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ヨブ記講解(11) - 真理はあなたがたを自由にします

9月6日
読了時間: 9分

説教:イ・スジン牧師

本文:ヨブ記6:1-4


きょうはエリファズの話をまともに受けて言い争うヨブの言葉を調べて、議論の無益さと真理に あっての自由について伝えます。


1. ヨブの怒りと議論


「ヨブは答えて言った。ああ、私の苦悶の重さが量られ、私の災害も共にはかりにかけられたら。 それは、きっと海の砂よりも重かろう。だから、私のことばが激しかったのだ。」(6:1-3)


「苦悶」とは、肉体的または精神的に苦しみもだえること、という意味です。ヨブはあまりにも悔 しくて、腹が立って苦しかったので、自分の苦悶が海の砂よりもも重いと表現しています。財産と 子どもを全部失って、悪性の腫物でひどく苦しんでいるヨブを、友だちは慰めるのではなく、火に 油を注ぐように神様のみことばで厳しく責め立てます。ヨブは自分では正しくて悪がないと思って いますが、友だちがヨブにしきりに悪いと責めるので、怒りが極みに達したのです。


聖書を読むと、神様が憤ることをどれほど喜ばれないのかわかります。神様は、怒っても日が 暮れるまで憤ったままでいてはならず(エペソ4;26)、誰かが右の頬を打つならば左の頬も向け なさい、敵をも愛しなさいと言われました。


時には信仰の兄弟の間でも互いに自分が正しいと主張するならば、対立して感情的になって、 嫌味を言ったり怒鳴ったりするのが見られます。これはサタンを招き入れる愚かな行為であり、 敵である悪魔を喜ばせることだと悟らなければなりません。


みことばに照らして正しいか正しくないかを見分けることは必要ですが、自分の義と枠にこだ わって自分を主張し、争いを起こしてはいけないでしょう。真理と反対でなければ相手の意見に 合わせて、真理にあって互いに合わせることが神様のみこころです。


教会にはただ平和と秩序と従順があるべきなので、互いに自分が正しいと主張して言い争っ てはなりません(第一コリント11:16)。もし誰かの言動が真理から外れているならば、諭すものの、 言い争ってはなりません。


諭しても相手が続いて真理に背くならば、神様が働かれるようにゆだねるべきであって、教会 では定められた秩序に従って扱うようにしなければなりません(マタイ18:15-17)。神様のみこと ばを宣べ伝えている教会で互いに言い争うならば、これは神様に敵対する行為であり、サタンの 会衆をつくることもあるのです。


2. 言い争う理由


人々が言い争う理由を三つに要約してみれば、次のとおりです。


第一に、自分をコントロールできないからです。


ガラテヤ5章17節に「なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。こ の二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができ ないのです。」とあるとおり、肉に従おうとする自分に勝てないので、我慢できずに言い争って、も めてしまうのです。


このような人は、祈る時は「聖なる完全なくちびるになるようにしてください」と言いますが、いざ実生活ではというと、祈った内容を忘れてしまい、以前の生活のまま言いたいことを言います。 自制する力が弱いので言葉の失敗が多く、自分をコントロールできないのです。


第二、わだかまりを捨てていないからです。


ヨブと友だちは互いにわだかまりを抱いていて、互いに益にならない口論をし続けていました。 侮辱されたり誤解されたとき、あせって感情的になって、問題がさらにもつれることがあります。 心に余裕がなければ、目の前で起きたことにこだわって、愚かな過ちを犯すのです。ですから、怒 りの原因になるわだかまりを捨てて、心を治めなければなりません(箴言16:32)。


第三、自分の考え方と合わないからです。


人は顔かたちが違って、双子でも指紋が違うように、人によってそれぞれ考え方も違います。 ところが、自分と考え方が違うからといって相手が間違っていると言い、相手の考え方を変えよ うと意地を張るなら、言い争うようになって平和が壊れます。


ある組織で事を進めるとき、互いに意見が合わないなら、秩序に従って進めるべきです。良い 意見があれば、それを謙遜に出して、それが受け入れられなければ、秩序に従って協力しなけれ ばならないのです。


ヨブは自分の苦悶が海の砂より重いと言って、最後に「だから、私のことばが激しかったのだ。」 と言います。これは「言って損した。話も通じないおまえたちに話をした私が軽率だった」と皮肉を 言っているのです。友だちがヨブの話を受け入れるのではなく、かえって誤解して非難している ので、ヨブは「言わなければよかった」と後悔しているのです。これは友だちの言葉を無視してい る姿でもあります。


ヨブと友だちは互いに自分が正しいと主張して言い争っていますが、神様のみことばで見分け てみれば、両方とも真理を知らないからこういう結果が出るのです。


真理を知っている人ならば、誰かを指摘する時も善と知恵をもってするでしょうし、自分が指 摘される時も感謝して謙虚な心で受け入れるでしょう。もしこういう人がヨブと同じ境遇にいるな らば、小さい子どもの言うことでも素直に受け入れるでしょう。


それだけでなく、神様は愛する者を懲らしめると言われたから、自分が愛されている証拠だと 悟って「神様、ありがとうございます」と告白して、神様に祈って悔い改めるべきことを探すでしょ う。


たとえ悔しい目にあっても、「人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。罪を犯したために打ちたたかれて、それ を耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行っていて苦しみを受け、そ れを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。」(第一ペテロ2:19-20)というみことば が思い浮ぶでしょう。ですから、すべてをご存じでつかさどっておられる父なる神様にゆだねるこ とができるのです。


「全能者の矢が私に刺さり、私のたましいがその毒を飲み、神の脅かしが私に備えられてい る。」(ヨブ6:4)


ここで「全能者の矢」とは、神様の力、または呪いを意味しています。ヨブは、神様が射た矢に 当たって、自分のたましい、すなわち心がその毒を飲んだ、と言っているのです。神様が自分を 呪って、力づくで打ったと心で確信した、という意味です。ヨブは、神様が自分を懲らしめようと 定めておいて、わけもなくその大きい力で自分を打ったと誤解しています。


しかし、神様は愛と公義の神様です。愛する子どもを思う存分祝福して、答えてあげたいと 思っておられる方です(マタイ7:7-11)。悪い親でも求める子どもに悪いものを与えるはずがな いのに、まして愛なる神様が求める子どもにどうして押しつけ、揺すりいれ、あふれるように下さ らないでしょうか。


しかし、ヨブはこのような神様の愛と公義を知らなかったので、神様を恐れて心配していました。 だから「神の脅かしが私に備えられている。」と言っているのです。これは、恐ろしいことがしばら くの間で終わるのではなく、続いて襲いかかってくるということです。


ヨブが律法を通して聞いて学んだ神様は、葦の海を分けた全能の神様であると同時に、エジ プトに恐ろしい十の災いを下したさばきの神様でした。呪う者を定めておいて呪う、恐ろしい神 様だと思っていたので、ヨブは神様を恐れて全焼のいけにえをささげて仕えていたのです。


ですから、神様はヨブの間違った考え方を打ち砕いて、愛なる神様であり、公義の神様である ことを悟らせようと試練に会うようにされたのです。まことに心から湧き上がるように神様を愛し て愛される関係になりたいと思っておられたのです。


ヨブはこのような過程を通して一つ一つ真理と反対のものが脱ぎ捨てられ、聖められていきま す。聖徒の皆さんも「ヨブ記講解」のメッセージを聞いて自分を発見しながら、真理と反対のもの を捨てて、真理にあって自由を得ますように。


3. 真理にあっての自由


イエス様はヨハネの福音書8章32節で「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがた を自由にします。」と言われました。真理を知るということは、真理である神様のみことばを知識と して知っているだけでなく、実際に行うという意味です。


どの国にも法があり、会社には社内ルールがあり、教会には教会のルールがあり、それぞれの 組織で法や規定を守らなければなりません。これらを守ることが身についている人は、誰かが指 示したり命令しなくても自然に守り行うので、かえって法から自由を得て、守られるようになります。


同じように、神様のみことばを守り行う人は、神様の御前に当然すべきことを行うことが全くつ らくありません。真理で武装して真理の中で生きていくので、当然真理にあって自由を得るので す。このような人々は神様の戒めを守るとき、喜びと感謝をもって守ります。


しかし、信仰が弱くて真理の自由を得ていない聖徒たちは、ヨブのように不安を抱いて恐れながら戒めを守る場合が多いです。


たとえば、主日を守ることと完全な十分の一献金は神の子どもとして当然守るべき基本であり、 救いの条件です。主日を守ることは神様の霊的主権を認めることであり、十分の一献金をささげ ることは物的主権を認めることで、イエス・キリストを信じる神の子どもであるという証拠です。で すから、私たちが主日を聖なる日として守って、十分の一献金をことごとくささげるとき、神様は 私たちを守って祝福してくださいます。


このように主日を守ることと完全な十分の一献金は救いの条件であり、祝福の秘訣なので、信 仰のある聖徒たちは喜んで守ります。神様のみことばを霊的に悟るほど、真理によって自由を得 て、喜んで楽しい信仰生活、感謝の信仰生活ができるのです。


しかし、信仰の弱い聖徒たちは「もしかして主日を守らなければどうしよう。十分の一献金をさ さげなければ災いが来るかも」と恐れて、義務感から守ります。愛なる神様よりは恐ろしい神様を 意識して、律法に縛られて、真理による自由が得られないのです。


したがって、真理にあってまことの自由を得るためには、戒めを犯そうという心を最初から捨てて、心にある真理と反対のものを完全に捨てなければなりません。心に真理と反対のものがあれ ば、いずれは罪を犯す恐れがあるし、世のものが目に入ればどうしようと心配しなければならないから大変です。


真理と反対のものを捨てて、心を真理で満たせば、移り変わることもなく、環境や周りと関係な く楽しい心でみことばどおりに生きていくので、まことの平安を得ることができます。これがまさに 真理が与える自由なのです。


愛する聖徒の皆さん、 きょうのメッセージを心に刻んで、無益な言い争いをやめて、愛の言葉、善の言葉、真理の言 葉で相手に力と希望を与える賢い聖徒の皆さんになりますように。また、真理である神様のみこ とばを心に糧として完全に守り行い、恐れる信仰生活ではなく、真理にあっての自由を得て、満 たされた信仰生活をされますよう、主の御名によって祈ります。

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