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霊の糧

ヨブ記講解メッセージ
「ヨブという実在の人物を通して、神様が私たちの人生を記録してくださいました。」
「ヨブ記講解(20)-ヨブの無知①」

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記9:13~21

 

きょうは、霊的に無知なので、神様を誤解してひねくれているヨブの心について伝えます。

1. 怒りを翻さない神様だと誤解したヨブ

「神は怒りを翻さない。ラハブを助ける者たちは、みもとに身をかがめる。いったい、この私が神に答えられようか。私が神とことばを交せようか。」 (ヨブ9:13~14)
神様は怒るのにおそく、私たちが悔い改めて立ち返れば、怒りを思い直してくださる方です。
旧約聖書を読むと、イスラエルの民が偶像に仕えて神様から離れると、周りの国から侵略されて捕虜になりました。ところが、彼らが心を砕いて罪を告白して再び神様を求めると、神様は赦してくださり、奪われた国を取り戻すようにされました。
ニネベの民の場合、彼らの悪がひどくなって、神様が滅びを告げられましたが、王から民、家畜に至るまで断食して悔い改めると、神様はさばきを思い直して、彼らを救ってくださいました。
このように神様は心から悔い改める者には怒りを静めて、憐れんで赦してくださいます。詩篇103篇12節に「東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。」とあり、ヘブル8章12節では「なぜなら、わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや、彼らの罪を思い出さないからである。」と約束されました。
このように憐み深い神様を、ヨブは誤解して「怒りを翻さない神様」だと言っています。

ここで「ラハブ」とはエジプトを意味します(イザヤ30:7,イザヤ51:9)。
また、「ラハブを助ける者たち」とは、ヨセフとその兄弟とその子孫を意味します。
ヤコブの息子ヨセフは、神様が下さった知恵でエジプト全土を七年間の凶年から救い出しました。エジプトの王と民にとって、ヨセフは命を助けてくれた恩人のような存在です。ところが、歳月が

流れて、エジプトは恩人だったヨセフの子孫、すなわちイスラエルの民を奴隷にしました。 ヨブはこれについて、神様がエジプトの恩人であるイスラエルの民を奴隷にしてしまい、「身をかがめる」ようにされたと言っています。そして、神様を恐れて全焼のいけにえをささげていたヨブも、イスラエルの民のようにみじめな目に会っているのではないかと反問しています。ヨブは、神様はこのように正しくない方だから、どうして神様と自分が言葉を交わせるだろうか、というのです。 ヨブはイスラエルの民をエジプトの奴隷に転落させた悪い神様だと言っていますが、神様の摂理を知らないのでこう言っているのです。 神様はアブラハムのいけにえを喜んでお受けになり、彼に祝福のみことばを下さり、同時に、後日、彼の子孫が体験することについて具体的に知らせてくださいました。 「そこで、アブラムに仰せがあった。『あなたはこの事をよく知っていなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。しかし、彼らの仕えるその国民を、わたしがさばき、その後、彼らは多くの財産を持って、そこから出て来るようになる。」(創世記15:13~14) これは、将来、イスラエル民族がエジプトに入って400年間奴隷生活をした後、エジプトから出て来るようになるということです。ここでイスラエルへの祝福とともに、とても正確な神様の公義と愛を感じることができます。 神様は、エモリ人の咎が満ちた時はじめてさばくことがおできになるのです。正しい神様なので、エモリ人の咎が満ちてさばきの基準を超えたとき、正確な公義によってその土地をアブラハムの子孫に与えられたのです。 約400年という期間は、イスラエルの民が大民族になって、カナンの地に入れるような信仰に成長する時間でした。これと同時に、カナンの地に住んでいた部族には、罪から立ち返って悔い改められる機会の時間でした。 神様はイスラエルという一つの国を造るために、まずヤコブの息子ヨセフをエジプトに送って、そこで統治者として立てた後、ヤコブの全家族がエジプトに入るようにされました。ヤコブの十二人の息子たちを通して形成されたイスラエルが一つの民族として土台を整えるまでには、エジプトという安全な所が必要だったからです。温室ではなく野原で育った雑草が生命力が強いように、イスラエルの民はエジプトで奴隷生活をしながら逆境の中で強くなったので、カナンの地を征服できたし、強い民族に成長できました。 このように、アブラハムの子孫がエジプトで奴隷生活をしたことには、神様の大きい摂理が込められていました。ですから、奴隷生活をしていた逆境の時間も祝福の時間なのです。 しかし、ヨブはこのような摂理を悟ることができないので、ヨセフが大きい国を救っても、神様は彼の子孫を奴隷の境遇に転落させられたのに、ましてつまらない自分も、全焼のいけにえをちょっとささげたからといって、神様が正しくさばいてくださったのだろうかと反問しているのです。 2. ツイストドーナツのようにひねくれたヨブの心 「たとい、私が正しくても、神に答えることはできない。私をさばく方にあわれみを請うだけだ。たとい、私が呼び、私に答えてくださったとしても、神が私の声に耳を傾けられたとは、信じられない。」(ヨブ9:15~16) これまでヨブは自分が正しいと強く主張していましたが、ここではあえて「たとい」という言葉を使って「たとい、私が正しくても、」と言っています。 今、ヨブは二つの心が葛藤を起こしている状況です。自分の考えでは正しいのに、友だちは度々自分は正しくない、罪があると言います。また、神様の正しさに比べて、自分はそこまで正しくないから、確信をもって強く言えないのです。つまり、自分では正しいと思っているのに、神様の前では完全に正しくないようだから葛藤しているのです。 ヨブは、もし自分が神様を呼んで捜すなら、たとえ答えてくださったとしても、自分の声に耳を傾けられたとは信じられない、と言っています。 ヨブの心は次第にひねくれて、ますます神様に立ち向かっています。神様はヨブ記を通して人の心を一つ一つ明らかにして解剖しておられるので、ヨブを通して自分の心を発見しなければなりません。 ヨブはあれこれの方法で神様に求めてみたのですが、何の答えもないと、自暴自棄になって嘆いています。 このような姿はよく初心の者に見られます。多くの人々が問題の解決のために教会に来ます。自分の力で解決できない問題にぶつかって、まぐれ当たりを期待する心で神様を捜すことがあります。 この時、神様が心をご覧になって、まず問題を解決してくださって信仰を植えつけられることもあります。しかし、ほとんどの場合、答えを受けるような信仰になるまで待ってくださいます。それが霊の世界の法則だからです。 ところが、聖徒の方では、断食もして徹夜で祈りながら神様に切に求めたのに、待っても待っても答えが来なければ、あきらめてしまいます。「私はこんなに熱心に求めたのに…」とヨブのようにつぶやいたりがっかりしたり、嘆いて信仰のないことを言うのです。 しかし、信仰生活の根本の目的は魂の救いです。まずは自分が救われる信仰を持たなければならず、救われる段階になったなら、さらにまめにみことばを聞いて霊の糧として、信仰が成長していかなければなりません。「【主】をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」(詩篇37:4)とあるので、神様に喜ばれる信仰になってこそ、すべての問題が解決され、心の願いがかなえられるのです。 ところが、目の前の問題を解決することだけに執着すれば疲れてしまい、そうなれば心がツイストドーナツのようにますますひねくれていくのです。ツイストドーナツは、ねじる時は楽ですが、ねじれたドーナツをほどいて元に戻すのは難しいです。 したがって、神様の前でも、人との間でも、心がひねくれ始めたとき、すぐ解くことが賢いのです。そうでなければ、ますます自尊心と高ぶり、負の感情などがもつれて、さらにひねくれるようになり、ますます解くのが楽ではなくなるからです。 3.ヨブが醜くてぞっとする病気で練られている理由 「神はあらしをもって私を打ち砕き、理由もないのに、私の傷を増し加え、私に息もつかせず、私を苦しみで満たしておられる。」(ヨブ9:17~18) 「あらしをもって私を打ち砕き」とは、ヨブが今までに体験した途方もない苦しみを表現しています。つまり、神様が一日でヨブのすべての財産と子どもたちを奪って行かれ、頭からつま先まで悪性の腫物で打たれたということです。 また、神様が「理由もないのに、私の傷を増し加え、」とありますが、このようにヨブの口から出てくる言葉だけ見ても、どれほど神様の前で大きい罪を犯しているでしょうか。すべての病気の原因は神様のみことばを犯したところから出発します(出エジプト15:26)。神様が嵐でヨブを打ち砕かれたのでもなく、ヨブに理由もないのに病気が臨んだのでもありません。 私たちもいやされて答えを受けたいと願うなら、まず自分の罪の壁、真理にふさわしくなかった行いと言葉、思いと心を省みて、悔い改めなければなりません。 ヨブは今、全身に悪性の腫物ができて、膿んで腐っていきます。かさぶたができてははがれ、またかさぶたができてははがれるを繰り返し、患部にウジがわいています。自分で見ても、どれほど醜くてぞっとするでしょうか。 では、なぜもう少しきれいな病気ではなく、見ただけでもぞっとするほど汚くて悪臭がする悪性の腫物ができたのでしょうか。 このように醜くてぞっとする病気にかかってこそ、はじめてヨブの心にある汚れが面に現れるからです。もし目に見えない軽い病気だったならば、ヨブは心にある悪が全部外に出てこなかったでしょう。すると自分の悪を発見できなかったでしょう。悪が面に現れてこそ、自分を発見して、悔い改めて立ち返ることができるので、神様はヨブをそのように練ってくださったのです。 ヨブは、神様が自分に息もつかせず、苦しみで満たしておられると訴えています。しかし、神様は子どもたちを苦しみで満たす方ではなく、子どもたちに祝福を与えて栄光を受けることを望んでおられる方です(民数記6:24~26)。 愛する聖徒の皆さん、 神様はご自分の子どもを愛しておられるので、より美しくて大きい器にするためにあれこれの方法で練ってくださいます。このような神様の愛を信じるならば、良いことがある時だけでなく、苦しいことがある時も、変わらず喜んで感謝できます。 したがって、聖徒の皆さんも、どんな苦しいことに会っても、神様を誤解するのではなく、神様の深い愛を悟って祝福の道へと導かれますよう、主の御名によって祈ります。

「ヨブ記講解(19)-予定の神様だと誤解しているヨブ」

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記9:3~12

 

1. 神様を独裁者だと誤解しているヨブ

「たとい神と言い争おうと思っても、千に一つも答えられまい。神は心に知恵のある方、力の強い方。神に身をこわくして、だれがそのままで済むだろうか。」(ヨブ9:3~4)
「たとい神と言い争おうと思っても」とあります。被造物である私たちはあえて創造主なる神様と言い争うことはできず、神様の前にただ聞き従って恐れなければなりません。神様は私たちを造った方であり、光そのもので完全な方、正しい方だからです(第一テモテ6:16,第一ヨハネ1:5,申命記32:4,出エジプト33:20)。被造物にすぎない人が神様の千のことばに一つも答えられないのは、あまりにも当然のことです。
ところが、ヨブは神様の知恵について深く理解しているわけではありませんでした。ただ神様は知恵のある方で、力の強い方なので、独裁者のように思いのままに自分の子どもたちと財産をみな取り上げて、病気で苦しめておられると思っていたのです。このようにすべてを取り上げる神様の前に、自分は言いたいことは何も言えない、ということです。

しかし、私たちは「十字架のことば」に込められた救いの摂理を聞いたので、神様の知恵がどれほど深くて妙なるものなのか知っています。
神様は人が罪を犯して死に向かうことを知っておられ、この問題を解決するために、なだめの供え物としてイエス様を世界の始まる前から備えておられました(第一コリント2:7)。敵である悪魔・サタンはイエス様を殺しさえすれば、自分がアダムから任された権力を永遠に持てることを知っていて、悪い人々を操ってイエス様を十字架につけさせました。
まさにここに神様の知恵があったのです。イエス様を殺すことによって敵である悪魔・サタンはかえって自分の計略にはまって、神様の摂理を実現する道具になってしまったのです。イエス様は

原罪も自分で犯した罪もないので、殺される理由がなかったのです。それでも敵である悪魔は罪のないイエス様を殺したので、これによって「罪から来る報酬は死」(ローマ6:23)という霊の世界の法を破ったのです。 敵である悪魔は法を犯した代価として、自分の権力、すなわち肉の人を支配して死に引いて行く権利を放棄するしかなくなりました。イエス様は十字架につけられて死なれましたが、罪がないので死の力を打ち破ってよみがえられ、これによって主を信じる人はみな救われるようになったのです。このように敵である悪魔・サタンの陣を砕いて死の力を打ち破られたのは、神様の知恵であり、強い力です。 しかし、ヨブはこのように愛の摂理が込められた神様の力と知恵を言っているのではなく、「強い力と知恵で思いのままにされる神様」だと誤解しています。それで、もし人が強くて知恵のある神様の前に身をこわくするなら、そのままで済まないと言っているのです。 ヨブが言ったとおり、身をこわくして神様のみことばどおりに生きていない人は、神様から祝福を受けて栄えることはできないでしょう。ところが、ヨブはこのように正しいことを言っていながらも、自分はというと、神様の前に身をこわくして、心を頑なにしていることを悟れずにいました。友だちがいろいろと真理でアドバイスしたのに耳を傾けなかったし、悔い改めようともしなかったのです。 2. 予定の神様だと誤解したヨブ 「神が山々を移されるが、だれもこれに気づかない。神は怒ってこれをくつがえされる。神が地をその基から震わすと、その柱は揺れ動く。神が太陽に命じると、それは上らない。星もまた封じ込められる。神はただひとりで天を張り延ばし、海の大波を踏まれる。神は牡牛座、オリオン座、すばる座、それに、南の天の室を造られた。神は大いなることを行って測り知れず、その奇しいみわざは数えきれない。」(ヨブ9:5~10) 神様は全知全能のお方ですが、だからといって怒って山をくつがえして思うままに移すとか、理由もなく地をその基から震わして、その柱を揺さぶる方ではありません。 ヨブは、神様はすべてをあらかじめ定めておかれ、容赦なくその計画どおりに動かれる方、すなわち「予定の神様」だと誤解しています。それで、自分は何の過ちもなくて正しいのに、神様が勝手に決めて自分をこのように滅ぼされたというのです。神様にすべての責任をなすりつけている姿です。 神様は私たちが幸せになることを望んでおられ、良いものを与えたいと思っておられるのに、ヨブはこのような神様の愛をあまりにも知らずにいます。そして、神様の公義についても知らなかったので、相変わらず自分は理由もなく苦しみを受けていると思っていました。 そして「神が太陽に命じると、それは上らない。星もまた封じ込められる。」と言っていますが、神様はヨシュアの祈りを聞いて太陽と月がとどまるようにされたことはありますが、太陽に命じて上らないようにされたことはありません。 夜空には多くの星がありますが、それぞれに位置があります。それで、ヨブはそれぞれの星の位置が変わらないという意味を「神様が星を封じ込められた」と表現しています。ヨブは、まるで神様が主権をもって好きなように造っておかれたかのように表現していますが、神様は星一つも霊の世界の法則に合わせて適切な位置に置かれました。 本文に出てくる牡牛座は黄道十二宮の一つで、オリオン座は天の赤道上にあって牡牛座の東にある星座、すばる座は単独の星座ではなく、牡牛座の一部分の星団です。ヨブは神様の主権を説明するために、いろいろな星座を挙げています。 神様は太陽と月、すべての星を造られ、それらの間に運行の秩序と法則を立ててくださいました。ところが、ヨブは、神様に知恵があって強いので、思いのままに星を封じ込めて、あらゆる奇しいみわざを行っているように、自分にも予定したまま苦しみを与えたと誤解しています。 このようにヨブが知っている神様は予定の神様で、恐ろしい神様で、独裁者のような神様でした。しかし、私たちは予知予定の神様で、愛の神様で、正しいさばきをなさる方であることを知っています。 予定論では、神様がすでに人類の歴史と人の生死禍福などすべてを定めておかれたので、私たちの救いもすでに決まっていると主張します。それで、一度救われたと決められたなら、それが最後まで変わらないと言います。 反対に予知予定とは、神様はすべてをあらかじめ知っておられるので、それに合わせてすべてを定めておかれるということです。もしヨブが言うように予定の神様ならば、すべての人の救いの可否はすでに決まっているので、救われるために努力する必要もないでしょう。 しかし、神様は思いのまま、容赦なく定めておいたとおりに行う方ではありません。それなら人間に自由意志を下さる理由がないでしょう。救われる人をあらかじめ選んでおいたのではなく、誰でも自由意志によって救いの枠の中に入ってくれば救われるように定めておかれた、予知予定の神様であることを知っておくべきです。 本文で「南の天の室」とは、この地上のどこかに実際に存在する場所ではありません。ヨブが考えるに、北よりは南のほうが暖かいし、花もたくさん咲きます。また、南から暖かい風も吹いてくるので、ヨブは「おそらく南には豊かで美しい天の室があるようだ」と思ったのです。それで、神様が南の天の室を造って、「大いなることを行って測り知れず、その奇しいみわざは数えきれない。」と表現したのです。 聖書を読むと、エジプトに下された十の災い、葦の海が分かれて、エリコの城壁が崩れ落ちたなど、神様が行われた奇しいみわざがたくさん書かれています。人間耕作が始まってから今まで、神様が行われた奇しいみわざはどれほど多いでしょうか。 この時代にも、この教会を通して数えきれないほど不思議としるし、驚くべき奇蹟と奇しいみわざが現れています。これは、神様が予定して思いのままに働かれたのでなく、正確な秩序と公義、そして愛によって行われたのです。 しかし、ヨブは予定の神様だと誤解して、自分も神様の予定の中に入っていて、何の理由もなく苦しみを受けていると思っています。ですから、自分の過ちを発見することもできず、悔い改めることもできないのです。 3. 質問を許されない悪い神様だと誤解しているヨブ 「たとい神が私のそばを通り過ぎても、私には見えない。神が進んで行っても、私は認めることができない。ああ、神が奪い取ろうとするとき、だれがそれを引き止めることができようか。だれが神に向かって、『何をされるのか』と言いえよう。」(ヨブ9:11~12) ヨブは、神様が本人のそばを通り過ぎても見えないし、認めることもできないと言っていますが、そうではありません。 私たちが心の戸を開いてイエス・キリストを救い主として受け入れれば、聖霊を賜物として受けるようになります。聖霊を受けた人ならば、神様が臨在されるとき、感じて悟ることができます。 聖霊時代である今は、神様ご自身が臨在されることはあまりありませんが、聖霊の働きを通して神様を感じるようにしてくださいます。何よりも救いの確信が生まれて、祈りに答えてくださるのを体験するので、喜びと希望があふれます。 聖霊様はいつも私たちとともにおられ、温かい愛で慰めてくださり、世が与えられない喜びと平和を注いでくださいます。聖霊に満たされれば、異言の賜物を受けて、スラスラ異言も語ります。聖霊の火のバプテスマを受ければ、実際に熱さも感じて、いやされ、各種の賜物も受けるなど、霊的な体験もします。みことばどおりに生きているほど、聖霊の働きによって真理と真理と反対のものを見分ける判断力も与えられます。 また、私たちは神の子どもとされたので、神様が炎のような御目で守ってくださり、私たちの髪の毛まで数えておられることも知っています。このように、私たちは聖霊の働きによって神様を感じて悟ることができます。 しかし、ヨブはこのような体験がなく、感じたこともなかったので「たとい神が私のそばを通り過ぎても、私には見えない。」と言っているのです。 ヨブはまた、神様が自分の子どもと財産と健康を全部取り上げてしまったから、悪い方のように言っています。それなのに、その神様に対して「神様、どうして容赦なく取り上げられるのですか」と問い詰めることもできないと嘆いているのです。 しかし、神様は子どもたちのものを奪い取るような方ではありません。求める者には与え、捜す者には見つかるようにして、たたく者には開こうと約束されたのに、ヨブは正反対のことを言っています。 神様は子どもたちが些細なことでも神様に伺うことを望んでおられ、神様の答えを受けて栄えるように望んでおられます。 愛する子どもたちには夢や幻、聖霊の声、霊感などで交わり、働いていかれます(アモス3:7)。愛の求め、義人の求めをお聞きになって答えてくださり、私たちの質問を面倒だと思われるのではなく、耳を傾けて優しく答えてくださる方です。詩篇145篇18節に「主を呼び求める者すべて、まことをもって主を呼び求める者すべてに【主】は近くあられる。」とあるとおり、神様は心から慕って呼び求める人に必ず答えてくださいます。 しかも今日は旧約時代とは違い、聖霊を水のように注いでくださる終わりの時なので、聖霊を受けた神の子どもたちは誰でも聖霊の声を聞いて、神様のみこころのとおりに導かれることができます。 次の時間に続いて伝えます。

「ヨブ記講解(18)」

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記8:12~22,9:1~2

 

きょうは前回に続き、ビルダデがヨブに勧めている言葉の中で、神様が私たちに望んでおられることを調べてみます。

1. 神を敬わない者の結末

「これは、まだ若芽のときには刈られないのに、ほかの草に先立って枯れる。すべて神を忘れる者の道はこのようだ。神を敬わない者の望みは消えうせる。」(ヨブ8:12~13)
パピルスや葦は、いくら青々と茂っていても、水から離れるとすぐ枯れてしまうように、神様を忘れる者の道はこれと同じだという意味です。つまり、ヨブが神様を恐れて近くにいた時は祝福されていたのに、今は神様から遠ざかって忘れてしまったので、すぐ衰えてしまった、ということです。
人の口から出てくる不平や不満、嘆き、呪いやつぶやきは、ある環境や条件が原因なのではありません。水がなければパピルスや葦が育たないように、自分の心の中に悪がなければ悪い言葉は出てきません。
しかし、ビルダデはヨブに「あなたの心が悪いからそんなに悪い言葉が出てくるし、一日で滅びたのだ」とストレートに言うのではなく、たとえを使って遠回しに表現しています。
「神を敬わない」とは「神を冒涜すること、不敬虔なこと」を言います。神を敬わない人は罪を犯し、罪から来る報酬は死であり、永遠の地獄なので、その望みは消えうせるのです。
ビルダデはヨブに「あなたは不敬虔だ」と直接言わないで、ヨブが悪い言葉と行いを悔い改めて立ち返らなければ、神を敬わない人の結末のように望みが消えうせるということを間接的に諭しているのです。
聖なる神様を信じる聖徒たちは決して不敬虔だと言われてはいけません。心と思いはもちろん、行いや性分、言葉も主の教育によって美しく整えていかなければなりません。
 

「その確信は、くもの糸、その信頼は、くもの巣だ。彼が自分の家に寄りかかると、家はそれに耐えきれない。これにすがりつくと、それはもちこたえない。」(ヨブ8:14~15) くもの巣はとても弱くて、人が指で軽く触れても切れてしまいます。このように、神を敬わない人は神様に頼らないから、簡単に滅びてしまうのです。 ヨブは神様を恐れると言っていましたが、実は子どもと財産と知識、名誉など、信じるものがたくさんありました。しかし、そのすべてがまるでくもの巣が切れるように一瞬にしてなくなり、結局手には何も残っていないのです。 神様を恐れない人や、神様のみこころのとおりに築かないすべてのものは、砂の城のように一瞬にして消えることがあります(伝道者1:2~3)。そうではなかったとしても、いざとなると自分が救われなくて天国に行けないなら、この地上に築いたものが何の役に立つでしょうか。 ビルダデはヨブに、神様により頼まなければ、健康も、富も、名誉も何の役にも立たないということを悟らせています。私たちは自分の力、後ろ盾、経験などに頼るのではなく、ただ神様を信じて頼らなければなりません(詩篇20:7,146:5)。アブラハムやヨハネ ヨセフ、モーセ、ダビデ、使徒パウロなど、昔の信仰の人々のようにただ神様を信じてより頼み、この地上ではもちろん、永遠の天国でもとこしえになくならない祝福を受けなければなりません。 2. 神様のみことばに深く根を下して成長をやめてはならない 「彼が日に当たって青々と茂り、その若枝は庭に生えいで、その根は石くれの山にからまり、それが岩間に生えても、神がもし、その場所からそれを取り除くと、その場所は『私はあなたを見たことがない』と否む。」(ヨブ8:16~18) 植物は日光を浴びると光合成の作用によって養分を作り、青々と育ちます。ある木は岩の間からでも根を下して、幹と枝が生い茂って立派な巨木に成長します。しかし、いくら大きくて太い木に成長しても、根が抜ければ何の役にも立ちません。その時は生きているように見えても、時間が経てば枯れてしまいます。ビルダデはこのような植物の属性にたとえてヨブを悟らせようとしているのです。 霊的に光は真理、すなわち神様のみことばを意味します。また、光はみことばが人となってこの地上に来られたイエス・キリストを意味します(ヨハネ1:9,14:6)。植物が日光を受けて青々と育つように、私たちは光である神様のみことばのうちに、イエス・キリストのうちに生きていくとき、信仰が成長します。 ところが、いくらよく成長した植物でも、何かのきっかけで根が抜けてしまえば、それで終わりです。植物が緑を維持して成長し続けるには、根を地の中にしっかり下して、日光を浴び続けなければなりません。 私たちの信仰も同じです。神様のみことばで信仰が成長して、信仰の岩に立ったとしても、再び世に目を向けて神様から離れ、罪と悪の中で生きていくなら、何の値打ちもなくなってしまいます。人が真理から離れると、神様が御顔をそむけられるので、守られないのです。 伝道されてイエス・キリストを信じたならば、まめにみことばを聞いて従うことで信仰が成長して、岩に立たなければなりません。また、岩に立った人は御霊の歩みへと、全く聖なるものへと成長し続けなければなりません。このような成長過程は、ある線で止まるのではなく、主が来られる時まで続かなければなりません。 「ちょっと休もう」と止まっていては、後戻りして信仰を失う恐れがあります。もし自分が高ぶっているようなら、すぐ立ち返って、そのままにしていてはいけません。でなければ、自分でも知らないうちにサタンに捕われるようになります(箴言16:18,第一コリント10:12)。そのまま立ち返らなければ、神様から離れていくので、根が抜けた木のように何の価値もない存在になってしまうのです。 植物は根が抜ければ枯れて死ぬことで終わりますが、神様から離れた人は地獄に落ちるしかないので、どれほど悲しいことでしょうか。したがって、植物が日に当たって青々と茂るように、私たちも神様のみことばにさらに深く根を下して、成長が止まらないように天国に向かって前進していかなければなりません。 3. 潔白な人を退けない神様 「見よ。これが彼の道の喜びである。ほかのものがその地から芽を出そう。見よ。神は潔白な人を退けない。悪を行う者の手を取らない。ついには、神は笑いをあなたの口に満たし、喜びの叫びをあなたのくちびるに満たす。あなたを憎む者は恥を見、悪者どもの天幕は、なくなってしまう。」(ヨブ8:19~22) ヨブは、財産が多くて健康な時は喜びがありましたが、もうすべてがなくなったので早く死にたいと思っていました。いくら青々と茂った植物も、根が抜ければ何の役にも立たないように、過去にヨブが味わっていた幸せも富も名誉も、神様が御顔をそむけられると一瞬にしてなくなった、という意味です。そして、それらが引き抜かれたその地から苦しみ、憂い、悲しみ、つぶやき、恐れ、嘆きが生まれたのです。 ビルダデはヨブの状況をこのようにたとえで説明した後、希望を持たせる話をします。神様は潔白な人を退けません。 ヨブは潔白だと認められていたのですが、彼の潔白は完全なものではありませんでした。霊的な意味の潔白は「きよい心の中に霊的な実がぎっしり込められた状態」です。ヨブは神様がご覧になるとき、完全な潔白さには至っていなかったのですが、それでも熱心に行っていたので、潔白だと認めてくださったのです。そして、神様は彼が完全になることを望んでおられたので、試練に会わせられたのです。そのように練られて変えられることを信じて、ヨブを見ておられました。 反対に、神様は悪者は支えてくださいません。世では悪い人が成功するように見えたりもします。しかし、彼らの心の中を覗いてみると、どれほど悩みや心配や憂いが多いでしょうか。今すぐは成功しているようでも、結局はうまくいかないことがほとんどです。 さらに大きな問題は、その人が結局は永遠の死である地獄に落ちることになるということです。すると、その人が努力して築いてきたものに何の意味があるでしょうか。 しかし、真理の中で生きて、霊的に潔白な人になれば、神様に愛されて乏しいことがありません。たとえ誰かから憎まれたとしても、かえってその憎んだ人が恥を見るようになるのです。結局、悪者どもの天幕はなくなってしまい、死の道に向かうのです。 反対に、神様に認められて愛されている人を助けて祝福すれば、その人も祝福されます。神様はアブラハムを愛して「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。」(創世記12:3)と言われ、そのとおりになりました。 モーセは神様から、地上のだれにもまさって非常に謙遜で、全家を通じて忠実な者だと認められました。神様はこのようなモーセをそしる人に対しては、ご自分に立ち向かう人として扱って、厳しく懲らしめられました。モーセの姉ミリアムといえども、モーセを非難した時は神様が御怒りを燃やされて、ツァラアトに冒されました。 コラとその仲間がモーセに立ち向かって反乱を起こした時は、地が割れて、コラとその仲間は生きながらよみに落ちてしまいました。 このように神様に認められている正しい人は神様が守ってくださり、正しい人に立ち向かう悪者は結局滅びるのです。 ビルダデは、ヨブが神様に認められる人になれば、もう一度その口に笑いと喜びの叫びを満たしてくださるだけでなく、アブラハムやモーセのように祝福されると言っているのです。だから、今からでも悔い改めて立ち返り、潔白な人になりなさいと勧めているのです。 「ヨブは答えて言った。まことに、そのとおりであることを私は知っている。しかし、どうして人は自分の正しさを神に訴えることができようか。」(ヨブ9:1~2) ビルダデの言葉が終わると、再びヨブの弁論が始まります。ヨブはひとまず友のビルダデが言っていることは正しいと認めます。 ところが、ここでヨブが「しかし、」と付け加えたのは、実際こんな苦しみにあったら、自分の言葉が激しい風のように悪く、神様につぶやいて嘆く言葉がずっと出てくるのを自分でもどうしようもないと言っているのです。つまり、頭では真理を知っているので「こうしてはいけない」「不平を言わずに感謝しなければ」と考えるのですが、いざとなると苦しい現実の前では真理のとおりに行えない、ということです。 ヨブは、前は自分は正しいと主張していたのに(ヨブ6:29~30)、本文では「どうして人は自分の正しさを神に訴えることができようか。」と言っています。ヨブは他の人たちと比べたら正しく生きていたから正しいと言えるが、神様の前では自分の正しさを訴えられない、という意味です。 私たち人はイエス様の十字架の恵みでなければ、誰も神様の前に正しいとは言えません(ローマ3:10)。イエス・キリストを心に受け入れて、みことばどおりに生きていく人は、傷もしみもないキリストの心に似て、まことに義と認められることができます(ローマ10:9~10)。しかし、いくらみことばをたくさん知っていても、実行しなければ何の役にも立たないのです。 次の時間に続いて伝えます。

「ヨブ記講解(17)- 原因と結果」

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記8:1-11

 

きょうはヨブの二番目の友だちビルダデがヨブに勧めている言葉を調べて、神様が私たちに望んでおられることが何かを伝えます。

1. 激しい風のような言葉

「シュアハ人ビルダデが答えて言った。いつまであなたはこのようなことを語るのか。あなたが口にすることばは激しい風のようだ。」(ヨブ8:1~2)
ヨブがずっとつぶやいて嘆いているのを聞いていたビルダデは「ヨブ、君は前は正しい人だと言われていたし、多くの人を訓戒して尊敬されていたのに、今、苦しみにあっているからといって、このように激しい風のような言葉を口にしていいのだろうか」と言います。
ヨブの言葉を激しく吹きまくる強い風にたとえているのです。台風が来ると、木が抜けたり、家が壊れたり、船が壊れたり、山崩れで多くの人が死んだりするなど、多くの被害を受けます。
ところで、クリスチャンだと言いながらみことばの中で生きられないで、ヨブのように真理と反対のことを言っているならば、神様はその言葉を激しい風のようだと言われます。
相手の心を痛める言葉、攻撃する言葉、恨んで嘆き、呪うなどの言葉が激しい風に当たります。台風が私たちに何の益も与えないのと同じように、激しい風のような言葉は相手にも自分にも何の益もありません。
特に組織のかしらの人は言葉に気をつけなければなりません。かしらの人がどういう言葉を口にするかによって、相手に信仰と希望を植えつけることもあり、反対に相手をつまずかせたり、恵みに満たされなくすることもあるからです(ヤコブ3:5~6)。
また、船の小さいかじが方向を決めるように、人がその舌を間違って使うと、キリストのからだなる教会全体が困難にあうこともあります。たとえば、誤解を招くような言葉、仲たがいさせる言

葉によって聖徒たちの間で平和が壊れることはもちろん、神様の栄光を遮ることもあります。このように一言がとんでもない結果を招くこともあることを悟って、いつも善の言葉、愛の言葉、真理の言葉を口にして舌を制御しなければなりません。 2. 公義の神様 「神は公義を曲げるだろうか。全能者は義を曲げるだろうか。もし、あなたの子らが神に罪を犯し、神が彼らをそのそむきの罪の手中に送り込まれたのなら、」(ヨブ8:3~4) 神様は間違ったさばきを行ったり、公義を曲げたりはなさいません。蒔いたとおりに刈り取るようにして、行ったとおりに報いてくださる方です(ガラテヤ6:7~8、黙示録22:1~12)。 私たちに臨む祝福でも試練でも、原因のないものは一つもありません。ヨブの友だちは、普段ヨブの子どもたちがヨブとは違って正しくなかったことを知っていました。それで、ビルダデはヨブに「神様は四人の子どもたちが犯した罪の代価として取って行かれたのに、なぜ神様を恨むのか」と言うのです。 ヨブは、子どもたちが罪を犯したのに、そのままにしておけば子どもたちに何か災いでも臨むのではないかと思って、代わりに全焼のいけにえをささげていました。このようにヨブはいつも神様を恐れていました。したがって、全焼のいけにえをささげる時も、心が安らかではなかったのです。 しかし、いつも祈っていて、最善を尽くして戒めを守りながら神様を愛する人には、神様がともにいて守ってくださるので、恐れる理由がありません。もしそういう人に困難や試練がやって来たとすれば、より大きい信仰に成長するためや大きい祝福を与えてくださるためなので、喜ぶでしょう。すると備えられた祝福を受けることができるのです。 しかし、神様を愛すると言いながら光の中で生きていないなら、試練や患難を通して徹底的に悔い改めて、変えられなければなりません。 聖書を読むと、神様の公義を教えているみことばがたくさんあります。 病気に関する公義については、出エジプト記15章26節に「もし、あなたがあなたの神、【主】の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行い、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは【主】、あなたをいやす者である。」とあります。それで、イエス様も38年もの病人をいやしてくださった後、彼に宮の中でまた会ったとき、「見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから。」(ヨハネ5:14)と言われました。病気の原因が罪にあることを明らかに教えてくださったのです。 病気だけでなく、難しい問題やうまくいかないこと、試練や患難の原因は自分自身にあることを知っておくべきです。神様は敵である悪魔も支配しておられるので、私たちが真理の中で生きているなら、敵である悪魔から守ってくださって、栄えさせることがおできになるのです。 「もし、あなたが、熱心に神に求め、全能者にあわれみを請うなら、もし、あなたが純粋で正しいなら、まことに神は今すぐあなたのために起き上がり、あなたの義の住まいを回復される。あなたの始めは小さくても、その終わりは、はなはだ大きくなる。」(ヨブ8:5~7) 今からでも神様に熱心に求め、全能なる方に過ちを悔い改めて心をきよくするなら、神様が思い直して回復させてくださる、ということです。 このビルダデの助言のように、ヨブはまず「神様、今まで私の心に悪があって、激しい風のような言葉を口にしましたが、こんな悪い言葉をお赦しください」と悔い改めて、赦しを求めなければなりません。 ところで、このように罪を告白しただけで終われば、何の役にも立ちません。罪を告白して悔い改めたならば、次はその心にある罪の性質、悪をすべて捨てなければなりません。そうすれば「あなたの義の住まいを回復される。」のです。これは、心と行いが正しくなれば、神様がご覧になって正しいと認めてくださる、という意味です。 今、ヨブはどん底にいるので、スタートからやり直さなければなりません。子どもも財産もないので、一つ一つ積み上げていかなければならないのです。まず激しい風のような悪い言葉を悔い改めて立ち返り、心をきよくして神様に憐れみを求めれば、神様はまた成功させてくださるでしょう。いくら始めが小さくても、神様が働かれると、あっという間にはなはだ大きくなるのです。 皆さんの家庭、職場、事業の場も同じです。何よりもまず信仰が必要です。信仰がなければ悔い改めることができないし、立ち返ることも、心をきよくすることもできません。 私たちが祈りながらみことばを守り行っていけば、天から霊の信仰が与えられます。初めはからし種ほどの小さい信仰から始まって、ますます成長していきます。からし種が育って大木になれば多くの鳥が宿るように、私たちの信仰の量りが大きくなれば、神様はその信仰のとおりに働いてくださいます。 それだけでなく、たましいに幸いを得ているほど、神様が家庭、職場、事業の場などすべてのことに幸いを得、健康である祝福を受けるようにしてくださるのです。ですから、大切なことは真理の中に正しく立つことです。神様と親しい関係を築くことです。すると、無から有を創造する神様のみわざが私たちの日々の暮らしの中にも現れるのです。 3. みことばの中から答えを探すべき 「さあ、先代の人に尋ねよ。その先祖たちの探究したことを確かめよ。私たちは、きのう生まれた者で、何も知らず、私たちの地上にある日は影だからである。彼らはあなたに教え、あなたに語りかけ、その心からことばを出さないだろうか。」(ヨブ8:8~10) ビルダデはヨブに、自分だけ正しいと言わずに、聖書に出てくる信仰の昔の人々から学ぶようにと勧めています。「私たちは、きのう生まれた者にすぎない」とは、ヨブや友だちはこの地上でわずか数十年生きてきたにすぎない、ということです。このように生きてきた時間が短いので、見聞も知識も足りなくて、世の中の事情にうといのです。 また、影は、なくなったり、朝と夕方の影が変わったりして、しょっちゅう変化します。このように、私たちの人生も永遠ではなく、つかの間だと言っています。ですから、自分が持っている知識だけを正しいと主張せずに、謙虚な姿勢で数千年間の先祖たちの知識を学び、私たちの過ちを悟ろうというのです。 それなら、私たちは誰に学ぶべきでしょうか。 まず神様に学ばなければなりません。神様は私たちに永遠に変わらない真理である66巻の聖書を与えてくださいました。神様のみことばの中には、正しいか正しくないか、善か悪かを見分けるすべてがあります。信仰と救い、天国と地獄、真実と偽りが何かを教えていて、私たちはみことばの中から答えを得ることができるのです。 また、この真理のみことばの中には、神様を愛し愛されていた昔の信仰の人々の生き方が記されています。ノアはどのように水のさばきから救われたのか、モーセはどのように多くの民を導いたのか、ダビデはどれほど神様を愛したのか、ダニエルと彼の三人の同僚はどんな信仰で世と妥協しなかったのかなどを聖書を通して学ぶことができます。 それで、ビルダデはヨブに「彼らはあなたに教え、あなたに語りかけ、その心からことばを出さないだろうか。」と言っています。これは、昔の信仰の人々の教えと行い、彼らの言葉などのすべてが私たちと比べられて、さばかれることを意味しています。また、神様に正しいと認められた人々の生き方に自分を照らしてみれば、自分が正しいか正しくないか、罪があるかないかなどがわかるのです。 4. 原因と結果 「パピルスは沼地でなくても育つだろうか。葦は水がなくても伸びるだろうか。」(ヨブ8:11) 以前、エリファズが話をするとき、ヨブが気を悪くしてその話を無視する姿をビルダデは見ていました。それで、ストレートな表現を避けて、たとえを挙げながら気をつけて言葉を選んでいるのです。 これは特に聖徒を導く主のしもべや働き人、部署の長の方々が見ならうべき点です。目上の人は必ず愛と徳を備えて、遠回しな表現で目下の人を悟らせる知恵が必要です。また、忍耐と自制があって、腹が立っても我慢して、笑うべき時と泣くべき時を見分け、いつも聖霊に働きかけられて話をして行わなければなりません。 パピルスは一年生の植物で、茎が丈夫で強く、紙を作るのに使われます。また、葦は多年生植物で、茎はざるやすだれの材料として使われます。パピルスや葦はどちらも乾いた土地ではなく、水辺の湿地で育つ植物です。 では、ビルダデがパピルスと葦にたとえてヨブに悟らせようとしていることは何でしょうか。 パピルスや葦は必ず水があってこそ育つように、ヨブから出て来た激しい風のような言葉はその心に原因があるということです。マタイの福音書15章18節に「しかし、口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。」とあるように、ヨブの心に悪があるので悪い言葉が出て来たことを悟らせているのです。 ビルダデがヨブに言いたかったのは「君の口から激しい風のような言葉が出て来るのは、君が神様を敬いもしないし、恐れているからではないのか。君が元気だった時は、子どもたちのために全焼のいけにえもささげて、神様を恐れて仕えていたのに、今は苦しみにあっていて神様への恐れもなくなってしまった。君の心に悪があるから、激しい風のような言葉をずっと出しているのではないか」ということです。 次の時間に続いて伝えます。

「ヨブ記講解(16)-ヨブの誤解」

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記7:12-21

 

きょうは神様を誤解してつぶやき、嘆いて皮肉を言うヨブを耐え忍んで待っておられる神様の愛について伝えます。

1. ヨブの誤解

「私は海でしょうか、海の巨獣でしょうか、あなたが私の上に見張りを置かれるとは。『私のふしどが私を慰め、私の寝床が私の嘆きを軽くする』と私が言うと、あなたは夢で私をおののかせ、幻によって私をおびえさせます。」(ヨブ7:12~14)
ヨブは海の広さを知っていたし、海の巨獣、すなわち竜を偉大な動物と思っていました。それで、海や竜のように偉大でもなく、つまらない自分を、なぜ神様はこのようにかまって苦しめておられるのかというのです。万物を治める神様があらかじめ定めておいて自分を打ったのだと誤解しています。
ヨブは、ぐっすり眠れるならからだの苦しみをしばらくの間でも忘れることができるのに、眠くもならないし、眠れませんでした。眠ったかと思ったら、悪夢でびっくりして目が覚めたりしたのです。それで、神様が眠らせてもくださらなくて、夢でおののかせ、幻によっておびえさせると恨んでいるのです。

しかし、信仰のある人なら、苦しみの原因を自分自身から探さなければなりません。試練や患難がやって来れば、神様が守ってくださらない原因を悟って、心を砕いて罪を告白して悔い改めなければならないのです。そして、全知全能の神様が解決してくださるように、すべての重荷と思い煩いをゆだねなければなりません(詩篇55:22,第一ペテロ5:7)。
マタイの福音書7章に、私たちが求めれば与えると約束されたし、捜せば見つかるようにしてくださり、たたけば開かれると書いてあります。また、どうすれば病気にならないで、どうすれば病

気がいやされるのか、どうすれば豊かになって、成功できるのか、聖書のあちこちで詳しく教えておられます。このように良いことだけを約束してくださった神様を信じてより頼まなければなりません。 ヨブは不眠症にかかってすぐ寝つけないのに、しばらくの間でも眠ると、夢さえも苦しくて、安らかではありませんでした。 夢には、霊的な夢とたましいによる夢があります。 霊的な夢は自分の霊が見る夢です。世の人々もたまに霊的な夢を見ます。たとえアダムが罪を犯した後、霊がたましいに閉じ込められて活動できず、神様と交わりが途絶えていても、心の深いところで霊が動いて霊的な夢を見たりもするのです。 神様を信じる人々には、神様がやがて起こる事を教えてくださったり、聖霊様が示してくださったりすることがあります。神様が夢を通して試練や患難が来ることを教えてくださるので、前もって備えることもできます。ある問題のために祈れば、聖霊が働いて夢を通して答えを下さることもあります(民数記12:6,ヨエル2:28)。 次に、たましいによる夢は自分の思いによって見る夢です。普段「アメリカに行きたい」と思っていれば、夢の中でアメリカに行くこともあります。もし何か不安を持っているなら、夢の中で強盗に追われたり、悪い人に会ったりもします。このようなたましいによる夢は、時間が経ってみればほとんどが合わないのです。 したがって、すべての肉の思いを捨てて完全に真理の人になるまでは、あまり夢に依存する必要はありません。 2. 続くヨブのつぶやきと嘆き 「それで私のたましいは、むしろ窒息を選び、私の骨よりも死を選びます。私はいのちをいといます。私はいつまでも生きたくありません。私にかまわないでください。私の日々はむなしいものです。」(ヨブ7:15~16) ヨブは心底死にたいと思っていたので、窒息を選ぶと言っています。それで「こんなにやせこけて骨と皮だけ残っているよりは、いっそ死んだほうがましです」と神様につぶやいているのです。 しかし、神様は苦しくてつらいとき、どうしなさいと言われたでしょうか。詩篇50篇15節に「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。」とあるので、神様を切に捜してすがらなければなりません。第一テサロニケ5章16~18節に「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」とあるので、病気にかかっても感謝、事業に失敗しても感謝、試練に会っても感謝しなければなりません。このようにすべての事について神様のみこころに従うならば、神様がすべてのことを働せて益としてくださるので、本当に喜ぶようなことが起こるのです。 ヨブは神様がいのちをつかさどっておられることを知っていました。それで、自分は死にたいのに、神様がいのちを取ってくださらないので、「お願いですから早く私のいのちを取ってください」と訴えているのです。 ヨブは神様を深く知らなかったし、天国への希望もなかったので、神様を恨んで、全く正しくない言葉で大きい罠を作っています。しかし、真理を知っている私たちはいのちを下さった神様にいつも感謝するべきであって、決していのちを取ってくださいと祈ってはいけません。 「人とは何者なのでしょう。あなたがこれを尊び、これに御心を留められるとは。また、朝ごとにこれを訪れ、そのつどこれをためされるとは。いつまで、あなたは私から目をそらされないのですか。つばをのみこむ間も、私を捨てておかれないのですか。」(ヨブ7:17~19) ヨブは神様が人を尊ぶと言いましたが、この言葉は真理です。神様は人をあまりにも尊くて大切に思われるので、いつも御心を留めておられます。それは神の子どもだからです。神様は私たち人の子らをあまりにも愛して尊んでおられるので、ひとり子イエス・キリストまで十字架に渡してくださり、救いの道を開いてくださいました。 ヨブは神様が自分を少しの間も放っておかないで、そのつどためされると表現しています。しかし、神様は私たちを愛しておられるので、いつも炎のような御目で見守っておられるのです。 本文の「朝ごとにこれを訪れ」の「訪れる」とは、視察する、取り締まるという意味です。神様は私たちから目をそらさないで見守っておられ、私たちが真理の中で生きられない時は、試練に会わせて懲らしめられます。私生子ではなく本当の子どもなので、罪から悔い改めて立ち返り、光へと来るように導かれるのです。 ですから、試練や患難がやって来たとすれば、神様に感謝して、なぜこういう問題が起こったのか発見して悔い改める行いがまずなければなりません。 ヨブは、神様がつばをのみこむほどの短い時間も自分をそっとしておかず、苦しめられるのかと不平をこぼしています。しかし、神様がわずかの間も私たちから目をそらさないで、介入して練ってくださるのは、私たちを愛しておられるからです。 ヨブはまだ真理をよく知らなかったし、神様について知識的に知っていただけなので、見つけて体験したことがありませんでした。それで、神様はヨブが真理から外れている多くの姿を悟って悔い改めて、真心と全き信仰をもって神様を愛して仕える子どもになるように、練られるしかなかったのです。 3. 神様の忍耐と愛 「私が罪を犯したといっても、人を見張るあなたに、私は何ができましょう。なぜ、私をあなたの的とされるのですか。私が重荷を負わなければならないのですか。」(ヨブ7:20) 神様は人の心と思いを探って知っておられます(詩篇11:5,詩篇139:3,箴言16:2,箴言21:12,ヘブル4:12)。このようにすべてを調べて正確に知っておられる神様の前に、人の子らがどうして言い訳したり、つぶやいたりできるでしょうか。 ヨブは、自分が罪を犯したからといって神様に何ができましょうと言っていますが、神の子どもが罪を犯せば、神様には多くの迷惑をかけることになります。 私たちが罪を犯せば、神様と私たちとの間で「親子」という関係が壊れるので、神様は胸を痛められます。また、罪を犯したその子どもが滅びの道、すなわち地獄に向かっているので、あまりにも心を痛められます。罪を犯した子どもが神の国に入れないし、神様のふところに抱かれないので、心を痛められるのです。 また、私たちが罪を犯せば、主が流された尊い血が無駄になるので、神様は悲しまれるのです。それだけでなく、私たちが罪を犯せば、悪魔の思惑どおりになるので、神様は苦しみを受けられます。悪魔の狙いは神の子どもたちが神様に立ち向かうことで、神の国と義が実現できないようにすることです。ですから、私たちは敵である悪魔ではなく、ただ神様のみこころを実現することで神様の心を喜ばせる親孝行な子どもになりましょう。 ヨブは「なぜ、私をあなたの的とされるのですか。」と言っていますが、これは「神様、なぜあえて私のような人をターゲットにして手を焼いておられるのですか」という意味です。神様につぶやいて、嘆いて、呪っていて、今度は神様に皮肉を言う口ぶりになっています。 しかし、神様はヨブのつぶやきと皮肉まで聞きながらも、困ったものだと思われなかったし、少しも面倒だと思われませんでした。神様はヨブを憎んで懲らしめているのではなく、愛して練っておられるからです。 ついにヨブが美しい姿に変えられることを知っておられるので、このすべての過程を喜びをもって耐え忍んでおられるのです。これがまさに私たちへの父なる神様の愛です。神様は、私たちひとりひとりが聖められて、まことの子どもとして出て来ることを期待して、一日一日忍耐と喜びをもって待っておられます。 「どうして、あなたは私のそむきの罪を赦さず、私の不義を除かれないのですか。今、私はちりの中に横たわります。あなたが私を捜されても、私はもうおりません。」(ヨブ7:21) ヨブは神様に「私をそのまま放っておいてください。もういのちを取ってください」と言っているのに、一方では自分を赦してくださっていやしてほしいという二つの心があります。ところが、何の答えもないので、これは神様がヨブの罪と不義を赦してくださらなかったからだと説明しています。 神様は、私たちが罪を悟って悔い改めて立ち返るとき、赦してくださいます。東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を覚えてもおられません。大切なのは、まず悔い改めなければならないということです。 ところが、ヨブは過ちや不義がたくさんあるのに、悔い改めないで「神様、どうして罪を赦してくださらないのですか。どうして見逃してくださらないのですか」と、とんでもないことだけを言っているのです。だから、どうして問題が解決されるでしょうか。 ヨブは、試練に会う前は神様を恐れてでも全焼のいけにえをささげていたのに、悪性の腫物で苦しみを受けていたら、もう恐れもなくなりました。よみに下って行けばそれだけだから、早く死んでしまったらいいと嘆いているだけです。 愛する聖徒の皆さん、 神様を信じているという聖徒の皆さんの中にも、神様を見つけた体験がなければ、ヨブのように神様を誤解することもあります。したがって、私たちには神様を熱心に捜して見つける体験の信仰が非常に重要です(箴言8:17)。心が貧しくなってこそ、神様を見つけようという熱心が大きくなります。また、謙虚に神様を捜し求めるとき、神様が私たちの心に臨在することがおできになります。 したがって、神様を愛して熱心に捜し、いつも答えの神様を体験する幸いな聖徒の皆さんになりますよう、主の御名によって祈ります。

「ヨブ記講解(15)-よみと良心さばき」
 

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記7:9-11

きょうは天国への希望がないので嘆くヨブの告白を調べて、よみと良心さばきについて伝えます。

1. 下のよみと上のよみ

「雲が消え去ってしまうように、よみに下る者は、もう上って来ないでしょう。彼はもう自分の家に帰らず、彼の家も、もう彼を認めないでしょう。」(ヨブ7:9~10)
ヨブは、人が死ねばそれで終わりだと思っていたので、たましいがよみに下れば、流れて消え去る雲のようにもう上って来ることができないと言っています。
ところで、聖書を読むと、ヨブの言葉が間違っていることがよくわかります。
第一サムエル2章6節に「【主】は殺し、また生かし、よみに下し、また上げる。」とあるように、人が死んでよみに下れば、もう上って来ないのではなく、再び上って来て天国に行けるのです。
よみには、救われた人が行く「上のよみ」があり、救れなかった人が行く「下のよみ」があります。上のよみは天国に属していて、下のよみは地獄に属していると言えるでしょう。

上のよみは、主が復活、昇天される前は死んだ人の待機場所でした。創世記37章35節に「彼の息子、娘たちがみな、来て、父を慰めたが、彼は慰められることを拒み、『私は、泣き悲しみながら、よみにいるわが子のところに下って行きたい』と言った。こうして父は、その子のために泣いた。」と記されています。これは、ヤコブが愛する息子ヨセフを獣がかみ殺したという偽りの報告を受けると、あまりにも悲しんで、ヨセフが下って行ったよみに自分も下って行きたいと言う場面です。
ヤコブは神様を愛する人だったので、彼が下って行きたいと言った「よみ」は、当然救われた人が行く上のよみを意味します。
イエス様が十字架で死なれてよみがえられた後、上のよみにいた人々を天国のパラダイスにある待機場所に連れて行かれました。しかし、救われなかった人々がいる下のよみでは、白い御座の大審判の時に地獄のさばきを受けるまで、ずっとそこにいるのです。
 

ルカ16章を読むと、金持ちはハデスの炎の中で苦しみを受けている反面、ラザロはアブラハムのふところに抱かれていたし、この二人の間には大きな淵があって渡れないと書いてあります。これも、よみは救われた人がとどまる場所と、救われなかった人がとどまる場所とに分けられていることを教えてくれるみことばです。 神様を信じて救われた人が息絶えると、あらかじめ来て待機していた二人の御使いがその人を連れて上のよみに行きます。反対に神様を信じない人が死ねば、地獄の使いが二人来て、その人を下のよみに連れて行きます。 下のよみに引かれて行った人々は三日間、大きい穴のような所で適応期間を経た後、罪と悪の重さによって分けられた場所に移されて、特別な場合を除いては白い御座の大審判の前まで刑罰を受けます。 2. 良心さばき 旧約時代には、将来救われる人々が上のよみにいて待機していました。しかし、主が復活、昇天された後は、救われた人々は上のよみにいるアブラハムのふところに抱かれるのではなく、パラダイスに入って主のふところに抱かれるようになるのです。それで、イエス様が十字架につけられた時に、救われた一人の犯罪人に「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」と言われたのです。そして、上のよみにいた旧約時代の人々もパラダイスに移されました。 ところで、聖書には、イエス様が十字架につけられて死なれた後、すぐパラダイスに行かれたのではないことが記されています。 マタイの福音書12章40節に「ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。」とあり、エペソ4章8~9節には「そこで、こう言われています。『高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。』──この『上られた』ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。」とあるとおりです。つまり、イエス様は十字架で息を引き取られた後、三日間、地の中の上のよみに行かれたのです。 イエス様が十字架につけられて死なれた後、イエス様の霊は捕らわれの霊たちのところに行って、みことばを語られました(第一ペテロ3:19)。救われる人々が待機している上のよみに行って、福音を伝えられたのです。 なぜなら、すべての人はただイエス・キリストによって救われるからです(使徒4:12)。イエス様は、福音を聞けないまま死んだ人々も主を受け入れられるように、上のよみに行って、救い主であるご自分について伝えられたのです(ヤコブ5:28,ヨハネ11:25~26,第一ペテロ4:5~6)。 ノアの時代に人々の罪と悪がどれほど大きかったのか、神様は地上に人を造ったことを悔やみ、水でさばいて地の面から消し去ると宣言されるほどでした。この時、ノアと彼の家族を含めて八人だけが水のさばきから救われたのです。 それなら、ノアの家族以外、残りの人々は全部さばかれて地獄に行ったのでしょうか。あらゆる罪と悪がはびこっている今日より、ノアの時代の人々のほうが悪かったとは言えません。その中には、神様を捜して善良に生きていた人々もいたのです。それで、神様は、その中でも救われるような人々は上のよみに入るようにされました(第一ペテロ3:19~20)。 また、イスラエルの民がエジプトから出て来たとき、約二百万人もの人の中でヨシュアとカレブの二人を除いては荒野でみな死にました。しかし、その中には救われるような信仰を持っている人々も大勢いました。したがって、彼らも上のよみに行ったのです。 韓国にも、福音が入って来る前に善良に生きていた人々がいます。たとえば、イ・スンシン将軍は、たとえイエス・キリストについて知らなかったとしても、正しい良心をもって天を仰いで、おひとりの創造主を恐れかしこみました。神様はこのような人のために救われる道を開いておかれたのですが、これが「良心さばき」です。 イエス・キリストを知らない旧約時代の人々や、イエス・キリストが来られた後にも福音を聞いていなかった人々を救うための神様の方法です。 神様は旧約時代にモーセを通して律法を下さり、その行いによって救いが決まるようにされました。しかし、イスラエルの民でない異邦人には律法がなかったのです。また、新約時代にも福音を聞けなかった人々がいます。それで、公義の神様は律法と福音以外のさばきの基準を下さいましたが、これが各人の良心です。 心の良い人々は、律法を知らなかったり福音を聞けなかったりしても、それぞれの良心に従って正しく生きようとします(ローマ1:20)。漠然とでも神を捜して、永遠の死後の世界を信じて(伝道者3:11)、天を恐れて、善良で正しく生きるために努めるのです。このような人々が律法を知っていたならば、当然よく守ったでしょうし、福音を聞いていたならば、主を受け入れていたでしょう。それで、神様は彼らの良心を基準としてさばいて救ってくださるのです。 ローマ2章14~15節に「──律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行いをする場合は、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。彼らはこのようにして、律法の命じる行いが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。──」とあります。 もし人の物を盗みたいと思うなら、良心がそれは罪だと責めるでしょう。罪だと知っているけれど、良心が鈍くて盗んでしまう場合もあります。このように良心の法が行いの基準になるので、善良な人は苦しい状況でも良心の声に耳を傾けて悪を行わなかったのですが、悪い人は自分の利益を求めて悪を行って生きました。 したがって、神様は律法を持たない異邦人には良心が律法になるようにされて、その行いに従って救いの可否を決められたのです。 しかし、イエス・キリストがこの地上に来られた後は、福音を聞いても良心が頑なで心の戸を開けないで信じなかったのであって、「私は知らなくて信じることができなかった」と言えないのです。 旧約聖書にも良心さばきについての聖句があります。イザヤ45章22節に「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。」とあります。 これは、神様が選民イスラエルだけでなく全世界のすべての民族に救いの道を宣言された聖句です。旧約の律法やイエス・キリストについて聞いたことがなかった人々も、創造主であり唯一の神である神様の存在は感じるので、神様を信じて救われなさいという意味です。 そして、このような人々には良心さばきを適用して、死んだ後でも上のよみで福音を聞いて、イエス・キリストの御名によって救われるようにしてくださったのです。主が復活された後、良心さばきが適用される人々には、預言者が上のよみに行って主について伝えています。 3. 天国への希望がないので我慢できなくて嘆くヨブ 「それゆえ、私も自分の口を制することをせず、私の霊の苦しみの中から語り、私のたましいの苦悩の中から嘆きます。」(ヨブ7:11) 主の復活後、救われた人は、死ねばひとまず上のよみへ行って、三日間、霊の世界の適応期間を経てから天国のパラダイスの端に行きます。そこにある待機場所にとどまっていて、将来白い御座の大審判の後、それぞれの天国の家に入ります。 天国の待機場所も、この地上とは比べられないほど美しくて幸せな所ですが、神様の御座がある新しいエルサレムの栄光と栄華には比べられないでしょう。 ピリピ3章20節に「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。」とあります。したがって、信仰のある聖徒たちはやがて帰って行く故郷である天国を慕って狭い道を歩み、毎日毎日自分に死んで変えられようと努めるのです。 しかし、ヨブはこの地上の人生は旅路で、永遠の故郷である天国があることを知りませんでした。私たちの国籍が天国にあるのではなく、よみにあると思っていたし、よみに一度下って行けば、再び上って来ることができないと思っていたので、彼には何の希望もなかったのです。この地上の日々が終わればそれまでだと思っていたので、我慢しないで言いたいことは言う、嘆くと言っているのです。 ヨブが天国を知っていたならば、決してこのように言わなかったでしょう。天国への希望がある人は神様のみことばに聞き従って、心の痛みがあっても我慢して赦し、理解します。 私たちは霊の世界も知っていて、神様の良きみこころもよく知っています。ですから、天国に希望を置いて口を制し、真理の言葉を口にして、いつも喜んでいて、目を覚ましていて祈り、すべての事について感謝しながら信仰によって勝利しなければならないのです。

「ヨブ記講解(14)- 夢と希望を失わないように」

 

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記7:1-8

きょうは夢と希望を失ったヨブの言葉を一つ一つ調べて、神様が私たちに望んでおられることが何かを伝えます。

1. 夢と希望を失って嘆くヨブ

「地上の人には苦役があるではないか。その日々は日雇い人の日々のようではないか。日陰をあえぎ求める奴隷のように、賃金を待ち望む日雇い人のように、私にはむなしい月々が割り当てられ、苦しみの夜が定められている。横たわるとき、私は言う。『私はいつ起きられるだろうか』と。夜は長く、私は暁まで寝返りをうち続ける。」(ヨブ7:1~4)
ヨブは豊かな環境で多くの人々から尊敬されて施しをしていたのに、いざ試練に会うと、人生が苦役のように苦しいのです。死にたいのに死ねないし、友だちは慰めてくれるどころか、はずかしめて責め立てているから、何の希望も見えませんでした。
ただ一日の賃金を待ち望む日雇い人や、日陰をあえぎ求める奴隷のように、何の夢も希望もなく無意味な日々を送っていました。夜になれば皮膚が裂けて痛くて眠れないので、「いつ朝が来るのだろうか…」と待ちながら、暁まであちこち寝返りをうつだけだったのです。悪性の腫物は治る見込みもないので、ただ死ぬ日だけ待っているのです。夢とビジョンを失うと、絶望して嘆いています。
ヨブは、何の楽しみもなく、希望もない自分の境遇を日雇い人や奴隷の心にたとえていますが、これは正しくない考えです。日雇い人が帰る時だけ待ちながら時間だけつぶしているなら、どうして正しい姿と言えるでしょうか。
 

しかも神の子どもならば、つらそうにいやいやではなく、良い心と肯定的な考え方で熱心に働かなければなりません。家庭と職場、学校など、どこででも神の子どもとして本分を尽くして神様に栄光をささげるべきでしょう。 さらに天国への希望はもちろん、この地上でもアブラハムのように祝福されて神様に栄光をささげる夢とビジョンを持たなければなりません。すると神様が働く力と知恵も加えてくださり、さらに発展してかしらになるように祝福してくださいます。 霊的に私たちはみな神の国の使命を頂いた働き人です。ところが、賃金をもらって働く雇い人のように、日が沈むのをあえぎ求める奴隷のように神様の働きをするなら、どうして神様が喜んでお受けになるでしょうか。 神の国のために働いて献身したすべての時間と物質、行いは天国の報いであり、神様の働きをやり遂げたことを信仰によって喜んで忠実に仕えなければなりません。 たとえ務めを受けていなくても、神の子どもとして食べるにも飲むにも何をするにも神様の栄光のために生きなければなりません。何よりも神様の前に忠実に奉仕して、罪と戦って捨てて聖められ、最も栄えある天国、新しいエルサレムに入って、金の冠、義の栄冠を受けようという夢を持たなければなりません。 人生の目標を永遠の場所に置く人は才能も、時間も、物質も天国に投資します。私たちが信仰によって蒔いたものは天国に報いとしてたくわえられることを信じるからです(マタイ6:20)。神様を恐れかしこみ、天国への希望がある人は夢とビジョンをもって生きているので、たとえ雇い人や奴隷でも、主人に負けないくらい楽しく幸せに生きることができます。 2. 心の中のうじを捨ててこそ 「私の肉はうじと土くれをまとい、私の皮は固まっては、またくずれる。」(ヨブ7:5) このみことばには肉的な意味と霊的な意味が込められています。肉的には、ヨブの現在のからだの状態をリアルに表現しています。全身に悪性の腫物ができて、血と膿が出て肉が腐っていくのでうじがわいているし、まともにからだを洗えず、盛り土のような所で暮らしているので、土くれがからだに服のようについている様子を言っているのです。 霊的には、ヨブの心の状態を表現しています。これまでヨブの言葉を調べると、真理ではない言葉がたくさんありました。恨み、嘆きで終わったのではなく、悪い言葉、呪いの言葉、神様がご覧になって正しくない言葉を吐き続けました。 このような言葉はヨブの心から出たものです。聖書には「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。」(エレミヤ17:9)とあり、「しかし、口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。」(マタイ15:18)とあります。つまり、ヨブの心がうじがいっぱいいるように汚いので、口を通して悪い言葉が出てきたということです。 ヨブは神様がご覧になってその行いが潔白で正しかったし、もともと良い心の地を持っていました。しかし、神様を見つけた体験がなかったし、真理を正しく知らなかったので、耕されていない心の地からうじのような汚い言葉が口からあふれてきたのです。 神様は、このようなヨブの姿が自分自身の姿ではないか省みることを望んでおられます。私たちの言葉と行い、考えと心一つ一つから心のうじを発見して、捨てなければなりません。 ヨブは「私の皮は固まっては、またくずれる。」と言っています。これは、全身の皮膚が腐って汁まみれだったのに、時間が経つとかさぶたができては、また裂けるを繰り返すことを表現したのです。 このみことばにも霊的に重要な意味があります。「固まった」とは、聖霊に満たされている状態を意味します。 信仰が弱い人でも、聖霊に満たされている時は、まるで自分が大きい信仰を持っているかのように錯覚します。どんな試練、患難がやって来ても勝利できそうな自信があふれているので、信仰の告白もたくさんします。喜びと感謝があふれているので、顔が平安で柔和と愛が満ちている人のように見えます。心が固まっていて感情や憤りが中に隠されているので、自分を発見できないのです。 しかし、いざ厳しい試練がやって来れば、勝ち抜けずにつまづいて恨み、嘆きます。これは固まっていた心がまたくずれてしまったようなものです。この時は隠しておいた悪が明らかになります。 このような状態になれば、どれほど心が苦しいでしょうか。ヨブはこのように固まっては、またくずれるような心だったのです。 ですから、何よりも心を真理に変えて、サタンに訴えられるような悪の性質を根こそぎにすることが重要です。心の中にあるうじをさっさとつかまえて殺し、汚れたところをきれいに洗わなければなりません。 神様は心をご覧になるので、まず心を清くしなければなりません。心が清くなれば、自然に外見も清潔で、行いも正しくなります。神様は、パリサイ人と律法学者たちのように心は汚いものでぎっしりで、外見だけ清いふりをする偽善をあまりにも嫌われます。 私たちは服や皮膚に汚物が少しだけついても、早く洗い落とそうとします。しかも全身にうじがわいているなら、どれほど気持ちが悪いでしょうか。考えるだけでもぞっとして、見たくもないでしょう。 ところで、神様の御目には私たちの心の罪と悪がうじのように汚れていることを悟って、悪はどんな悪でも避けなければならないのです。 3. 夢と希望を失わないように 「私の日々は機の杼よりも速く、望みもなく過ぎ去る。」(ヨブ7:6) ヨブは全身のうじで苦しみながらむなしく一日一日を送っている自分の毎日をこのように表現しています。 昔は家で機を使って布を織って、服を作って着ました。布を織っているところを見ると、つるつるした機の杼を非常に早く動かします。 ところで、ヨブが「私の日々は機の杼よりも速い」と言ったのは、一日がそれほど速く過ぎて行くという意味ではありません。ヨブは時間が貴重だということを言っていて、時間がむなしく早く過ぎ去るのがあまりにも苦しいことを表現しているのです。以前はやりがいがあることもたくさんしたし、意味のある時間を送っていたのに、今は何の希望もなく過ごしている自分の姿を見て、このように嘆いているのです。 私たちは時間の大切さを知って、日々むなしく過ごさず、神様のみことばの中で価値あるように生きなければなりません(エペソ5:16,ヤコブ4:14)。心の割礼に努めることはもちろん、睡眠時間も減らして神の国のために忠実に仕え、さらに教会に集まることに努め、天の御国に報いを積むならば、どれほど価値ある日々になるでしょうか。 そして私たちのたましいをいつ召されても、堂々と主の御前に立てる資格を備えなければなりません。 「思い出してください。私のいのちはただの息であることを。私の目は再び幸いを見ないでしょう。私を見る者の目は、私を認めることができないでしょう。あなたの目が私に向けられても、私はもういません。」(ヨブ7:7~8) 「私のいのちはただの息である」とは、もうすぐ死ぬことを意味します。ヨブはいつ死ぬかもしれなかったので、それこそ一寸先も見通せない日々でした。 試練に会う前、ヨブは富豪だったし、何の乏しいこともなかっただけでなく、多くの人々からほめられて幸いな生き方をしていました。ところが、もうすぐ死ぬかもしれないと思うと、「私の目は再び幸いを見ないでしょう。」とあきらめています。それで「神様が私を探してもいないでしょう」と落胆しているのです。 聖書を読むと、人の力では不可能なことが神様の力で解決される事例がたくさんあります。ラザロは墓に葬られて四日も経って腐ったにおいがしているのに、主の力によって生き返ることができました。 十二年間、長血をわずらっていた女性と盲人バルテマイは、箴言8章17節に「わたしを熱心に捜す者は、わたしを見つける。」とあるとおり、切に捜して主を見つけ、問題が解決されました。 「なぜ私は祈っても答えがないのか」と悩んでいる方がいるなら、本当に切なる心で神様を捜したのか省みますように。私たちが心の願いに答えていただくためには、どれほど切なる心で神様を捜さなければならないのか、心に刻まなければなりません。 もしかしてヨブと同じ境遇に置かれているならば、心の中に神様が嫌われるうじのような罪の性質がないか調べて、全部取り除いてしまいますように。心が正しくなって、どんな試練、患難が来ても揺るがず変わらない心でいて、いつも喜んでいて感謝して祈る生き方、天国に希望を置いて神様の栄光のために生きていく生き方ならば、解決されない問題はありません。 ヨブはこのように力ある神様を見つけた体験がないので、信仰を示せずにいます。自分はもうすぐ死ぬはずだから、他の人が自分をもう見られないだろうと決めつけています。 しかし、私たちはヨブと同じ境遇、あるいはもっと厳しい境遇に置かれていても、神様の前に正しく立てば、何も問題になりません。神様が私たちに出会ってくだされば、どんな問題でも解決できるからです。 したがって、私たちはどんな困難の中でも夢と希望を失わずに、ただ不可能のない信仰で神様に近づいて行きましょう。

「ヨブ記講解(13)」


 

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記6:13-30

きょうはヨブの友だちの肉的な愛と、ヨブが自分の姿を悟れない理由について調べてみましょう。

1. 気が弱くなって慰めを期待するヨブ

「私のうちには、何の助けもないではないか。すぐれた知性も私から追い散らされているではないか。」(ヨブ6:13)
ヨブは「前は自分に財産もたくさんあって多くの人を助けることもできたが、もう今は全部なくなってしまった。知識があって優れた知恵もあったのに、今はもうなくなってしまった」と嘆いています。
ヨブには無から有を創造する神様を信じられる霊の信仰がまだなかったので、神様により頼むことができず、ますます気が弱くなってしまい、ついに意志力さえ失くしてしまったのです。神様により頼まないから、知恵もなくなって、愚かになってしまったのです。
皆さんも聖霊に満されている時は、天から知恵と力が臨むので、使命もよく果たして、祈りも熱心にします。ところが、ある瞬間から疑い始めると、聖霊に満たされなくなって、自分でもわからないうちに弱くなって、信仰のないことを口にして、捨てたと思っていた憤りがまた出てきたりします。まさにヨブがこういう状態なのです。

「落胆している者には、その友から友情を。さもないと、彼は全能者への恐れを捨てるだろう。私の兄弟たちは川のように裏切った。流れている川筋の流れのように。」(ヨブ6:14-15)
ヨブは、水があふれていても日照りが続くとすぐ乾いてしまう川のように、友だちの心がしょっちゅう移り変わることを指摘しているのです。温かい慰めを期待したのに、かえってヨブに悪いとか、神様に頼れとか、責めたてる友だちがけしからんと思ったのです。
 

しかし、私たちが試練、患難に会っているとき、肉的な慰めはさらに弱くさせるだけで、結果的に役に立ちません。愛そのものであられるイエス様も、弟子たちに対していつも柔和でものやわらかいだけだったのではありません。同じように、私たちは試練、患難に会っている人を肉的に慰めるのではなく、神様のみことばで悟らせなければなりません。 だからといって、ただ相手を指摘して責めたてなさいというのではありません。いくら真理の言葉でも、ヨブの友だちのように感情的になって指摘するなら、相手がその言葉の中に込められた悪意を感じるので、かえって心の戸を閉ざすことになります。相手を本当に愛する心で、相手の信仰の量りに合わせて諭すと、相手も心の戸を開いて、立ち直れるように力づけられるのです。 2. 変わる肉の愛 「氷で黒ずみ、雪がその上を隠している。炎天のころになると、それはなくなり、暑くなると、その所から消える。」(ヨブ6:16-17) ヨブは友だちに、氷が溶けた後のようにおまえたちの本性が現れた、水が太陽の光で蒸発したように、友情は影も形もなく消えてしまった、と言っています。ヨブが裕福で健康だった時は、友だちが来て愛すると言ったし、ヨブを尊敬してへつらってもいたのに、ヨブの財産がなくなってしまったらその心が変わった、ということです。 このように自分の利益だけ考えるのが普通の人の姿です。互いに愛しているとよく言いますが、現実的に自分に利益にならなければ、まことの愛の行いが出てこない場合が多いのです。いつでも自分の利益によって変わってしまう肉の愛だからです。 反対に、霊の愛は永遠に変わらないし、むしろ歳月が流れるほど深くなります。相手の利益を求めて自分を犠牲にする愛だからです。 「隊商はその道を変え、荒地に行って、滅びる。テマの隊商はこれを目当てとし、シェバの旅人はこれに期待をかける。彼らはこれにたよったために恥を見、そこまで来て、はずかしめを受ける。」(ヨブ6:18-20) 昔、人々は砂漠を通るとき、水を飲むために川を探して隊商を組みました。もし水を求められなければ、また荒野に戻るしかなく、結局死ぬことになります。テマの隊商もシェバの旅人もこれを目当てとし、つまり水を得ることを期待して行ったのに、水を得られなければ恥を見、はずかしめを受けると言っていますが、これもヨブが友だちの姿をたとえて言っているのです。 ヨブに財産が豊かだった時は友だちとも仲良くしていたのに、今は友だちがヨブから期待するものを得られないから本性が現れて、恥を見て気を落としている、ということです。 神様は私たち人の子らの心がそうだと教えてくださいます。初めて主に出会った時は、救ってくださった恵みがあまりにも大きくて、いつも感謝していました。しかし、ある瞬間、このような初めの愛を失って、「神様はなぜ私を祝福してくださらないのだろうか。なぜ答えてくださらないのだろうか」と不満に思い、世に目を向けたりするのです。神様は私たちがこのように移り変わる肉の属性を発見して捨てることを望んでおられます。 3. 友だちを誤解してさばくヨブ 「今あなたがたは、そのようになった。あなたがたは恐ろしいことを見ておびえている。私が言ったことがあるか。『私に与えよ』とか、『あなたがたの持ち物の中から、私のために贈り物をせよ』と。あるいは『敵の手から私を救い出せ。横暴な者の手から私を贖え』と。」(ヨブ6:21-23) ヨブは「友だちが私にあそこまでひどい言い方をする理由がないのに、私が自分たちに頼ろうとしていると誤解しているんだ」と決めつけます。それで、友だちに向かって、おまえたちも自分と変わらないではないか、「私に与えよ」と言ったこともなく、「敵の手から私を救い出せ」と言ったこともないのに、なぜそんなに心配しておびえているのかと言っているのです。 友だちはそれまで多くのたとえとみことばでヨブの過ちを指摘したのですが、ヨブは一つも悟れずにいました。エリファズ自身も正しくないのに、悪意をもってヨブを指摘するので、ヨブは完全に心の戸を閉じてしまい、そのためにエリファズの言葉が全く耳に入らなかったのです。 このように相手が心の戸を閉じてしまった場合は、いっそ黙っていた方がいいのです。また、話をするとき、人によって考えが違うのに、自分の考えだけ正しいと主張するならば、それは相手を尊重するのでもないし、霊の愛もないのです。 「私に教えよ。そうすれば、私は黙ろう。私がどんなあやまちを犯したか、私に悟らせよ。まっすぐなことばはなんと痛いことか。あなたがたは何を責めたてているのか。あなたがたはことばで私を責めるつもりか。絶望した者のことばは風のようだ。」(ヨブ6:24-26) エリファズが今まで指摘して勧めてきたのに、ヨブはエリファズが何を言っているのかわからない、私の過ちが何なのか言ってみろ、と言っているのです。 このように友だちの言葉を軽んじる一方で、続いて「まっすぐなことばはなんと痛いことか。」と言います。これは「おまえの言葉が正しいのはわかる」と認めているのです。「だが私は死ぬ日だけ待っている人ではないか。このように絶望している人の言葉は思いついたまま勝手に言っているだけだから、風のように空しい。ところが、おまえたちは私を慰めるどころか、このように無気力で無知な人を責めているのか」と言っているのです。ヨブはこのような友だちをとても悪い人だと、次のように決めつけています。 「あなたがたはみなしごをくじ引きにし、自分の友さえ売りに出す。今、思い切って私のほうを向いてくれ。あなたがたの顔に向かって、私は決してまやかしを言わない。どうか、思い直してくれ。不正があってはならない。もう一度、思い返してくれ。私の正しい訴えを。」(ヨブ6:27-29) 「みなしごをくじ引きにする」とは、ばかにして軽んじるということです。みなしごは憐れんで助けるべき対象です(出エジプト22:22,ヤコブ1:27)。それなのにみなしごを軽んじて、しかも友を売りに出すなどとはとうていありえない悪行です。ヨブが見ると、友だちはこんな人のように人の道理もわきまえない、悪者の中の悪者でした。それで「おまえたちは判断してみろ。後ろめたくないなら、私の目をまっすぐに見ろ。私が言っていることは全部正しい。おまえたちは反省して思い直せ。私は正しい」と言っているのです。 ヨブはついさっき自分の言葉は風のように空しいと言ったのに、また態度を変えて「私はまやかしを言わない。私は正しい」と言っているのですから、これもまた矛盾した姿です。しかし、ヨブの心は偽りを言おうとするのでもないし、悪意があるのでもありません。ただ真理を完全に知らなかったし、自分はよくやっていて正しいと思うから、自分を発見できないまま自分の過ちを発見できないだけなのです。 ヨブの友だちはヨブのためにいろいろ言ったのですが、これによってヨブは気を悪くして、つまずいてしまいました。 特に聖徒を顧みる主のしもべや働き人たちはこのような点に気をつけなければなりません。アドバイスをする時も、確かに正しいと思うことでも、穏やかな心で柔和な言葉でしなければなりません。徳と愛をもって勧めてこそ敵である悪魔・サタンが働けないし、相手が心の戸を開いて受け入れることができます。また、自分がみことばどおりに行いながら勧めるとき、その言葉に権威が伴うのです。 ここで「今、思い切って私のほうを向いてくれ。」とはヨブの言葉ですが、一方で、皆さんがヨブの友だちの姿ではないのか、また、ヨブの姿ではないのか省みることを望んでおられる神様の心が込められています。 4. ヨブが自分を悟れない理由 ヨブは真理を正しく悟れなくて、友だちの話を無視して自分だけ正しいと主張しています。ヨブはなぜ自分を悟れないのでしょうか。 まず、高ぶっているからです。自分は財産も多かったし、知恵もあって何でも最高だったのに、神様が訳もなく自分を打って苦しんでいると思うので、自分を発見できなかったのです。ですから、友だちが悟らせても聞こうとしなかったし、かえって友だちが間違っていると言い返しているのです。 箴言16章18節に「高ぶりは破滅に先立ち、」とあり、第一コリント10章12節に「ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。」とあります。高ぶりは自分が立っていると思う状態です。ヨブは高ぶって自分で立っていると思ったので、結局倒れてしまい、友だちの前で恥を見て苦しい目にあっているのです。 ヨブが自分を悟れずにいるもう一つの理由は、自分は最善を尽くして生きてきたからです。つまり、自分が良くやったことだけ考えているのです。自分は正しいし、善を行ってきたと信じ込んでいるから、そんな自分に不正があるはずがないと思ったのです。 それで「私の舌に不正があるだろうか。私の口はわざわいをわきまえないだろうか。」(ヨブ6:30)と言っているのです。ヨブは舌で甘い、苦い、塩っぱいがわかるように、自分は正しい正しくないをわきまえることができると言っているのです。結局、自分の判断は正しく、自分の言葉と考えは全部正しくて、相手は正しくないということです。全くアドバイスを受け入れる姿勢になっていなかったのです。 しかし、いくら真理をたくさん知っていても、誰かが悟らせてくれれば「アーメン」と言って受け入れて、自分を省みるべきです。目上の方のアドバイスはもちろん、たとえ目下の人のアドバイスでも謙遜に受け入れようとする心構えにならなければなりません。 「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」(ヤコブ4:6)とあるので、謙遜な者になって、さらにすみやかに変えられますよう、主の御名によって祈ります。

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