ヨブ記講解(13)
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記6:13-30
きょうはヨブの友だちの肉的な愛と、ヨブが自分の姿を悟れない理由について調べてみましょう。
1. 気が弱くなって慰めを期待するヨブ
「私のうちには、何の助けもないではないか。すぐれた知性も私から追い散らされているでは ないか。」(ヨブ6:13)
ヨブは「前は自分に財産もたくさんあって多くの人を助けることもできたが、もう今は全部なく なってしまった。知識があって優れた知恵もあったのに、今はもうなくなってしまった」と嘆いています。
ヨブには無から有を創造する神様を信じられる霊の信仰がまだなかったので、神様により頼む ことができず、ますます気が弱くなってしまい、ついに意志力さえ失くしてしまったのです。神様に より頼まないから、知恵もなくなって、愚かになってしまったのです。
皆さんも聖霊に満されている時は、天から知恵と力が臨むので、使命もよく果たして、祈りも 熱心にします。ところが、ある瞬間から疑い始めると、聖霊に満たされなくなって、自分でもわか らないうちに弱くなって、信仰のないことを口にして、捨てたと思っていた憤りがまた出てきたりし ます。まさにヨブがこういう状態なのです。
「落胆している者には、その友から友情を。さもないと、彼は全能者への恐れを捨てるだろう。 私の兄弟たちは川のように裏切った。流れている川筋の流れのように。」(ヨブ6:14-15)
ヨブは、水があふれていても日照りが続くとすぐ乾いてしまう川のように、友だちの心がしょっ ちゅう移り変わることを指摘しているのです。温かい慰めを期待したのに、かえってヨブに悪いとか、神様に頼れとか、責めたてる友だちがけしからんと思ったのです。
しかし、私たちが試練、患難に会っているとき、肉的な慰めはさらに弱くさせるだけで、結果的 に役に立ちません。愛そのものであられるイエス様も、弟子たちに対していつも柔和でものやわ らかいだけだったのではありません。同じように、私たちは試練、患難に会っている人を肉的に慰 めるのではなく、神様のみことばで悟らせなければなりません。
だからといって、ただ相手を指摘して責めたてなさいというのではありません。いくら真理の言 葉でも、ヨブの友だちのように感情的になって指摘するなら、相手がその言葉の中に込められた 悪意を感じるので、かえって心の戸を閉ざすことになります。相手を本当に愛する心で、相手の 信仰の量りに合わせて諭すと、相手も心の戸を開いて、立ち直れるように力づけられるのです。
2. 変わる肉の愛
「氷で黒ずみ、雪がその上を隠している。炎天のころになると、それはなくなり、暑くなると、その所から消える。」(ヨブ6:16-17)
ヨブは友だちに、氷が溶けた後のようにおまえたちの本性が現れた、水が太陽の光で蒸発した ように、友情は影も形もなく消えてしまった、と言っています。ヨブが裕福で健康だった時は、友 だちが来て愛すると言ったし、ヨブを尊敬してへつらってもいたのに、ヨブの財産がなくなってし まったらその心が変わった、ということです。
このように自分の利益だけ考えるのが普通の人の姿です。互いに愛しているとよく言いますが、 現実的に自分に利益にならなければ、まことの愛の行いが出てこない場合が多いのです。いつで も自分の利益によって変わってしまう肉の愛だからです。
反対に、霊の愛は永遠に変わらないし、むしろ歳月が流れるほど深くなります。相手の利益を 求めて自分を犠牲にする愛だからです。
「隊商はその道を変え、荒地に行って、滅びる。テマの隊商はこれを目当てとし、シェバの旅人 はこれに期待をかける。彼らはこれにたよったために恥を見、そこまで来て、はずかしめを受け る。」(ヨブ6:18-20)
昔、人々は砂漠を通るとき、水を飲むために川を探して隊商を組みました。もし水を求められ なければ、また荒野に戻るしかなく、結局死ぬことになります。テマの隊商もシェバの旅人もこれ を目当てとし、つまり水を得ることを期待して行ったのに、水を得られなければ恥を見、はずかし めを受けると言っていますが、これもヨブが友だちの姿をたとえて言っているのです。
ヨブに財産が豊かだった時は友だちとも仲良くしていたのに、今は友だちがヨブから期待するものを得られないから本性が現れて、恥を見て気を落としている、ということです。
神様は私たち人の子らの心がそうだと教えてくださいます。初めて主に出会った時は、救って くださった恵みがあまりにも大きくて、いつも感謝していました。しかし、ある瞬間、このような初 めの愛を失って、「神様はなぜ私を祝福してくださらないのだろうか。なぜ答えてくださらないの だろうか」と不満に思い、世に目を向けたりするのです。神様は私たちがこのように移り変わる肉 の属性を発見して捨てることを望んでおられます。
3. 友だちを誤解してさばくヨブ
「今あなたがたは、そのようになった。あなたがたは恐ろしいことを見ておびえている。私が言っ たことがあるか。『私に与えよ』とか、『あなたがたの持ち物の中から、私のために贈り物をせよ』と。 あるいは『敵の手から私を救い出せ。横暴な者の手から私を贖え』と。」(ヨブ6:21-23)
ヨブは「友だちが私にあそこまでひどい言い方をする理由がないのに、私が自分たちに頼ろう としていると誤解しているんだ」と決めつけます。それで、友だちに向かって、おまえたちも自分と 変わらないではないか、「私に与えよ」と言ったこともなく、「敵の手から私を救い出せ」と言ったこともないのに、なぜそんなに心配しておびえているのかと言っているのです。
友だちはそれまで多くのたとえとみことばでヨブの過ちを指摘したのですが、ヨブは一つも悟れずにいました。エリファズ自身も正しくないのに、悪意をもってヨブを指摘するので、ヨブは完 全に心の戸を閉じてしまい、そのためにエリファズの言葉が全く耳に入らなかったのです。
このように相手が心の戸を閉じてしまった場合は、いっそ黙っていた方がいいのです。また、話 をするとき、人によって考えが違うのに、自分の考えだけ正しいと主張するならば、それは相手を 尊重するのでもないし、霊の愛もないのです。
「私に教えよ。そうすれば、私は黙ろう。私がどんなあやまちを犯したか、私に悟らせよ。まっす ぐなことばはなんと痛いことか。あなたがたは何を責めたてているのか。あなたがたはことばで私 を責めるつもりか。絶望した者のことばは風のようだ。」(ヨブ6:24-26)
エリファズが今まで指摘して勧めてきたのに、ヨブはエリファズが何を言っているのかわからない、私の過ちが何なのか言ってみろ、と言っているのです。
このように友だちの言葉を軽んじる一方で、続いて「まっすぐなことばはなんと痛いことか。」と 言います。これは「おまえの言葉が正しいのはわかる」と認めているのです。「だが私は死ぬ日だ け待っている人ではないか。このように絶望している人の言葉は思いついたまま勝手に言ってい るだけだから、風のように空しい。ところが、おまえたちは私を慰めるどころか、このように無気力 で無知な人を責めているのか」と言っているのです。ヨブはこのような友だちをとても悪い人だと、 次のように決めつけています。
「あなたがたはみなしごをくじ引きにし、自分の友さえ売りに出す。今、思い切って私のほうを向いてくれ。あなたがたの顔に向かって、私は決してまやかしを言わない。どうか、思い直してく れ。不正があってはならない。もう一度、思い返してくれ。私の正しい訴えを。」(ヨブ6:27-29)
「みなしごをくじ引きにする」とは、ばかにして軽んじるということです。みなしごは憐れんで助けるべき対象です(出エジプト22:22,ヤコブ1:27)。それなのにみなしごを軽んじて、しかも友を 売りに出すなどとはとうていありえない悪行です。ヨブが見ると、友だちはこんな人のように人の 道理もわきまえない、悪者の中の悪者でした。それで「おまえたちは判断してみろ。後ろめたくな いなら、私の目をまっすぐに見ろ。私が言っていることは全部正しい。おまえたちは反省して思い 直せ。私は正しい」と言っているのです。
ヨブはついさっき自分の言葉は風のように空しいと言ったのに、また態度を変えて「私はまや かしを言わない。私は正しい」と言っているのですから、これもまた矛盾した姿です。しかし、ヨブ の心は偽りを言おうとするのでもないし、悪意があるのでもありません。ただ真理を完全に知ら なかったし、自分はよくやっていて正しいと思うから、自分を発見できないまま自分の過ちを発見 できないだけなのです。
ヨブの友だちはヨブのためにいろいろ言ったのですが、これによってヨブは気を悪くして、つま ずいてしまいました。
特に聖徒を顧みる主のしもべや働き人たちはこのような点に気をつけなければなりません。アドバイスをする時も、確かに正しいと思うことでも、穏やかな心で柔和な言葉でしなければなりま せん。徳と愛をもって勧めてこそ敵である悪魔・サタンが働けないし、相手が心の戸を開いて受 け入れることができます。また、自分がみことばどおりに行いながら勧めるとき、その言葉に権威 が伴うのです。
ここで「今、思い切って私のほうを向いてくれ。」とはヨブの言葉ですが、一方で、皆さんがヨブの友だちの姿ではないのか、また、ヨブの姿ではないのか省みることを望んでおられる神様の心 が込められています。
4. ヨブが自分を悟れない理由
ヨブは真理を正しく悟れなくて、友だちの話を無視して自分だけ正しいと主張しています。ヨブ はなぜ自分を悟れないのでしょうか。
まず、高ぶっているからです。自分は財産も多かったし、知恵もあって何でも最高だったのに、 神様が訳もなく自分を打って苦しんでいると思うので、自分を発見できなかったのです。ですか ら、友だちが悟らせても聞こうとしなかったし、かえって友だちが間違っていると言い返している のです。
箴言16章18節に「高ぶりは破滅に先立ち、」とあり、第一コリント10章12節に「ですから、立っ ていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。」とあります。高ぶりは自分が立っていると思 う状態です。ヨブは高ぶって自分で立っていると思ったので、結局倒れてしまい、友だちの前で 恥を見て苦しい目にあっているのです。
ヨブが自分を悟れずにいるもう一つの理由は、自分は最善を尽くして生きてきたからです。つ まり、自分が良くやったことだけ考えているのです。自分は正しいし、善を行ってきたと信じ込ん でいるから、そんな自分に不正があるはずがないと思ったのです。
それで「私の舌に不正があるだろうか。私の口はわざわいをわきまえないだろうか。」(ヨブ6:3 0)と言っているのです。ヨブは舌で甘い、苦い、塩っぱいがわかるように、自分は正しい正しくな いをわきまえることができると言っているのです。結局、自分の判断は正しく、自分の言葉と考え は全部正しくて、相手は正しくないということです。全くアドバイスを受け入れる姿勢になってい なかったのです。
しかし、いくら真理をたくさん知っていても、誰かが悟らせてくれれば「アーメン」と言って受け 入れて、自分を省みるべきです。目上の方のアドバイスはもちろん、たとえ目下の人のアドバイス でも謙遜に受け入れようとする心構えにならなければなりません。
「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」(ヤコブ4:6)とあるので、謙遜な者になって、さらにすみやかに変えられますよう、主の御名によって祈ります。
