ヨブ記講解(16) - ヨブの誤解
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記7:12-21
きょうは神様を誤解してつぶやき、嘆いて皮肉を言うヨブを耐え忍んで待っておられる神様の 愛について伝えます。
1. ヨブの誤解
「私は海でしょうか、海の巨獣でしょうか、あなたが私の上に見張りを置かれるとは。『私のふし どが私を慰め、私の寝床が私の嘆きを軽くする』と私が言うと、あなたは夢で私をおののかせ、幻 によって私をおびえさせます。」(ヨブ7:12~14)
ヨブは海の広さを知っていたし、海の巨獣、すなわち竜を偉大な動物と思っていました。それで、 海や竜のように偉大でもなく、つまらない自分を、なぜ神様はこのようにかまって苦しめておられ るのかというのです。万物を治める神様があらかじめ定めておいて自分を打ったのだと誤解して います。
ヨブは、ぐっすり眠れるならからだの苦しみをしばらくの間でも忘れることができるのに、眠くも ならないし、眠れませんでした。眠ったかと思ったら、悪夢でびっくりして目が覚めたりしたのです。 それで、神様が眠らせてもくださらなくて、夢でおののかせ、幻によっておびえさせると恨んでいるのです。
しかし、信仰のある人なら、苦しみの原因を自分自身から探さなければなりません。試練や患 難がやって来れば、神様が守ってくださらない原因を悟って、心を砕いて罪を告白して悔い改め なければならないのです。そして、全知全能の神様が解決してくださるように、すべての重荷と思 い煩いをゆだねなければなりません(詩篇55:22,第一ペテロ5:7)。
マタイの福音書7章に、私たちが求めれば与えると約束されたし、捜せば見つかるようにしてく ださり、たたけば開かれると書いてあります。また、どうすれば病気にならないで、どうすれば病気 がいやされるのか、どうすれば豊かになって、成功できるのか、聖書のあちこちで詳しく教えてお られます。このように良いことだけを約束してくださった神様を信じてより頼まなければなりません。
ヨブは不眠症にかかってすぐ寝つけないのに、しばらくの間でも眠ると、夢さえも苦しくて、安らかではありませんでした。
夢には、霊的な夢とたましいによる夢があります。
霊的な夢は自分の霊が見る夢です。世の人々もたまに霊的な夢を見ます。たとえアダムが罪を 犯した後、霊がたましいに閉じ込められて活動できず、神様と交わりが途絶えていても、心の深いところで霊が動いて霊的な夢を見たりもするのです。
神様を信じる人々には、神様がやがて起こる事を教えてくださったり、聖霊様が示してくださったりすることがあります。神様が夢を通して試練や患難が来ることを教えてくださるので、前もっ て備えることもできます。ある問題のために祈れば、聖霊が働いて夢を通して答えを下さることもあります(民数記12:6,ヨエル2:28)。
次に、たましいによる夢は自分の思いによって見る夢です。普段「アメリカに行きたい」と思っていれば、夢の中でアメリカに行くこともあります。もし何か不安を持っているなら、夢の中で強盗 に追われたり、悪い人に会ったりもします。このようなたましいによる夢は、時間が経ってみれば ほとんどが合わないのです。
したがって、すべての肉の思いを捨てて完全に真理の人になるまでは、あまり夢に依存する必 要はありません。
2. 続くヨブのつぶやきと嘆き
「それで私のたましいは、むしろ窒息を選び、私の骨よりも死を選びます。私はいのちをいといます。私はいつまでも生きたくありません。私にかまわないでください。私の日々はむなしいもの です。」(ヨブ7:15~16)
ヨブは心底死にたいと思っていたので、窒息を選ぶと言っています。それで「こんなにやせこけて骨と皮だけ残っているよりは、いっそ死んだほうがましです」と神様につぶやいているのです。
しかし、神様は苦しくてつらいとき、どうしなさいと言われたでしょうか。詩篇50篇15節に「苦 難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。」 とあるので、神様を切に捜してすがらなければなりません。第一テサロニケ5章16~18節に「い つも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・ イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」とあるので、病気にかかっても感謝、 事業に失敗しても感謝、試練に会っても感謝しなければなりません。このようにすべての事につ いて神様のみこころに従うならば、神様がすべてのことを働せて益としてくださるので、本当に喜 ぶようなことが起こるのです。
ヨブは神様がいのちをつかさどっておられることを知っていました。それで、自分は死にたいのに、神様がいのちを取ってくださらないので、「お願いですから早く私のいのちを取ってください」 と訴えているのです。
ヨブは神様を深く知らなかったし、天国への希望もなかったので、神様を恨んで、全く正しくない言葉で大きい罠を作っています。しかし、真理を知っている私たちはいのちを下さった神様に いつも感謝するべきであって、決していのちを取ってくださいと祈ってはいけません。
「人とは何者なのでしょう。あなたがこれを尊び、これに御心を留められるとは。また、朝ごとにこれを訪れ、そのつどこれをためされるとは。いつまで、あなたは私から目をそらされないのですか。つばをのみこむ間も、私を捨てておかれないのですか。」(ヨブ7:17~19)
ヨブは神様が人を尊ぶと言いましたが、この言葉は真理です。神様は人をあまりにも尊くて大 切に思われるので、いつも御心を留めておられます。それは神の子どもだからです。神様は私た ち人の子らをあまりにも愛して尊んでおられるので、ひとり子イエス・キリストまで十字架に渡してくださり、救いの道を開いてくださいました。
ヨブは神様が自分を少しの間も放っておかないで、そのつどためされると表現しています。し かし、神様は私たちを愛しておられるので、いつも炎のような御目で見守っておられるのです。
本文の「朝ごとにこれを訪れ」の「訪れる」とは、視察する、取り締まるという意味です。神様は 私たちから目をそらさないで見守っておられ、私たちが真理の中で生きられない時は、試練に会 わせて懲らしめられます。私生子ではなく本当の子どもなので、罪から悔い改めて立ち返り、光 へと来るように導かれるのです。
ですから、試練や患難がやって来たとすれば、神様に感謝して、なぜこういう問題が起こった のか発見して悔い改める行いがまずなければなりません。
ヨブは、神様がつばをのみこむほどの短い時間も自分をそっとしておかず、苦しめられるのか と不平をこぼしています。しかし、神様がわずかの間も私たちから目をそらさないで、介入して練ってくださるのは、私たちを愛しておられるからです。
ヨブはまだ真理をよく知らなかったし、神様について知識的に知っていただけなので、見つけ て体験したことがありませんでした。それで、神様はヨブが真理から外れている多くの姿を悟って 悔い改めて、真心と全き信仰をもって神様を愛して仕える子どもになるように、練られるしかなかったのです。
3. 神様の忍耐と愛
「私が罪を犯したといっても、人を見張るあなたに、私は何ができましょう。なぜ、私をあなたの的とされるのですか。私が重荷を負わなければならないのですか。」(ヨブ7:20)
神様は人の心と思いを探って知っておられます(詩篇11:5,詩篇139:3,箴言16:2,箴言21:12, ヘブル4:12)。このようにすべてを調べて正確に知っておられる神様の前に、人の子らがどうして 言い訳したり、つぶやいたりできるでしょうか。
ヨブは、自分が罪を犯したからといって神様に何ができましょうと言っていますが、神の子ども が罪を犯せば、神様には多くの迷惑をかけることになります。
私たちが罪を犯せば、神様と私たちとの間で「親子」という関係が壊れるので、神様は胸を痛 められます。また、罪を犯したその子どもが滅びの道、すなわち地獄に向かっているので、あまり にも心を痛められます。罪を犯した子どもが神の国に入れないし、神様のふところに抱かれない ので、心を痛められるのです。
また、私たちが罪を犯せば、主が流された尊い血が無駄になるので、神様は悲しまれるのです。 それだけでなく、私たちが罪を犯せば、悪魔の思惑どおりになるので、神様は苦しみを受けられ ます。悪魔の狙いは神の子どもたちが神様に立ち向かうことで、神の国と義が実現できないようにすることです。ですから、私たちは敵である悪魔ではなく、ただ神様のみこころを実現することで神様の心を喜ばせる親孝行な子どもになりましょう。
ヨブは「なぜ、私をあなたの的とされるのですか。」と言っていますが、これは「神様、なぜあえ て私のような人をターゲットにして手を焼いておられるのですか」という意味です。神様につぶや いて、嘆いて、呪っていて、今度は神様に皮肉を言う口ぶりになっています。
しかし、神様はヨブのつぶやきと皮肉まで聞きながらも、困ったものだと思われなかったし、少 しも面倒だと思われませんでした。神様はヨブを憎んで懲らしめているのではなく、愛して練って おられるからです。
ついにヨブが美しい姿に変えられることを知っておられるので、このすべての過程を喜びを もって耐え忍んでおられるのです。これがまさに私たちへの父なる神様の愛です。神様は、私たちひとりひとりが聖められて、まことの子どもとして出て来ることを期待して、一日一日忍耐と喜 びをもって待っておられます。
「どうして、あなたは私のそむきの罪を赦さず、私の不義を除かれないのですか。今、私はちり の中に横たわります。あなたが私を捜されても、私はもうおりません。」(ヨブ7:21)
ヨブは神様に「私をそのまま放っておいてください。もういのちを取ってください」と言っているのに、一方では自分を赦してくださっていやしてほしいという二つの心があります。ところが、何 の答えもないので、これは神様がヨブの罪と不義を赦してくださらなかったからだと説明しています。
神様は、私たちが罪を悟って悔い改めて立ち返るとき、赦してくださいます。東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を覚えてもおられません。大切なのは、まず悔い改めなければならないということです。
ところが、ヨブは過ちや不義がたくさんあるのに、悔い改めないで「神様、どうして罪を赦してく ださらないのですか。どうして見逃してくださらないのですか」と、とんでもないことだけを言って いるのです。だから、どうして問題が解決されるでしょうか。
ヨブは、試練に会う前は神様を恐れてでも全焼のいけにえをささげていたのに、悪性の腫物で 苦しみを受けていたら、もう恐れもなくなりました。よみに下って行けばそれだけだから、早く死ん でしまったらいいと嘆いているだけです。
愛する聖徒の皆さん、 神様を信じているという聖徒の皆さんの中にも、神様を見つけた体験がなければ、ヨブのように神様を誤解することもあります。したがって、私たちには神様を熱心に捜して見つける体験の 信仰が非常に重要です(箴言8:17)。心が貧しくなってこそ、神様を見つけようという熱心が大きくなります。また、謙虚に神様を捜し求めるとき、神様が私たちの心に臨在することがおできになります。
したがって、神様を愛して熱心に捜し、いつも答えの神様を体験する幸いな聖徒の皆さんにな りますよう、主の御名によって祈ります。
