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ヨブ記講解(18)

9月7日
読了時間: 9分

説教:イ・スジン牧師

本文:ヨブ記8:12~22,9:1~2


きょうは前回に続き、ビルダデがヨブに勧めている言葉の中で、神様が私たちに望んでおられることを調べてみます。


1. 神を敬わない者の結末


「これは、まだ若芽のときには刈られないのに、ほかの草に先立って枯れる。すべて神を忘れる者の道はこのようだ。神を敬わない者の望みは消えうせる。」(ヨブ8:12~13)


パピルスや葦は、いくら青々と茂っていても、水から離れるとすぐ枯れてしまうように、神様を忘れる者の道はこれと同じだという意味です。つまり、ヨブが神様を恐れて近くにいた時は祝福 されていたのに、今は神様から遠ざかって忘れてしまったので、すぐ衰えてしまった、ということです。


人の口から出てくる不平や不満、嘆き、呪いやつぶやきは、ある環境や条件が原因なのではありません。水がなければパピルスや葦が育たないように、自分の心の中に悪がなければ悪い言葉 は出てきません。


しかし、ビルダデはヨブに「あなたの心が悪いからそんなに悪い言葉が出てくるし、一日で滅び たのだ」とストレートに言うのではなく、たとえを使って遠回しに表現しています。


「神を敬わない」とは「神を冒涜すること、不敬虔なこと」を言います。神を敬わない人は罪を犯し、罪から来る報酬は死であり、永遠の地獄なので、その望みは消えうせるのです。


ビルダデはヨブに「あなたは不敬虔だ」と直接言わないで、ヨブが悪い言葉と行いを悔い改め て立ち返らなければ、神を敬わない人の結末のように望みが消えうせるということを間接的に諭しているのです。


聖なる神様を信じる聖徒たちは決して不敬虔だと言われてはいけません。心と思いはもちろん、行いや性分、言葉も主の教育によって美しく整えていかなければなりません。


「その確信は、くもの糸、その信頼は、くもの巣だ。彼が自分の家に寄りかかると、家はそれに耐えきれない。これにすがりつくと、それはもちこたえない。」(ヨブ8:14~15)


くもの巣はとても弱くて、人が指で軽く触れても切れてしまいます。このように、神を敬わない人は神様に頼らないから、簡単に滅びてしまうのです。


ヨブは神様を恐れると言っていましたが、実は子どもと財産と知識、名誉など、信じるものがたくさんありました。しかし、そのすべてがまるでくもの巣が切れるように一瞬にしてなくなり、結局手には何も残っていないのです。


神様を恐れない人や、神様のみこころのとおりに築かないすべてのものは、砂の城のように一瞬にして消えることがあります(伝道者1:2~3)。そうではなかったとしても、いざとなると自分が救われなくて天国に行けないなら、この地上に築いたものが何の役に立つでしょうか。


ビルダデはヨブに、神様により頼まなければ、健康も、富も、名誉も何の役にも立たないということを悟らせています。私たちは自分の力、後ろ盾、経験などに頼るのではなく、ただ神様を信じ て頼らなければなりません(詩篇20:7,146:5)。アブラハムやヨハネ ヨセフ、モーセ、ダビデ、使徒パウロなど、昔の信仰の人々のようにただ神様を信じてより頼み、この地上ではもちろん、永遠の天国でもとこしえになくならない祝福を受けなければなりません。


2. 神様のみことばに深く根を下して成長をやめてはならない


「彼が日に当たって青々と茂り、その若枝は庭に生えいで、その根は石くれの山にからまり、それが岩間に生えても、神がもし、その場所からそれを取り除くと、その場所は『私はあなたを見たことがない』と否む。」(ヨブ8:16~18)


植物は日光を浴びると光合成の作用によって養分を作り、青々と育ちます。ある木は岩の間からでも根を下して、幹と枝が生い茂って立派な巨木に成長します。しかし、いくら大きくて太い木 に成長しても、根が抜ければ何の役にも立ちません。その時は生きているように見えても、時間 が経てば枯れてしまいます。ビルダデはこのような植物の属性にたとえてヨブを悟らせようとして いるのです。


霊的に光は真理、すなわち神様のみことばを意味します。また、光はみことばが人となってこの地上に来られたイエス・キリストを意味します(ヨハネ1:9,14:6)。植物が日光を受けて青々と育つように、私たちは光である神様のみことばのうちに、イエス・キリストのうちに生きていくとき、信仰が成長します。


ところが、いくらよく成長した植物でも、何かのきっかけで根が抜けてしまえば、それで終わりです。植物が緑を維持して成長し続けるには、根を地の中にしっかり下して、日光を浴び続けなければなりません。


私たちの信仰も同じです。神様のみことばで信仰が成長して、信仰の岩に立ったとしても、再 び世に目を向けて神様から離れ、罪と悪の中で生きていくなら、何の値打ちもなくなってしまいます。人が真理から離れると、神様が御顔をそむけられるので、守られないのです。


伝道されてイエス・キリストを信じたならば、まめにみことばを聞いて従うことで信仰が成長して、岩に立たなければなりません。また、岩に立った人は御霊の歩みへと、全く聖なるものへと成 長し続けなければなりません。このような成長過程は、ある線で止まるのではなく、主が来られる 時まで続かなければなりません。


「ちょっと休もう」と止まっていては、後戻りして信仰を失う恐れがあります。もし自分が高ぶっているようなら、すぐ立ち返って、そのままにしていてはいけません。でなければ、自分でも知らな いうちにサタンに捕われるようになります(箴言16:18,第一コリント10:12)。そのまま立ち返らな ければ、神様から離れていくので、根が抜けた木のように何の価値もない存在になってしまうのです。


植物は根が抜ければ枯れて死ぬことで終わりますが、神様から離れた人は地獄に落ちるしかないので、どれほど悲しいことでしょうか。したがって、植物が日に当たって青々と茂るように、私たちも神様のみことばにさらに深く根を下して、成長が止まらないように天国に向かって前進していかなければなりません。


3. 潔白な人を退けない神様


「見よ。これが彼の道の喜びである。ほかのものがその地から芽を出そう。見よ。神は潔白な人を退けない。悪を行う者の手を取らない。ついには、神は笑いをあなたの口に満たし、喜びの叫びをあなたのくちびるに満たす。あなたを憎む者は恥を見、悪者どもの天幕は、なくなってしまう。」 (ヨブ8:19~22)


ヨブは、財産が多くて健康な時は喜びがありましたが、もうすべてがなくなったので早く死にた いと思っていました。いくら青々と茂った植物も、根が抜ければ何の役にも立たないように、過去 にヨブが味わっていた幸せも富も名誉も、神様が御顔をそむけられると一瞬にしてなくなった、と いう意味です。そして、それらが引き抜かれたその地から苦しみ、憂い、悲しみ、つぶやき、恐れ、 嘆きが生まれたのです。


ビルダデはヨブの状況をこのようにたとえで説明した後、希望を持たせる話をします。神様は 潔白な人を退けません。


ヨブは潔白だと認められていたのですが、彼の潔白は完全なものではありませんでした。霊的な意味の潔白は「きよい心の中に霊的な実がぎっしり込められた状態」です。ヨブは神様がご覧になるとき、完全な潔白さには至っていなかったのですが、それでも熱心に行っていたので、潔 白だと認めてくださったのです。そして、神様は彼が完全になることを望んでおられたので、試練 に会わせられたのです。そのように練られて変えられることを信じて、ヨブを見ておられました。


反対に、神様は悪者は支えてくださいません。世では悪い人が成功するように見えたりもします。しかし、彼らの心の中を覗いてみると、どれほど悩みや心配や憂いが多いでしょうか。今すぐ は成功しているようでも、結局はうまくいかないことがほとんどです。


さらに大きな問題は、その人が結局は永遠の死である地獄に落ちることになるということです。 すると、その人が努力して築いてきたものに何の意味があるでしょうか。


しかし、真理の中で生きて、霊的に潔白な人になれば、神様に愛されて乏しいことがありません。たとえ誰かから憎まれたとしても、かえってその憎んだ人が恥を見るようになるのです。結局、 悪者どもの天幕はなくなってしまい、死の道に向かうのです。


反対に、神様に認められて愛されている人を助けて祝福すれば、その人も祝福されます。神様 はアブラハムを愛して「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。」(創世記12:3)と言われ、そのとおりになりました。


モーセは神様から、地上のだれにもまさって非常に謙遜で、全家を通じて忠実な者だと認めら れました。神様はこのようなモーセをそしる人に対しては、ご自分に立ち向かう人として扱って、 厳しく懲らしめられました。モーセの姉ミリアムといえども、モーセを非難した時は神様が御怒り を燃やされて、ツァラアトに冒されました。


コラとその仲間がモーセに立ち向かって反乱を起こした時は、地が割れて、コラとその仲間は生きながらよみに落ちてしまいました。


このように神様に認められている正しい人は神様が守ってくださり、正しい人に立ち向かう悪者は結局滅びるのです。


ビルダデは、ヨブが神様に認められる人になれば、もう一度その口に笑いと喜びの叫びを満たしてくださるだけでなく、アブラハムやモーセのように祝福されると言っているのです。だから、今 からでも悔い改めて立ち返り、潔白な人になりなさいと勧めているのです。


「ヨブは答えて言った。まことに、そのとおりであることを私は知っている。しかし、どうして人は自分の正しさを神に訴えることができようか。」(ヨブ9:1~2)


ビルダデの言葉が終わると、再びヨブの弁論が始まります。ヨブはひとまず友のビルダデが言っていることは正しいと認めます。


ところが、ここでヨブが「しかし、」と付け加えたのは、実際こんな苦しみにあったら、自分の言 葉が激しい風のように悪く、神様につぶやいて嘆く言葉がずっと出てくるのを自分でもどうしよう もないと言っているのです。つまり、頭では真理を知っているので「こうしてはいけない」「不平を 言わずに感謝しなければ」と考えるのですが、いざとなると苦しい現実の前では真理のとおりに 行えない、ということです。


ヨブは、前は自分は正しいと主張していたのに(ヨブ6:29~30)、本文では「どうして人は自分の正しさを神に訴えることができようか。」と言っています。ヨブは他の人たちと比べたら正しく生きていたから正しいと言えるが、神様の前では自分の正しさを訴えられない、という意味です。


私たち人はイエス様の十字架の恵みでなければ、誰も神様の前に正しいとは言えません(ロー マ3:10)。イエス・キリストを心に受け入れて、みことばどおりに生きていく人は、傷もしみもない キリストの心に似て、まことに義と認められることができます(ローマ10:9~10)。しかし、いくら みことばをたくさん知っていても、実行しなければ何の役にも立たないのです。


次の時間に続いて伝えます。

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