
霊の糧
ヨブ記講解メッセージ
「ヨブという実在の人物を通して、神様が私たちの人生を記録してくださいました。」
「ヨブ記講解(38) -ヨブを呪うエリファズ」
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記15:26~35
きょうは、ヨブをひどく呪うエリファズの姿から私たち人の子らの心を解剖して伝えます。
1. ヨブをねたんでいた心が現れるエリファズ
「厚い盾の取っ手を取っておこがましくも神に向かって馳せかかるからだ。また、彼は顔をあぶらでおおい、腰の回りは脂肪でふくれさせ、荒らされた町、人の住まない家に、石くれの山となる所に、住んだからだ。」(ヨブ15:26-28)
ここで「おこがましい」とは、身の程知らずで高慢な人の姿をいいます。また「厚い盾の取っ手を取って…神に向かって馳せかかる」とは、神様の前に聞き従わない姿をいいます。エリファズはヨブがこのように高ぶっていて聞き従わない人だと罪に定めています。
「腰の回りは脂肪でふくれさせ、」とは、おいしい物をたくさん食べて、太っておなかが出ている姿をいっていて、物質的に豊かな状態を意味します。つまり、ヨブが高ぶって神様を裏切った理由は、物質が豊かだからというのです。
たとえば、イスラエルの民が神様に仕えていた時は、国は豊かで平和でした。ところが、物質的に豊かになって苦労がなくなると、すぐ偶像に仕えて神様を裏切りました。すると神様が御顔を背けられて隣の国に侵略され、捕虜にされて奴隷生活をするはめになりました。国が滅びたので町は荒廃し、人が住まないから動物がうろついて荒れ果ててしまいました。すると人々はあてもなくさまよって山の中に避難したり、岩の間に住んだり、山で農作業をしたりしました。
エリファズはヨブがそんな人だということをたとえで説明しています。ヨブには大きい富と名誉があったのに、神様を裏切ったら、あっという間に子どもと財産を全部失った、悪性の腫物で苦しみながら食べる物もないみじめな運命になった、というのです。
エリファズはヨブをさばいて罪に定めるだけでなく、厳しく呪っていますが、これはねたみ、そねみがあるからです。過去、ヨブが豊かで、周りの人たちを助けて尊敬されていた時は、友だちもヨブを愛しているつもりだったし、親しく交わっていました。ところが、彼らの心の中にはいつもヨブに対する嫉妬がありました。憧れの対象だったヨブが今は滅びかけているので、心に潜んでいたねたみ、そねみが表に出ているのです。友だちはヨブの口から神様に立ち向かう言葉が出てくると、これを口実にして言いたい放題責めて、呪ってさえいるのです。 2. エリファズの厳しい呪い 「彼は富むこともなく、その財産も長くもたず、その影を地上に投げかけない。彼はやみからのがれることができず、炎がその若枝を枯らし、神の御口の息によって彼は追い払われる。」(ヨブ15:29-30) これは、ヨブが二度と昔のように豊かになることもないし、財産も増えることはない、と言っているのです。「彼はやみからのがれることができず、」とは、ヨブが今経験している厳しい試練、患難からとうてい抜け出せないということです。そして「炎がその若枝を枯らし、」とは、根絶やしにするという意味で、一つ残らず完全に希望を失ってしまうということです。ヨブは災いから永遠に抜け出すことはできないという意味です。どれほどひどい呪いでしょうか。 それでは、「神の御口の息によって彼は追い払われる。」とは、どんな意味でしょうか。 神様は無から有を創造する方であり、ことばで天地万物を創造なさいました。このような神様の力は広大な宇宙と天地万物が一瞬で消え失せるようにすることもおできになります。まして小さい被造物にすぎないヨブを神様の御口の息によって「フーッ」と吹いてしまえば、それで終わりだという意味です。高ぶっておこがましい人、神様に聞き従わず立ち向かう人は、神様がこのように追い払わってしまわれるというのです。 この言葉自体は正しいのですが、ヨブには当てはまらず、エリファズが悪意を持ってヨブを呪う言葉です。 「迷わされて、むなしいことに信頼するな。その報いはむなしい。」(ヨブ15:31) この言葉は、イエス様の時代のパリサイ人や律法学者、祭司長たちのことを考えてみれば、理解しやすいでしょう。彼らは神様を愛しているかのように話をしたし、律法を守ると言っていたし、自分では正しい人だと思っていました。ところが、イエス様は彼らを白く塗った墓のようだ、偽善者だと責められました。彼らは救い主として来られたイエス様が目の前におられるのにどなたかわからず、十字架につけてしまいました。 しかし、本人たちはモーセの律法を守って、神様を信じていると思っていたので、みずから欺かれて、滅びの道に向かってしまいました。エリファズはヨブをこのような偽善者扱いしているのです。「ヨブ、あなたは自分では正しい人だと思っていても、自分で自分を欺いているのだ。結局、あなたに臨んだのは滅びではないか。すべてを失って、何もないではないか」と言っているのです。 「彼の時が来ないうちに、それは成し遂げられ、その葉は茂らない。彼は、ぶどうの木のように、その未熟の実は振り落とされ、オリーブの木のように、その花は落とされる。」(ヨブ15:32-33) 「彼の時が来ないうちに、それは成し遂げられ、」つまり「ヨブが光を見ないうちに、今まで呪ったことが臨むだろうから、あなたが回復する可能性は全くない」と言っているのです。また、木は枝が生き生きしていて葉が茂ってこそ、花も咲いて実も結びますが、葉が茂る前に滅びが臨むというのです。つまり「あなたは終わりだ!」ということです。エリファズはヨブに、今後回復できるという希望も、何の望みも持つな、と言っているのです。 もし、ぶどうの実がたわわに実ったのに、熟する前に病虫害で全部落ちてしまうなら、どれほど空しいでしょうか。また、オリーブの花が雨風で早く落ちてしまえば、実を結ぶのに大きい支障があります。エリファズは、ヨブの運命がまさにこのようだと言っているのです。 ここで「ぶどうの実」の霊的な意味を調べてみましょう。 イエス様は弟子たちに「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。」(ヨハネ15:5)と言われました。ぶどうの木に枝がしっかりついていてこそ、花が咲いて実を結びます。もし枝が木から離れるなら、すぐ枯れてしまい、踏みつけられて、最後は火に投げ込まれるでしょう。 これと同じように、私たちがイエス・キリストから離れるなら、すなわち真理の中で生きていないなら、殻のような信者になって、さばきの日に地獄の火に落ちるしかありません。これは、ぶどうの木の未熟の実が振り落とされるようなものです。 私たちの信仰生活でもこういうことはよくあります。実がなっている木に雨風が吹きつけると、弱い枝は折れて、実はばらばらと落ちてしまいます。このように、敵である悪魔・サタンは私たちの周りの人々を通して試練をもたらしますが、この時、信仰が完全でないとか、真理に完全に立っていない聖徒は信仰を失って、主から離れてしまうこともあります。私たちはいつも目をさましていて、みことばの中で生きていなければなりません。そうしてこそ、どんな誘惑にも試練にも圧倒的な勝利者になることができます。 3. ヨブを神を敬わない者の仲間にたとえるエリファズ 「実に、神を敬わない者の仲間には実りがない。わいろを使う者の天幕は火で焼き尽くされる。」(ヨブ15:34) エリファズはヨブを神を敬わない者だとさばいて罪に定め、こういう人には何の実りもないと言っています。また、ヨブをわいろを使う悪い者のように言っていますが、なぜこう言うのでしょうか。 ヨブが豊かだった時は多くの人に施しをしたし、弱い彼らを力づけて、徳と愛を施しました。そうすると、自然にヨブに助けてもらった多くの人々がいろいろな贈り物やお礼をしました。ヨブの友だちはこのように愛されてほめられているヨブをねたんで見ていたのですが、当時はそれが現れていませんでした。 ところが、言い争っていたら、前はそれとなくねたましく思っていた心が現れたのです。それで、ヨブがもらったお礼をわいろだと表現して、こういう人の天幕は火で焼き尽くされると呪っているのです。 「彼らは害毒をはらみ、悪意を生み、その腹は欺きの備えをしている。」(ヨブ13:35) 旧約聖書を読むと、これと似たみことばがたくさんあります。 「見よ。彼は悪意を宿し、害毒をはらみ、偽りを生む。」(詩篇7:14)、「正しい人の計画することは公正で、悪者の指導には欺きがある。」(箴言12:5)、「悪をたくらむ者の心には欺きがあり、平和を図る人には喜びがある。」(箴言12:20)とあります。エリファズはこのようなみことばを先祖から聞いて知っているので、そのまま引用してヨブに教えようとしているのです。 本文に「彼らは害毒をはらみ、悪意を生み、」とあるとおり、人は不法を頭で考えると、結局は悪い行いとして現れます。むさぼりのある人は「どうやって富を得ようか、どうやって人の財産を横取りしようか」とまず考えて、次にこれを心に植えつけます。この心が刺激されて、結局悪い行いとして出てきます。つまり、むさぼりがあるので思いを通してサタンの誘惑を受け入れ、結局詐欺や横領、盗みなどの悪い行いが出てくるようになるのです。 ですから、創世記6:5に、神様が洪水で世をさばかれる前に「【主】は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。」とあるのです。心に悪があるから、心に計ることも悪いのです。 しかし、心に悪がなければ、思いを通してサタンが働くことができません。マタイの福音書15:18に「しかし、口から出るものは、心から出て来ます。」とあるとおり、悪い心がなければ、悪い考えや行いが出てくることもないのです。 このように、心にある善と悪がどれほど強いかによって考えや行動が左右されます。善が多ければすべてを良いほうに考えますが、心にわだかまりや憎しみなどの悪があれば、すべてを悪いほうに考えて、言葉や行動が悪くなるのです。 エリファズは、ヨブの考えと心がこのように悪いので、大きい災いと滅びが臨んだと言っています。これまでのヨブの姿を見ると、神様の前に訴えて問い詰めるなど、悪くて高ぶっていたのは事実です。 しかし、これは試練が厳しいから現れたうわべの姿であり、ヨブはエリファズが言うように神を敬わない者ではありません。今、ヨブの友だちは心がひねくれているので、ヨブが以前行った善と徳までけなしているのです。 愛する聖徒の皆さん、 神様はヨブと友だちの話を通して、私たち人の子らの心をことごとく解剖してくださっています。ねたみ、そねみがあれば、他の人がうまくいったり愛されたりすると、おもしろくありません。また、相手と自分を比較して落ち込んだりもします。しかし、霊の愛は真理を喜びます。 したがって、ヨブ記講解で自分の心を省みて発見し、悪は根の根まで引き抜いて、真理の心に変えられる機会にしますように。
「ヨブ記講解(37) -エリファズ二回目に論ずる(3)」
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記15:17~25
前回に続いて、エリファズが二回目に論ずる内容を調べて、私たちが信仰相談を受けるとき、聖霊の声を聞くことがどれほど重要なのか伝えます。
1. 先祖の言葉を引用してヨブを悟らせようとするエリファズ
「私はあなたに告げよう。私に聞け。私の見たところを述べよう。それは知恵のある者たちが告げたもの、彼らの先祖が隠さなかったものだ。彼らにだけ、この地は与えられ、他国人はその中を通り過ぎなかった。」(ヨブ15:17-19)
エリファズはこれまで自分の知識を総動員してヨブを説得したのですが、ヨブが聞かなかったので、知恵のある先祖の言葉を引用しようと言います。
イスラエルの地は神様が選民に与えられた地なので、他国人はその中を通り過ぎないように教えました(ヨエル3:17)。また、神様は選民イスラエルをエジプトから連れ出した後、将来カナンの地に入ったら、そこの異邦人を聖絶せよと命じられました。もしこの声に聞き従わないなら、その地に住んでいた異邦人がイスラエルの民にとって、いばらとわなになると仰せられました(申命記7:16)。
もしイスラエルの民が異邦人と一緒に暮らすなら、彼らが仕えている偶像や彼らの間違った慣習と悪行に染まることもあるので、神様は彼らを滅ぼし尽くしなさいと命じられたのです。私たち人は環境から影響をすぐ受けて、それによって滅びに向かうので、神様が愛をもって未然に防いでくださるのです。
イスラエルの民は預言者モーセとともにカナンの地へ行く途中で、異邦人の国々と戦って大勝しました。これを見て恐れたモアブの王バラクは、神様と交わるというバラムを呼んで、イスラエルの民を呪わせます。しかし、神様は呪わないようにされ、反対に祝福のみことばだけを下さいました。
これに対してバラムは計略を巡らし、イスラエルに呪いが臨む事をバラク王に教えます。つまり、モアブ人の集まりにイスラエルの民を招待させたのです。するとイスラエルの民はモアブの女たちと淫らなことをして、偶像を拝み、これによって疫病が臨んで2万4千人も死んだのです。イスラエルの民は神様の大いなる力を体験したのに、異邦人と出会って彼らの文化に接すると、すぐ心が移り変わったのです。 神様がイスラエルの民に異邦人との結婚を厳格に禁じられたのも、このような理由からです。イスラエルの民が神様の命令に聞き従って、偶像に仕えないでみことばの中で生きていた時は、栄えの道に導かれました。 しかし、神様を離れて異邦人とつらなって、偶像に仕えた時には、他国に侵略されて捕虜にされるなど、多くの困難を経験しました。 異邦人と結婚してはならないということは、霊的には、神の子どもは世と友にならず、真理にあってみことばに聞き従いながら生きなければならない、という意味です。神の子どもが世と友となって、真理と反対になる悪を行って生きていく時は、サタンのしわざを受けて試練に会うのです。 ところで、エリファズがこのようにイスラエルの民をたとえに挙げているのは、ヨブを悟らせるためです。ヨブが不従順の罪を犯したイスラエルの民のように神様の前にふさわしくないから、試練や患難が来たのだと厳しく責めているのです。 2. ヨブを悪者で横暴な者だとさばくエリファズ 「悪者はその一生の間、もだえ苦しむ。横暴な者にも、ある年数がたくわえられている。」(ヨブ15:20) ここで「横暴な者」とは、権力や腕力に任せて無法で乱暴な行いをする者という意味です。エリファズは、選民イスラエルと一緒にはいられない異邦人のように、ヨブもそんな悪者で、横暴な者だと言っているのです。つまり、ヨブは悪者で横暴な者のひとりなので、神様がヨブを懲らしめられるようにすでに定めておられるというのです。 「悪者はその一生の間、もだえ苦しむ。」とは確かに神様のみことばです。「まことに、【主】は、正しい者の道を知っておられる。しかし、悪者の道は滅びうせる。」(詩篇1:6)、「悪を行う者に対して腹を立てるな。悪者に対してねたみを起こすな。悪い者には良い終わりがなく、悪者のともしびは消えるから。」(箴言24:19-20)と書いてあります。必ず善であれ悪であれさばきがあって、悪者はしばらく栄えるように見えても、結局は地獄の火に永遠に落ちるのですから、悪者が栄えているのをねたむ必要はないのです。 「その耳には恐ろしい音が聞こえ、平和なときにも荒らす者が彼を襲う。彼はやみから帰って来ることを信ぜず、彼は剣につけねらわれている。」(ヨブ15:21-22) これまでヨブの耳には、財産が全部なくなってしまったという報告、子どもたちが死んだという報告、飼っていた家畜が死んだという報告が聞こえてきました。それだけでなく、妻が自分を捨てて呪う言葉も聞いたし、親戚も遠ざかりました。しかもからだには悪性の腫物が出て、うめき声が水があふれるように流れたし、嘆きの声も絶えなかったのです。ヨブはずっとこのような声だけ聞いていたのです。 このようなことが起こる前は、ヨブにはいつも平和がありました。しかし、試練や患難が襲ってくると、平和はすぐ荒らされて、ヨブは死の直前まで行ってしまいました。エリファズの目には、このように大きい試練や患難に落ちたヨブには抜け出す希望がないのです。 ここで「剣につけねらわれている」とは、ヨブが今、多くの人から卑しめられ、あざけられ、さげすまれ、心臓を刃物でえぐり取られるような痛みを経験している、ということです。つまり、剣につけねらわれているようなものなので、やみから帰って来ることを信じられないはめになった、というのです。 「ヨブ! あなたは悪者で横暴な者だから、平和に見えていても、神様が懲らしめて呪われて、今は剣につけねらわれている。だから、試練や患難から救われたいと願ってはいけない。悪者や横暴な者には滅びが定まっているのだ。もう人々があなたをあざけって呪うことしか残っていない」と言っているのです。 ヨブは自分では正しい人だと思っていたのに、友だちから悪者だ、横暴な者だと罵倒されるので、どれほどつらかったでしょうか。しかも聖霊時代でもない当時、ひとりでもなく三人の友だちが次々と攻撃するので、悔しくてはらわたが煮えくり返るしかありません。そのように攻撃するヨブの友だちの悪と責任も大きいのです。 3. 正しい信仰相談をするには聖霊に働きかけられるべき 「彼は食物を求めて、『どこだ』と言いながら、さまよい、やみの日がすぐそこに用意されているのを知っている。苦難と苦悩とが彼をおびえさせ、戦いの備えをした王のように彼に打ち勝つ。それは彼が神に手向かい、全能者に対して高慢にふるまい、」(ヨブ15:23-25) ヨブは豊かな人だったのに呪われてつぶれてしまったし、やみから帰って来られないはめになったので、今はさまよいながらもの乞いするしかない、と言っているのです。「やみの日がすぐそこに用意されているのを知っている。」とは、やみの力から抜け出せないままさまよっていて、結局は「とうてい回復する道がない。もうおしまいだ」と言ってあきらめてしまう、絶望してしまうという意味です。 これはどれほど厳しくて恐ろしい呪いの言葉でしょうか。エリファズがヨブに対してわだかまりがつのって、悪意に満ちて、言ってはならないことを言っています。 ヨブは苦難と苦悩の中で神様を恐れて、おびえていました(ヨブ9:34-35)。ヨブのこのような状況をエリファズは「苦難と苦悩とが彼をおびえさせ」と言っているのです。また、「戦いの備えをした王のように彼に打ち勝つ。」と言いましたが、もし王が数年間徹底的に戦いの備えをするなら、簡単に相手に打ち勝つでしょう。これは、ヨブが勝てない苦難と苦悩に落ちていることを表現しているのです。 ヨブの友だちの目には、ヨブは神様に手向かっています。人がけんかするとき、相手を指さしたりする姿だったのです。それだけでなく、ヨブは高慢にふるまったので、全能者に手向かった、だから今のような苦難と苦悩に落ちるはめになったのだと説明しています。 エリファズが言っているように、人が神様のみことばに「アーメン」と言わずに聞き従わないのは、自分というものが生きていて高ぶっているからです。私たちのイエス様は神様とお一つである方ですが、「自分」がなかったし、神様のみこころに完全に従われました(第二コリント1:19)。結局、イエス様は十字架につけられて死にまで完全に従われたので、救いの摂理を全うされました。 私たちもイエス様が手本を見せてくださったように、神様のみことばならば環境と条件に関係なく「しかり」と「アーメン」と言って従わなければなりません。 ところで、エリファズがヨブに「それは彼が神に手向かい、全能者に対して高慢にふるまい、」と言ったのは、ヨブをさばいているのです。ヨブの友だちはヨブが口にする言葉だけでヨブをとがめて「あなたは悪者だ、横暴な者だ、高慢だ」とさばいて罪に定めています。 しかし、ヨブの心はそうではなかったし、神様に手向かう心でもなかったので、ヨブは友だちの言うことを認められませんでした。ヨブは、友だちが自分のことを知らないだけでなく、彼らの言葉が自分を納得させることもできなかったし、自分の考えと全然合わないので、ずっと言い争っていました。友だちがとんでもないことを言うので、ヨブは彼らを相手にしないで、神様と論じ合おうと言ったのです。 ところで、ヨブがこのように友だちを無視するほど、友だちはもっとヨブを誤解して、さばいて罪に定めるしかありません。だから、互いに感情的になって、遠ざかってしまうのです。 伝道者の書5:2に「神の前では、軽々しく、心あせってことばを出すな。神は天におられ、あなたは地にいるからだ。だから、ことばを少なくせよ。」とあります。神様だけが人の心をご覧になるので、自分には相手の心がわからないのに、軽々しく言葉を出してはいけません。 主のしもべや働き人が聖徒の信仰相談を受ける時も同じです。うわべの言葉や行いだけを見て、相手を悟らせて神様のみことばで教えようとすれば、相手は心の戸を閉ざしてしまうでしょう。いくらみことばの知識が多くて弁舌が優れていても、それで人の心を変えさせることはできません(第一コリント4:20)。 相手に正しい道を悟らせて悔い改めさせるには、何よりも聖霊の声を聞いて働きかけられなければなりません(第一コリント2:10)。 私たちが心を真理で満たせば、それぞれの状況に合う答えが何か、聖霊の声を聞いて明らかにわかります。相手の心と思いも御霊が示してくださるし、相手の信仰の量りに合わせて答えを与えるのも、御霊だけがおできになります。したがって、私たちはまめに心を真理で満たし、聖霊の声を聞いて働きかけられるべきでしょう。
ヨブ記講解(36) -エリファズ二回目に論ずる(2)」
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記15:12~22
きょうは前回に続き、エリファズが二回目に論ずる内容を調べて、人が感情的になって言い争うとどんな結果を生むのかを伝えます。
1. 感情的になって言い争うことの結果
「なぜ、あなたは理性を失ったのか。なぜ、あなたの目はぎらつくのか。あなたが神に向かっていらだち、口からあのようなことばを吐くとは。」(ヨブ15:12-13)
ここで「理性を失った」とは、心が落ち着かないで興奮していることをいいます。そして「目はぎらつく」とは、腹を立てたとき、目つきがぎらぎら光って怖く見える状態をいいます。
人が言い争っていると、感情的になったり、声が大きくなったり、目つきが怖くなったりなど、いろいろな現象が起こります。はらわたが煮えくり返って心拍が早くなったり、血の巡りが早くなって顔や目の縁が赤くなったりもします。さらに目が血走ったりして、見ると怖く感じられます。
ここで終わらないでずっと言い争っていると、息が上がってブルブル震える人もいます。こうなると自制できないので、悪態をついたりします。ヨブとヨブの友だちは今、こんな状態になっているのです。
ところが、本人は自分の姿を見ることができないことが多いのです。それで、周りから「なぜそんなに怒るんですか」と指摘すれば、「いや、怒ってないけど」と言います。
第三者から見れば確かに表情や目つき、声から怖いほど憤っているのに、本人はそれを認めないで言い訳するから、自分を発見して変えられるのが遅くなるのです。ですから、誰かが指摘してくれたら、自分は違うと言い張らずに、「ああ、自分でも気がつかない癖があるんだ」と認めて直すように努力しなければなりません。すると変えられるのです。
エリファズはヨブに「あなたが神に向かっていらだち、口からあのようなことばを吐くとは。」と言って、ヨブが不遜にも神様に向かっていらだち、とんでもないことを言っていると指摘しています。
エリファズは自分なりに神様のみことばである真理を引用してヨブを悟らせようとしたのですが、ヨブは完全に無視しました。それで、ヨブは心から神様に反抗している、というのです。それまでヨブが口にした言葉が、口先ではなく、深い心から出てきたことを知っていたからです。 人の言葉は三つに分けられます。心にあるものが口から出てくる場合があって、心にないことを口にする場合もあります。たとえば、相手が本当に憎くて「嫌い」と言うなら、これは心から出た言葉です。しかし、心では相手を憎んでいても、口ではいくらでも「好きだ」と言えます。この二つは、言っている本人がその言葉の意図を知っています。 ところで、自分でも知らないうちに嘘をつく場合があります。この時「私の心はそうじゃないのに、うっかり口がすべった」と言い訳したりもします。こういう場合は、故意ではなくても偽りです。自分でも知らない、心に深く潜んでいたものが口から出てきたのです。 私たちが真理にあって正直に生きているなら、口のすべての言葉が心と一致します。嘘をつかないのはもちろん、何気なく口にする言葉でもむだな言葉がなく、うっかりでも心にない言葉は出てこないのです(ヤコブ3:2)。 したがって、私たちは完全に真実な心になって、言葉と行動が一致する生き方をしなければならないでしょう。 2. 主にあっては心も性格も作り直していただけると信じるべき 「人がどうして、きよくありえようか。女から生まれた者が、どうして、正しくありえようか。」(ヨブ15:14) 聖書を読むと、この言葉が間違っていることがわかります。 たとえば、エノクはとても心がきよくて正しい人でした。それで、神様が300年間もともに歩んでくださいました。モーセは地上のだれにもまさって非常に謙遜で、全家を通じて忠実な人でした。ステパノ執事は何の過ちもなく石で打たれて死にかけていたのに、ひざまずいて大声で「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」と代わりに神様に赦しを求めました。どれほど悪のないきよい心でしょうか。 それなのに、なぜエリファズは「人がどうして、きよくありえようか。」と言っているのでしょうか。エリファズは悪くて汚れた自分の心の中を知っていました。周りの人たちを見ても、みんな悪くてきよくなかったので、人はみんなそうだと決めつけているのです。 しかし、自分が悪いからといって、相手も悪いのではありません。自分は嘘をつく人でも、相手は真実を語る人かもしれません。 また、エリファズは「女から生まれた者が、どうして、正しくありえようか。」と言っていますが、この言葉は肉的にも霊的にも正しくありません。 韓国の朝鮮時代のイ・スンシン将軍は国に忠誠を尽くして親孝行をし、兄弟愛もありました。濡れ衣を着せられて一兵卒として従軍しながらも王を恨まなかったし、国と民のために命をささげました。このように、女から生まれた人の中にも正しい人はいるのです。 霊的にも同じです。誰でもイエス・キリストを受け入れて聖霊を賜物として受ければ、死んでいた霊が生き返って、神の子どもとされる特権を得るようになります。このように信仰によって罪赦されて義と認められるなら、正しいと言われるのです。 しかし、本当に正しい人になるには、御霊によって霊を生み、罪を捨てるのはもちろん、悪はどんな悪でも避けなければなりません。私たちが御霊に従っていくほど、心から真理と反対のものと悪は捨てられ、真理で満たされます。私たちの心が完全に真理で満たされれば、神様が人を造られた時のかたちを取り戻すようになります。この状態を「たましいに幸いを得ている」といい、本当に正しい人なのです。 神様は私たちに正しくなれると言われ、その方法も教えてくださいました。自分の力ではできなくても、自分の努力とともに神様の恵みと力、そして聖霊の助けがあると、いくらでも良くて正しい心に変えられることができるのです(マルコ10:27,エレミヤ32:27)。 エゼキエル36:26に「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。」とあります。神様は、心はもちろん性格も、いくらでも作り直すことがおできになります。 モーセはエジプトの王子だったとき、人を打ち殺すほど憤りが多かったのですが、荒野で40年間練られて、地上のだれにもまさって非常に謙遜な人に変えられました。使徒パウロも自尊心と義の強い人でしたが、主に出会った後、試練に会って練られ、良い柔和な性格の、神の力を行う使徒に変えられて、義の栄冠を受けることができました。雷のようにせっかちな性格だったヨハネも、変えられて愛の使徒になりました。 このように主にあってはできないことがなく、自分を強くしてくださる方によってすべてができると信じてこそ、変化の力を体験できるのです。 3. ヨブに神様のみこころを間違って伝えるエリファズ 「見よ。神はご自身の聖なる者たちをも信頼しない。天も神の目にはきよくない。まして忌みきらうべき汚れた者、不正を水のように飲む人間は、なおさらだ。」(ヨブ15:15-16) 霊的に「聖なる」とは、外見だけでなく、心まで傷もしみも全くなくきよい状態をいいます。したがって、本来「聖なる」という言葉は人には使えない言葉であり、善そのものの神様だけが聖なる方なのです。 ところが、神様は愛する子どもたちも「聖なるものとされなさい」と言われています。神様が本当に私たちに望んでおられるのは心の聖めです(第一ペテロ1:15-16)。ですから、私たちは心の割礼をして、どんな悪もない、きよくて良い心に変えられなければなりません。 このように変えられて聖なるものとされた人がいるなら、神様は当然その人を信頼してくださるでしょう。しかし、エリファズは「神はご自身の聖なる者たちをも信頼しない。」と、神様の心を知っているかのように言っています。これは自分が神様のようになる、非常に大きい悪で高ぶりです。 また、エリファズは「天も神の目にはきよくない。」と言っていますが、これも正しい言葉ではありません。 神様は初めに人間耕作の舞台になる天地万物を創造して喜ばれました。神様が造られたすべてのものには霊的な意味が込められています。天は霊的に天国を意味します。神様は人の心に本当の故郷である天国を慕う心を下さったので、私たちは天を見上げれば懐かしさを感じます。 それなのに、神様がこのような天をどうしてきよくないと言われるでしょうか。エリファズは神様を誤解して、ヨブに間違ったことを言っているのです。 人は水なしには生きられないので、一日に何回も水を飲みます。このように水を飲むように不正を行っているなら、どれほど悪い人でしょうか。 また、「汚れた者」とは、人の本分から離れて過ちを犯す人をいいます。エリファズはヨブがこのような人だと言っています。「ヨブ、あなたは水を飲むように悪を行っているから、忌みきらうべき汚れた者だ。神様は聖なる者でも信頼されず、天も神様の目にはきよくないのに、ましてあなたのように悪い人を受け入れてくださるだろうか」と罵倒しているのです。このように、とうてい想像できない表現まで使っています。 しかし、ヨブは心そのものが悪いのでもなく、忌みきらうべき汚れた人ではありませんでした。友だちはヨブを刺激して、ヨブがもっといらだつようにして、口にわなをかけて罪を犯させていくのです。友だちはヨブが自分の言葉を聞き入れないので憤り、ヨブのほうは自分は正しいと思っているのに友だちが悪いと言うのでいらいらしています。どちらも自分が正しいと主張して相手を攻撃しているので、お互いさまです。 これは言い争いがこのような結果をもたらしたからです。世では、口論していてだんだん感情的になると、激しい言葉を使って、相手を呪ってしまうことさえあります。したがって、神様は私たちに言い争ってはならないと戒めておられるのです(第一テモテ6:20,第二テモテ2:23)。 言い争う人たちの中には、第三者の話だけ聞いて、間違ってさばき、とんでもないことを言う人もいます。しかし、自分の目で見て、自分の耳で聞いたとしても、それが合っていないこともあることを知っておかなければなりません。 相手が嘘をついているかもしれないし、事実だとしても、聞く人がどんなふうに受け入れたかによって、元の意味から離れることもあるのです。人は見た目だけでさばくことが多いのですが、人の心は神様だけが正確に知っておられます。 したがって、互いの間で言い争うことをやめるのはもちろん、誰もさばいて罪に定めることもあってはならないでしょう(ヤコブ4:11)。
「ヨブ記講解(35) -エリファズ二回目に論ずる(1)」
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記15:4~11
きょうはエリファズが二回目に論ずる内容を調べて、私たちの言葉と行いが相手に及ぼす影響について伝えます。
1. ヨブをさばいて非難するエリファズ
「ところが、あなたは信仰を捨て、神に祈ることをやめている。」(ヨブ15:4)
エリファズは「ヨブ、前にあなたが豊かだった時は、神様の前に全焼のいけにえをささげて神様を恐れていたではないか。ところが、今は神様を恐れるどころか、恨んで悪い神様扱いして、祈ることさえやめている」と指摘しています。
しかし、ヨブが神様に反抗させた要因の一つが友だちとの言い争いだったので、友だちの責任も大きいのです。これは、私たちが誰かの相談に乗る時にも気をつけなければならない部分です。自分のひと言が相手に信仰といのちを植えつけることもあるし、反対に相手をつまずかせたり、もっと悪を行わせることもあります。
特に主のしもべや働き人は聖徒を訪問するとき、人間的な考えを巡らさずに、いつも聖霊の声を聞いて話をしなければならないでしょう。
「それは、あなたの罪があなたの口に教え、あなたが悪賢い人の舌を選び取るからだ。あなたの口があなたを罪に定める。私ではない。あなたのくちびるがあなたに不利な証言をする。」(ヨブ15:5-6)
ここで「あなたの罪があなたの口に教える」とは、ヨブの口から出てくる言葉がヨブが罪人であることを証言しているという意味です。
それなら、エリファズはなぜヨブを悪賢いと言っているのでしょうか。昔はヨブは神様をこの上なく恐れかしこんで高めていたのに、今はその反対になりました。ヨブは「神様は潔白な者も悪者もともに立ち滅ぼされる」と言うかと思えば、「悪者には祝福を与え、正しい人は滅ぼされる」と言って、悪い神様扱いしました。また、前は徳の高い言葉で人々を教えて助けていたのに、今はむなしいことばを口にして思慮のない人になってしまったので、これを指して「悪賢い人の舌を選び取る」と言っているのです。 しかし、私たちはうわべに現れる言葉と行いで人をさばいてはいけません。聖められる前は心と口が別々の時が多いし、言葉と行いが一致しないこともよくありです。人は相手の言葉と行いを見てさばきますが、神様は心をご覧になります。ヨブは真理を知らないから正しくない言葉をぶちまけているので悪賢い人のように見えますが、心そのものは悪賢くありません。 エリファズはヨブに「あなたの口があなたを罪に定める。私ではない。」と非難します。しかし、実は友だちもヨブを非難する資格はありません。これまでいろいろと責め立ててヨブをイライラさせて憤らせるなど、ヨブが悪を行うように原因を提供したからです。 2. ヨブに皮肉を言うエリファズ 「あなたは最初に生まれた人か。あなたは丘より先に生み出されたのか。あなたは神の会議にあずかり、あなたは知恵をひとり占めにしているのか。」(ヨブ15:7-8) この質問は全部ヨブに対するエリファズのひねくれた心の表現です。エリファズは人類で最初に生まれたのはアダムだということも、人より丘が先に創造されたことも、よく知っていました。また、人が神様の会議に参加して奥義を聞くはずがないことも、ひとりだけ知恵を持っているわけがないこともよく知っていました。だから、ヨブに皮肉を言っているのです。 それなら、ヨブの友だちがなぜこれほどまでに心がひねくれてしまったのでしょうか。これは、それまでヨブが友だちを無視していたからです(ヨブ13:1-4)。ヨブは友だちに高ぶった態度で「あなたがたは相手にもならないから、神様とだけ論じ合いたい」と言いました。ところが、友だちが実際にヨブの話を聞いてみると、とんでもない話ばかりしているのです。 そうでなくても心がひねくれていた友だちは、もっとひねくれるしかありませんでした。ヨブの発言がひとりよがりのように感じられたので、エリファズはヨブを厳しく責め立てるようになったのです。 しかし、ヨブの立場も考えてみなければなりません。自分を慰めに来た友だちがしきりに「あなたが間違っているから災いが降りかかったんだ。悔い改めなさい。祈りなさい」などと感情的な言葉で責めるから、ヨブの心はもっと苦々しくなったのです。 3. 言い争うことの無益さ 「あなたが知っていることを、私たちは知らないのだろうか。あなたが悟るものは、私たちのうちに、ないのだろうか。」(ヨブ15:9) エリファズは「ヨブ、あなたが知っていることを私たちも全部知っている。あなたが悟っていることは私たちもみんな悟っている」と真っ向から反論しています。ここで私たちは言い争いのためどれほどサタンから妨げられて、試練や患難を自分から招くのか知っておくべきです。 「群盲象を評す」という言葉がありますが、これは視野の狭い者が多く集まり、めいめいの観点から理解したことを述べ、結果として物事の本質が見失われている状態をたとえているのです。私たちの周りでも、一部分だけ知っているのに全体を知っているかのように話をして、言い争うことがどんなに多いでしょうか。霊的な盲人になって、自分が知っていることだけを正しいと主張して、人をさばいて罪に定めるようになり、まかり間違えば神様の前に大きい罪の壁を作ることもあります。ですから、自分が知っていることがいくらでも事実と違うこともあるし、ある一分野だけかもしれないことを悟って、謙虚な心を持たなければなりません。 ヨブと友だちは自分たちの知識の限界内で自己主張をして、互いに無視してさばいているのです。 信仰の兄弟の間でも、最初はささいなことで言い争いが始まったのに、互いに譲らないで自分を主張していると、だんだん感情的になって怒ることがあります。 しかし、神様は「あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。」(マタイ23:11)、「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。」(ローマ12:14)と言われました。 このような神様のみことばを守り行えば神様のみわざを体験できるのですが、反対にみことばに反してしまえば、神様のみわざは体験できません。互いに誤解して、相手を刺激して一緒になって悪を行っているのに、どうして神様のみわざが起こるでしょうか。 もし、相手は真理を知らないので自分を迫害していて、自分は真理をよく知っているのに相手を呪うならば、自分のほうが悪いということを知っていなければなりません。悪い人に善をもって対応するとき、善が勝つのです。これが神様の法則だからです。 ローマ12:17-18に「だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。」とあり、ローマ12:21に「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」とあります。自分がいくら平和をつくりたくても、相手が受け入れてくれなければ仕方ありませんが、それでもできることなら、すべての人と平和をつくらなければなりません。 私たちのイエス様は力ある方ですが、誰とも言い争われませんでした。当時、大祭司と祭司長、律法学者とパリサイ人たちは絶えずイエス様を殺そうと計略を立てました。 だからといって、悪い者たちがイエス様に手を下すことはできませんでした。イエス様は神様の摂理が完全に成就するまで、時には身を隠したり、その場から出て行ったりしながら、知恵をもってこの地上で働かれました。 これは決して卑怯な姿ではなく「悪い者に手向かってはいけません。」(マタイ5:39)とあるとおり、ただ真理を行われたのであって、誰とも争うことも、叫ぶこともなかったのです(マタイ12:19-20)。 私たちはこのようなイエス様のご性質に似なければなりません。自分のほうが明らかに正しくても、相手が受け入れないならば、いっそ話をせずに待つほうがよいのです。自分の意見だけ主張して相手の悪を刺激することなく、真理にあって良い方法を選んで、平和をつくらなければなりません。 4. 神様のみことばで自分を照らすべき 「私たちの中には白髪の者も、老いた者もいる。あなたの父よりもはるかに年上なのだ。神の慰めと、あなたに優しく話しかけられたことばとは、あなたにとっては取るに足りないものだろうか。」(ヨブ15:10-11) ヨブの友だちの中には年を取って白髪の人もいるし、ヨブの父親より年上の人さえいることがわかります。それで、エリファズは「ヨブ、あなたは年配者の前でそんな無礼なことを言うのか」と言っているのです。 また、「私たちは神様のみことばを引用してあなたを慰めようとしたのに、なんでこんなに反抗しているのか。あなたは高ぶっていて、私たちを無視している」と責めています。 しかし、これは見当違いの話です。友だちもヨブを無視してさばいて、ヨブと同じように罪を犯しているからです。友だちの感情的な言葉がヨブにますます悪を行うようにさせたので、実際はヨブより彼らの過ちのほうが大きいのです。 また、神様のみことばを引用して相手を指摘したり、自分が正しいと主張したりすることも間違っているのです。感情的になっている人に「聖書には憤ってはならないとありますが」と言うなら、どうして相手が喜んで聞き入れるでしょうか。 人は相手の考えや心の中まで正確にわかりません。ただ言葉や行い、表情など、表に現れる姿で相手の心を推測するだけです。同じように自分の心も正確にわからない時があります。それで、これを照らす基準が必要です。それは真理である神様のみことばです。 それでは、ヨブと友だちの言い争いを見て、私たちはどんなみことばが思い浮かぶでしょうか。 ヘブル12:14に「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。」とあります。また、ヤコブ1:19-20に「愛する兄弟たち。あなたがたはそのことを知っているのです。しかし、だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。人の怒りは、神の義を実現するものではありません。」とあります。 私たちはこのような神様のみことばを思い起こして、自分を照らしてみなければなりません。ところで、みことばを知識としてだけ持っていても、何の役にも立ちません。このみことばを心に刻んで自分のものにした人は、日常生活でも真理でなければ聞こうとしないし、ひと言でも注意して口にするでしょう。言い争えば怒って神様の義を実現できず、互いの間の平和が壊れるからです。 したがって、生きていて力のある神様のみことばをいつも人生のともしびと光として、毎日変えられて、いのちを得ていきますように。
「ヨブ記講解(34)」
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記14:17~22,15:1~3
きょうは神様の愛を誤解しているヨブの言葉とエリファズの言い分を調べて、神様が私たちに望んでおられることが何かを伝えます。
1. 神様の愛が変わったと誤解するヨブ
「私のそむきの罪を袋の中に封じ込め、私の咎をおおってください。」(ヨブ14:17)
人は、貴重で大切なものをなくさないために、袋の中にしっかり入れておくことがあります。同じように「そむきの罪を封じ込める」とは、それを軽く見ないで重大に思い、厳しく取り締まるという意味です。神様が自分の歩みをいちいち数えて懲らしめておられる、そむきの罪と咎を封じ込めて、重罪人のように扱っておられる、という意味です。
まるで心が変わってしまった夫に文句を言う妻のように、ヨブは神様に向かって訴えています。「神様と私は愛し合っていたのに、突然、神様は私を嫌って、私のすべてのものを取り上げてしまいました。それは神様が私を憎んで、重罪人扱いしておられるということです。私の若い頃の罪も一つ一つあばきだしておられるのです」と言っているのです。
しかし、いくら苦しくてつらいことに会っても、私たちに対する神様の愛は変わらないということを信じなければなりません。聖書を読むと、私たちの父なる神様を夫と表現しているところもあります。「あなたの夫はあなたを造った者、」(イザヤ54:5)とあるし、特に雅歌では、私たちと神様の間を愛する恋人の関係、花嫁と花婿の関係にたとえています。
神様はヨブをこの上なく愛しておられる花婿なので、ヨブを美しい花嫁にしようと練っておられるのに、ヨブは悪い神様だと誤解しています。
2. 人の望みを絶ち滅ぼされる神様だと誤解するヨブ
「しかし、山は倒れてくずれ去り、岩もその所から移される。水は石をうがち、大水は地の泥を押し流す。そのようにあなたは人の望みを絶ち滅ぼされます。」(ヨブ14:18-19)
前はヨブには大きい山のような名誉があったし、財産もあって、権力もありました。からだも岩のように健康で、子どもも多く、大勢の人から尊敬される人でした。ところが、神様がそんな山と岩を崩してしまわれたので、もう何の役にも立たなくなったというのです。 水が数十年、数百年流れていると、これによって石が削られ、すり減って、だんだん小さくなります。また、水滴一つには力がないのですが、永い歳月ずっと落ちていると、硬い岩にも穴をあけます。 ところで、ヨブは少しずつ流れている水も硬くて大きい石をうがつことができると言った後に、なぜ「大水は地の泥を押し流す」と表現したのでしょうか。 ここで「大水」とは「神様の高さ」を表わしています。ヨブは、大水のように絶大な力のある神様が地の泥にすぎない自分を踏みにじって押し流してしまった、と言っているのです。このようにヨブは、神様が人の望みを絶ち滅ぼされる方だと誤解しています。 しかし、神様は私たちの幸せを望んでおられ、平安と希望を下さる方です(民6:24-26,哀歌3:33,エレミヤ29:11)。時に応じて神様が試練に会わせるのも、私たちを苦しめようとするためではなく、まずたましいに幸いを得ているようにして、さらに大きい祝福を受けるようにするためなのです。 3. 過去に執着してすべてを神様のせいにするヨブ 「あなたは、いつまでも人を打ち負かすので、人は過ぎ去って行きます。あなたは彼の顔を変えて、彼を追いやられます。自分の子らが尊ばれても、彼にはそれがわからず、彼らが卑しめられても、彼には見分けがつきません。」(ヨブ14:20-21) ヨブは、絶大な力のある神様が地の泥にすぎない自分を最後まで追いつめて、打ち負かそうとしておられると言っています。それで自分の財産を奪って、健康も、家庭の平和もなくなるようにされたし、結局はいのちさえもよみに下らせようとしておられる、という意味です。 ヨブは、最初は神様にお願いもしてみて、後には恨んだり嘆いたりして、いろいろな方法を使ってみました。それでも神様から何の答えもないから、もうくちびるを制することなく、やけになって言いたいことをぶちまけているのです。 「あなたは彼の顔を変えて」とは、これまでヨブが感情をコントロールできなくて、神様の前に恨み、嘆き、顔色が変わったことを意味します。そして、それは当然のことで、すべては神様のせいだと言っているのです。 それでは「自分の子らが尊ばれても、彼にはそれがわからず」とはどんな意味でしょうか。ヨブは昔は豊かで尊ばれていました。そして、これは神様が祝福してくださったからだと信じたので、神様の前に感謝のいけにえをささげました。しかし、昔いくら幸せだったとしても、神様が全部取り上げてしまわれたので、覚えておく必要もないということです。だから、感謝する必要もないというのです。 また、ヨブは「彼らが卑しめられても、彼には見分けがつきません。」と言っていますが、これは自分が卑しめられているのに、自分では気づかない、ということです。ヨブはすべてを失ってみすぼらしくなっても、どれほど友だちを無視したでしょうか。 「友よ、私は正しくて、あなたがたより優れた知識と知恵が多いから、私の前では黙れ」というようなことを言ったし、神様の前にも高ぶった言葉で問い詰めました。ヨブは今低い立場にいるので、自分の卑しさを悟ってこそ悔い改めて立ち返れるのに、まだ気づかないでいます。 「私は前は尊ばれていたのに、神様がこんなふうにしてしまったのだ。なぜ私が卑しめられているのか」と問い詰めているのです。 私たちは今の自分を正確に悟って、問題の解決方法を探さなければなりません。「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」(箴言3:6)とあるとおり、すべてにおいて真理で照らして、自分を省みなければなりません。 もし経済的な問題、家庭、病気などの問題があるなら、明らかにそこには理由があります。「なぜこんなふうになったのか」 「なぜこんな病気にかかったのか」その理由を発見して立ち返ることが祝福です。そうではなくて、ヨブのように祝福されていた過去に執着したり、すべてを人のせいにしたりするだけなら、問題も解決されないし、何の発展もないのです。 「ただ、彼は自分の肉の痛みを覚え、そのたましいは自分のために嘆くだけです。」(ヨブ14:22) ヨブは前は過去を振り返っていましたが、今は現実に帰って自分の痛みを見ています。現実は自分の肉が腐っていき、痛みで苦しくて悲しいというのです。自分が受けている今の苦しみも神様のせいだと言っています。ヨブはこれらすべてを自分のせいではなく、神様のせいにしているので、悟ることもできず、悔い改めることもできません。 私たちがみことばを信じて守り行うなら、どんな雨風も、洪水も、害を加えることはできません(マタイ7:24-25)。ですから、何か問題が起こったとき、神様のせい、人のせい、環境のせいにするのではなく、自分がみことばの上にしっかり立っていたのかを省みなければならないのです。 4. 言い争うことの無益さ 「テマン人エリファズが答えて言った。知恵のある者はむなしい知識をもって答えるだろうか。東風によってその腹を満たすだろうか。彼は無益なことばを使って論じ、役に立たない論法で論じるだろうか。」(ヨブ15:1-3) ヨブの友だちは、前はヨブが知恵のある人だと思っていたのに、今はヨブの話を聞いてみると、愚かな人だとわかりました。ヨブが神様を悪い神様だとけなして、ずっと恨み、嘆き、激しい風のような言葉をぶちまけているからです。 それで「ヨブ、あなたが知恵のある人ならば、むなしい知識をもって答えるはずがない」と言っているのです。ヨブを全く無視して、愚か者だと言っているのです。 私たちは言い争うことがこのように無益だということを悟らなければなりません。もしヨブが友だちと言い争っていなかったなら、友だちがこのようにヨブを見くびることもなかったでしょう。 箴言9:10に「【主】を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。」とあります。もしヨブが神様を最後まで恐れていたならば、友だちから愚か者だと言われなかったでしょう。ところが、言い争っているうちに出てきた言葉が神様を恐れず、真理ではなかったので、結局、愚か者にされてしまったのです。 続いてエリファズは「東風によってその腹を満たすだろうか。」と言いましたが、これは、東から吹いてくる風は人にとって何の役にも立たないということです。つまり、ヨブの言葉が無益でむなしいことを風にたとえて表現したのです。 「彼は無益なことばを使って論じ、役に立たない論法で論じるだろうか。」とは、「ヨブ、あなたは風をつかもうとするようにむなしく無益な言い争いをしている。本当に愚か者だ」と言っているのです。 エリファズのこの言葉は間違ってはいないのですが、だからといって、このように責める姿勢が正しいのではありません。エリファズがいくらヨブを責めても、今のヨブには役に立たないからです。 ヨブは友だちのせいでだんだん感情的になって、心がひねくれています。これではいくら正しい言葉でも、心から受け入れられません。かえってもっと腹が立って、感情が爆発するかもしれません。 したがって、友だちがヨブの試練を長びかさせている張本人だということも悟らなければなりません。もし友だちがそばになかったとすれば、ヨブは言い争わなかったでしょう。ただ静かに考えて悔い改めるべきことを探していれば、これほど試練が長びくこともなかったでしょう。 ヨブの友だちのように、私たちがどんな言葉を口にするかによって、相手を悲しませて苦しめ、敵になることもあることを悟るべきです(箴言10:19)。いくら良い正しい言葉でも、言い争いは何の利益ももたらさないので、相手が受け入れない時は話をやめなければなりません。 私たちが福音を伝える時や、聖徒を訪問する時も同じことです。真理を受け入れる人には与えますが、かえって言い争って神様の栄光を遮る人には、それ以上言わないほうがいいでしょう(マタイ7:6)。これは、真理を受け入れない人には伝道してはならないという意味ではなく、神様に祈って、聖霊の声を聞いて、善の知恵をいただいて伝えなければならない、ということです。 愛する聖徒の皆さん、 まことの信仰がある人ならば、今、苦しい目に会っていても、過去、自分に下さった神様の恵みを思い出して感謝します。問題にぶつかって、つらい事が起こっても、神様は生きておられ、いつも愛をもって見守っておられます。このように変わらない神様を信じるならば、どんな苦しみや逆境にも十分勝利できます。 聖徒の皆さんも、問題が起こったとき、気を落として信仰を失うのではなく、ただ生きておられ、変わらず自分を愛しておられる神様だけを仰ぎ見ますように。そして、試練をきっかけに信仰が成長し、より大きい祝福を受けますよう、主の御名によって祈ります。
「ヨブ記講解(33)-
過去を偲びながら神様に訴えているヨブ」
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記14:7~16
きょうは、豊かで良かった過去を思い出しながら神様の前に訴えるヨブの姿から、神様が望んでおられることが何かを伝えます。
1. 霊的に無知で天国への希望がないヨブ
「木には望みがある。たとい切られても、また芽を出し、その若枝は絶えることがない。たとい、その根が地中で老い、その根株が土の中で枯れても、水分に出会うと芽をふき、苗木のように枝を出す。しかし、人間は死ぬと、倒れたきりだ。人は、息絶えると、どこにいるか。」(ヨブ14:7~10)
今までヨブは神様につぶやいて嘆き、あれこれ話をしてみたのですが、何の答えもないと、意気がくじけました。それで、自分は無力で、弱い女から生まれた者だと人生のみじめさを説明するかと思うと、今度は神様を説得するために木にたとえています。「私は木よりも劣る人だから、かわいそうに思って、もう勘弁してください」と自分の哀れさを訴えているのです。
木を切ると、そこからまた芽を出し、枝が育って、新しく植えたように茂ります。また、木の根は地中で古くなれば自然に枯れますが、その上の枝は相変わらず生きています。ある木は、根株が土の中で枯れても、水分に出会うとそこからまた芽をふいて、苗木のように枝が伸びていきます。ところが、人間は死ぬと倒れたきりなので、望みがないとヨブは言っています。
「人が息絶える」とは、人にあった力、すなわち名誉、権力などが死とともに無に帰ってしまうという意味です。
ところが、神様を信じる人としてこういうことを言うのは正しくありません。神様を信じて救われた人は、息が絶えるとからだは土に帰りますが、主が空中に降臨されるとき、再び御霊に属するからだによみがえり、空中に引き上げられます。人は死んでも霊は消滅しないで、天国の待機場所にとどまっていて、主が降臨なさる時に、よみがえった御霊に属するからだと結合して、永遠に生きるのです。
それで、第一コリント15:20に「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」とあり、神様を信じる人が死ねば「眠っている」と表現するのです。 「水は海から消え去り、川は干上がり、かれる。人は伏して起き上がらず、天がなくなるまで目ざめず、また、その眠りから起きない。」(ヨブ14:11~12) 海の水は水蒸気になって上って行くようですが、雨になってまた下りてきます。山の谷間から出てくる湧き水が集まって小川になり、小川は流れて川に行き、川の水はまた流れて海に行きます。ですから、千年経ち、一万年経っても、海の水は減りません。もし海の水が減るほどならば、川の水は全くかれてしまうでしょう。 ヨブは学識も知恵も優れた人だったので、海水が減らないということぐらいは知っていました。もし海の水が減るならば、当然川は干上がってかれるという原理を説明しているのです。 ヨブは「人は伏して起き上がらず、」と言っていますが、これは間違っています。神様を信じている人が死ねば、起き上がらないのではなく、主がまた来られる時によみがえって、永遠に生きるからです。 それなら「天がなくなるまで目ざめず、」とはどういう意味でしょうか。よく世の人はある事がどうしてもうまくいかないとき、「天地がひっくり返ってもこれは不可能だ」と表現します。ヨブも「人が死んでから生き返るのは天地がひっくり返ってもありえない」という意味で言っているのです。 ヨブは肉的には知識が多い人でしたが、霊的にはあまりにも無知なので、ずっと真理に合わないことを言っています。 2. 神様に訴えるヨブ 「ああ、あなたが私をよみに隠し、あなたの怒りが過ぎ去るまで私を潜ませ、私のために時を定め、私を覚えてくださればよいのに。」(ヨブ14:13) 神様は、ルカ16章の貧しい人ラザロと金持ちのたとえを通して、私たちによみについて教えてくださいました。 金持ちはこの地上でぜいたくに遊び暮らしていましたが、神様を恐れなかったので、死んだ後に下のよみで言葉にならない苦しみを受けるようになりました。反対に、金持ちの門前で金持ちの食卓から落ちる物を食べて暮らしていた貧しい人ラザロは、神様を恐れうやまっていたので、死んだ後、上のよみにいるアブラハムのふところで平安に休むことができました。 ところが、ヨブは霊の知識が足りなかったので、よみを死んだ人が永遠に眠る場所としてだけ理解していました。ですから、何もない無の状態であるよみに、すなわち死の中に、自分を隠してくださいというのです。 ヨブは、神様が物事の分別がつかなかった若い頃の自分の過ちまであばいて御怒りを燃やされ、自分をこのように苦しみの中で生きていくようにされたと誤解しています。神様が勝手に定めておいて、自分をみじめな状態にされたけれど、「いつかは神様の御怒りが過ぎ去る時が来るのではないか」と考えているのです。 ですから「神様の怒りがおさまる期限を定めてください。その時まで私を隠しておいて、その期限が来たら、私を思い出して生き返らせてください」と訴えているのです。苦しみに会ったとき、「この苦しみがいつ終わるかわかれば、その希望を持って我慢できるのに、終わりがわからないから絶望的でつらい」と思う人もいます。「問題が解決される時まで寝ていたい」と言う人もいます。 しかし、そうすることはできません。神様が試練の期限やその方法、解決方法を全部教えてくださるなら、本当のテストではないからです。 ヨブは「この苦しみは神様が下さったものなので、その終わりがいつなのか教えてください。そしてこんなに苦しんでいる私を思い出してください」と訴えています。 木は死んでいるようでもまた芽を出しますが、ヨブは死んだらそれで終わりだから、憐れんでくださいというのです。自分は価値のない女から生まれた存在で、めちゃくちゃになった体で苦しんでいて、死ねばもう希望もない哀れな者なので、後で自分を覚えていて生き返らせてくださいと言っているのです 「人が死ぬと、生き返るでしょうか。私の苦役の日の限り、私の代わりの者が来るまで待ちましょう。」(ヨブ14:14) 前の節では、自分が死んでよみにいても、神様は自分を覚えていて生き返らせてくださいと言ったヨブが、ここでは人が死ぬと生き返れないと断定しています。つじつまが合わないことを言っているようですが、これはヨブの悔しい気持ちが込められている言葉です。 ヨブは霊の世界の法則を知らないから、一度死ねばそれで終わりだと思っています。「私の苦役の日の限り、私の代わりの者が来るまで待ちましょう。」とは、もし木のように人が死んでも生き返るという望みがあるなら、どうして自分はこんなに神様に恨んだでしょうかということです。つまり、自分が生き返るという希望があるなら、最後まで我慢して待ちますが、そうではなくて死んだらそれで終わりだと文句を言ったのです、思ったことをそのまま口にしたのです、と自分を弁護しているのです。 しかし、本当に信仰がある人は、どんな試練や患難に会っても、受けた恵みを忘れません。永遠の天国があることを信じるので、つぶやいたり嘆いたりして神様を悲しめるのではなく、かえって喜んで感謝して勝利します。もし試練や患難に会った時に喜びと感謝がなくなってつまずいてしまったとすれば、これは完全な信仰がなかったという証拠です。 ヨブは聖霊を受けていないので、悟りもなくて、自分の思いのまま感情を爆発させていますが、聖霊を受けた神の子どもたちは聖霊に助けられるので、どんな試練や患難が来ても感謝して、信仰によって勝利できるのです。 3. 良かった過去を偲ぶヨブ 「あなたが呼んでくだされば、私は答えます。あなたはご自分の手で造られたものを慕っておられるでしょう。今、あなたは私の歩みを数えておられますが、私の罪に目を留めず、」(ヨブ14:15~16) 人は何かに頼りにして生きています。ある人は金銭や権力を、ある人は名誉や知識を、ある人たちは家族に頼ります。また「私は誰にも頼らない。自分のこぶしだけを信じる」と言う人もいます。 ところが、人は明日のことも知らないし、権力も、名誉も、知識もいつまでもあるのではありません。いくら多くの財産をたくわえても、一日でなくなることもあり、神様がたましいを召されるなら、何も持たずに天国か地獄のどちらかに行かなければなりません。箴言27:1に「あすのことを誇るな。一日のうちに何が起こるか、あなたは知らないからだ。」とあるとおりです。最も幸いな道は、創造主の神様を信じて頼りにすることです。 ヨブは以前は神様により頼んでいて、時に応じて全焼のいけにえをささげていました。ただし、先祖から聞いたとおりに全焼のいけにえをささげてはいたのですが、ヨブは実際に神様を見つけたことも、御声を聞いたこともありませんでした。 その上、今いくら神様を呼んでも、神様が答えてくださることもなく、助けてもくださらないようです。もしヨブに神様を見つけた体験があったなら、「あなたは私を呼ばれ、私は答えました」と自分の経験を言ったでしょう。しかし、何の体験もなかったので、本文のように「あなたが呼んでくだされば、私は答えます。」と仮定の表現を使ったのです。 ヨブは何としてでも神様を説得してみようと、過去、自分の良かった時を神様に説明しています。ヨブは、以前は富も学識も健康なども持っていて、人々を徳によって従わせることができました。だから、神様はそんな自分を慕っておられるでしょう、と言っているのです。 ヨブは神様の御声を聞いて、見つけたのではありませんが、過去、自分が持っていたすべてのものは神様が下さったので、「神様は私を大切に思ってくださったのではありませんか」と言っているのです。昔は自分を豊かにしてくださる良い神様だと思っていたのに、今は神様はいくら捜して叫んでも答えてくださらない悪い方だと誤解しているのです。 「今、あなたは私の歩みを数えておられますが、私の罪に目を留めず、」とは、前はヨブを大切にして祝福を下さった神様なのに、今は心が変わって、ヨブの前の罪まであばき出して懲らしめ、、このように苦しめた、ということです。「前は神様は私を愛して豊かにしてくださいました。神様はどれほどいとしそうに私を見つめておられたでしょうか。『ヨブ!』と呼んでくださるならば、私は答えたでしょう。ところが、今になって私をこのようにみじめに捨てられたのですか。その理由は何でしょうか」と問い詰めているのです。 愛する聖徒の皆さん、 ヨブは後の世について知らなかったので、天国への希望を持てずに試練の中でずっとつぶやいて嘆いています。ところが、私たちは天国について明らかに知っているし、何より新しいエルサレムへの希望があります。したがって、永遠の新しいエルサレムで味わう栄光を望んで、すべての試練を信仰によって勝利しますよう、主の御名によって祈ります。
「ヨブ記講解(32)-天国への希望がないヨブ」
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記14:1~6
きょうは天国への希望がないヨブの姿から、私たちに望んでおられる神様の心と思いを伝えます。
1. 女に恨みの矛先を向けて人生の空しさを論じるヨブ
「女から生まれた人間は、日が短く、心がかき乱されることでいっぱいです。花のように咲き出ては切り取られ、影のように飛び去ってとどまりません。」(ヨブ14:1~2)
ここでヨブは女性を軽んじているように見えます。旧約時代の女性はたいてい男性の所有物のように扱われて、服従だけしなければならない存在でした。
もちろん神様は男性と女性を差別されたりはしません。しかし、創世記を読むと、女であるエバを通して罪が入り、人類が滅びの道に向かったことがわかります。エバがまず蛇に誘惑されて善悪の知識の木から実を取って食べ、夫のアダムに与えたので、アダムもそれを食べて不従順の罪を犯したのです。
女性はエバの本性を受け継いで生まれるので、男性に比べて心がもろくて、ずる賢い場合が多いです。人によって違いますが、ほとんどは男性の心の芯が女性に比べて真っ直ぐで、移り変わることが少ないです。
神様は、ああしたりこうしたりするずる賢い心をとても嫌われて、どんな環境や条件でも真っ直ぐで移り変わらない心を愛されます(第一コリント16:13)。しかし、女性でも、旧約時代の預言者デボラやエステルのような人物は神様に愛され、大いに用いられて国を救いました。
これは、どんな時にも揺るがない強くて真っ直ぐな心と、男性に劣らない大胆さを神様に認められたからです。
ヨブは今、あまりにも苦しいので、人生の空しさと短さを花と影にたとえています。知恵があり、学識が高くて名声のあった人も、その名前は永遠に残りません。悪人も善人も、金持ちも貧しい者も、結局は死にます。一生苦労してたくわえたものも、人が死んで一握りの土に帰ってしまえば、もう楽しめないから空しいだけです。 したがって、ヤコブ4:14に「あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現れて、それから消えてしまう霧にすぎません。」とあり、詩篇144:4に「人はただ息に似て、その日々は過ぎ去る影のようです。」とあるのです。また、伝道者の書3:18には、人が神様を恐れず、その命令を守らないなら、獣にすぎないと書いてあります。 このようにすべてが空の空であることを体験したソロモン王は、晩年になって人生のまことの価値が何か深く悟って、徹底的に悔い改めます。それで、「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。 神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。」(伝道者12:13~14)とあるのです。 神様は私たちのすべてのわざと隠れたことについて、善であれ悪であれ、必ずさばかれます。したがって、神様を恐れず、みことばを守って生きていないなら、いくらお金をたくさん儲けて、名誉や権力、知恵があっても、空の空なのです。結果は罪から来る報酬である死、地獄に落ちるしかないからです。 ヨブはこのような霊的な意味を知らないまま、人生は空しいと言っています。ヨブの言うとおり、人生は永遠の時間に比べれば日が短いです。しかし、霊的に見ると、神様を信じてみことばどおりに生きた人は、永遠のいのちを得て、天国で永遠に生きていきます。もちろん、神様を信じない人は地獄に落ちて、とこしえに苦しみながら生きていくことになります。 ヨブは、過去を考えてみれば幸せな時がたくさんあったのに、現在の苦しみのために過去の美しい思い出まで否定しています。信仰があるなら、たとえ今は試練に会っていても、過去に受けた祝福に感謝して、神様の答えを待ちながら未来を望まなければなりません。 そして、人生には心がかき乱されることでいっぱいだというのは、クリスチャンには合わない言葉です。聖霊を受けた神の子どもはいつも喜んでいて、楽しみがあふれます。一日過ぎれば、花婿なる主に会う日がそれだけ近づいて、熱心に働いたほど神の国と義が実現していくので、うれしくて楽しいのです。 私たちは花のようにパッと咲いては枯れていくのではなく、毎日、毎日、さらに新たになり、聖霊に満たされて、ますますたましいに幸いを得ていかなければなりません。第二コリント4:16に「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」とあるとおり、ますます真理と反対のものである肉を捨てて、御霊の人へと変えられていかなければならないのです。 第一ペテロ1:24~25に「『人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。』 とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。」とあるように、永遠の天国に希望を置いて、主のみことばどおりに生きていかなければなりません。 このような生き方をすれば、健康の祝福はもちろん、いろいろな事故や危険から守られて、家庭や事業の場、職場において、入るときも出て行くときも祝福されるようになります。世で成功するだけでなく、天国でも永遠のいのちの祝福を受けるのです。 しかし、ヨブは御霊の人ではなく肉の人なので、このような神様の心を知らなかったのです。それで、考えることも言うことも肉的な姿でした。 2. 神様を否定して信仰のみわざを遮ってしまうヨブ 「あなたはこのような者にさえ、あなたの目を開き、私をご自身とともに、さばきの座に連れて行かれるのですか。だれが、きよい物を汚れた物から出せましょう。だれひとり、できません。」(ヨブ14:3~4) ヨブの言うとおり、神様が目を開き、ヨブを見ておられるということは合っていますが、神様はさばこうとされるのではありません。神様がヨブを連れて行ってさばかれたのではなく、ヨブが自分からさばきを招いているのです。 神様は人の子らを愛しておられるので、炎のような御目で見ておられます。私たちを救おうと、また罪から立ち返って聖められて神様の愛される子どもにするために探っておられます。 ところが、ヨブは先祖から聞いて力ある神様は漠然と知っていただけで、愛の神様については知らなかったので、勝手に誤解してさばいています。 また、ヨブは「だれが、きよい物を汚れた物から出せましょう。だれひとり、できません。」と決めつけています。これは神様の力を否認して、神様を無視する言葉です。ヨブの高ぶりがうかがえる言葉で、なおさら正しくありません。 私たちの神様はどんなことでもおできになります。私たちがイエス・キリストを受け入れる前は、闇の子どもであり、汚れの中にいました。しかし、イエス・キリストを信じる者に、神様は聖霊を賜物として遣わしてくださり、汚れをきよめて、神様の子どもにしてくださいました。ヨブはこのような神様を否定して、信仰のみわざを遮ってしまっています。 3. 神様がすべてを勝手に定めておかれたと抗議するヨブ 「もし、彼の日数が限られ、その月の数もあなたが決めておられ、越えることのできない限界を、あなたが定めておられるなら、彼から目をそらして、かまわないでください。そうすれば、彼は日雇い人のように自分の日を楽しむでしょう。」(ヨブ14:5~6) ヨブの考えでは、神様は予定しておいて、人を生かしも殺しもするなど、思いのままにする方でした。したがって、ヨブも神様が予定しておいて、このように苦しめたと決めつけているのです。そして「神様、私は女から生まれたつまらない者だから、もう構わないでください。そうすれば、何の自由もなく、言われたことだけする日雇い人のように人生を終えるでしょうから、その方が楽なのです」と言っているのです。 日雇い人とは、その日その日労働の代価として賃金をもらって生きていく人です。決められた時間は雇い主が言うとおりに働かなければならないので、自由がありません。 しかし、神様は人間を日雇い人のようには造られませんでした。自由意志を下さったので、人は自分の意志によって選択して生きていくのです。神様が強制的に人の心を動かすのではなく、人が自由意志をもって善を行ったり、反対に悪を行ったり、また愛したり、ねたんだりするのです。人は、このようなすべての行いに対するさばきをそのまま刈り取るようになります。 私たちが神様のみことばを誤解すると、ヨブのように、自分が間違っていても全部神様のせいにしてしまいます。 たとえば、自分の実力が足りなくて大学に落ちたのに、まるで神様が落としたかのように思ったり、落ちるのが神様のみこころだと言って、責任を神様に転嫁する場合があります。このような心ならば、心から感謝が出てこないし、自分の過ちを発見することもできないのです。 生きている間に試練に会うなら、必ず理由があります。苦しみに会うのも、正確な公義の法則に従って必然的に起こることなのです。真理に照らしてみれば、神様がそのように仕向けたのではなく、人が神様のみことばに逆らうことをして、自分から招いた結果なのです。 霊的な人は、たとえ目の前の道が完全にふさがっていて、死の陰の谷を歩いているようでも、信仰の告白をして神様により頼みます。 たとえば、預言者ヨナはニネベに行きなさいと言われた神様のおことばに聞き従わないで、タルシシュに逃げました。激しい暴風の中、海に投げ込まれて大きな魚にのみ込まれました。この時、ヨナは絶望したのではなく、三日間神様の前に徹底的に悔い改めました。そして感謝の祈りをささげると(ヨナ2:9)、神様は大きい魚をつかさどってヨナを陸地に吐き出すようにされました。 このように感謝できない状況でも感謝すれば、神様の心が動かされるのです。これとは反対に、ヨブは恨みと不平をやめず、否定的な告白をして神様のみわざを遮ってしまっています。 ところで、ヨブは予定の神様だと誤解しているのが問題であって、神様のみことばどおりに生きていこうとする心は潔白で正しかったのです。それで、神様は試練に会わせて、ヨブの誤解を悟らせて正そうとしておられるのです。 愛する聖徒の皆さん、 ヨブはこの地上での人生で終わりだと思っていたので、天国への希望がありませんでした。しかし、私たちはこの地上での人生はつかの間であり、永遠の天国があることを知っているので、希望を持って毎日信仰によって歩めます。たとえ試練や患難がやって来ても、信仰で耐え忍び、感謝して神様のみこころを探そうとします。 この地上に希望を置いて生きている人々には、一日一日がますます死に近づく時間ですが、天国への希望のある私たちには、一日が過ぎれば、それだけ父なる神様にお目にかかる日が近くなるのです。 したがって、新しいエルサレムへの希望をもって、いつも喜んでいて、すべての事について感謝し、毎日信仰によって勝利しますよう、主の御名によって祈ります。
「ヨブ記講解(31)- 霊的知識の重要性」
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記13:20~28
きょうは霊的に無知なので神様に抗議するヨブの姿を見て、霊的知識がどれほど重要なのか伝えます。
1. 霊的知識がなくて神様におびえるヨブ
「ただ二つの事を私にしないでください。そうすれば、私は御顔を避けて隠れません。あなたの手を私の上から遠ざけてください。あなたの恐ろしさで私をおびえさせないでください。」(ヨブ13:20~21)
前回でヨブは、自分と論じる資格があるような人はいないと言いました。ですから、今は神様と自由に論じ合えるように、二つの事をしないでくださいとお願いをしています。一つは神様の手を自分の上から遠ざけてくださいということで、もう一つは神様の恐ろしさで自分をおびえさせないでくださいということです。神様がもし手を出さないで、その恐ろしさでおびえさせなければ、神様の前に訴えて問い詰めることがたくさんある、ということです。
ヨブは試練に会う前も神様におびえていたので(ヨブ3:25)、死より大きい苦しみの中にある今は、なおさらおびえるしかありません。これは、自分で自分は正しい人だと思っていたし、霊的な知識がなく、真理について間違って知っていたからです。自分に霊・たましい・肉を下さった父であり、愛と公義によって治める神様なのに、神様についてよくわからないからおびえるのです。
ヨブは正しい自分に何の理由もなく試練を与えた神様だと誤解しているので、もし神様の許可なしに言いたいことを全部言ってしまえば、さらに苦しめられるのではないかと怖がっています。もし言いたいことを全部言えるようにされるなら、ヨブは今までよりもっと激しい言葉をぶちまけるでしょう。
私たちが心から神様を愛するなら、どんな試練や患難に会っても、つぶやいて神様を悲しめたりしません。不満をぶちまけて腹を立てるからといって、問題が解決されるのでもなく、かえって神様の前に罪の壁を作って、敵である悪魔・サタンにあざけられるようになるのです。 かといって、無理に我慢するのも正しいことではありません。バネをぎゅっと押さえておいてから手を離せば、突然はね上がります。このように、悪を押さえて我慢していると、いつかは爆発するものです。最初から我慢することがないように、心を善に、愛に昇華させていかなければなりません。 また、天国への希望をもって耐え忍ばなければなりません。私たちの国籍は天にあって(ピリピ3:20)、やがて主が来られると、涙も悲しみもない天国で言葉にできない栄光と幸せを永遠に味わうでしょう。これを信じるならば、たとえこの地上で苦しいことがあっても、信仰によって打ち勝ち、喜んで走って行くことができるのです。 2. 神様に抗議するヨブ 「呼んでください。私は答えます。あるいは、私に言わせ、あなたが私に答えてください。私の不義と罪とはどれほどでしょうか。私のそむきの罪と咎とを私に知らせてください。」(ヨブ13:22~23) 神様が自分をおびえさせないようにしてから「ヨブ」と呼ばれれば、私は答えます。その次は神様が言いたいことを言ってください、という意味です。神様のお許しさえあれば「なぜ悪者は栄えさせて、正しい私にはこのように苦しみを受けさせるのですか」と大胆に問い詰めるつもりだと言っているのです。 そして、ヨブは「いくら調べても私には不義も罪もないのに、どうしてこんなに厳しく懲らしめられるのですか」と抗議します。 聖徒の皆さんの中には、自分の過ちで苦しみに会ったのに「神様、なぜ私にこのような苦しみを与えるのですか。なぜつまずかせるのですか」と問い詰めるようなことがあってはいけないでしょう。 ある人は自分では誠実に生きてきたと思っているのに、問題が解決されなかったり、事業がうまくいかなかったりすることがあります。この時、自分は最善を尽くしたから何の過ちもないと考えることもあるでしょう。 しかし、神様はこんな場合でも自分の妥当性を主張するのは正しくないと言われます。神様は、たましいに幸いを得ているほど、すべての点でも幸いを得るようにしてくださる方です。みことばどおりに行えば、かしらとなり、貸すであろうが借りることはないようにしようと約束されました。 聖書には健康の秘訣、祝福の秘訣が詳しく書かれているので、病気だとか経済的に何か問題があるなら、必ずみことばから答えを見つけなければなりません。 ところが、ヨブはこのような霊的な知識が足りなかったので、答えを得られないまま、ずっと間違ったことばかり言っているのです。 3. 試練がやって来た時はイエス様から目を離さないでいなければ 「なぜ、あなたは御顔を隠し、私をあなたの敵とみなされるのですか。」(ヨブ13:24) これもまたヨブの誤解から出ている言葉です。神様はヨブに御顔を背けられたこともなく、ヨブを敵とみなされたこともありません。いつも炎のような御目で見守っておられ、ヨブが口から出す一言一言を聞いておられます。 神様はヨブに悔い改めて立ち返れる機会をたくさん下さいました。友だちを通して真理のみことばで悟らせたのですが、ヨブは一言も受け入れなかったのです。自分だけ正しいと主張して、かえって相手を非難して責めていました。 では、私たちに試練がやって来た時は、どうすべきでしょうか。 信仰の創始者であり、完成者であるイエス様から目を離さないでいなければなりません(ヘブル12:1~3)。イエス様は被造物の手でむち打たれ、さげすまれてあざけられました。しかし、ご自分が十字架を負うことで神様の御座の右に着座されることと、地上のすべての民に救いのみわざが起こることをご存じだったので、このためにはずかしめをものともせずに、最後まで忍ばれました。ついに全人類の罪を代わりに負って十字架で死なれましたが、三日目によみがえられることで救いの道を開いてくださいました。神様は、ただ愛をもって死にまで従い、信仰によって勝利されたイエス様を王の王、主の主として立ててくださいました。 私たちもイエス様のように父なる神様のみこころを正確に悟って、どんな試練も患難も忍耐して勝利しなければなりません。 それでは、神様が子どもたちについて望んでおられることは何でしょうか? それは傷もしみもなくきよいまことの子どもを得ることです。 しかし、多くの聖徒が罪を捨てて聖められるべきだとは知っていますが、罪と血を流すまで戦うのは大変だと思います。聖書のすべてのみことばを守り行うべきなのに、そうしないまま自分は信仰生活をちゃんとしていると思う人も多いです。簡単に嘘を言っておいて罪だと思わないし、親、配偶者、職場の同僚などが自分の気に入らなければ、憎んでいるのに、それがみことばに聞き従わなかった罪だとは思いません。真理に対する無知ゆえなのです。 「しなさい、守りなさい、してはならない、捨てなさい」というみことばに聞き従わないから懲らしめが来るのに、霊的知識が足りないので悟れません。懲らしめを通して子どもたちが罪と悪から離れて光の中へと出てくることを望んでおられる神様の愛を知らないまま、つまづいてしまう人もいます。 子どもがぐれていくとき、親が叱って懲らしめるように、神様もご自身の子どもが罪を犯したとき、懲らしめてむちを加えられます。もし懲らしめがないなら、神様の本当の子どもではなく私生子だと聖書にあるので、私たちは懲らしめを受けた時は、神様の愛であることを悟って、感謝しなければなりません。 イエス様が忍耐をもって赦しを与えながらその道を歩まれたことを思って、口からは悪ではなく善を出して、すべての事について感謝して、周りに恵みを与える姿になりますように。 4. 若い時の咎の代価として災いを与える神様だと誤解するヨブ 「あなたは吹き散らされた木の葉をおどし、かわいたわらを追われるのですか。実にあなたは私に対してひどい宣告を書きたて、私の若い時の咎を私に受け継がせようとされます。」(ヨブ13:25~26) ヨブは自分をいのちある枝から離れた者だと思っているので、取るに足らない木の葉やわらにたとえています。風に吹き散らされた木の葉のように孤独で寂しい存在であり、乾いたわらのように何の希望もない存在だというのです。 ヨブは、自分が死ぬことも生きることもできない、気力も希望もない落葉にすぎず、人の足で踏まれるわらにも劣る存在なのに、神様が追いかけてきて苦しめていると訴えています。まるで力の強い横綱が3~4歳の子どもを相手にしているようだと非難しているのです。 ヨブは今までの人生を省みて、何の過ちもありませんでした。おとなになった時は一家の長として、父として、夫として誠実に生きてきたし、多くの人に施しをして正しく生きてきただけで、何の過ちも発見できなかったのです。ですから、神様は分別のない若い時に犯した罪まであばき出して懲しめていると考えているのです。 これはどれほど悪い神様だとけなす言葉でしょうか。神様は、私たちがイエス・キリストを救い主として受け入れたとき、過去のすべての罪を赦してくださいました。私たちが罪を悔い改めて立ち返るならば、神様はその罪を思い出すこともなく、主の尊い血で洗いきよめてくださるのです。しかし、このような神様の愛を知らないヨブの言葉はますます激しくなります。 「あなたは私の足にかせをはめ、私の歩く小道をことごとく見張り、私の足跡にしるしをつけられます。そのような者は、腐った物のように朽ち、しみが食い尽くす着物のようになります。」(ヨブ13:27~28) 「私の足にかせをはめ、」とは、神様がヨブのいのちに足かせをはめられたという意味です。つまり、生きたくても生きられないし、死にたくても死ねないし、自由意志もなく、身動きできないように神様がしてしまわれた、ということです。神様が、何の分別もなかったヨブの若い時の咎まであばいて、いのちまで取ろうとしておられる、というのです。 また、神様が自分の足跡にしるしをつけて、腐った物やしみが食い尽くす着物のようにしてしまったと抗議しています。 皆さんの中には、真理の足かせにはめられているように感じている方はいないでしょうか? 主日には旅行もしたいのに、教会に来て礼拝をささげなければならないし、好きなテレビ番組やスポーツの試合が中継される時間に祈らなければならないから、きついでしょうか? 真理は私たちを縛る鎖ではなく、闇の中の灯のように祝福の道に導いてくれるものです。私たちがみことばのうちにとどまっていれば、真理が心を満たして、真理による自由を得るようになります(ヨハネ8:32)。 このように真理の自由を得た人は、この地上でしばらくは狭い道を歩んでいるようでも、天国への希望で心が満たされています。神様が行ったとおりに報いてくださることを信じるので、喜びと感謝で信仰生活ができるのです。 ですから、永遠の天国で父なる神様と花婿なる主と思う存分愛を分かち合って生きていく日を望みながら、さらに真理にあって幸せな信仰生活をしますように。 次の時間に続いて伝えます。
「ヨブ記講解(30)-高ぶりの極みを見せるヨブ」
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記13:6~19
きょうも前回に続き、高ぶりの極みを見せるヨブの姿によって自分を省みて、神様の望んでおられる姿が何かを調べてみましょう。
1. ヨブの論争と訴え
「さあ、私の論ずるところを聞き、私のくちびるの訴えに耳を貸せ。あなたがたは神の代わりに、なんと、不正を言うのか。神の代わりに、欺きを語るのか。神の顔を、あなたがたは立てるつもりなのか。神の代わりに言い争うのか。」(ヨブ13:6~8)
「論ずる」とは、互いに意見を戦わせる、論争するという意味です。聖書には言い争ってはならないとあるのに(第一テモテ6:20)、ヨブは神様と論じ合ってみたいと言い、友だちに自分の訴えを聞きなさいと言っています。白黒をつけて自分は間違っていないことを明らかにして、正当化したいのです。
真理にあって生きていく人は、不当なことをされても、訴えたり言い訳したりしないで、まことの審判者である神様を望んで、黙々と耐えてみことばどおりに行っていくだけです。
イエス様は不当な仕打ちにあわれた時も、ただ神様にゆだねて祈られただけで、誰とも言い争ったり訴えたりされませんでした。このように、言い訳したり訴えたりせずに、神様ご自身が働かれるようにゆだねなければなりません。どんな誤解をされても、自分を省みて、喜びと感謝をもって行うなら、神様が助けてくださって誤解が解け、敵をも和らがせてくださいます。
「欺き」とは、言葉巧みにうそを言って、相手に本当だと思わせること、だますことです。ヨブは自分を指摘する友だちに、欺きを語る者だと責めています。
神様のみことばのとおりに歩めない人が誰かに神様のみことばをもって悟らせるなら、かえって神様の栄光を遮ることになります。したがって、ヨブは友だちに向かって「あなたがたは真理のとおりに行ってもいないのに私を指摘しているから、偽り者ではないのか。そんなあなたがたがどうして神様の代わりに不正を言うのか。巧妙に神様を欺こうとするのか。神様はあなたがたの心を全部見ておられる。」このような意味で問い詰めているのです。
それなら「神の顔を立てるつもり」とはどんな意味でしょうか。 誰かの顔を立てるとは、面目が保たれるようにする、体面が傷つかないようにするという意味です。ヨブは友だちに、偽り者であるあなたがたがどうしてあえて神様の代わりになろうとするのかと言っているのです。どうしてあなたがたが聖なる神様に代わって、神様のみことばをもって自分と言い争おうとするのか、ということです。 「神があなたがたを調べても、大丈夫か。あなたがたは、人が人を欺くように、神を欺こうとするのか。もし、あなたがたが隠れて自分の顔を立てようとするなら、神は必ずあなたがたを責める。神の威厳はあなたがたを震え上がらせないだろうか。その恐れがあなたがたを襲わないだろうか。」(ヨブ13:9~11) ヨブは友だちに「あなたがたは人は欺くことはできても、心を調べる神様を欺くことはできない」と言っているのです。ヨブは友だちの弱点をつかんで責めています。彼らがこれ以上言い返せないように言い負かそうとしているのです。友だちの目には梁があるのに発見できず、自分の目の中のちりを指摘していると悟らせているのです(マタイ7:4)。 ここでも自分自身の姿はどうなのか省みますように。皆さんがひどい苦しみに会っているとき、ある聖徒が神様のみことばでアドバイスをしてくれるとしましょう。この時、顔には出さなくても、心の中ではその人が憎らしいと思ったり、嫌いになったり、そのアドバイスが気に障ったりするなら、これも高ぶりなのです。 ここで「隠れて自分の顔を立てようとする」とは、偽善をもって真実で謙虚に神様を仰ぎ見ない人のことです。こういう人は責められます。しかし、神様の前にへりくだっている人は、神様の声を聞くことができます。 今日も、私たちが聖霊の声を明らかに聞くには、へりくだっていなければなりません。聖霊様が私たちに神様のみこころを悟らせてくださっても、高ぶっているなら、その声が聞けないからです。 それなら、もしヨブの友だちがへりくだっていて神様の声が聞けるなら、神様は彼らに何と言われるでしょうか。彼らの偽りと偽善、本人は言行が一致していないのにヨブをむやみにさばいて責め立てた姿などを叱責されるでしょう。 皆さんが誰かをさばいて量るなら、自分も必ずさばかれて量られるようになり、敵である悪魔・サタンも皆さんを訴えるようになります(マタイ7:1~2)。もし自分の目に他の人のちりが見えるならば、自分の目にはそれと比べられないほど大きい梁があることを悟らなければなりません。まず自分の目にある梁を取りのけてこそ、きよい目になって、兄弟の目の中にあるちりも取り除くことができます。自分の目に梁がある人が相手のちりを取り除こうとすれば、その言葉がとがったとげになって相手を苦しめます。 ヨブは、神様が友だちを責められるとき、その威厳があなたがたを震え上がらせないだろうかと言います。ヨブは、神様が威厳があって恐ろしい方で、その威厳がどのようなものか知っていました。しかし、愛なる神様は知らないまま、予定の神様だと誤解して、今恐れているのです。 私たちの神様は愛なる方ですが、公義の神様でもあります。それで、聖書を読むと、神様を愛する人であっても、神様のみことばを犯して罪を犯せば、厳しい試練に会ったことがわかります。 ダビデは神様に愛されて認められていましたが、彼がイスラエルの王になった後、平安になったとき、本性の中にあった悪が現れました。忠臣ウリヤの妻を召し入れ、これを隠ぺいするためにウリヤを戦場の最前線に立てて、異邦人の手で死なせたのです。その後、愛する子どもが死に、息子の間で殺人事件が起きたし、ある息子はクーデターを起こすなど、ダビデは実に厳しい試練に会わなければなりませんでした。 このように神様は、愛する者であっても罪については厳しく責めて、立ち返るようにされます。私たちが神様のみことばを守らないとサタンが訴えて、試練や患難が伴うことを心に留めなければなりません。罪人たちのためにひとり子を犠牲にするほど愛の豊かな神様であるだけでなく、悪を蒔いた者には悪の実を、善を蒔いた者には善の実を刈り取らせる公義の神様だからです。 2. 高ぶって自分が正しいと主張するヨブ 「あなたがたの格言は灰のことわざだ。あなたがたの盾は粘土の盾だ。黙れ。私にかかわり合うな。この私が話そう。何が私にふりかかってもかまわない。」(ヨブ13:12~13) これまでヨブの友だちは自分なりに最善を尽くして神様のみことばを引用してヨブを悟らせようとしました。しかし、ヨブは彼らの話を真理として受け入れるのではなく、一つの格言かことわざとしか思いませんでした。 友だちがたとえ完全でなかったとしても、彼らの助言の中には神様のみことばが含まれているのに、ヨブはこれを単なる人の格言かことわざ程度に考えているので、どうして悟れるでしょうか。 今までヨブと友だちは互いに言い争って、攻撃と防御を繰り返してきました。ところが、ヨブは、友だちが防御する盾はすぐ壊れてしまう粘土の盾にすぎないと決めつけているのです。 このように人が高ぶってしまえば、神様のみことばも耳に入りません。または、神様のみことばを一つの格言くらいに、ただ耳障りの良い人間の言葉くらいに受けとめます。ことわざや格言でも教訓が込められた話は聞かなければならないのに、神様のみことばさえも人の言葉のように聞こえてしまうのです。 「それゆえ、私は自分の肉を自分の歯にのせ、私のいのちを私の手に置こう。見よ。神が私を殺しても、私は神を待ち望み、なおも、私の道を神の前に主張しよう。神もまた、私の救いとなってくださる。神を敬わない者は、神の前に出ることができないからだ。あなたがたは私の言い分をよく聞け。私の述べることをあなたがたの耳に入れよ。今、私は訴えを並べたてる。私が義とされることを私は知っている。私と論争する者はいったいだれだ。もしあれば、そのとき、私は黙って息絶えよう。」(ヨブ13:14~19) 今ヨブは自分のことを訴えています。まず「自分の肉を自分の歯にのせ」、みずから苦しみを招こうと言っています。そして「私のいのちを私の手に置こう」、つまり自分で自分のいのちを絶とうというのです。これは「私には何の過ちもないのに、どうせ神様が私のいのちを取ろうとされるんだから生きる望みがない。だからこそかえって私は神様の前で主張する。」つまり「白黒をはっきりさせて、これまで私がよくやったことを一つ一つ申し上げて、私には何の過ちもないことをはっきりさせる」と言っているのです。 「神を敬わない者は、神の前に出ることができないからだ。」とは、神様に逆らう者は神様の前に出ることができない、ということです。そして、「神もまた、私の救いとなってくださる。」と言いましたが、これはヨブ自身は神を敬わない者ではなく義人なので、神様の前に救われるべきだという意味です。 ヨブは相変わらず自分は正しいと主張しています。そして、自分が説明するから、あなたがたは聞いて悟れというのです。ヨブはこれまで、自分は正しい人で罪を犯したこともないし、悪いことをしていないと訴えてきました。 「私が義とされることを私は知っている。」とは、たとえ友だちが認めてくれなくても、自分で自分の行いを見ると正しい人だと自負できるということです。ですから、このように正しい自分と論争できる者はいないと言っています。 自分より正しい人こそ自分を指摘してくれなければならないのに、そんな人がいるかということです。もしいるなら「私は黙って息絶えよう。」と言います。つまり、その前で降参するというのです。 ヨブは誰かに悪を行ったことがなかったので正しい人だと思っていますが、これは真理を正しく知らなくて、罪に対する基準が違うからです。ヨブの基準から見れば、自分の方が先に人を殴ってののしるなら悪ですが、もし人が自分を殴るなら自分も立ち向かって殴り、人がののしるなら自分もののしるならば、罪ではありません。 しかし、マタイの福音書5:39~42に「しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。求める者には与え、借りようとする者は断らないようにしなさい。」とあります。 ヨブの友だちはヨブの下着を取ろうとしたのでもないし、一ミリオン行けと強いたのでもありません。ヨブのみじめな身の上を聞いて、遠くから駆けつけて七日間悲しみ、ヨブを慰めて神様のみことばで悟らせようとしただけです。 それなのにヨブはそういう友だちを相手にする価値もないと非難しているので、決して正しい人の姿だとは言えません。ヨブは右の頬を打たれたなら左の頬も向けるのではなく、かえって二倍、三倍に仕返ししているのです。 また、ヨブはこの世に誰が自分より正しい人がいて、自分と論争できるのかと言っていますが、これは高ぶりの極みです。ヨブの言うとおりなら、論争する相手は神様おひとりしかおられません。ですから、次にヨブは神様と論じ合おうとします。 次の時間に続いて伝えます。
「ヨブ記講解(29)-高ぶりの極みを見せるヨブ」
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記12:22~13:9
きょうは高ぶりの極みを見せるヨブの姿によって自分を省みて、神様のみこころが何か調べてみます。
1. 予定の神様だとさばくヨブ
「やみの中から秘密をあらわし、暗黒を光に引き出す。神は国々を富ませ、また、これを滅ぼし、国々を広げ、また、これを連れ去り、」(ヨブ12:22~23)
「やみの中から」とは、隠されている状態を表現しています。ヨブは先祖から神様について聞いて知っているだけで、神様を見つけて体験したことがなかったので、神様の存在をぼんやりと認識していました。神様の恵みと愛も漠然と感じているだけでした。
このように神様についてすべてがぼんやりした状態で、ヨブは自分なりに神様を信じて従ってはいました、しかし、今はどんな神様なのかはっきりしたというのです。神様はあらかじめ定めておいて、やみの中から秘密を現わすことによって、自分に厳しい試練や患難が臨むようになったと思っているのです。
ヨブは先祖の生き方や自分の境遇を見ても、あらかじめ苦しみに会うように定めておられたと強く批判しています。しかし、私たちは予知して予定される神様が人類を救うための摂理に従ってすべての歴史をつかさどっておられることを知っています。イスラエルの歴史を見ても、異国を用いてイスラエルを試練に会わせられたのは、何としてでも民が偶像を捨てて、まことの神様のもとに帰れるように導く、神様の切なる愛でした。
「暗黒を光に引き出す。」とは、ヨブが前は明るい世の中で輝くような暮らしをしていたのに、あっという間に死が自分に迫ってきたということです。神様が光の中にいた自分を、暗黒の死んだような状態に置かれたと言っているのです。これもまたヨブがひねくれて神様を誤解してさばく言葉です
神様は闇の中にある私たちの罪を明るみに出して捨てられるようにされ、私たちを新しく変えられるようにしてくださいます。暗黒を光に引き出して苦しめるのではなく、やみの中から引き出して、いのちと光を下さる神様です。 私たちは、神様を知る前は世の闇の中で生きていました。ところが、神様が上から光を照らしてくださったので、私たちが心の戸をあけて、光である神様のみことばを受け入れるようになりました。それで、闇から光へと出て来ていのちを得、永遠のいのちの道を歩めるようになったのです。 このように慈しみ深い神様をヨブは正反対に解釈しています。ヨブは本来知恵のある人なのに、不満と恨みがつのったら、神様を誤解して悪をもってさばく愚かな人になっています。負の感情というものがこのように恐ろしいということを悟って、心の中の不満や物足りない気持ちを大きくしないで、すべてのことで良いほうに思って自分を治めていきますように。 ある国が栄え、また滅びるのは、神様がそうさせたのではなく、独裁者が出てくるのも神様がそうさせたのではありません。しかし、ヨブは、これらすべては神様が定めておられたからそうなったのだと言っています。 もし神様がすべてを定めておいて強制的に行われるならば、人は自分の過ちで事業がつぶれても「神様が私に知恵を下さらないから…」または「神様が私の計画を狂わせたから…」と失敗の原因を神様のせいにするでしょう。 そして、罪を犯した後でも悔い改めないで、「神様が定めておかれたので私は罪を犯しました」と言えばいいでしょう。それなら、さばきの日に地獄の判決を受けた人も「神様が私を悪い人として造って罪を犯させたのではないですか」と言うでしょう。この時、神様がどう答えられるでしょうか。 ヨブはひねくれて神様を誤解してさばき、ますます愚かな考えで神様を非難しています。このように心に負の感情、悪があれば、その思いをサタンが支配するので、ますます悪に偏るのです。 「この国の民のかしらたちの悟りを取り除き、彼らを道のない荒地にさまよわせる。彼らは光のない所、やみに手さぐりする。神は彼らを酔いどれのように、よろけさせる。」(ヨブ12:24~25) ここで「かしら」とは、団体のリーダー、指導者、統治者、軍隊の長などを意味します。教会では主のしもべや働き人たちがこれに該当します。 ある組織のかしらになるためには、悟りが必要です。知恵も必要だし、頭の回転が早く、その一方で思慮深く、すべてにおいて慎重で、失敗があってはなりません。このような悟りがなくなるなら、かしらとしての資格を失うことになります。 ヨブは、自分は今まで人を教えるかしらだったのに、神様が悟りを取り除いてしまうと、もう何者でもなくなったということを、たとえで説明しています。それで神様はヨブを光のない所、やみ、すなわち死の陰の谷をさまよわせ、酔っぱらいのようによろけさせてしまったと言っています。 前回調べた内容とつなげて考えてみれば、ヨブは神様の全能さと偉大さを認めて、正しいことを言っているようでしたが、いつそう言ったかのように正反対のことを言います。 ヨブが正しいことを言う時は良い人のように見えたのですが、正しくないことを主張する時は悪い人のように見えます。まるで酔っぱらいのように、あちこちによろけている姿です。まだ自分の状態を悟れないまま、このように酔いどれのたとえまで挙げて、予定の神様、悪い神様だと言っているのです。 2. 高ぶりの極みを見せるヨブ 「見よ。私の目はこれをことごとく見た。私の耳はこれを聞いて悟った。あなたがたの知っていることは私も知っている。私はあなたがたに劣っていない。だが、私は全能者に語りかけ、神と論じ合ってみたい。」(ヨブ13:1~3) 「私の目はこれをことごとく見た。私の耳はこれを聞いて悟った。」とは、ヨブが今まで友だちの言ったことだけでなく、自分が言ったことを全部知っているということです。 ヨブは高ぶって友だちに「あなたがたが知っていることは私も知っている。あなたがたに劣ってはいない。もうあなたがたを相手にしたくない。全能者の神様と論じ合ってみたい」と言っているのです。ヨブは多くの人を教えて弱い人々を助けるなど、正しい行いをしていたので(ヨブ4:3~4)、自分は友だちより当然優れていると思っているのです。 ヨブは友だちの話を聞かないで、ますますそれて行きます。それは、友だちが完全な姿ではなく、感情的になってヨブを正そうとしたからです。ですから、友だちを信頼できなかったのです。 しかし、イエス様はみことばどおりに行っていないのに口の言葉だけはもっともらしいパリサイ人を叱責された後、弟子たちには「ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行い、守りなさい。けれども、彼らの行いをまねてはいけません。」(マタイ23:3)と言われました。したがって、私たちは悪い人の行いはまねてはいけませんが、その言葉が真理ならば「アーメン」と言って受け入れられる謙遜な心になりましょう。 ヨブは9章で、神様に呼んでも神様は聞いてもくださらないと言ったし、たとえ神様が聞いて答えてくださったとしても、自分は信じないと言いました。また、自分がどうして神様とことばを交わせようかとも言いました。 ところが、自分がこう言ったのを忘れて、今は神様と論じ合ってみたいと言っています。なぜヨブは言葉に一貫性がなく、ああ言ったりこう言ったりするのでしょうか。 これは、ヨブが自分の心を知らないまま、口から出てくるとおりに、考えていることをそのまま口にしているからです。ああ言ったりこう言ったりする、ずる賢い心があるのです。 私たちの周りでも、自分が言ったことを覚えていないことがどれほど多いでしょうか。ある人は同じ内容のことできのうときょうで全然違う話をします。これは、初めから嘘をついていたか、でなければ自分が言ったことを忘れてしまったのかのどちらかでしょう。私たちは何かの話をする時は心から出てくる言葉を口にすべきなのに、ただ思ったことをそのまま口に出してしまうから、自分が言ったことも覚えていないのです。 思ったことをそのまま口にする人は、きのう言ったことにも責任を負いません。私たちはいつも責任を負えるような言葉を口にしなければならず、口にしたら責任を負うべきです。 心が真っ直ぐでずる賢くなく、正しくて真実な人は、きのう言ったことときょう言った言葉が違うことはありません。自分の口の言葉はどうなのか、その言葉をどれほど守っているのかを省みても、心の中にある真理と反対のものを見つけることができるのです。 また、神様は人との間でも言い争ってはならないと言われましたが、ヨブは神様と論じ合ってみたいと言っているので、その心がどれほど頑なになっているのかがわかります。 「しかし、あなたがたは偽りをでっちあげる者、あなたがたはみな、能なしの医者だ。ああ、あなたがたが全く黙っていたら、それがあなたがたの知恵であったろうに。」(ヨブ13:4~5) ヨブは友だちのことをよく知っていました。友だちが偽りをでっち上げる人、真実でない人だったので、彼らの話を聞こうとしなかったのです。普段から友だちが言葉と行いが違う偽善者だということを知っていたのです。 もし病気を治す医者が偽りを言う人なら、どうしてその人に手術を任せることができるでしょうか。ヨブは友だちが脳なしの医者のように信じられないので、彼らに黙っていなさいと言います。また、黙っていることが知恵あることだと付け加えています。韓国に「黙っていれば損はしない」ということわざがあるように、いっそ何も言わないで黙っていれば、愚か者とは思われないということです。 ヨブは知恵が優れていたし、知識も優れていた人でした。その上高ぶっているので、誰があえてヨブを相手にして言い負かすことができるでしょうか。友だちのどんな助言も聞かないで、かえってさげすんでいるので、ヨブの高ぶりを誰が指摘することができるでしょうか。 神様がなぜひどい悪性の腫物ができるようにされたのか、ここでわかるのです。もし神様がそのように働いてくださらなかったなら、ヨブは決して神様に降参しなかったでしょう。 もし自分より認められている人が助言してくれるなら「アーメン」と言って聞き入れるのに、自分より劣ると思っている人が助言すると無視するなら、これは高ぶっているからです。相手の言葉を無視はしなかったとしても、悔しくなってムッとするなら、またはその言葉に傷ついたとすれば、助言や指摘を受けられない小さい器です。相手が誰であっても、その言葉が真理ならば謙虚に受け入れてこそ幸いな人であり、本当に神様を愛する人です。 愛する聖徒の皆さん、 高ぶっている人は他の人が正しいことを言っても聞かないで、自己主張だけします。高ぶりは真実を見る心の目をくらますので、みずから欺かれる場合が多いです。正しくない道を歩みながらも、自分は正しい道を歩んでいると思い、人が見て正しくないのに、自分はよくやっていると思います。したがって、すみやかに高ぶりを捨てて謙虚な人になり、神様と人から称賛と光栄を得る皆さんになりますよう、主の御名によって祈ります。
「ヨブ記講解(28)-自分の妥当性を主張するヨブ」
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記12:7~22
きょうは創造主の神様の力と神性を高めるふりをして、結局自分の妥当性を主張するヨブの本心について調べてみます。
1. 神様の力と神性を高めるヨブ
「しかし、獣に尋ねてみよ。それがあなたに教えるだろう。空の鳥に尋ねてみよ。それがあなたに告げるだろう。あるいは地に話しかけよ。それがあなたに教えるだろう。海の魚もあなたに語るだろう。これらすべてのもののうち、【主】の御手がこれをなさったことを、知らないものがあろうか。すべての生き物のいのちと、すべての人間の息とは、その御手のうちにある。」(ヨブ12:7~10)
神様はことばで天地万物を創造されました。天と海、地、山川草木など、万物に神様の力と神性を込めておかれて、誰でも創造主の神様を信じられるようにしてくださいました(ローマ1:20)。
神様はワシのように大きい鳥だけでなく、ハエや蚊、カゲロウのように小さい昆虫もうまく飛べるように造られました。ヨブはこのような神様の力と知恵を認めているので、獣、鳥、地、魚のうち「【主】の御手がこれをなさったことを、知らないものがあろうか。」と言っています。
次に「すべての生き物のいのちと、すべての人間の息とは、その御手のうちにある。」と言っていますが、ここには霊的な深い意味も込められています。
まず「生き物」とは、動物と植物を含めて息のあるすべてのものです。ここでヨブは「いのち」と「息」という単語を使っています。ヘブライ語の原文を見ると「いのち」には「たましい」、「息」には「霊」という意味があります。
私たちが「霊・たましい・肉」で学んだ「たましい」とは、脳の記憶装置とその中に保存された知識、そしてその知識を引き出す作用のことです。また「霊」とは、死んだり朽ちたりしないで変わらないもの、永遠にあるもの、いのち、真理そのものを言います。
ところが、ヨブはこのようなことを知らないので、自分が持っている知識だけで説明しています。ヨブが言っている「いのち」すなわち「たましい」はただの思考能力を意味し、「息」すなわち「霊」は、悟りを得てすべてを分別する力を意味しています。動物は本能によって生きているだけで、悟りを得たり、分別力を持つ力はありません。ですから、ヨブは神様は動物には考える力を下さって、人には悟りを得て分別力を持つようにしてくださった、このすべては神様の摂理によるものだ、という意味で「すべての生き物のいのちと、すべての人間の息とは、その御手のうちにある。」と言っているのです。 ところが、神様が教えてくださった「いのち」と「息」には先ほど言ったような霊的な意味があり、どちらも神様の御手のうちにあるということを覚えておきましょう。 「口が食物の味を知るように、耳はことばを聞き分けないだろうか。老いた者に知恵があり、年のたけた者に英知があるのか。知恵と力とは神とともにあり、思慮と英知も神のものだ。」(ヨブ12:11~13) 私たちの口の中に舌があって、苦い、甘い、塩からいなどがわかるように、耳には聴覚があって、音を聞き分けることができます。ヨブはこのような力を神様が人に下さったと言っています。 また「老いた者に知恵があり、」とは、人が年を取るほど経験を通して思考力や分別力、判断力が大きくなり、人生の知恵が増えることを言います。続いてヨブは「老いた者」と区分して「年のたけた者に英知があるのか。」と言っています。ここで「老いた者」とは、単に歳月が流れて老人になった人を意味しますが、「年のたけた者」とは「健康に長生きする人」を意味します。 「英知」とは、深く物事の道理に通じる才知という意味です。つまり、人生の経験を積んで、分別力と洞察力をもって事をやり遂げること、自分を望ましい人間へと高めていくことを言います。「思慮」とは、何かをやり遂げるために準備するすべてのはかりごとを言います。 ヨブは神様が老いた者と年のたけた者にこのような力を下さったと言うのです。続いてヨブは「知恵と力とは神とともにあり、思慮と英知も神のものだ。」と言っています。ここまではヨブが神様を高めているようで、その言葉は正しいです。しかし、本当にヨブが言いかったことは次の節にあります。 2. ヨブの本心 「見よ。神が打ちこわすと、それは二度と建て直せない。人を閉じ込めると、それはあけられない。見よ。神が水を引き止めると、それはかれ、水を送ると、地をくつがえす。力とすぐれた知性とは神とともにあり、あやまって罪を犯す者も、迷わす者も、神のものだ。」(ヨブ12:14~16) ヨブは、神様が打ちこわすと、二度と建て直せず、人を閉じ込めると、あけられないと言っています。これは、ヨブのように正しくて潔白で神様を恐れている人を、神様が厳しい試練で打ちこわして閉じ込めてしまったと言っているのです。 しかし、神様は何の理由もなく打ちこわしたり、人を閉じ込めたりする方ではありません。そういうことは敵である悪魔がすることであり、試練や患難、病気をもたらすのも敵である悪魔です(第一ペテロ5:8)。人が不義を行い、罪を犯せば、その報いとして敵である悪魔・サタンが試練をもたらすのです(創世記3:14)。 しかし、たとえ人が罪を犯して倒れたとしても、悔い改めて立ち返るなら、神様は赦して、また機会を下さいます。イエス様を三度も知らないと言ったペテロも、心を砕いて罪を告白すると、神の力を行うしもべとして立ててくださいました。 エジプトから出て来たイスラエルの民がカナンの地に入る旅路で、神の力で葦の海が分かれて、ヨルダン川の水がせきとめられたこと、それで民が海と川の乾いた地を歩いて渡ったことなどを、ヨブは聞いて知っていました。これについてヨブは「神が水を引き止めると、それはかれ、」と言っています。 また「水を送ると、地をくつがえす。」とは、洪水になると山崩れが起こって、地面が割れて地がくつがえされる現象を説明しています。神様は全能なので、地をくつがえすこともされ、あやまって罪を犯すことも、迷わすようにもされる悪い神様だと言っています。 あやまって罪を犯す者も、迷わされる者も、神様がそうさせたのですから、潔白で正しいヨブも神様からこのような苦しみを受けてさげすまれ、卑しめられているのだと訴えているのです。 ヨブはその前に神様の全能さと偉大さを表現しました。しかし、これは神様をあがめようとする目的ではなく、こういう力のある神様が正しい自分をこのように苦しめたのだと説明しているのです。友だちに悪い神様として認識させるために高度な作戦を使っているのです。 ヨブは、あやまって罪を犯す者も、迷わす者も、神のものだと言って悪い神様に仕立てていますが、私たちの神様は決してそんな方ではありません。世には「どうすれば楽して金を儲けられるだろうか、どうすれば人をだまして金持ちになれるだろうか」と悪知恵を使う人々がいますが、これはサタンが与える知恵です。偽りと欺きは敵である悪魔・サタンの属性だからです(ヨハネ8:44)。神様が私たちに下さる知恵はイエス・キリストを知る知恵、救われる知恵、聖められる知恵です。 「神は議官たちをはだしで連れて行き、さばきつかさたちを愚かにし、王たちの帯を解き、その腰に腰布を巻きつけ、祭司たちをはだしで連れて行き、勢力ある者を滅ぼす。」(ヨブ12:17~19) ヨブは信仰の昔の人々を通してイスラエルの歴史について聞きました。聖書を読むと、ある議官がいくら優れた策略を立てても、神様がそのはかりごとを打ちこわしてしまえば、何の役にも立たなかったことがわかります。 たとえば、アヒトフェルはダビデ王の臣下として非常に優れた議官で、戦略家でした。ところが、アブシャロムが反逆した時に、彼はダビデを裏切ってアブシャロムに加担しました。しかし、神様が彼のはかりごとを打ちこわそうと決めておられたので成功しなかったし、ついに勝利は神様がともにおられるダビデ王に帰しました。 また、周りの国が連合して数十万の軍隊でイスラエルに侵略して来ても、神様が働かれると同士討ちが起きて、一瞬にして滅びてしまったことも、ヨブは聞いて知っています。ですから、ヨブはいくら議官が良い知恵を出しても、神様がその知恵を打ちこわしてしまえば負けるしかないと言っているのです。 また、ヨブは神様は「さばきつかさたちを愚かにし、」と主張します。さばきつかさ、つまり裁判官は公平な裁判をしなければなりません。ところが、神様が裁判官が愚かな判決を下すようにさせるというのです。 ヨブが言いたいことは、神様は正しくないので、正しい自分をこのように苦しみに会うようにしたということです。神様は裁判官に愚かな裁判をさせる方なので、そういう神様も愚かなさばきをされるに違いないということを、たとえで説明しているのです。 「王たちの帯を解き、その腰に腰布を巻きつけ、」とは、神様が王の権力をなくすということです。ヨブはイスラエルの歴史で王たちも捕虜になって殺されたことを思い出して、このように言っているのです。 また、ヨブの目には正しく見える祭司たちも捕虜になったり殺されたりして、権力のある人々があっという間に滅びるのも歴史から知りました。ヨブはこれらすべてのことを神様がされたのではないかと、たとえを使って訴えているのです。 3. 自分の妥当性を主張するヨブ 「神は信頼されている者の弁舌を取り除き、長老たちの分別を取り去り、君主たちをさげすみ、力ある者たちの腰帯を解き、」(ヨブ12:20~21) ヨブが歴史を見ると、サウル王は神様の前に忠実で信頼されていたのに、神様は彼を退けたと思いました。しかし、サウルは高ぶりと私心をもって肉の思いを巡らして不従順を繰り返すことによって、結局神様が退けたのです。ヨブはこのような出来事に込められた神様のみこころがわからないから、「神は信頼されている者の弁舌を取り除」く方だとさばいているのです。 また、神様は長老たちの分別を取り去るのではなく、人が老いても健康で、さらに思慮深くあることを望んでおられます。ふつう人は年を取るほど記憶力が衰えたり、判断力が鈍くなります。ヨブはこれも神様がそうなさったのだと主張していますが、実は人が自分からそうなっていくのです。 モーセのように神様を愛して恐れる人は、年を取っても健康で頭が冴えていました(申命記34:7)。神様を信じない人々でも、心が良くて正しく生きている人はきれいに老いていくのが見られます。 「君主たち」とは、指導者の地位にいる人を言います。もしヨブが言うように神様が組織を導く指導者をさげすまれるならば、どれほど悪い神様でしょうか。しかし、そうではないのです。また「力ある者たちの腰帯を解き、」とありますが、ここで「腰帯」とは、その人を意味する象徴的なものを指します。たとえば、サムソンにとって腰帯は髪の毛でした。サムソンが髪の毛を切られてしまうと力を失い、両目がえぐり出されてあざけられました。 それなら、ヨブの強い腰帯は何だったのでしょうか。高い知識と知恵、富と名誉、多くの人を教えられる力、尊敬される地位などでした。ところが、神様がこんなに力ある自分の腰帯を解いてしまわれたと思っています。 ヨブは友だちが反論するのではないかと思って、まるで人の話をしているかのように遠回しにたとえを使っています。つまり「神様は君主たちをさげすみ、力ある者たちの腰帯を解く方だから、私の腰帯も神様が解いてしまわれたのではないか」と言っているのです。 愛する聖徒の皆さん、 ヨブも試練に会う前は、自分に悪があることを知らないほど行いの面では完全でした。心をご覧になる神様が練ってくださって、ヨブの本性の中にある悪を明らかにされたので、はじめて自分の本当の姿を発見するようになったのです。そして、一つ一つ捨てる過程を通して、神様が認める善の姿に変えられて、祝福を豊かに頂くようになったのです。 したがって、毎回メッセージでヨブの姿の中に自分を発見して変えられ、祝福されるような美しい心になりますよう、主の御名によって祈ります。
「ヨブ記講解(27)」
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記12:1~6
きょうは友だちの話に反論して、神様を誤解するヨブの姿から自分自身を発見して、神様のみこころが何かを調べてみましょう。
1. 友だちの話を皮肉って反論するヨブ
「そこでヨブが答えて言った。確かにあなたがたは人だ。あなたがたが死ぬと、知恵も共に死ぬ。」(ヨブ12:1~2)
ヨブの立場では、友だちが言っていることはばかばかしいのです。自分たちだけ正しいと言ってヨブを責めるので、ヨブははらわたが煮えくり返る思いでした。友だちが自分を教えていると思ったヨブは「あなたがたの話は正しくて、私の話は正しくないのか。じゃあ、私は人でもなくて、あなたたがだけが人なのか。あなたがたが死ぬと、知恵も共に死ぬのか」と皮肉を言っているのです。
ここでヨブが「あなたがたは人だ」と言った本当の意図は何でしょうか。互いに話が通じないから、イライラして「わかった、わかった」と一方的に話を打ち切っているのです。友だちが知識と知恵があるふりをしながら、自分を教えて無視していると思ったヨブは、はらわたが煮えくり返るようでした。それで、ひどく気を悪くして「あなたがたはそんなに知恵があるのか。じゃあ、あなたがたが死ぬと、知恵も共に死ぬんだね」と当てこすっているのです。
「私にも、あなたがたと同様に、悟りがある。私はあなたがたに劣らない。だれかこれくらいのことを知らない者があろうか。」(ヨブ12:3)
これは「私もあなたがたのように悟りがあって知恵がある。私はあなたがたより優れている。今まであなたがたが言ったことを私が知らないとでもいうのか。身の程知らずに私を指摘するのか」と言っているのです。互いが正しいと際限なく言い争っています。
しかし、神様は私たちに言い争ってはならないと言われました。夫婦の間でも、親子の間でも、嫁姑の間でも、そして聖徒の間でも、どんな状況でも言い争ってはいけません。 もし自分が正しいなら、まず相手に真理のみことばで悟らせて、それでも相手が悟れなければ、たとえを挙げて、それでも悟れなければ、そこでやめなければなりません。そうでなくて、腹を立てて言い争ったりするならば、互いに関係が気まずくなって、仲たがいまですることがあります。 ですから、相手が受け入れなければ、それ以上言い争わず、落ち着いて笑顔で話を終えて、次の機会を待たなければなりません。こうすると敵である悪魔・サタンが働けないし、神様の前に隔ての壁を作ることもありません。 2. 神様まで巻き込んで自己主張をするヨブ 「私は、神を呼び、神が答えてくださった者であるのに、私は自分の友の物笑いとなっている。潔白で正しい者が物笑いとなっている。」(ヨブ12:4) ヨブは友だちに腹を立てると、次に神様まで巻き込みます。たびたび人々は言い争うと、全然関係のない第三者を巻き込んだりします。ある牧師先生がこう言ったとか、ある働き人がこう言ったとか、神様がこう言われたとか、聖書のみことばにこう書いてあるとか言いながら、自分を正当化するのに利用します。相手が自分の話を聞いてくれないので、自分より地位が高くて、相手が認めるほどの人の言葉や聖書のみことばを引用するのです。 しかし、こういうとき、神様のみことばを引用するのは良くありません。なぜなら、真理のみことばには言い争ってはならないとあるのに、真理に背いて言い争っていながら神様のみことばを云々するのは、それ自体が間違いだからです。 ここでヨブが「私は、神を呼び、神が答えてくださった者である」とは、神様と交わりがあるという意味ではありません。 ヨブは先祖を通して神様について聞いて知っていました。神様の生きておられることと、神様が力ある方であることも知っていました。それで、時に応じて神様に全焼のいけにえをささげたし、子どもたちの代わりにもささげました。このようにヨブが全焼のいけにえをささげれば、神様がお受けになって、答えと祝福を下さることを知っていたので、このように説明したのです。 ところが、潔白で正しいヨブが全焼のいけにえをささげたところ、かえって友だちの物笑いになったと嘆いているのです。このようなヨブの言葉は正しくありません。神様に正しく仕えた昔の信仰の人々は人にも認められてほめられたのであって、決して物笑いにはならなかったのです。 神様を愛して愛される人は異邦人も恐れたのが見られます。エジプトの王パロも預言者モーセに頭を下げました。イスラエルの民がモーセにつぶやいた時も、神様はモーセの肩を持ってくださいました。 もちろん、真理を聞くのを嫌って、神様のみこころに聞き従わない人々は、神様の預言者を嫌います。闇が光を嫌うのと同じです。しかし、こういう時も神の人々は神様が守って支えてくださり、結局高くしてくださいます。 預言者エレミヤは神様のみこころを宣べ伝えて民にあざけられるように見えましたが、いつも神様がともにいてくださいました。バビロンの侵略によってエルサレムが陥落して、多くの人が捕虜として連れて行かれたり殺されたりしても、エレミヤは命が守られただけでなく、かえってバビロン王からよくしてもらいました。 たとえ悪い人々が神の人を迫害しても、心では認めるのです。神の人はどこででもみことばの中で正しく生きていてキリストの香りを放つので、物笑いの種とはならないのです。 3. 悪い者を祝福する神様だとさばくヨブ 「安らかだと思っている者は衰えている者をさげすみ、足のよろめく者を押し倒す。」(ヨブ12:5) ヨブは、自分は災いにあって苦しんでいるのに、友だちは心配も悩みもなく安らかなように見えました。ですから、安らかだと思っている友だちが災いにあって衰えているヨブをさげすんでいると言うのです。 ヨブはこのように友だちの助言を聞きたがらずに反論します。そして、「足のよろめく者を押し倒す」と言っていますが、これはヨブが押し倒された者であり、災いの中にあることを言っています。つまり、ヨブは潔白で正しいのに、そんな自分に災いが来て悔しいのです。 これまでヨブの友だちの話には真理と反対のものもありましたが、真理もありました。ですから、ヨブが友だちの助言を聞き入れて従っていたならば、災いは退いたでしょう。しかし、ヨブは友だちがいくら真理をもって説明しても、自分だけ正しいと主張して無視し続けるので、相変わらず災いの中で苦しみを受けるしかなかったのです。 「荒らす者の天幕は栄え、神を怒らせる者は安らかである。神がご自分の手でそうさせる者は。」(ヨブ12:6) 真理を知らない世の人々は「いい人はうまくいかないで、かえって悪い人のほうがうまくいく」と言います。しかし、善そのものである神様は心の良い人を愛してくださり、悪い人を愛されるはずがありません。また、公義の神様は正しい者を成功させてくださる方です(箴言12:2)。 ところが、ヨブは真理と反対に神様を悪い神様だと決めつけています。「荒らす者の天幕は栄え、神を怒らせる者は安らかである。」これは神様がご自分の手でそうさせているということです。そして、自分のように正しい者には災いが臨んだと言っているのです。どれほど神様を悲しませる言葉でしょうか。 ヨブは最初からこのように悪を口から出したのではありません。だんだん感情がエスカレートして、ますます心の悪が現れて、このような結果を生むようになったのです。 神様を信じると言う人の中にもこういう場合があります。初めは神様を愛すると言いながら熱心です。ところが、祈っても答えがなければ、だんだん熱心が冷めてしまって、祈らなくなります。すると周りから真理のみことばで勧められたり、訓戒されたり、叱責されたりします。それなのに受け入れられないと、つい口から真理と反対のことを言ってしまいます。 こういう場合、すみやかに悔い改めて立ち返ってこそ、敵である悪魔・サタンが離れます。そうでなければ、サタンがその負の感情をあおって、ついには自制できなくなってしまうのです。そうなると悔い改めようとしてもできないから、ヨブのように激しい風のような言葉をぶちまけるのです。 このように神様を悲しませることを言い続けると、結局守られなくて、災いが臨むようになります。ですから、真理が自分を照らしてくれる時に、すみやかに悔い改めて立ち返る知恵ある皆さんになりますように。 私たちの神様はヨブが考えているように決して悪い神様ではなく、愛と公義の神様です。皆さんの中にも、ひょっとして「今、世の中を見てみると、悪い人たちがうまくいって、不正な方法で儲かることが多いようだ」と思ったり、「悪を行う人が平安でうまくいっているようだが」と疑問を抱く人がいるでしょうか。 しかし、ルカ16章に出てくる金持ちは地獄に落ちて、神様を恐れていたラザロは天国に行きました。いっそ貧しくなってでも、神様のみことばを守り行って天国に行くことが祝福です。つかの間この世で生きているとき、もっと良いものを食べて、着て、楽しんでいて、地獄に落ちてはいけません。 また、詐欺など不正な方法で儲けた人はどうして心に平安があるでしょうか。いつも不安で心配、悩みが離れません。もちろん、彼らも悪が度が過ぎると、この地上でも突然災いが臨んで、さばきを受けるようになるのです。 したがって、詩篇37:1に「悪を行う者に対して腹を立てるな。不正を行う者に対してねたみを起こすな。」とあるとおり、いつも真理にあって考え、話し、真理を行うことでただ神様に喜ばれますように。 愛する聖徒の皆さん、 神様はヨブを愛して、ヨブが試練に会っている中でももどかしそうに見守っておられるのに、ヨブはそういう神様を知らないまま、続けて神様をさばいています。 自分の苦しみや問題のために祈って、すぐ答えを受ければ神様が自分を愛しておられ、そうでなければ見捨てられたのでしょうか。そうではありません。自分は悔い改めたつもりでも、まだ真理に変えられていないので、答えの時ではないのです。 忍耐とまことの信仰を持つことを望んでおられるので、祝福の時を遅らせておられる神様の心を感じてみてください。そして、自分の欠けているところを熱心に発見して変えられましょう。私たちを救ってくださり、強くしてくださる主を、父なる神様をさらにあがめるとき、答えと祝福が来るのです。 したがって、ハバクク3:17~19「そのとき、いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木は実をみのらせず、オリーブの木も実りがなく、畑は食物を出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる。しかし、私は【主】にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。私の主、神は、私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませる。」このような信仰の告白があふれる神様のまことの子どもになりますよう、主の御名によって祈ります。
「ヨブ記講解(26)- 患難は罪から来る」
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記11:12~20
きょうはすべての患難の原因は罪にあることと、私たちが罪から立ち返るとき、どんな祝福が臨むのかについて伝えます。
1. 賢くなく無知な人間
「無知な人間も賢くなり、野ろばの子も、人として生まれる。」(ヨブ11:12)
「賢い」とは、辞書では「頭の働きが鋭く、知能にすぐれている。利口だ。賢明だ。」という意味ですが、霊的には「生きてきた過程の中で積まれた知識を糧とすること」を意味します。
賢いなら無知な者になりません。霊的に賢い人はみことばが糧となって、私たちを生んでくださった父なる神様を知っているので、決して偶像に手を合わせません。
野ろばの子は飼い主がいないため、自分勝手に歩き回ります。すると罠にかかったり、猛獣に食われたりもします。
これと同じように、無知な人は霊的に賢くないので、たましいの主人である創造主の神様を知らず、偶像に手を合わせるなど、野ろばの子のように自分勝手に生きていきます。また、神様のみこころと反対であるやみのわざ、真理と反対のことを行います。そのうち敵である悪魔・サタンの餌食になって、結局は永遠の死に向かうことになります。
私たちは決して愚かな野ろばの子のように行う無知な人にならず、ただみことばに聞き従って、まことの神を恐れかしこんで生きなければなりません。
2. 神様が望んでおられるまことの悔い改め
「もし、あなたが心を定め、あなたの手を神に向かって差し伸べるなら、──あなたの手に悪があれば、それを捨て、あなたの天幕に不正を住まわせるな──」(ヨブ11:13~14)
ここで「手を神に向かって差し伸べる」とは、神様の前に降参するということです。悔い改めの賛美「よるべなきわれは主に近づかん」を歌いながら両手を挙げるように、自分を頼りとする心を
悔い改めて、自分の過ちを認めるのです。つまり、それまで神様のみこころからそれていた心を正しく定めていくということです。 ところで、なぜ心の悪を捨てなさいと言わないで、手の悪を捨てなさいと言ったのでしょうか。旧約時代は行為的な救いの時代だったからです。 イエス様がこの地上に来られる前の旧約時代には、人の力だけでは罪を捨てられないので、心には罪があっても、行いで罪を犯さなければ罪人だと言われませんでした。目に見える行いとして現れるとき、罪と認められたのです。 ところで、心にあるものは、結局手、行いとして現れます。心に欲があるので手で盗みをし、心に高ぶりがあるので後ろ指を指します。心に憎しみがあるので、手で人をなぐったりもします。 このようにすべての罪は根本的に心から出てきます。ですから、ツォファルがヨブに手の悪を捨てなさいと言ったのは、心の悪を捨てなさいということです。 「あなたの天幕に不正を住まわせるな」とは、私たちがいるすべての所で不正を取り除きなさいという意味です。つまり、心と思い、家庭、職場、事業の場など、あらゆる分野で罪と悪をなくしなさいという意味です。 私たちが悔い改めるとき、罪と悪を心から認めて、神様の前に真実に罪を告白します。それがまことの悔い改めならば、実際に罪と悪から立ち返らなければなりません。憤って争っていた人はかんしゃくを捨てて、争いをやめなければなりません。不平を言って不満を抱いたことを悪だと認めて、感謝の条件を探して告白し、喜ばなければなりません。 ただ悔い改めた場面だけ逃れるのではなく、自分の心と思い、すべての日常でそうしなければなりません。これが父なる神様が望んでおられるまことの悔い改め、変化です。 3. 罪と悪を捨てる時に臨む祝福 「そうすれば、あなたは必ず、汚れのないあなたの顔を上げることができ、堅く立って恐れることがない。こうしてあなたは労苦を忘れ、流れ去った水のように、これを思い出そう。」(ヨブ11:15~16) 「汚れのない顔を上げる」とは、神様の前に後ろめたいところがなく、堂々と顔を上げることができるという意味です。人は罪があれば不安で悩み、苦しいし、罪悪感のために神様の前に大胆に出て行けないでしょう。また、真理を深く知るほど自分の欠けているところが見えるので、神様の前に申し訳ないと思うようになります。 しかし、真理の中に完全にとどまっていて、自分の心に責められない段階になれば、神様の前に大胆に出ることができ、求めるものは何でもいただくことができます。 反対に、罪と悪があれば、神様の前に立つことができず、いくら熱心に祈っても答えていただけません(詩篇66:18,イザヤ59:1~3)。 しかし、ヨブの場合は大きい罪があって患難に会っているのではありませんでした。試練を通して心の中の罪と悪を悟って捨て、さらに完全な姿になるように、神様が練ってくださったのです。ところが、ツォファルはこのような神様の愛の摂理を知らなかったので、ヨブが罪を犯したのでこんな目にあったのだと誤解しています。 ツォファルはヨブに「あなたは労苦を忘れ、流れ去った水のように、これを思い出そう。」と言いましたが、これは罪から立ち返れば、労苦を忘れるようになるだろうという意味です。川の水が流れて海に入ってしまえば、その水を再び汲むことができません。新しい水が続けて流れ去るからです。これは歳月の流れを言っています。 もし皆さんが病気にかかったとか、家庭や職場に問題が起きても、歳月が流れてその問題が解決されたなら、過去のことでずっと悲しんでいるわけではないでしょう。すべての問題が川の水のように流れ去って解決されたなら、かえって過去の思い出話が楽しくなって、感謝する心になります。試練の時も、その時はお先真っ暗で行き詰まりのように見えていても、信仰によって行軍すると、涙が喜びに、ため息が笑い声に変わって、神様が慰めと平安で満たしてくださいます。 「あなたの一生は真昼よりも輝き、暗くても、それは朝のようになる。望みがあるので、あなたは安らぎ、あなたは守られて、安らかに休む。あなたが横たわっても、だれもあなたを脅かさない。多くの者があなたの好意を求める。」(ヨブ11:17~19) 心の罪と悪は、神様のみことばである光が入ってきたとき、悔い改めて立ち返ることができます。真理が自分の中に入ってくるので、心の罪と悪を発見して捨てることができ、家庭、仕事場、事業場からも不義を退けることができます。 したがって、「あなたの一生は真昼よりも輝き」とは、いのちの光が入ってくることによって、世と友になっていた暗い過去は過ぎ去って、今は真理と友になって、真昼のように輝くことができるという意味です。 また「暗くても、それは朝のようになる。」とは、イエス様を救い主として受け入れていのちの光が入ってくれば、今は試練や患難の中にいて暗くても、すぐ朝が来るという意味です。 ここで「朝」とは、新しい日、新しい希望、新しい生き方を意味します。また、希望がなかった人が神様を見つけると、試練や患難が退くので、新しい力を得て新しい日々が始まります。 まことの光であられるイエス・キリストのうちにあるなら、誰でも暗やみから出てきて、光である神の子どもとして新しく生まれます(第二コリント5:17)。敵である悪魔・サタンの手から父なる神様のふところへ、死から永遠のいのちへ、病気の泥沼から健康な毎日へと移されて、まことの平安を得るようになります。このように完全に新しい世界に入るので、新しい朝を迎えるのと同じなのです。 「望みがあるので、あなたは安らぎ、」とは、難しい問題が解決されて新しい日を迎えるので、安らぐようになるという意味です。前は試練や患難の中で苦しんできたけれど、今はすべてが解決されて新しくなった、希望があるという意味です。神の子どもなら、神様が問題を解決してくださり、新しい希望が生まれたので、さらに真理にあって堅く立つようになります。霊的には、イエス・キリストに、岩の上に立つという意味です。 また「あなたは守られて、安らかに休む」とありますが、この意味は、罪と悪を捨てることで家庭と職場、事業の場からすべての不正が離れると、神様が炎のような御目で、天の軍勢と御使いで、聖霊の炎の壁で守ってくださるので、心の安らぎを得るようになるということです。 自分が変えられれば、相手と環境を支配していた暗やみが離れます。すると問題が解決されます。東西南北を見渡しても試練や患難とは関係がなく、いつも平安になります。 「あなたが横たわっても、だれもあなたを脅かさない。」とは、真理に堅く立っていれば、敵である悪魔が働けないので、ぐっすり眠れるという意味です。神様の愛のふところの中で、平安で安全な生き方ができるのです(詩篇4:8)。 「好意を求める」とは、憐みと助けを求めるという意味です。したがって「多くの者があなたの好意を求める。」とは、多くの人がヨブに近づいてきて、好意と恵みを求める、つまり、多くの人に尊敬されて愛され、物質などで人を助けるということです。罪から離れて真理の中で生きていくので、神様が人々の心をつかさどって、入るときも祝福され、出て行くときも祝福されるのです。 3. 悪者どもの望みは断たれる 「しかし悪者どもの目は衰え果て、彼らは逃げ場を失う。彼らの望みは、あえぐ息に等しい。」(ヨブ11:20) 真理の中で生きられない悪い人は、霊的な目がさえぎられているので、神様のみことばを受け入れず、信じようとしません。また、神様を信じると言いながら守り行わなければ、相変わらず霊的には盲人と同じです。ですから、彼らは目がよく見えなくて、逃げ場を見つけられないのです。 それなら、どこからどこへ逃げなければならないのでしょうか。死の泥沼からいのちの道、永遠のいのちの道へと逃げなければなりません。試練、患難を抜け出して光へと逃げるべきなのに、霊的な目がさえぎられていれば、逃げ場を失ってしまいます。自分のせいで困難がやって来たのに、認めないで、環境のせい、人のせいにするから、問題を解決する道が見つけられなくて、ずっとさ迷っているのです。 私たちが真理の中で生きないで罪を捨てないならば、自然に霊の目が衰え果てることを知っていなければなりません。結局、逃げ場を失ってしまい、悪者どものの望みはあえぐ息に等しいのです。悪に悪を積んでいくから、ついには逃げる力を失って、永遠の死である地獄に行くしかないのです。 愛する聖徒の皆さん、 事故や病気、災いや患難の危険が潜んでいる今日、多くの人が将来を心配して生きています。それで健康診断をしょっちゅうして、保険や投資などで対策を立てますが、それで解決されたりはしません。 人生の最も完璧な対策は、全知全能の神様により頼むことです。箴言1:33に「しかし、わたしに聞き従う者は、安全に住まい、わざわいを恐れることもなく、安らかである。」とあるとおり、すべての罪と悪を捨てて真理に変えられるほど患難が離れて、恐れることなくまことの平安を得ることができます。 したがって、ただ神様のみことばにとどまることでいつも安らかで栄えますよう、主の御名によって祈ります。