ヨブ記講解(10) - 神様に愛されている者は
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記5:17-27
きょうはエリファズの話に込められている意味を調べて、神様に愛されている人にはどんな証 拠が現れるのかを伝えます。
1. 愛する者を懲らしめられる神様
「ああ、幸いなことよ。神に責められるその人は。だから全能者の懲らしめをないがしろにして はならない。」(ヨブ5:17)
エリファズは神様に責められる者は幸いだと言っていますが、これは正しいことです。過ちを犯 して懲らしめられるのは神様に愛されている証拠だからです(ヘブル12:6-8)。
神様を信じると言いながら世を愛して、真理の中で生きていないのに懲らしめが来ないならば、 もしかして神様から捨てられた私生子ではないのか、省みなければなりません。親が子どもを本 当にかわいがっているなら、過ちを犯せばお仕置きをするように、神様も子どもたちを愛しておら れるので、ただ赦すだけではなく、必要に応じて懲らしめもなさるのです(箴言3:12)。
ところで、子どもたちが罪を犯すたびに、神様がすぐ懲らしめられるのではありません。聖霊が うめかれるので心に苦しみを感じるようにするなど、まずいろいろな方法で悟らせてくださいます。 それでも聞かないで立ち返らなければ懲らしめて、それでも繰り返し罪を犯すならば、ますます 重い懲らしめが臨みます。また、信仰の量りが大きいほど、さらに傷もしみもないまことの子ども にするために愛をもって練ってくださいます(第一ペテロ1:6-7)。
したがって、ひょっとして懲らしめが臨んだら、気を落とさずに悔い改めて、罪から立ち返らな ければなりません。すると神様は罪を赦して、心に喜びと平安を下さり、さらに問題を解決してく ださり、心の願いをかなえてくださいます。
「懲らしめ」とは、制裁を加えたりして二度としないようにさせることです。エリファズはヨブに、 神様の懲らしめを喜んで受けなさいと勧めています。
しかし、実はヨブは神様に「潔白で正しい」と認められた人で、罪を犯して懲らしめを受けてい るのではないのです。エリファズは相変わらずヨブを誤解していて、神様のみことばに込められ た霊的な意味も悟れないまま、自分の知識で責めているだけです。
2. 傷を包んですべての災いから守ってくださる神様
「神は傷つけるが、それを包み、打ち砕くが、その手でいやしてくださるからだ。神は六つの苦しみから、あなたを救い出し、七つ目のわざわいはあなたに触れない。」(ヨブ5:18-19)
ここで「神は傷つけるが、それを包み、」とは、神様は思いのまま人を傷つけもして、治してもくださる方だという意味ではありません。
たとえ罪によって神様の保護膜から離れて、敵である悪魔・サタンから苦しめられている子ど もでも、悔い改めて再び神様のふところに帰って来れば、神様はその傷を包んでいやしてくださ るのです。神様の子どもたちへの愛と憐みは限りがなく、たとえ子どもたちが罪を犯したとしても、 立ち返ってご自分を求めて来れば、驚くべき恵みと恩寵を施してくださるのです(イザヤ30:26)。
「六つの苦しみ」とは、アダムが不従順の罪を犯して呪われ、エデンの園から追い出された後か ら、人類がこの地上で耕作を受けている期間である六千年を意味します。「六つの苦しみから、 あなたを救い出される」とは、敵である悪魔の支配下にある六千年の間に、神様を恐れかしこん で真理の中で生きていく人々はイエス・キリストの御名によって救われるようになる、という意味 です。
また「七つ目のわざわいはあなたに触れない。」とありますが、ここで「七」とは、六千年の人間 耕作を終えた後に続く千年王国を含めて、七千年の摂理を完成された神様の完全なみこころを 意味します。
六千年の耕作期間が終わった後、この地上では千年王国が繰り広げられ、これによって七千 年の摂理が終われば、すべての人は白い御座の大審判を受けて、永遠の天国、または地獄に行 くことになります。
したがって、「七つ目のわざわいはあなたに触れない。」とは、神様を信じる子どもたちは神様 の完全な支配下にあるので、どんな災いにもあわないという意味です。
「ききんのときには死からあなたを救い、戦いのときにも剣の力からあなたを救う。舌でむち打 たれるときも、あなたは隠され、破壊の来るときにも、あなたはそれを恐れない。あなたは破壊と ききんとをあざ笑い、地の獣をも恐れない。」(ヨブ5:20-22)
飢謹がやって来れば免れることはできないはずなのに、この状況で神様がどのように救ってくださるというのでしょうか。
神様の愛される預言者エリヤは、三年半の日照りの中でも神様が導いてケリテ川の水を飲ま せられたし、烏を通してパンと肉を食べさせてくださいました。また、川が枯れると、シドンのツァレファテのやもめを通して養ってくださいました。神様を信じて疑わず、罪を捨てて神様により頼 む人にはこのように働いてくださるのです。
次に、「戦いのときにも剣の力からあなたを救う。」とありますが、聖書を読むとこのような事例 がたくさんあります。
預言者エレミヤは、捕えられそうなところでも、そうならないようにいつも神様が守ってくださ いました。幼子イエス様も、ヘロデ王が二歳以下の男の子をみな殺そうとしていたとき、神様が あらかじめ教えてくださって、エジプトへ逃げて行くようにされました。今日も、真理の中で生きて いる人は飢謹、戦争、地震、病気の流行など、どんな試練、患難、危険の中でも、神様が守ってく ださって安全です。
「舌でむち打つ」とは、人が口で何か脅すような話をした後、これを実行しようとすることを言い ます。たとえば、ある人が「殺してやる」「ただじゃ置かないぞ」と言った後、実際にこれを実行しようとするとき、これから神様が守ってくださるのです。
箴言26章2節に「逃げる雀のように、飛び去るつばめのように、いわれのないのろいはやって 来ない。」とあるように、私たちが神様のみことばを守って生きているなら、どこの誰が呪うからと いって、そのまま臨む理由がないのです。また、破壊が迫って来る時でも、悔い改めて立ち返れ ば守られるし、全能の神様により頼めば、いやしのみわざ、いのちを得るみわざを体験することが できます。
「あなたは破壊とききんとをあざ笑い、」という意味は、ヨブが神様を信じてより頼んですべて をゆだねるならば、破壊と飢謹はヨブとは関係がないので、あざ笑うような人になるだろうという ことです。
次に「地の獣をも恐れない。」とあります。ここで「地の獣」とは、霊的に敵である悪魔・サタンを 意味します。アダムが霊的な権威を持っていた時はすべての地の獣を支配できたように、私たち が完全に心が霊に属する者になれば、敵である悪魔・サタンを支配することができるのです(第 一ヨハネ5:18)。
3. たましいに幸いを得ているようにすべての点でも 幸いを得る祝福を下さる神様
「野の石とあなたは契りを結び、野の獣はあなたと和らぐからだ。」(ヨブ5:23) このみことばには二つの意味があります。
第一、石の多い畑に種を蒔けば芽が出ることさえ難しいが、私たちが神様のうちにとどまって いるなら、岩地でも芽が出て実が結ばれるようにしてくださるという意味です。つまり、神様の力 で不可能が可能になるみわざを体験できるということです。
第二、「野」とは人の心であり、「石」とは岩なるイエス・キリストを意味します。私たちが心の戸 を開いてイエス・キリストを受け入れれば、聖霊が心に来られます。そして真理で私たちの心の地 を耕していくようになりますが、この真理は神様のみことばであり、岩であるイエス・キリストです。
道ばたや岩地、いばらの地のような心でも、岩なるイエス・キリストを受け入れて聖霊を受けれ ば、神様のみことばで心の地を耕して、良い地に変えられていきます。このように良い地になって いくほど、たましいに幸いを得ていてすべての点でも幸いを得、健康である祝福が臨むのです。
次に「野の獣はあなたと和らぐからだ。」とありますが、これは、私たちがみことばどおりに生き ていて神様に喜ばれれば、アダムが万物を支配していた時のように、野の獣とも平和であり、敵 である悪魔が私たちに害を加えることができず、敵とも和らぐことができるという意味です。
私たちがたましいに幸いを得ていれば、神様が聖霊の炎の壁と栄光の光で取り巻いてくださるので、飢謹や患難が臨まず、悪い敵である悪魔が入り込めません。それだけでなく。箴言16章 7節に「【主】は、人の行いを喜ぶとき、その人の敵をも、その人と和らがせる。」とあるとおり、敵と も平和をつくるようになります。この他にも、神様はたましいに幸いを得ている人に下さる祝福を あちこちで約束しておられます(第一ヨハネ3:21-22)。
本文にはこのように複合的な意味が込められているのですが、エリファズはこのような深い霊的な意味を知っていてヨブに教えているのではありませんでした。
「あなたは自分の天幕が安全であるのを知り、あなたの牧場を見回っても何も失っていない。 あなたは自分の子孫が多くなり、あなたのすえが地の草のようになるのを知ろう。あなたは長寿 を全うして墓に入ろう。」(ヨブ5:24-26)
このみことばには家庭の祝福、事業の場の祝福、物質の祝福、子孫の祝福、健康の祝福、長寿 の祝福がみな入っています。聖書の代表的な例として、アブラハムはこのすべての祝福を受けて いました。
エリファズはヨブに、神様を求めて頼れば家庭が平和になり、経済的にも祝福され、健康、子ど も、長寿の祝福など、人生のすべての祝福を受けると教えています。
しかし、エリファズはヨブ記5章27節で「さあ、私たちが調べ上げたことはこのとおりだ。これを 聞き、あなた自身でこれを知れ。」と言っています。つまり、エリファズはこのような神様のみことばは自分が体験したり信じたからではなく、調べ上げた結果だと言っているのです。
エリファズは自分が聞いた知識を霊的に悟ったのでも、体験したのでもなく、ただ頭で研究し たことをヨブに教えています。ですから、ヨブはこれを聞いて悟って立ち返ることができませんでした。
神様のみことばは聖霊に動かされて記されたものですから、御霊によって霊的な意味を悟って こそ心が変えられて、相手にも感動を与えることができます。言葉がいくら流暢でも、知識的な 教えは相手にとってまことのいのちになれないのです。自分がまずみことばを行って、霊の糧にし て伝えるとき、はじめてみことばの権威が伴って、聖霊が働いて信仰といのちを与えられることを 知っておくべきです。
愛する聖徒の皆さん、 神様が懲らしめられる理由と目的は、懲らしめを通して悔い改めて聖い子どもになるようにし ようとする愛です。私生子ではなく、神様の本当の子どもだからです。したがって、ひょっとして罪 を犯して懲らしめられても、気を落とさず、かえって自分への愛を表現してくださった神様の恵み に感謝しなければなりません。
さらに「主が、ことごとく私に良くしてくださったことについて、私は【主】に何をお返ししようか。」 (詩篇116:12)という心で神の国に忠実に仕えながら熱く走って行きますよう、主の御名によって 祈ります。
