「ヨブ記講解100―罪の意識と良心の麻痺」(上)
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記34:14-22
皆さん、前回エリフは、神は決して悪を行わない、全能者は公義を曲げないと言いながら、神様の正しさと神様の公義を言っているようでした。しかしその中にはヨブを非難するための意図がありました。神様は悪や不義を行わない方で人の行いに応じて正確に裁く方ですが、ヨブあなたがこのように苦しみを受けているのは、それだけあなたが悪いからだと言っているのです。相変わらずヨブを罪に定めていました。そして、もし神様がご自分だけのために主権を思いのまま使うなら、悪い者を直ちに裁かれただろうと言いました。これにもエリフの悪が込められていました。私たちも自分の姿を顧みなければなりません。他の人が試練に遭っていたり苦しみに遭っている時、その人の普段の生き方を見てそんな試練に遭うと思っていたと言ったり、自分なりに真理で見分けているつもりでも神様の深い御心が分からず、人をさばいて罪に定めてしまうことがあります。ですから私たちは何かを見て聞く時、いつも善と愛を持って、主ならどんなふうに思われるだろうかと思い、ただ神様の御心を悟らなければなりません。ヨブ記34:16-17ではエリフの高ぶっている姿がさらに目立ちます。
あなたに悟りがあるなら、これを聞け。私の話す声に耳を傾けよ。いったい、公義を憎む者が治めることができようか。正しく力ある方を、あなたは罪に定めることができようか。(ヨブ記34:16-17)
前回10節では「あなたがた分別のある人々よ。」と言っていたのですが、今は「あなたに悟りがあるなら」と言っています。エリフはすでに年長者たちの前でヨブの過ちをまとめて指摘して、自分の賢さを誇示していました。だからあなた方に悟りがあるなら私に聞きなさいというこの言葉の中には、自分が彼らより優れている、彼らより賢いということを表現するのです。そして彼らを教えていきます。いったい、公義を憎む者が治めることができようかと言いました。これは、神様に公義がないならば、どうして治めることができようかと言っています。つまり、神様は公義にかなった方だという意味です。そして、「正しく力ある方をあなたは罪に定めることができようか。」と言っていますが、これはヨブに言っているのです。「ヨブ、あなたが正しく力ある神様を罪に定めることはありえないことです。」と問い詰めています。
文字面だけを見てみると、エリフが言っていることは間違いがないようです。しかしエリフが言っていることが正しいというなら、ヨブはとても悪い人になってしまいます。反対にヨブの主張を正しいというなら、神様が悪い神様になってしまいます。私たちは、神様の御言葉をいつも霊的に解かなければなりません。Ⅰコリント2:13に「御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。」とあるように、神様の御言葉は、聖霊の助けがなければ理解することも解釈することもできません。エリフは、神様の御言葉を聞いて知識として知ってはいるけれど、自分の肉の思いによって解釈するから、神様の本当の心は理解できずヨブを裁いて罪に定めていました。
イエス様の時代にも、神様の御言葉を教えるという人々が、かえってイエス様を迫害し、悪霊につかれた、気が狂ったと罪に定めて、結局は十字架につけました。エリフも自分が知っている知識が全部だと思い、その知識の限界の中で神様について評価して崇めていて、ヨブを罪に定めていました。それは神様を崇めるのに目的があるのではなく、ヨブを罪に定めるのに目的がありました。これは大きな高ぶりと悪から出たものです。それなのに神様がどうして彼は正しいと言われるでしょうか?エリフのような人が、行いで罪を犯すことはなかったとしても、このように人を裁いて罪に定め、神様の御心をよく知っているかのように高ぶっているのに、これがどうして小さい罪だと言えるでしょうか?
私たちは死に至る罪、肉の行い、肉の思いなどについて詳しく聞いて知っています。自分が行いで罪を犯していないからと言って、時にはそういう人々を罪に定めていることもありますが、自分の心にある罪の性質、人をさばいて罪に定めることはそれよりも大きい罪なのです。皆さんの中で、もしかして御言葉の知識が多いからといって、またある人や状況について知っているからといって、それが全部ではないということを覚えておきましょう。いつも祈りながら聖霊に働きかけられて正しく悟るべきであり、そうでなければ、人を罪に定める大きい罪を犯す恐れがあります。続く本文を読むと、エリフが神様をもっともらしい表現で説明します。
ヨブ記34:18-19です。
人が王に向かって、「よこしまな者」と言い、高貴な人に向かって、「悪者」と言えるだろうか。この方は首長たちを、えこひいきせず、貧民よりも上流の人を重んじることはない。なぜなら、彼らはみな、神の御手のわざだから。(ヨブ記34:18-19)
私たちが被造物として、創造主の神様を高めることは当然であり良いことです。宇宙万物を作られた神様の前で、私たち人はどれほど小さい存在でしょうか。ですからエリフは、人が王に向かってよこしまな者といい、高貴な人に向かって悪者と言えるだろうかと言っています。言えないという意味です。またこの方は首長たちをえこひいきせずとあります。つまり、身分の高い人だからといって特別な扱いはしないという意味です。そして貧民よりも上流の人を重んじることはないと言いました。相手が金持ちだからといって貧しい人より優遇しないという意味です。地位が高い人でも、金持ちでも、貧しい人でも、みな神様が造られた同じ被造物だからです。エリフの言っている通り、神様は人を差別することはありません。王でも平民でも、知識があってもなくても、貧しくても富んでいても、上辺で評価しないでその心をご覧になり、公義によって働かれます。地位とか環境、条件に関わらず、誰でも行った通りに報いてくださり、魂に幸いを得ているように、すべての点で幸いを得るようにしてくださいます。
ところで、ここでエリフが言っている言葉の問題は、自分が知っている知識の限界の中で神様を高めているようですが、それはヨブを罪に定めるためだということです。人の姿の中でこういうところがあります。自分に悪があるから、神様の御名を借りたり、第三者の言葉を引用して相手を罪に定めて攻撃しようとすることがあります。相手を無視して相手を罪に定めたいけれど、自分が言うならば相手が認めないと思うから、神様の御言葉、真理を引用したり、また目上の人の話を引用して相手を攻撃しようとするのです。それで相手を罪に定めようとするのです。エリフも悪い意図からヨブを罪に定めようとする目的で神様を高めているから、間違っている言葉が混ざっているのです。ある人の口の言葉の中には意図があります。その中には相手への棘が生えている場合もあります。
上辺ではエリフが言っていることは神様を高めているようで、神様の正しさを説明しているようでも、それはヨブを見下すためにヨブを罪に定めるためだったのです。それが問題でした。神様は公義にかなった方だから、高貴な人たちをえこひいきせず、貧民よりも上流の人を重んじることがないと言いましたが、これを間違って解釈してはいけません。例えば、神様はダビデをご自分の心にかなうものだと認め王に立てられた後、民がダビデを愛して聞き従うように望んでおられました。またイスラエルの裁き司として立てられたサムエルを、民全体が信じて従うように望んでおられました。このように人の間の秩序にも従うことが神様の御心です。神様は私たちがすべて霊肉ともに祝福されるように望んでおられます。 申命記28章にあるように戒めを守り行い、入るときも出ていくときも祝福され頭になり、職場と事業の場でも祝福を受けるように望んでおられます。教会内でも平信徒でとどまるのではなく認められて働き人になるように、成長するように望んでおられます。執事から勧士にまた長老になって、神の国に力になるなら神様がどれほど喜ばれるでしょうか。
しかしエリフは、まるで神様が地位や富のある人々をわざと軽んじるように思い込んでいるから、どれほど高ぶっている姿でしょうか?私たちは神様の御心を自分の考えで解釈したり、神様の御名を借りて相手を罪に定めることがあってはいけません。ある人は自分の利益のために元老牧師先生が言われたことを、もっともらしく引用して自分の意見を貫こうとする場合があります。「牧者がこんな風に言われた」からと言って、「だから私が言っていることが正しいです。」と言う人がいます。自分の都合に合わせて牧者の言われたことを引用するのです。でも自分が聞き従わなかったから、自分がもたらした今の試練なのに、それを何か神様の御心があってのことだというふうに言う人がいます。それは真理を自分の都合に合わせて、自分の利益のために使ってしまうことであり、神様の御名を侮るようなことになってしまいます。相手を教えようとしたり、相手を攻撃するために御言葉を使ってはいけません。
続く本文を見ると、ヨブ記34:20です。
彼らはまたたくまに、それも真夜中に死に、民は震えて過ぎ去る。強い者たちも人の手によらないで取り去られる。(ヨブ記34:20)
ここで彼らとは、先ほど言った首長や上流のものを指しています。神様が打ってしまえば彼らは一瞬で死に、民も震えて過ぎ去る。いくら権力のある人でも一瞬で取り去られてしまうというのです。これは間接的にヨブに向かっての呪いのことを言っているのです。「ヨブ、あなたも昔は首長のように待遇をされたけれど、今はあなたの悪のため惨めな羽目になってしまった。神様があなたを価値あるものと重んじてくださらないのだ。あなたの命も一瞬で取り去られてしまうだろう。」というのです。皆さん、神様が人をこんな風に簡単に滅ぼしたり、命をすぐ殺してしまう方でしょうか?そうではありません。イザヤ49:15に「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。」とあります。乳飲み子への母親の愛はどんな愛よりも深いです。ところでこのような母性愛とも比べられないものが私たちへの神様の愛です。私たち一人一人を神様はご自分の形に作ってくださって、しかもひとり子イエス様の尊い血によって買い取ってくださったので、全世界より尊く思われるのです。人々にまだ悪があり移り変わる心があっても、神様は嫌うのではなくて憐れんでくださり、何としてでも救いの機会を与えようとします。しかしエリフは、このような神様の深い愛と真理がわからないから、自分の悪の中で神様はこういう方だと間違って説明しています。続く本文でも同じです。
ヨブ記34:21-22です。
神の御目が人の道の上にあり、その歩みをすべて見ているからだ。不法を行う者どもが身を隠せるような、やみもなく、暗黒もない。(ヨブ記34:21-22)
神様は、私たちがいつ、どこで、どんな言葉を口にし、どんなことをしているのか、すべて見ておられます。心の中で抱いているものも全部知っておられます。だから私たちは人を欺くことはあっても、神様は欺くことはできません。これについてエリフは「神の御目が人の道の上にあり、その歩みをすべて見ている」と表現しています。また「不法を行う者どもが身を隠せるような、やみもなく、暗黒もない。」と言いました。これは神様の前では全てが明るみに出されるから、悪を行った人々は神様の御目を避けて隠れるところはないと言います。 ヨナは「ニネベに行って悔い改めを叫びなさい。」という神様の命令に背いて、反対の方向のタルシシュに行く船に乗りました。そして船底で寝ていたのですが、神様の御目は彼を見ておられました。そして聞き従わなかったヨナのため、船の中の他の人まで苦しみを受けるようになりました。人が誰も見ていないところで隠れてこっそり何かをしていても、神様は全部見ておられ、善であれ悪であれ裁く方です。
ところで今エリフは、ヨブをとても悪い人のように罪に定めてこんなことを言っているから、ヨブにとって、それはとても悔しいことで過酷な言葉でした。エリフがヨブを見たら、それ以上避けるところも隠れるところもなく、取り返しのつかない状態でした。だから、「あなたの罪は明白に明るみに出された。だから神様に懲らしめられて死の道に向かっているのだ。これ以上は隠れるところもない。」と言っているのです。これは良心が麻痺した人にあたる内容です。その悪の程度がすでに取り返しのつかない状態になって、死だけが残っているという意味だからです。これはヨブとは関係ない言葉です。それなのにエリフは、ヨブにこんな風に厳しいことを言っているのです。とんでもない呪いの言葉を言っているのです。そうしてはいけないでしょう。
ただしここで、良心が麻痺した人についてちょっと説明をしましょう。そのような人々は神様がご覧になっていることも意識できず、だんだん同じ罪を繰り返してしまい滅びに向かっていくのです。人が、どうやって良心が麻痺していくのかについて説明しましょう。今日、ヨブ記100回目で、またサブタイトルが「罪の意識と良心の麻痺」とありますがそれについて説明しましょう。良心が麻痺していく過程を知っているならば、それを回復する方法もわかるからそれを説明します。第Ⅰテモテ4:1-2です。「しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。それは、うそつきどもの偽善によるものです。彼らは良心が麻痺しており」とあります。 麻痺とは感覚がなくなることです。通常の働きや動きが停止することです。
昔は、家畜や奴隷に熱した焼き印を押して、自分の所有であることを示して、あるいは罪人の体に刑罰でそうすることもありました。韓国の朝鮮時代の歴史ドラマとかを見ると、そういう場面がありますね。罪人という烙印が押される場合があります。胸とか、また額に、見えるところに押す場合もありました。熱したこてで烙印を押すのです。それでもしかして、それが額に押されたならばその人は罪人として認識されるし、それは消すことができないのです。そうすると皮膚が火で焼かれて麻痺してしまい感覚がなくなってしまいます。霊的にも、ことさらに悪を行い良心が回復不可能な状態になって、無感覚になるケースがあります。それを麻痺したというのです。
今日は世が罪と悪によって染まっているから、人々の分別力もだんだん鈍くなっています。昔は恥ずかしいと思うようなことも今は堂々としています。世の人はそうしても真理を知っている人はそうしてはいけないでしょう。神様は罪と悪を正確に教えてくださり、それを警戒するように戒めてくださいます。罪の意識があってこそ罪を犯すことを恐れるのです。そしてその罪を捨てることもできるのです。でも罪の意識がだんだん鈍くなってしまうから問題です。それで良心が麻痺してしまうこともあります。罪を犯しておいて罪の意識を感じることができないのは、それだけ良心が麻痺していくという証拠です。ほとんどは最初罪を犯した時はそうしてはいけないという良心の声を聞きます。世の人もそうです。クリスチャンは当然でしょう。また真理を聞いている皆さんは、心に聖霊がおられるから聖霊が悟らせてくださるでしょう。良心の声だけではなく、聖霊が悲しんでおられ、また教えて悟らせてくださるから心が苦しくなるのです。不安になるのです。それを感じなければなりません。世の人も良心があるから、良心の声を聞いて呵責を感じるようになります。
最初はそうです。まだ感覚があるからです。麻痺していないからです。しかしこれを無視して少しずつ罪を受け入れていくと、良心がだんだん鈍くなります。後には大きい罪を犯しておいて、こうしてはいけないことさえ感じなくなってしまいます。真理を聞いて主を受け入れた人、聖霊を受けた人は、このような状態にならないようにいつも気をつけなければなりません。そのような過程で聖霊がうめいておられるし、また自分の良心の呵責も感じるから、「これはいけない。これは罪だ。」と感じるようになります。すると聖霊が悲しまれるから、喜びもなくなって恵みも受けられなくなってしまうのです。心が苦しくなるのです。その時立ち返らなければならないのにそれを無視してしまい、まただんだん罪を受け入れていってしまうのです。聖霊の声を聞きながらも、罪を犯す快楽の方が強いからそれに従っていってしまうこともあります。
そうすると聖霊が声を聞かせてくださっても、それを聞けなくなってしまうのです。具体的な例を挙げましょう。盗んだ場合です。クリスチャンならば神様の御言葉を知っているから、人の物を盗まないだけではなく、むさぼりや欲の属性そのものを捨てようと努力します。ノンクリスチャンも良心が正しい人は、小さいものでも盗みたいという欲を抱いた時は、良心の呵責を感じてドキドキします。例えば小さい子供がコンビニに行って、食べたいものがあるのにお金がない時、どうでしょう?これを盗もうと思うならどうなるでしょうか?心臓がバクバクするでしょう。これはいけないことだと知っているからですね。これを盗もうかと思った時はそのようになるのです。この段階を越えて盗もうと決心した時からは、罪の意識が入ってきます。この時まではまだ罪を犯していないのですが、この時感じる不安が一番大きいです。こうしてはいけない、もし店の主人に見つかったらどうしよう。親に連絡したらどうしよう。警察に渡されたらどうしようと不安になります。でもその不安があっても、盗みたいという肉の欲がもっと大きい場合は盗んでしまいます。そして盗んでしまったらその後どうなるでしょうか?目標を達成したことについての快感があるのです。罪を犯ししてしまったのですが、その目標を達成したという快感があるから、前にあった不安が半分に減ります。先ほど心臓がバクバクして、また不安で、罪の意識があって悩んでいたのに、盗んでしまった後は、自分が達成感によってその不安感が半分に減ってしまうのです。
自分が悪いことをしたという意識がだんだん薄くなるのです。しかしこの時は自分が泥棒だという罪悪感があるから苦しくなります。辛くなります。これは盗みということを最初にした人、素人の場合ですね。自分が盗んだものを食べた時の快感もあるけれどでも、良心もあるから、一方では自分が泥棒という罪の意識 、罪悪感もあるのです。人には良心があるからです。そうしながら心の中にある善が、次からはこんなことをしていけないと言い聞かせるのです。世の人も最初罪を犯した時はこういう現象が起こります。良心は、正しい正しくないかの基準になるからです。自分が聞いた倫理とか道徳があるから基準があるからです。それぞれその基準から外れたならば、また自分の中で良心があるから、そうしてはいけないと良心が言うのです。でもその声を聞いてやめればいいのですが、最初盗んだ時感じた
快感の為また盗んでしまいます。(つづく)

