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ヨブ記講解(12) - 霊的な盲目の矛盾

9月6日
読了時間: 9分

説教:イ・スジン牧師

本文:ヨブ記6:5-15


きょうはヨブの高ぶりと霊的な無知、そしてこれによる霊的な盲目の姿について伝えます。


1. 試練は祝福の近道


「野ろばは若草の上で鳴くだろうか。牛は飼葉の上でうなるだろうか。」(ヨブ6:5)


野ろばや牛が食べる物がないので鳴くように、ヨブも妥当な理由があるから訴えている、とい うことです。すべてを失った上に全身の悪性の腫物で苦しんでいるから、耐え難しい苦しみに勝 てなくて嘆いている、ということです。


ヨブの立場では自分がつぶやいて嘆いているのには妥当な理由があると言っていますが、真 理に照らしてみれば全く正しくない姿です。私たちが試練に感謝して喜び、祈りで勝利するため には忍耐が必要です(ローマ5:3-4)。忍耐の過程で霊的に成熟するし、鍛えられ、そうするほど 天国への希望が大きくなるのです。


神様は私たちの心を練って、肉を捨てて霊に変えられるようにされます(箴言17:3)。試練の過 程が、たとえその時は苦しくても、必ずその過程を経てこそ、金のように美しい霊の心になれます。


このように心が霊に変えられれば、たましいに幸いを得ているようにすべての点で幸いを得、 健康である祝福が臨むので、試練は祝福であり、希望を生み出す近道なのです。


クリスチャンでもノンクリスチャンでも、誰にでも試練はやって来ます。ただ、世の人は試練が やって来ても防げないし、乗り越えるのに限界がありますが、神様を信じる人々は神様により頼 んで乗り越えることができます。また、信仰によって試練に耐え抜く人には祝福があります(ヤコ ブ1:2-4)。


ところで、信仰がある聖徒の中でも、試練に会ったとき、反応が多様です。しばらく忍耐したの に、あまりにもつらいからあきらめてしまう人がいるかと思えば、忍耐するふり、真理の中で生き ているふりをしていて、つい罪を犯してしまう人など、いろいろなタイプがあります。


しかし、神様は「忍耐を完全に働かせなさい」と言われます。神様の前に合格するまで、認めら れるまで、忍耐しなさいという意味です。そうすると、私たちは何一つ欠けたところのない、成長 を遂げた、完全な者になるからです。


何であれ、夢と目標をかなえるためには忍耐と自制が必要です。ヤコブ1章12節に「試練に耐 える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠 を受けるからです。」とあります。したがって、神様の前に聖められたと認められる時まで、やって 来る試練に耐えてはまた耐えなければなりません。これは、歯をくいしばって無理やり我慢しなさいということではなく、真理にあって耐え忍びなさいということです。


いつも喜んでいて、すべての事に感謝して、絶えず祈っていく人は、どんな苦しみが来ても信 仰によって乗り越えることができます(第一テサロニケ5:16-18)。罪によって試練に会ったなら、 これを通して自分を発見させてくださるので感謝して、それで罪を捨てて正しい道に行くようにし てくださるので感謝できるのです。罪を犯していないのに試練に会ったならば、祝福を下さるた めのものなので、さらに感謝できます。


ですから、どんな試練に会っても、あれこれ言い訳をしないで、ただみことばに聞き従って喜び、 絶えず祈って、感謝して打ち勝ちますように。


2. ヨブの高ぶりと霊的な無知


「味のない物は塩がなくて食べられようか。卵のしろみに味があろうか。私はそんなものに触れ るまい。それは私には腐った食物のようだ。」(ヨブ6:6-7)


ヨブは、塩気のない食べ物や卵の白身がおいしくないように、友だちエリファズの話はまずくて 食べられないと言っています。中身もないし価値もない言葉なので、耳を傾ける必要がないと皮 肉を言っているのです。


エリファズは自分なりに神様のみことばを引用してヨブを訓戒しましたが、ヨブはまずい食べ 物のようにその言葉を全然受け入れられないのです。ですから「私はそんなものに触れるまい。 それは私には腐った食物のようだ。」と言いましたが、これは「おれはおまえより優れている」とい う高ぶりを表わす言葉です。ヨブは高ぶっていて心の戸を固く閉じていたので、友だちがいくら 真理をもって勧めても、これを受け入れて悟れないのです。


世の知識や学問が信仰を与えるのではなく、まかり間違えば高ぶらせる可能性があることを 知っておくべきです。また、みことばを霊の糧とするのではなく、知識としてだけ積むのも同じこと です。


ヨブが真理を本当に知っている人だったならば、高ぶるのではなく、かえって謙虚に低くなって いたでしょう。ですから、友だちと感情的な対立もなかったでしょう。ヨブは潔白で正しく、神様を 知っていると思っていましたが、彼の霊的な無知が現れているのです。彼の深い学問が自分を 高ぶらせたし、霊的には盲人と変わらなかったのです。


エリファズも高ぶっているのは同じです。いくら正しいみことばでも、相手が拒否すれば無理 に伝えてはいけないのに、エリファズは高ぶっていたので、ヨブを無視して、ヨブが心の戸を閉じ ているのも知らないまま、続けてヨブをたしなめているのです。


「ああ、私の願いがかなえられ、私の望むものを神が与えてくださるとよいのに。私を砕き、御 手を伸ばして私を絶つことが神のおぼしめしであるなら、」(ヨブ6:8-9)


ここでヨブが願い望んでいるのは死ぬことです。「神様、私のいのちを取ってください」と祈って、 その答えを待っているのです。しかし、神様が私たち一人一人をどれほど愛しておられるのかを 悟るなら、決してこのようなことを口にすることはできません。


神様は私たちを愛するがゆえに、この地上で人間耕作をしておられます。人はひょっとして子どもを見捨てることがあるかもしれませんが、神様は決して私たちを見捨てられません(イザヤ4 9:15)。死の陰の谷を歩いている時もともにおられるということを覚えていなければなりません。 また、人の方では神様を裏切って離れることがあっても、神様は炎のような御目で守り、切ない 心でまた帰って来るのを待っておられるということを信じますように。


これは、私たちがまだ罪人であった時にひとり子イエス様をこの地上に遣わして、いのちまで 渡す愛を施してくださった、この一つからだけでも悟れるでしょう。神様は、私たちがこの地上で 生きていく間に体験するすべての困難を信仰によって勝利して、まことの子どもになるように、い つも応援して、助けておられるのです。そして、美しい天国で神様と永遠に愛を分かち合うその 日を、指折り数えて待っておられます。


ですから、私たちはこのような神様の愛に感謝して、食べるにも飲むにも何をするにも、神様に 栄光をささげなければなりません。ところが、ヨブは神様の愛と摂理を知らなかったので、自分のいのちを取ってくださるように願っているのですから、どれほどふさわしくない姿でしょうか。


神様を信じると言いながらも、神様にいのちを取ってほしいと祈ることがどれほど信仰のない 言葉であり、神様を悲しませる言葉なのか、ヨブは悟れませんでした。真理を正しく知らなかった し、後の世への希望がなかったので、神様の前に不平を言って、神様を悲しめたのです。


3. 霊的な盲目の姿


「私はなおも、それに慰めを得、容赦ない苦痛の中でも、こおどりして喜ぼう。私は聖なる方の ことばを拒んだことがないからだ。」(ヨブ6:10)


ヨブは、神様が自分のいのちを取って行かれても慰めを得る、と言っています。そして、自分は 神様のみことばを拒んだことがないから、神様の前に堂々としていると言います。神様にいのち を取ってくださいと願うことがみことばに背くことなのに、自分はみことばを守っていると錯覚して いるのです。


その上、ヨブは全能者である神様は自分に情をかけないで、容赦なく苦痛だけ与えられると 思っていました。全能者が厳しいむちを加えたけれど、自分は神様のみことばを拒んだことがな かった、真理を守っていたと訴えているのです。


ヨブは神様の真理のみことばを深く知らなかったので、自分は正しいと思っています。その一 方で、自分は真理を守っているので、神様が自分のいのちを取って行かれても思い残すことはな いと言っているのです。


このように神様のみことばを正しく悟れなければ、自分が間違っていても、間違いだと悟れま せん。こうしてわきまえられない状態を霊的な盲目にたとえているのです。


4. 霊の信仰の重要性


「私にどんな力があるからといって、私は待たなければならないのか。私にどんな終わりがある からといって、私は耐え忍ばなければならないのか。私の力は石の力であろうか。私の肉は青銅 であろうか。」(ヨブ6:11-12)


ヨブは、もう自分は治る可能性はない、死ぬしかないと思いました。これ以上全能者が自分をいやしてくださるのを待つのも疲れたし、石や青銅のように丈夫ではないからもう気力が尽きて しまった、と否定的なことを言っているのです。


しかし、これは信仰のない人の限界の中から出てくる言葉です。霊の信仰は無から有を創造します。イエス様は死んで四日になったラザロも生き返らせました。


また、本教会のキム・ウンドク勧士は全身に3度のやけどを負って、生命まで危なかったのです が、堂会長先生の祈りで後遺症一つなく短い間にいやされて、神様に栄光をささげました。この ケースはヨブの悪性の腫物よりひどくて絶望的な状況でした。ヨブの悪性の腫物はそれでも細胞 は生きていると言えますが、キム・ウンドク勧士は細胞まで死んでしまったからです。しかし、霊の 信仰を見せれば、死んだ者も生き返って、死んだ細胞も生き返ります。


ヨブには霊の信仰がなかったので、否定的なことばかり言っています。このようなヨブの姿を通 して自分を省みますように。


ほとんどの人は聖霊に満たされていた時は「信じます」と告白して、熱心に祈って、使命を果た して、信仰生活をちゃんとしているように見えます。しかし、いざ試練がやって来れば、今まで積 んできた信仰がどれほど真実なのか明らかにされるのです。


マルコの福音書11章24節に「だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、す でに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」とあり、ヤコブ1章6節に「ただし、 少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。」とあります。


ですから、一度信じて求めたなら、答えを受ける時まで揺るがないで信仰を守らなければなり ません。どんな状況でも一度頂いた恵みを忘れないで、真理で心を強くして、天国に行く時まで 移り変わらない信仰で走って行かなければなりません。


次の時間に続いて伝えます。

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