一日でヨブのすべての財産と子どもたちを奪って行かれ、頭からつま先まで悪性の腫物で打たれたということです。
また、神様が「理由もないのに、私の傷を増し加え、」とありますが、このようにヨブの口から出てくる言葉だけ見ても、どれほど神様の前で大きい罪を犯しているでしょうか。すべての病気の原因は神様のみことばを犯したところから出発します(出エジプト15:26)。神様が嵐でヨブを打ち砕かれたのでもなく、ヨブに理由もないのに病気が臨んだのでもありません。
私たちもいやされて答えを受けたいと願うなら、まず自分の罪の壁、真理にふさわしくなかった行いと言葉、思いと心を省みて、悔い改めなければなりません。
ヨブは今、全身に悪性の腫物ができて、膿んで腐っていきます。かさぶたができてははがれ、またかさぶたができてははがれるを繰り返し、患部にウジがわいています。自分で見ても、どれほど醜くてぞっとするでしょうか。
では、なぜもう少しきれいな病気ではなく、見ただけでもぞっとするほど汚くて悪臭がする悪性の腫物ができたのでしょうか。
このように醜くてぞっとする病気にかかってこそ、はじめてヨブの心にある汚れが面に現れるからです。もし目に見えない軽い病気だったならば、ヨブは心にある悪が全部外に出てこなかったでしょう。すると自分の悪を発見できなかったでしょう。悪が面に現れてこそ、自分を発見して、悔い改めて立ち返ることができるので、神様はヨブをそのように練ってくださったのです。
ヨブは、神様が自分に息もつかせず、苦しみで満たしておられると訴えています。しかし、神様は子どもたちを苦しみで満たす方ではなく、子どもたちに祝福を与えて栄光を受けることを望んでおられる方です(民数記6:24~26)。
愛する聖徒の皆さん、神様はご自分の子どもを愛しておられるので、より美しくて大きい器にするためにあれこれの方法で練ってくださいます。このような神様の愛を信じるならば、良いことがある時だけでなく、苦しいことがある時も、変わらず喜んで感謝できます。
したがって、聖徒の皆さんも、どんな苦しいことに会っても、神様を誤解するのではなく、神様の深い愛を悟って祝福の道へと導かれますよう、主の御名によって祈ります。
