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朝の学び

聖書の著者である神様が李載禄元老牧師に親しく解き明かしてくださったメッサージを学んでいます。

キリストにはかえられません
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我が魂の深き奥より
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朝の学び61 創世記7章  

創世記7:1-3
【主】はノアに仰せられた。『あなたとあなたの全家族とは、箱舟に入りなさい。あなたがこの時代にあって、わたしの前に正しいのを、わたしが見たからである。あなたは、すべてのきよい動物の中から雄と雌、七つがいずつ、きよくない動物の中から雄と雌、一つがいずつ、また空の鳥の中からも雄と雌、七つがいずつを取りなさい。それはその種類が全地の面で生き残るためである。』

「箱舟」とは、霊的に「神のことば」を意味すると言いました。したがって、皆さんが霊的な箱舟である神のことばの中にだけとどまるなら、どんな試練が押し寄せてきても安全であることを必ず覚えておいて下さい。

神に正しいと認められたことによってノアがいただいた祝福


創世記7章からは大洪水のさばきが始まります。
本文[1節]で、神である【主】は、雨を降らせる前、ノアに家族といっしょに箱舟に入りなさいと仰せられました。そして、ノアとその家族を大洪水のさばきから救われる理由を明らかにされました。まさに「あなたがこの時代にあって、わたしの前に正しいのを、わたしが見たからである。」と仰せられたのです。その時代にノアだけが神の御前に正しい人だと認められたということです。

自分の目に正しい人でなくて、神の御目に正しい人は、ノアのように驚くべき祝福をいただきます。ノアは、自分が救われたのはもちろん、その家族も一緒に救われる祝福をいただきました。また、ノアは神の大いなる摂理を成就する尊い道具として用いられました。

ノアが神に正しいと認められたことによっていただいた祝福がもう一つあります。大洪水のさばきが始まる頃、地球を取り巻いていた創造の初めの光が完全に取り込まれましたが、ノアは相変わらずその光で取り巻かれていた空間で生きることができました。神は洪水の間も、ノアの箱舟を初めの光で取り巻いてくださいました。それで、箱舟の中にいる人と動物は神に特別に守られていたのです。

[創世記1:3]で、神が六日創造の初日、「光があれ。」と仰せられると、創造の初めの光が地球をはじめ、第一の天を取り巻きました。それで、地球は肉の空間でありながら、ある程度は霊の空間の法則が適用されました。

このように地球を取り巻いていた創造の初めの光は、アダムが罪を犯した時点から少しずつ取り込まれ始めました。そうしていて、大洪水の始まりと同時に完全に取り込まれたのです。その結果、地球はすっかり肉の空間になって、100%肉の法則が適用されました。


すると、地球にいる生物は本来持っていた肉の属性が、制限されずに現れるようになりました。たとえば、ライオンやトラのような猛獣は潜在していた荒々しさを現しました。初めの光で取り巻かれていた時は、このような猛獣もおとなしかったのですが、今は本性が現れたのです。

また、地球にあるすべてが肉の属性どおり、さらにすみやかに変わってしまい、朽ちるようになりました。ノアは洪水以後、このような環境の中でも、初めの光で取り巻かれた空間で生きていたのです。

これについての一つの証拠がノアの寿命です。ノアは洪水以前の人々のように950歳まで生きました。これと違って、本来永遠に生きられたのに、肉に変わってしまって絶滅した人たちがいました。それは、エデンの園からこの地上に降りてきて、思いのままに肉を追い求めて肉の人になった存在です。彼らと彼らの子孫もみな、大洪水のさばきのとき、絶滅してしまいました。

これを通して、神の御目に正しい人と正しくない人の結果がどれほど違うのかがわかります。

[箴言12:7]「悪者はくつがえされて、いなくなる。しかし正しい者の家は立ち続ける。」とあるとおりです。このようにノアは罪と悪がはびこっていた時代に、神の御前で正しさを堅く守って、救いと祝福をいただきました。
皆さんも不義なことを遠ざけて、神が正しいと見られることを行って、幸いな道へと導かれますように、主の御名によって祈ります。


これから本文[2、3節]をご覧ください。神はノアに、箱舟にさらに連れて入る動物の種類と数を教えてくださいました。「あなたは、すべてのきよい動物の中から雄と雌、七つがいずつ、きよくない動物の中から雄と雌、一つがいずつ、また空の鳥の中からも雄と雌、七つがいずつを取りなさい。それはその種類が全地の面で生き残るためである。」

[創世記6:19-20]で、神は「またすべての生き物、すべての肉なるものの中から、それぞれ二匹ずつ箱舟に連れて入り、」と言われました。ところが、どうしてここでは、きよい動物と鳥の中から雄と雌、七つがいずつ、きよくない動物の中から雄と雌、一つがいずつ、取るように言われたのでしょうか?

[創世記6:19]で、すべての生き物、すべての肉なるものの中から、それぞれ二匹ずつ箱舟に連れて入るように言われたのは「生き残るために」でした。言いかえれば「種族保存」のために基本的にすべての動物の中から、それぞれ二匹ずつ連れて入ったのです。そして、その時、神が生き残るように選ばれた動物は、本能的に初めの声に引かれて、箱舟のほうに出てくるように働かれたのです。

ところで、本文[創世記7:2-3]では、神が特定の動物を指名して、雄と雌、七つがいずつ、または雄と雌、一つがいずつ取るように言われました。ここで注目する部分は、神が箱舟にさらに連れて入るきよい動物ときよくない動物を、ノアが選び取るようにされたということです。

これは、父なる神がノアを用いて人間耕作を新しく始めようとする意志を表されたのです。また、ノアのように、神のまことの子どもとされれば、すべてのものが支配できることを教えてくださったことです。


神のまことの子どもは霊の次元にいるので、それより次元が低い、肉に属する動物を十分に支配して従えるのです。獅子の穴に投げ込まれたダニエルを、獅子が害することができなかったのも、同じ原理です。

きよい動物ときよくない動物が分けられた基準


それでは本文にあるきよい動物ときよくない動物は、どんな基準によって分けられたのでしょうか? その基準は、動物が持っている根本の属性です。すべての動物は初め創造された時に使われた土質によって、根本の属性が変わってきます。

たとえば、ある動物は性質がずる賢くて、ある動物は荒々しいし、ある動物は貪欲な性質を持っています。一方、ある動物はよく言うことを聞く性質を持ち、ある動物はおとなしい性質を、ある動物は愚直な性質を持っています。

この地上が神の初めの光で取り巻かれていた時は、動物に内在していた悪い属性が現れていませんでした。それで、今は荒々しい動物も、当時はみなおとなしかったのです。しかし、大洪水のさばきが始まりながら、初めの光が完全にこの地上から取り込まれると、土質に内在していた根本の属性が出てき始めました。それで、神は根本の属性に従って、きよい動物ときよくない動物を分けられたのです。

ところが、すべての動物がこの二つの範疇にいるのではありません。動物の中の一部だけ「きよい」または「きよくない」と言われたのです。
ところで 
[レビ記11章]を読むと、「きよくない動物」の種類が具体的に記されています。しかし、レビ記にあるきよくない動物とノアの箱舟に連れて入ったきよくない動物が100%一致するのではありません。

レビ記は大洪水のさばきから約1千年後に記されました。レビ記を記した時の動物は、その属性がノア時代の動物とまた違ってきました。大洪水のさばきの後、人が再び増え始めながら、世もだんだん悪に染まっていきました。大洪水のさばきが終わった後は、神の光がそれ以上残っていなかったので、動物も根本の属性を制約なしに赤裸々に現しました。簡単に言って、動物もさらに悪くなったのです

したがって、ノアの時代に神が定めてくださったきよい動物ときよくない動物の基準と、レビ記を記した時の基準は同じになれないのです。ノアの時代にはきよくない動物ではなかったのに、レビ記を記した時にはきよくない部類に属するようになった動物が現れました。

たとえば、「鳥」がそうでした。ノアの時代には、鳥の中からきよくないと言われるほど、悪い性質が現れたものはいませんでした。それで、本文[3節]にも「空の鳥の中からも」きよい動物のように「雄と雌、七つがいずつを取りなさい。それはその種類が全地の面で生き残るためである。」とあるのです。

一方、きよくない鳥についての言及はありません。また、「空の鳥」といっても、鳥のすべての種類を雄と雌、七つがいずつを取りなさいという意味ではありません。鳥の中からきよいものだけ、雄と雌、七つがいずつ取りなさいという意味です。ですから、ノアの当時は、鳥は「きよい種類」と「その残りの種類」、二つの部類だけ存在していたことを知らなければなりません。

ところが、[レビ11:13-19]には、鳥の中で忌むべきものが何か、具体的に記されています。これは、歳月が経つにつれ、鳥の中からも悪い種類が現れたという証拠です。
参考までに、
[レビ11章]に書いてある「忌むべき動物」はそのかたちが堕落したケルビムに似ています。神はそんなものは食べてはならないと言われました。堕落したケルビムに似た忌むべき動物は、ほとんど毒性を持っていて、人に悪影響を与えるからです。心が良くなるよりは悪くなるようにします。

神は本文[2節]で、きよい動物の中から雄と雌、七つがいずつ、きよくない動物の中から雄と雌、一つがいずつ、取るように言われました。ここで「きよい動物の中から雄と雌、七つがいずつ」という表現には、二つの意味が込められていることを知らなければなりません。

まず、文字どおり「雄と雌、七つがいずつ」すなわち、「十四匹」を意味します。次に、それぞれの種類から雄と雌合わせて「七匹」、すなわち「雄と雌、三つがいと雄一匹」の七匹の組を言うこともあります。これはどういう意味でしょうか?

[創世記6:19]に、すべての生き物を「種族保存」のために、基本的に雄と雌「それぞれ二匹ずつ箱舟に連れて入り、」とあります。この時、きよい動物は一つがいずつではなく、七つがいずつ箱舟に連れて入ったのです。

きよい動物は牛、羊、やぎなど、非常におとなしい動物です。このような動物が種族を保存できるには、猛獣よりその数が多くなければなりません。それで、きよい動物は種族保存のために、雄と雌、七つがいずつ箱舟に連れて入ったのです。

そして、この外に「また別の目的」をもって、雄と雌合わせて七匹、すなわち「三つがいと雄一匹」の七匹の組を箱舟に連れて入ったということです。
理解を助けるために、具体的な例を挙げてみましょう。たとえば、きよい動物に属する「羊」は、種族保存のために七つがいを連れて入りました。「また別の用途」のために、七匹の組、すなわち三つがいと雄一匹をさらに連れて入りました。それで、箱舟に入った羊は計二十一匹になります。この中で雄羊は十一匹、雌羊は十匹です。

それなら「きよくない動物」に属する「豚」は、何つがい箱舟に入ったでしょうか? 基本的に入った雄と雌それぞれ二匹と「きよくない動物」として取った雄と雌一つがい、このように雄と雌二つがい、計四匹です。

ところが、「きよい動物」にも「きよくない動物」にも属しない種類のほうが多かったのです。それらの動物はただ基本的に雄と雌それぞれ二匹だけが箱舟に入りました。ノアの箱舟に入った動物は、このように「きよいもの」と「きよくないもの」、そして「残り」、このように三つの部類でした。

それでは、神がきよい動物と鳥、またきよくない動物を箱舟にさらに入るようにされた「また別の目的」とは何でしょうか? それは、大洪水のさばきの後、人間の暮らしにそれらの動物が必要な特別な分野があったからです。まず、きよい動物の用途を説明いたします。

きよい動物の用途、 第一神にいけにえをささげるとき、使うためです


[創世記8:20]を読むと、大洪水のさばきの後、箱舟から出てきたノアが神に全焼のいけにえをささげる場面があります。「ノアは、【主】のために祭壇を築き、すべてのきよい家畜と、すべてのきよい鳥のうちから幾つかを選び取って、祭壇の上で全焼のいけにえをささげた。」とあります。

このように神にいけにえをささげる時は、どんなものでもささげたのではありません。必ずきよい家畜や鳥をいけにえとしてささげました。これを通して、私たちは「きよい動物」とは、すなわち、「いけにえ」になれる家畜であることがわかります。


レビ記1章から7章に、いけにえをささげる法に関する規定が詳しくあります。いけにえとしてささげる動物も指定されています。家畜からは牛、羊、やぎを、鳥の中からは鳩をささげることができます。このようにささげものになれる種類は四つにすぎません。ノアの時代できよい動物の種類もこれと大きい違いはなかったのです。

ところで、洪水のさばきの後、ノアが最初の全焼のいけにえをささげる時に「すべてのきよい家畜と、すべてのきよい鳥のうちから幾つかを選び取って、祭壇の上で全焼のいけにえをささげた。」とあります。ただ牛一頭だけささげたのではなく、牛一頭と一緒に、羊も、やぎも、鳩も、みな一匹ずつ全焼のいけにえとしてささげたのです。この時、全焼のいけにえとしてささげたのはみな雄でした。

それで、父なる神は、きよい動物は雄を一匹より多く入るようにされたのです。もしきよい動物を雄と雌それぞれ二匹だけ箱舟に入れたなら、このように全焼のいけにえをささげることは難しかったでしょう。それでもこのように全焼のいけにえをささげたとすれば、その瞬間、牛、羊、やぎ、鳩は絶滅してしまったでしょう。すると、私たちは今、牛、羊、やぎ、鳩を見ることができなくなるのです。

それで、神はノアに、きよい動物は種族保存のための十四匹の他に、七匹ずつ多く箱舟に連れて入るようにされたのです。大洪水のさばき以後にも、続けて神にいけにえをささげなければならないからです。

旧約時代にいけにえをささげることは、人の子らが神と交わる通路でした。洪水のさばき以後、この地上には人々が急速に増えていきます。これと同時に、神にいけにえをささげることも多くなります。神はこのように今後のことをご存じであって、人々に必要な数だけきよい動物を多く入らせるようにされたのです。

きよい動物の用途、第二は、神を信じる民の食物となることです。


神は洪水以後、人々に肉食をすることを許されます。まさに[創世記9:3]「生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である。緑の草と同じように、すべてのものをあなたがたに与えた。」とあります。人々は洪水のさばきの前までは、菜食だけしていました。ところが、洪水のさばき以後から、肉も食べ始めたのです。この時、人々に食物として許された動物が、まさにきよい動物だったのです。

当時、このみことばをいただいたノアと彼の子孫は、神である【主】を信じる人々でした。ですから、どんな動物でも取って食べるのでなく、きよい動物を取って食べなければならないことを知りました。このように、きよい動物は人の食物にも、いけにえをささげる時にも、必要だったのです。したがって、箱舟に連れて入るきよい動物の数が、他の動物に比べて何倍もあったのです。

それでは、きよくない動物を雄と雌一つがいずつ多く取るようにされた理由は何でしょうか? これは将来、神を信じない人々の食物として与えるためです。
洪水のさばき以後、歳月が流れるにつれて、ノアの子孫が増えていきながら、神を信じない人々も出てくるようになります。彼らは思いのまま、きよい動物でない他の動物まで食物にします。神はそのように人々がどんな動物を食物とするのかをあらかじめ知っておられました。それで、ノアの箱舟に雄と雌一つがいずつ多く入るようにされたのです。

結局、神がきよくないと言われた動物は、将来異邦人にとって食物となる動物でした。きよくない動物も、その種類が多かったのではありません。したがって、雄と雌一つがいずつ多く入るからといって、箱舟に無理があるのではありませんでした。

父なる神は、このように人に必要なものをよく知っておられます。将来、神を信じない人々のためにも、彼らの食物をあらかじめ準備してくださったのをご覧ください。[マタイ5:45後半節]にも「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」とあります。このように、父なる神の憐れみと慈しみは、人々が思っているよりはるかに大きいのです。

最も良いものを与えたいと思う父なる神の心


ところが、イエス・キリストを受け入れて、神の子どもとされた特権をいただいたクリスチャンの中にも、神の愛をよく知らない方々がいます。私たちの父なる神は、子どもたちが信仰によって何かを求めるとき、最も良いものを与えたいと思われる方です。

私たちのイエス様は、このような父のお心をよく知っておられました。それで、[マタイ7:9-11]「あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。」と言われたのです。

また、[ローマ8:32]で、使徒パウロも「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」と告白しました。
したがって、皆さんは私たちの父である神に、さらに信実により頼みますように。皆さんのすべてを知っておられ、すべての必要も満たしてくださることのできる父に、信仰によって求めますように。

父なる神は愛を施されますが、公義に従ってなさいます。私たちのほうから求めてこそ、いただくことができます。また、[マタイ6:33]には「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」とあります。これが私たちのイエス様が教えられた答えと祝福の秘訣です。

まず、神の国が広がるために祈らなければなりません。つまり、教会と牧者のために祈って、多くの魂の救いのために祈るのです。その次に「その義とを求めなさい」とは、心の聖潔のために祈りなさいという意味です。

これは単に祈る順序だけを指しているのでしょうか? もちろん、祈る順序も重要です。ところが、それより重要なのは、祈る人が大切に思うことがはたして何かということです。「神の国が広がることを願う心、聖められたい心のほうが大きいのか。」 「自分の肉の問題、すなわち、物質の祝福や病気のいやしなどを解決されたい心のほうが大きいのか。」

父なる神は私たちの心をお受けになります。父なる神は私たちを愛して、ひとり子まで惜しまず死に渡してくださいました。その愛があまりにもありがたくて、感謝して、何としてでも神の国のために報いようとする心、父なる神に似せられようとする心、このような心を持った子どもたちを捜しておられます。

皆さんがこのような心で祈るなら、父なる神は皆さんが求めたものはもちろん、その他に求めていないものも加えてくださるでしょう。父なる神は子どもたちに、何としてでも一番良いものを豊かに与えたいと思われる方だからです。このようにすばらしい父なる神を信じて、いつも感謝の心で祈り、答えと祝福をいただく皆さんになりますよう、主の御名によって祝福して祈ります。
 

朝の学び60 創世記6章  12

創世記6:22
ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行った。

前回に続いて[ 創世記6:22]について説明いたします。ノアは箱舟を作って、食物を用意することにおいて、神が命じられたとおりに聞き従いました。肉の思いを働かせないで、ただ仰せられたとおりに聞き従おうとする心だったので、すべてが順調で「アドナイ・イルエ」のみわざも体験しました。

完全に聞き従うことにおいて、知識と技術を活用したノア


ところで、私たちが完全に聞き従うことにおいて、経験や知識、技術などが全く役に立たないのではありません。ノアが箱舟を作れた決定的な要因が、第一は神により頼む信仰でしたが、ノアはそれだけの知識と技術も活用できる人でした。このように、私たちが何かをするとき、知識と経験、技術と才能が基本的に土台にならなければならないこともあります。

たとえば、ある人が飲食店を始めようとするとしましょう。ところが、本人は料理についてよく知らないし、場所も町外れにしました。それから神に祈って、「お店がはやるようにしてくださると信じます」と言うなら、はやるでしょうか?

もちろん、霊の信仰によって祈って、神に助けていただければ、どんな状況、どんな条件でも栄える祝福を受けることができます。しかし、人のほうでできることすら全然しないで、祝福してくださいと祈ってばかりいることは正しくありません。祝福される「器」は備えないで、ただ受けることだけを願うのと同じです。

これと反対に、いくら豊かな経験と優れた技術を持っているとしても、神により頼まないなら、神に祝福されることは難しいのです。ただ自分の肉的な能力と限界の中で、誠実に努力した分だけ結果を出すのです。

このような人は自分の肉の限界を超える状況にあえば、結局へたり込むしかありません。さらに自分の知識と経験、技術だけを信じる人は、みことばに聞き従いません。自分を自ら賢いと思うからです。すると神もその道を導くことがおできになりません。

神のみことばが成し遂げられるまで、変わらずに聞き従ったノアの完全な従順


私たちがノアの従順を通して、もう一つ悟らなければならないことがあります。それは、完全な従順とは、神のみことばが成し遂げられるまで、変わらずに聞き従わなければならないということです

ノアが箱舟を作った期間が、聖書に正確に記されてはいません。しかし、箱舟の規模を考えてみれば、数か月、あるいは数年で作れるものではないことがわかります。したがって、ノアが箱舟を作っている長い間、世の人たちはノアをせせら笑ってあざけりました。


彼らの目には、ノアのしていることが全く理解できないから、彼を愚かだとからかったりもしました。皆さんがもしこのような状況に置かれているなら、どうでしょうか? 焦りを感じて、不安で、神のことばについて疑いが生じるのではないでしょうか?

ところが、ノアは全くそうではありませんでした。数年、数十年経った後も、ノアはみことばを疑いませんでした。「きょうか、明日か」と焦ったりもしませんでした。ただみことばが成就されるその日まで、黙々と箱舟づくりを続けたのです。

これが完全な従順の姿勢です。みことばが成就されるのが遅いようでも、一度仰せられたことを最後まで信じて、変わらずに聞き従う行いを見せなければならないのです。すると、神が最も正確な時に合わせて、約束されたみことばを必ず成し遂げてくださいます。

[第二ペテロ3:9]にも「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」とあります。

ところが、ある人たちは、みことばがすぐ実現されなければ疑います。恵みに満たされなくなって、試みにあったりもします。ノアはどんな状況でも焦らなかったし、堅い信仰で長い間忍耐をもって聞き従いました。ノアがこのようにできたのは、神と明らかに交わっていたからです。なぜ神は大洪水でさばこうとされるのか、自分と家族は救い出されて、将来どう生き続けていくようになるのかも知っていました。

一方、さばきの日が時々刻々と近づいていたので、ノアは洪水で滅びる人たちのことで、いつもいても立ってもいられませんでした。箱舟が完成されるとすぐ洪水が迫ってくるだろうに、これを知ることも信じることもしないで、相変わらず罪と悪の中に生きている、数えきれない人の姿がノアの心を痛めたのです。

それで、ノアは熱心に叫びました。しかし、いくら叫んでも耳を傾ける人はいませんでした。こんな時にノアが神に告白した内容を、父なる神様が御霊に感じているうちに私に教えてくださいました。その内容の一部をご紹介します。

洪水で滅びる魂の為にもどかしく叫びながら神に捧げたノアの告白


「父よ。今作っているこの箱舟のことで、その日が迫っているのを感じていますが、この箱舟のことでうれしいのでなく、かえってもどかしく、ひどくもどかしいばかりです。
私は怠けていなかったし、時に合わせて父のおことばどおりすべてを作っていったし、
また、すべての分野において夜も昼も忠実でしたが、こんなふうに一つ作られ、一つ完成されればされるほど、その日が迫っているので、もどかしいばかりです。

私は父の命じられたとおりにそのすべてを守るために心に留めて、一つ一つ作り上げてきたので、日が経つほど箱舟の形が現れて、正確に準備ができていくほど、世の人たちを見ると、あまりにもあまりにももどかしいだけです。

これは父のお心を私が知っているからです。
彼らに伝えたとしても彼らが聞き入れないし、彼らに話しても聞けないからです。
彼らは耳があっても聞けず、目があっても見られず、まことにどこから来てどこに行くのか知らずに日々を送っているので、もどかしいばかりです。

ついに父の命令に従ってここに私と家族が入り、父の仰せられたとおりに定められたものが入るようになりました。世にいる彼らはどうなるだろうかと思えば、彼らへのもどかしさがさらにつのるばかりです。しかし、こんなにもどかしく思っても、どうして父のお心と同じになれて、父のお心を推し量れるでしょうか。

私はまことに父のおことばに従って、私のすべてを捨てることができました。
父のお心を全部推し量れず、わからないとしても、なぜ父が箱舟を私に作りなさいと言われて、私に一つ一つ成就されるのか、私は感じています。
しかし、私の心がこんなにもどかしいのは、その日が迫っているのを感じるからです。
彼らへの私のこのもどかしい心を、父よ、わかってくださいますように。

父よ、どうしましょう。
彼らは父を知らないし、見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かずにいます。
父のご計画のうちにこのようにすべてが明らかにされているのに、彼らが感じられないから、どうして彼らを立ち返らせることができるでしょうか。

父よ、しかし、この息子は父が命じられるその日まで最善を尽くしますので、すべてが父のみこころに従ってなされるでありましょう。この息子が一つも間違いなく正確に作り上げられるように、いつも心に働きかけて導いてください。

終わりの時、父なる神様が解き明かされた「十字架のことば」


ノアのもどかしい心が感じられるでしょうか? 父なる神様の心に似せられた正しい人ノアは、それだけ愛と憐れみの心を持っていました。父なる神様が魂をご覧になってもどかしく思われ、心痛まれるのを、ノアもともに感じていたのです。皆さんも、心を御霊に属する心に変えるほど、魂を愛する心が大きくなります。この終わりの時はノアの時よりひどい状況です。

イエス様も[マタイ24:37-39]で、次のように言われています。「人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。」

父なる神様はひとりでも多く救いたいと願われて、霊的に「ノアの箱舟」のようなみことば、すなわち「十字架のことば」を明らかに解き明かしてくださいました。ノアの箱舟が神を信じない人たちには愚かなことに見えたように、[ 第一コリント1:18前半節]「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、」とあります。しかし、続く後半節に「救いを受ける私たちには、神の力です。」とあります。

ですから、私たちはノアのような心で、この時代を生きている人たちに「十字架のことば」を一生懸命に伝えなければなりません。このみことばがまことであることを確かにする神の力あるわざとともに、叫びに叫ばなければなりません。ひとりでも多く救おうとされる神様の終わりの時の摂理を、皆さんがともに実現してくださいますように、主の御名によってお願いします。
 

朝の学び59 創世記6章  11

創世記6:19-22

またすべての生き物、すべての肉なるものの中から、それぞれ二匹ずつ箱舟に連れて入り、あなたといっしょに生き残るようにしなさい。それらは、雄と雌でなければならない。また、各種類の鳥、各種類の動物、各種類の地をはうものすべてのうち、それぞれ二匹ずつが、生き残るために、あなたのところに来なければならない。あなたは、食べられるあらゆる食糧を取って、自分のところに集め、あなたとそれらの動物の食物としなさい。』ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行った。

ノアは「すべて【主】が命じられたとおりにした。」


ノアは神に、大洪水のさばきから救われるという契約をいただきました。ところが、もしノアが「私は神が救ってくださると約束されたから」と言って、箱舟を作らなかったとすれば、はたして大洪水の中から救われたでしょうか?

神の契約がなされるまで、必ず自分のほうでもすべきことがあります。ノアは「すべて【主】が命じられたとおりにした。」ので、契約を確かなものとすることができました。

 

[出エジプト20:6]で、神は「わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」と言われました。私たちが神を愛して、望まれるみこころのとおりにだけ行うなら、父なる神はあまりにも信実に約束を守ってくださいます。その人にだけ恵みと祝福を与えられるのではなく、千代にまで施してくださいます。


このようにすばらしい父なる神を、皆さんは心から愛しますように。それで、皆さんと皆さんの家族にも豊かな恵みと祝福が臨みますよう、主の御名によって祈ります。

父なる神は大洪水のさばきを行おうと決定された後、ノアに箱舟の様式を教えてくださいました。そして、箱舟に連れて入り、生き残るようにする生き物について言ってくださったのです。


神はすべての生き物の雄と雌二匹ずつを箱舟に連れて入るようにされた。


本文[19-20節]に「またすべての生き物、すべての肉なるものの中から、それぞれ二匹ずつ箱舟に連れて入り、あなたといっしょに生き残るようにしなさい。それらは、雄と雌でなければならない。また、各種類の鳥、各種類の動物、各種類の地をはうものすべてのうち、それぞれ二匹ずつが、生き残るために、あなたのところに来なければならない。」とあります。これは「種族保存」という意味で、基本的にすべての生き物の雄と雌二匹ずつを箱舟に連れて入るようにされたのです。

ところが、[創世記7:2-3]には「あなたは、すべてのきよい動物の中から雄と雌、七つがいずつ、きよくない動物の中から雄と雌、一つがいずつ、また空の鳥の中からも雄と雌、七つがいずつを取りなさい。それはその種類が全地の面で生き残るためである。」とあります。

ここでは、神が特定の動物を指名して、生き残るようにするための雄と雌一つがいの他に、雄と雌七つがいずつ、または雄と雌一つがいずつ取るようにされました。これは生き残るようにする他に、何かの目的がありました。その目的が何かは、この本文を講解するとき、説明いたします。きょう伝えるのは、ノアがどのようにその多くの種類の生き物を箱舟に連れて入ったのかということです。


どのようにして多くの種類の生き物を箱舟に連れて入ったのか?


百科事典によれば、現存する動物―哺乳類、両棲類、は虫類、鳥類―の種類は約29,400種です。洪水以前に生きていた種類がこれと全く同じではなかったとしても、その数が非常に多かっただろうと推察はできます。

それでは、ノアと彼の息子たちは、どのようにこの多くの種類の生き物をもれなく箱舟に連れて入ったのでしょうか? 彼らが歩き回って、すべての種類の生き物をいちいち連れてきたのでしょうか? そうではありません。もちろん、当時の生き物は今よりおとなしくて、連れてこようとすれば、簡単に捕まりました。だからといって、その数多くの種類の生き物をいちいち捕まえて箱舟に連れて入ることは、まことに容易なことではありません。

それでは、はたしてどのようにすべての生き物を、どの種類も雄と雌一つがいずつ、または七つがいずつ箱舟の中に連れて入ったのでしょうか? これはまさに、神の初めの声が発せられたので可能でした。創造主なる神が初めの声を発せられると、「選ばれた生き物」がその声に聞き従って、自ら箱舟のほうにやって来きました。ここで「選ばれた生き物」とは、同じ種類の中で悪い性質が少ないもののことです。

たとえば、「ライオン」の中でも、乱暴な性質を持っているものがいるかと思えば、比較的おとなしい性質を持っているものもいます。この時、おとなしいほうのライオン一つがいに、初めの声を聞くようにされ、そのライオンが箱舟のほうに来たのです。これがどうやって可能なのか理解するには、神の創造のみわざから知らなければなりません。
 


父なる神はすべての被造物を「ことば」によって創造されました。この時「ことば」を発せられたその声がまさに「初めの声」です。[創世記1:3]「神は仰せられた。『光があれ。』すると光があった。」とあります。神が「光があれ。」と創造の初めの声を発せられると、そのとおりに光が創造されたのです。

このように、すべての被造物は初めの声によって創造されたので、創造主なる神の初めの声に反応します。生物はもちろん、無生物でも神の初めの声がわかって、その声に聞き従うのです。初めの声に自動的に反応するように造られているのです。

たとえを挙げれば、「音声認識装置」がある機械があります。これは、門を開けたり、機械を作動させる時に、あらかじめ入力しておいた特定の人の声にだけ反応する装置です。
このように、すべての被造物は初めの声によって創造されたので、初めの声には本能的に従うようになります。まさにノア時代、箱舟のほうに来た生き物も、神の初めの声を聞いて、それに聞き従ったのです。


創造の初めの光


この時、重要なもう一つの事実があります。初めに神が宇宙空間にひとりでおられた時は、光の中に声を帯びておられました。この時の光がまさに創造の初めの光であり、この時の声がまさに創造の初めの声です。この光の中には、あらゆる霊の知識と知恵と力が込められていますが、これらが声を通して発せられるのです。ですから、初めの光と声は結局一つであり、いつも一緒に存在します。初めの光から初めの声が発せられるので、初めの声が発せられる所には、初めの光も臨むようになります。

ところで、神はすべての被造物を創造されるために初めの声を発せられたとき、まず初めの光を取り巻かれました。したがって、すべての被造物は初めの声と一緒に、初めの光も覚えています。つまり、初めの声と一緒に初めの光も入力されたのです。

[ローマ1:20]「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」とあります。ここで「被造物によって知られる神の永遠の力と神性」がまさに「初めの光」を指しています。創造のみわざの過程で、神が初めの声を発せられた時に、被造物に入力された初めの光です。

このようにすべての被造物は、初めの光が取り巻かれている中で、初めの声によって創造されました。したがって、創造の時と同じ条件になれば、初めの声に100%聞き従うようになります。

ところで、大洪水の前までは、天地創造の時の、初めの光がまだ地球を取り巻いていました。もちろん、アダムがこの地上に定着した後、人口が増えながら、世がますます罪と悪がはびこるにつれて、初めの光もだんだん取り込まれていきました。それでも大洪水の前までは、初めの光がある程度残っていました。それで、神が選ばれた生き物に初めの声を発せられると、100%従ったのです。

しかし、大洪水が始まる時に、初めの光が取り込まれました。たとえば、床にワックスを厚く塗れば、初めはとても輝きます。ところが、時間が経つにつれて、人々が頻繁に行き来しながら、ワックスが少しずつはがれていきます。ついにはワックスが完全に剥がれてしまって、ただの床が現われるのが見られます。このように、初めの光がこの地上を取り巻いていたが、人々の罪と悪がより増すことによって、その光がかすかになったのです。

その結果、この地上に多くの変化がありました。これについては、大洪水が終わる部分で説明いたします。この時間、皆さんが覚えておくことは、大洪水の前は、それでも初めの光がこの地上を取り巻いていたので、神が初めの声を発せられたとき、被造物が100%聞き従ったということです。言いかえれば、神が生き残らせようと選ばれた生き物は、本能的に初めの声に引かれて、箱舟に来るようになったのです。


主イエスも「初めの声」を発せられた。


私たちの主イエス様も「初めの声」を発せられました。イエス様は神の御姿であられます。また、父なる神が創造のみわざを施されたとき、御子の神、すなわち、イエス様もともにおられました。
これについて、
[ヨハネ1:2-3]には「この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」とあります。それで、四つの福音書のあちこちに、イエス様のおことばに被造物が従う場面があるのです。

たとえば、[ルカ8:24]「イエスは、起き上がって、風と荒波とをしかりつけられた。すると風も波も収まり、なぎになった。」とあります。私たちのイエス様が創造の初めの声で命じられると、無生物である風と波もその声がわかって、直ちに従ったのです。

[マタイ17章]には、ガリラヤ湖の魚が従った記述があります。イエス様がペテロに、宮の納入金を用意する方法を次のように言われました。[27節]に「しかし、彼らにつまずきを与えないために、湖に行って釣りをして、最初に釣れた魚を取りなさい。その口をあけるとスタテル一枚が見つかるから、それを取って、わたしとあなたとの分として納めなさい。」とあります。その結果、どうなったでしょうか? イエス様の口からおことばが発せられるやいなや、ガリラヤ湖の魚が従って、湖の中に落ちたスタテルを口にくわえて釣られる準備をしたでしょう。

この他にも、イエス様が初めの声によって病人を直されたこともありました。[マタイ8章]ではある百人隊長のしもべの中風をおことばで命じて直し、[マタイ15章]では、スロ・フェニキヤの女の悪霊に取りつかれていた娘も、ただおことばによって直してくださったのです。

初めの声のみわざは、このように直ちに、また、時間と空間を超えて現れます。[詩篇19:4前半節]に「しかし、その呼び声は全地に響き渡り、そのことばは、地の果てまで届いた。」とあります。また、[イザヤ55:11]には「そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」とあります。

神は今日も、みこころにかなう人に初めの声のみわざを施されることを望んでおられます。百人隊長とスロ・フェニキヤの女のように、真実の信仰を持った人は、こういう初めの声のみわざが体験できます。人の思いではできないことができて、無から有が創造されるのと似た再創造のみわざも起きます。皆さんも真実の信仰によって、初めの声のみわざが体験できますように。病気のいやしのようなさまざまな問題の解決も、初めの声によってなされるのです。

ところで、御霊の歩みを慕っている皆さんは、何よりも初めの声によって、自分の心が新しく変えられることを慕っていると信じます。初めの声によって、悪の苦い根が引き抜かれて、義が曲げられ、固い枠も溶かされます。

したがって、皆さんが信仰の岩の上に立って、御霊の歩みに入ってくることをまことに慕うなら、まずは百人隊長とスロ・フェニキヤの女のように、へりくだった心になりますように。これとともに、最後まであきらめないで信仰によって祈り求めますように。それで、急速な霊の流れの中で、多くの方が御霊の歩みに入って、全く聖なるものとされますよう、主の御名によって祈ります。


ノアが体験した「アドナイ・イルエ」のみわざ


本文[21、22節]をご覧になると「『あなたは、食べられるあらゆる食糧を取って、自分のところに集め、あなたとそれらの動物の食物としなさい。』ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行った。」とあります。

父なる神はノアに生き残らせる動物を箱舟に連れて入るように言われた後、食糧も取って集めるように言われました。この時、ノアは将来洪水がどれほど続くのか、箱舟の中にどれほど住まなければならないかを正確に知りませんでした。箱舟に入る動物は計何匹なのか、彼らが食べる食糧をどれほど準備しなければならないのかも知らなかったのです。

しかし、神のおことばに聞き従いました。いちいちその数を数えて、日にちを計算して、食糧を準備したのではありません。箱舟を造る時も、どこに造るべきか、どのくらい速く進めるべきか、勝手に決めなかったのです。ひたすら父なる神と交わりながら、心に働きかけられたとおり準備していきました。

肉の思いを働かせるなら「ノアはどうやってその多くの食糧を準備して、集められたのだろうか」といぶかしく思うこともあります。とうてい答えが出ないからです。このように、肉の思いは肉の限界の中にだけとどまるから、限界がない神のみわざを理解しにくいのです。

ノアは肉の思いを働かせずに、神が食糧を取って集めなさいと言われれば取って集め、箱舟を造りなさいと言われれば造りました。言われたとおり聞き従おうとする心だったので、すべてが栄えて「アドナイ・イルエ」のみわざを体験しました。父なる神がすべてを働かせて益としてくださるので、箱舟を造る過程が難しくなかったのです。それで、本文[22節]にあるように、ノアはすべて神が命じられたとおりにし、そのように行うことができたのです。


父と交わり、父なる神の全知全能なることを信じたノア


一方、私たちは当時の文明が非常に発達していたことを知らなければなりません。当時の人々の暮らしは原始的ではありませんでした。相当な水準の知識と知恵を持っていたのです。今日で言えば、物理、数学のような知識が相当な水準に達していました。それで、現代的な機械のようではなくても、巨大な箱舟を十分に造れる機械や装置がありました。

だからといって、ノアがこのような知識と知恵があったので従えたという意味ではありません。ノアは自分の知恵を信じて「アーメン、そうします」と言ったのではないのです。父なる神の全知全能なることを信じたので、その方に完全に頼ろうという心で「アーメン」と言ったのです。

ノアが箱舟を完成するまで1か月、2か月かかったのではありません。長い時間がかかりました。それでもノアは自分のほうからあせって、きょうか明日かを考えなかったし、父なる神が導かれるとおり、つかさどられたとおり、従うだけでした。

ふつう人々は約束をもらってから、いつかなえられるかを待って、1年過ぎて、2年過ぎれば「かなえられないんだ」と失望します。しかし、ノアはそうではありませんでした。いつも父なる神と交わっていたので、父が行われると信じました。父が言われたことは必ずそのとおりに成就されることを信じたのです。ですから、すべての準備と実行が可能になり、長い歳月を忍耐して送れたのです。

神は聞き従おうとする人には、詳しいことまでつかさどって導いてくださいます。ですから、従う人も幸せで、父なる神も喜ばれます。しかし、従う心になっていない人は、祝福を手に握らせても、結局、自分の心のままに進んでいき、困難にあうことが見られます。

たとえば、ある人は事業をするとき、自分の知識と経験と計算をもって、すべての計画を立てておきます。そして、神の御前に出てきて「私の道を導いてください」と祈ります。こういう人は、神がその道を導こうとされても、結局は自分の心に決めたとおりに進んでいきます。神が導こうとされる道が自分の知識と思いには合わないから、ただ自分が見てより良い道に行ってしまうのです。

また、こういう場合もあります。神のことばを自分の都合に合わせて解いて、とんでもない道に行きながら、自分はみことばに従っていると思うこともあります。神のみこころが何か明白に教えても、うなずこうとしないで、かえって自分の意見と意図を相手に納得させようとします。

こういう場合はどうなるでしょうか? 悟るように何度か話をしますが、ほとんどが自分の思ったとおり行うのです。

自分のはかりごとや思弁、知識の枠がなければ、みことばに従うことがあまりにもやさしいです。しかし、こういう「自分」にこだわっていれば、従うのが難しいです。本人は従っていると言いますが、不従順になったり、従っていないのに、自分では悟れないこともあります。
 

朝の学び58 創世記6章  10

創世記6:18-20
しかし、わたしは、あなたと契約を結ぼう。あなたは、あなたの息子たち、あなたの妻、それにあなたの息子たちの妻といっしょに箱舟に入りなさい。またすべての生き物、すべての肉なるものの中から、それぞれ二匹ずつ箱舟に連れて入り、あなたといっしょに生き残るようにしなさい。それらは、雄と雌でなければならない。また、各種類の鳥、各種類の動物、各種類の地をはうものすべてのうち、それぞれ二匹ずつが、生き残るために、あなたのところに来なければならない。

神は契約を公義によって履行される。


前回に続けて、本文<18節>を説明します。神は「ノアと彼の家族を大洪水のさばきから救って、彼らを用いて人間耕作の歴史を新しく作っていく」と契約を結ばれました。神は契約を公義に従って履行されるので、その契約をいただいたほうでもふさわしい公義を満たすとき、その効力が発揮されます。

前回は、エジプトから出たイスラエルの民をその例として説明しました。神はモーセを通して彼らにカナンの地を与えると約束されましたが、エジプトから出た第一世代はその約束を信じなかったのです。それで、ヨシュアとカレブを除いて、その世代はカナンの地に入れなかったのです。

一方、エジプトから出た第二世代は、神のことばを完全に信じたのでカナンの地に入れました。このように父なる神様は約束すれば守る信実な方です。ところが、約束をいただいたほうからも完全に信じて、最後まで祈るとき、約束が実現されることを知らなければなりません。


神の力を授かる祈りを受けた方々の場合


これは神の力を授かる祈りを受けた方々も同じです。御霊の歩みに入った人には力が臨んで、全く聖なるものとされれば、さらに権威が臨みます。これは聖書に基づいて申し上げたことです。

<マルコ9:23後半節>で、イエス様は「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」と言われました。また、<マルコ16:17-18>を見れば「信じる人々には次のようなしるしが伴います。」とあり、いろいろなしるしの事例があります。

聖書にはただ「信じる人々」と表現されたが、私たちは信仰にも量りがあることを知っています。力を授かるためには御霊の歩みに入って信仰の四段階にならなければならないし、それに権威が伴うためには、全く聖なるものとされて信仰の五段階に至らなければなりません。

ところが、御霊の歩みに入って、全く聖なるものとされたからといって、神の力がただ与えられるのではありません。父なる神にこのような力を授かるまで、切に求めなければなりません。御霊の歩みに入って、全く聖なるものとされた人は、父をこの上なく愛するので、父の望まれることをさせていただきたいと思います。

そして、父が望まれることは多くの魂が救われることです。このために熱心に働くと、父なる神により大きい力を授からなければならないことをはっきりと感じるようになります。人の心を変えさせることが決して人の力と知恵ではできないことを悟るからです。このように、父なる神への愛と魂への愛のゆえ、力を授かることを切に求める人は、結局授かることができます。


「霊的な力と権威」


「力」の霊的な定義は「人としてはできないけれど、神にはおできになること」です。「力」を授かるなら、できないことはなくなって、神のみこころにあっては、どんなことでもできるようになります。このような力を授かるには、御霊の歩みに入ってきたとしても、火のような祈りを無数に積まなければなりません。ましてそれより一次元高く、権威が伴うためには、どれほど多くの祈りを積まなければならないでしょうか。

ここで「権威」とは「神が定められた厳威があって栄えある力であり、神の秩序に従って上からの神の命令」のことです。この霊的な権威は鋭い刃物に比べられます。鋭い刃物を子どもたちに与えられないように、霊的な権威も誰にでも与えることはおできになりません。神は、心から悪を捨てて聖められた人に、善と愛を満たしただけ権威を授けてくださいます。

力と権威の違いが理解できるように、たとえを挙げましょう。年とったお父さんとがっしりした息子がいると、息子はお父さんより力も強くて賢いです。たとえば力だけを見るなら、息子のほうが大きいです。しかし、権威はどちらのほうが大きいでしょうか? 息子はお父さんの言葉に従うべきなので、お父さんのほうが大きいと言えます。

また、他の例を挙げましょう。昔、王政時代に、大国の使節が王の命令を持って属国に行けば、王のような待遇を受けました。「使節」自身が持っている権威でそうなるのではなく、王の権威を持って代わりに行ったからです。ただし、王が使節を選んで遣わす時は、誰でも遣わすのではありません。それほどの資格を備えた人を選びます。

神が誰かに霊的な権威を授ける時も同じです。ふさわしい資格を持った人に授けてくださるのです。すると、権威の伴う力が現れるようになります。
<詩篇62:11>にあるように、この「力」は神のものです。すなわち、御父・御子・御霊、三位一体の神がこの力と権威を持っておられます。ですから、公義に照らしてふさわしい資格を備えた人に、ご自分の力を授けてくださるのです。

参考までに、聖められていなくても、病原菌による病気を治すわざを行う人がいます。これは神と魂を愛して、火のような祈りを無数に積んだ人に、神がいやしの賜物を与えられたものです。また、切なる愛の祈りによって、神が憐れみを施される時もあります。たとえば、主のしもべに力があるのではないが、聖徒が切に信仰によって祈りを依頼する場合、神はその聖徒の純粋な信仰をご覧になって働いてくださることもあります。このような場合は、神のものである「力」とは次元が違うことを知っておかれますように。

 


イエス様が12弟子に授けられた「霊的な力と権威」

 

「力は神のもの」と言いました。それで、私たちのイエス様も、弟子たちが権威を持って力を行えるように、分け与えられたことが見られます。<マタイ10:1>「イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやすためであった。」とあります。

<ルカ6:12>には、この出来事は、イエス様が山で夜を明かして祈って帰って来られた後のことだと書いてあります。イエス様はご自分の代わりに神の力を行う十二の弟子を選ぶために、まず父に祈りを積まれたのです。その当時、弟子たちは自分では神の力を行える資格を備えていませんでした。イエス様に信頼してつき従っただけです。ですから、イエス様が代わりに祈って、父の御前に公義を積まれたのです。

その結果、<ルカ9:6>「十二人は出かけて行って、村から村へと回りながら、至る所で福音を宣べ伝え、病気を直した。」とあります。また、<マルコ6:12-13>には「こうして十二人が出て行き、悔い改めを説き広め、悪霊を多く追い出し、大ぜいの病人に油を塗っていやした。」とあります。弟子たちもイエス様のように悪霊を追い出して、病人をいやすことができたのです。これは弟子たちが自分で神の力を行ったのでなく、イエス様が分け与えられた力を行ったのです。

それでもその十二人が弟子として選ばれた理由、代わりに神の力を行えた理由があります。ただ一つ、イエス様に信頼するので、自分の人生を後にしてイエス様に従ったということです。もちろん、その中のひとりイスカリオテ・ユダは、神の摂理にあって選ばれたのです。

 


使徒たちによって行われた不思議としるし


弟子たちがイエス様の公生涯の期間に、ただイエス様とともにいるから神の力を行ったなら、主が復活、昇天された後はどうなったでしょうか?
<マルコ16:20>「そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。」とあります。

また、<使徒の働き2:43>には、使徒たちによって不思議としるしが行われた、とあります。この時も、もちろん主が霊として弟子たちとともにおられましたが、弟子たちも信仰が以前よりずいぶん成長しました。よみがえられた主に会ったので、死を恐れないまことの信仰を持つようになったのです。そのような信仰を持って、イエス・キリストの御名によって祈り、不思議としるしを行えました。

もちろん十二人みなが神の力を行ったのではありません。イエス様が十二弟子を選ばれたとき、彼ら全部に神の力を授けたとしても、公義に従ってふさわしい資格を備えただけ、まことの所有者になったのです。
 

朝の学び57 創世記6章  9

箱舟に天窓を作り、上部から一キュビト以内にそれを仕上げなさい。また、箱舟の戸口をその側面に設け、一階と二階と三階にそれを作りなさい。わたしは今、いのちの息あるすべての肉なるものを、天の下から滅ぼすために、地上の大水、大洪水を起こそうとしている。地上のすべてのものは死に絶えなければならない。しかし、わたしは、あなたと契約を結ぼう。あなたは、あなたの息子たち、あなたの妻、それにあなたの息子たちの妻といっしょに箱舟に入りなさい。                      創世記6:16-18

神はノアの箱舟の材料と大きさと構造まで教えられましたが、これにはみな霊的な意味が含まれています。まさにノアと彼の子孫がこれからどのように生きるべきか、洪水のさばきを通して何を悟って心に留めるべきか、箱舟のあちこちに意味を込めてくださったのです。

 


箱舟に戸口と天窓を作るようにされた父なる神のみこころ


前回に次いで[16節]から見ましょう。「箱舟に天窓を作り、上部から一キュビト以内にそれを仕上げなさい。また、箱舟の戸口をその側面に設け、一階と二階と三階にそれを作りなさい。」

神は箱舟に天窓も作り、戸口も作るように命じられました。洪水のさばきが終われば、ノアの子孫で人類歴史の系図が新しく始まります。生んで増えて地に満ちるようになるでしょう。こうなる時に、箱舟に天窓と戸口を作ったように、ノアの子孫が世に向かって戸口をあけなければならないことを言われたのです。神を信じるからといっても、世に向かった戸口を堅く閉じるのでなく、反対にパッと開かなければならないのです。

ただし、世と混ざってはいけません。「箱舟の内と外とを木のやにで塗りなさい。」というみことばにも、このような意味が含まれていました。世と徹底的に聖別されて、染まってはいけませんが、世に向かって窓と戸口をあけて、霊的な光と塩の役割をしなければなりません。罪と悪が増大している暗い世を捨てるのでなく、積極的に霊的な光を照らし、闇を退けなければならないのです。不正、腐敗があふれている所では、塩のように浄化させる役割をしなければなりません。

教会と聖徒は世と聖別されるべきだからといって、世を捨てれば福音は誰が伝えるのでしょうか。伝道しなければ、神の国はどう広げるのでしょうか。ですから、私たちは使徒パウロが持った心構えと姿勢を見習う必要があります。

[第一コリント9:19-22]で、使徒パウロは「私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりました。それは律法の下にある人々を獲得するためです。律法を持たない人々に対しては、──私は神の律法の外にある者ではなく、キリストの律法を守る者ですが──律法を持たない者のようになりました。それは律法を持たない人々を獲得するためです。弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。」と言いました。

使徒パウロはひとりでも多くの人を救おうと、このように各人に合う姿で近づき、福音を伝えました。自分が伝える福音が良いものだからといって、強圧的な姿勢を取ったのではありませんでした。福音がそれぞれの人に自然に入るように、各人の状態と立場をまず理解しました。皆さんも、このようなやり方で世の光になりますように。

イエス様は[マタイ5:14]「あなたがたは、世界の光です。」と言われました。これは、教会だけで光を放つのでなく、世でも光にならなければならないという意味です。教会の中では良い言葉と行いを見せて、家に帰っては、そして職場に行っては、世の人のようにしてはいけません。

自分のからだを溶かしながら光を照らすロウソクは、どこででも光を放ちます。光の役割をする皆さんもそうです。教会で光を放つなら、家庭でも光が消えません。

イエス様は[マタイ5:16]で、私たちが世の光になる方法も教えてくださいました。「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」と言われたのです。
皆さんが見せる「良い行い」が、すなわち、世を照らす光という意味です。皆さんが世の人はまねできない良い行いを見せるなら、「やっぱり教会に通っている人は違うなあ」と認められるようになります。結果的に、父なる神があがめられるようになります。これがまさに箱舟に戸口と天窓を作るようにされた父なる神のみこころです。


箱舟を「一階と二階と三階」に作るようにされた霊的な意味


次に、箱舟を「一階と二階と三階」に作るようにされたところに込められた霊的な意味を説明します。これは、三位一体の神をいつも心に留めて、その中から離れないようにという意味です。

これとともに、人間耕作の歴史が大きく三つに分けられることを表します。まずは、父なる神ご自身が働かれる、神である【主】の時代です。次に、イエス様がこの地上に救い主として来られて働かれる主の時代です。最後に、聖霊の時代です。主が復活、昇天された後から、人間耕作が締めくくられる時までの期間です。洪水のさばきで人間耕作の転換点を迎えるこの時に、神は箱舟の構造を通して、歴史をつかさどる方は三位一体の神であることを確かに表してくださったのです。

再び洪水の裁きの宣告

父なる神はノアに箱舟の様式を教えてくださった後、洪水でさばかれることをもう一度明らかにされます。本文[17節]「わたしは今、いのちの息あるすべての肉なるものを、天の下から滅ぼすために、地上の大水、大洪水を起こそうとしている。地上のすべてのものは死に絶えなければならない。」と言われたのです。これは将来、洪水がどのように起こるのかをもう一度説明されているのです。

神はこの洪水のさばきによって「いのちの息あるすべての肉なるもの」を天の下から滅ぼすと言われました。ここで「いのちの息あるすべての肉なるもの」には、ノアの家族八人を除いたすべての人と水に生きる動物を除いた、すべての陸地の動物と鳥まで含まれます。

神がなぜ人とともに動物まで洪水で滅ぼされるのかについては、この前すでに説明しました。当時、地の動物と空の鳥が人間の堕落と密接な関係があったからだと言いました。まさに人々が動物のかたちに似た偶像を作って拝むことが多かったからです

[ローマ1:23]「不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。」とあるとおりでした。こんな理由とともに、動物と鳥が人に支配される存在、すなわち、人に属するものなので、人とともに滅ぼされたのです。簡単に言って、連帯責任を問われたのです。

大洪水によって地球上に起こった地形の変化


ところで、この一節で「地上の大水、大洪水を起こそうとしている」と表現されたところに注目しなければなりません。これは単に、当時この地上で暮らしていた人々と動物をみな滅ぼすという意味だけではありません。人が生きていた生活の基盤そのものを全く滅ぼすという意味が含まれています。当時、大洪水によってこの地上にどれほど途方もない変化があったか、想像できるみことばです

実際、当時、洪水のさばきが、コップに水を注げば水面がだんだん高くなるように、地球が徐々に水に浸かるばかりだったのではありません。地球には洪水によって途方もない地殻変動が起きました。その結果、洪水の後の地球はその前とは全然違う環境になりました。地形も完全に変わって、気候も変わりました。生態系の環境も大いに変わりました。洪水によって地形がどう変わるのか、もう少し説明いたします。

[創世記7:24]「水は、百五十日間、地の上にふえ続けた。」とあります。雨が降った期間は40日でしたが、地球全体が完全に水に浸かっていた期間は150日です。この水が全部引いて、地が固まるまでには、もう150日以上かかりました。全地球が150日間、完全に水に浸かったら、どんな現象が起きるでしょうか?

地球の表面が穏やかな湖のように静かだったでしょうか? 違います。地球は太陽と月の間にはさまれていて、互いに引き合う力、すなわち、引力が働きます。太陽と月が地球を引き寄せる力によって、地球を覆った水が両側に膨らむようになります。これに地球が一日に一回、回ります。 地球は回るのに、引力によって水は引っ張られているから、水が地球をさらいながら回るようになります。このように地球を回る水は、山のように高い地帯を崩します。

そして、崩した土を寄せていって、低く広いところに来れば、ずっと積み上げておきます。この現象が5か月間、全地球に起きました。その結果、洪水以前に地球にあった文明がほとんど破壊されてしまったのです。そして、水が引いて、以前と違う新しい地形が形成されました。まさにこれが、人々の生活の基盤そのものを全部滅ぼすということです。

 


神はノアと「契約」を結ぶ


続く本文[18節]で、神はノアに「しかし、わたしは、あなたと契約を結ぼう。あなたは、あなたの息子たち、あなたの妻、それにあなたの息子たちの妻といっしょに箱舟に入りなさい。」と言われました。

ここで神が言われた「契約」とは「ノアと彼の家族を洪水のさばきから救われて、彼らを通して人間耕作の歴史を新しく作っていく」ということです。神はこれを「わたしは、あなたと契約を結ぼう。」と言われ、その摂理のうちに計画されたことを必ず成し遂げるという強い意志を明らかにされたのです。

神がご自身の名によって結ばれた契約は、どんなことがあっても最後まで成し遂げられます。[民数記23:19]「神は人間ではなく、偽りを言うことがない。人の子ではなく、悔いることがない。神は言われたことを、なさらないだろうか。約束されたことを成し遂げられないだろうか。」とあるとおりです。

また、神は[イザヤ55:11]でも「そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」と言われました。


すべてを公義に従って成し遂げられる神


かといって、神は言われたとおり成し遂げられるために、絶対的な権力を振り回す方ではありません。すべてを公義に従って成し遂げられます。サタンが訴えることができないように、公義を積んでいかれます。計画されたことを成し遂げるためにあらかじめ備えて、状況と環境をつかさどられるのです。

神は、大洪水のさばきからノアとその家族を救うためにも、はるか前から働いておられました。ノアの先祖が代々神の恵みをいただくようにして、神を恐れる者になるようにされました。ノアは先祖から神への信仰を受け継ぎました。ノア自身も神を恐れて、罪と悪がはびこっている世と聖別された生き方をしました。

ノアの妻と子どもたちとその妻たちも同じです。誰でもノアの家族だからといって救われたのではありません。彼らが自らノアの教えに耳を傾けて、ノアが伝える神のみこころに従いました。その結果、彼らも大洪水のさばきから救われる信仰を持てたのです。それで、神はノアと契約を結ぶことがおできになりました。このように、神がある契約を結ばれると、その相手のほうからもそれにふさわしい公義を満たすとき、契約の効力が発揮されるのです。

たとえば、エジプトから出たイスラエルの民を考えてみてください。神は、エジプトで奴隷生活をしていたイスラエルの民を連れ出して、カナンの地に入れると約束されました。ところが、結局カナンの地に入った者はエジプトから出た者の第二世代でした。直接神の約束をいただいた第一世代の中からは、ヨシュアとカレブだけがカナンの地に入りました。

それなら、神が約束を破られたのでしょうか? そうではありません。神は約束を信実に守られました。反対に、エジプトから出た第一世代のほとんどは、神の約束が信じられなくて疑いました。現実的に困難がやって来ると、むしろ神を恨んでつぶやきました。しかし、ヨシュアとカレブだけは最後まで神の約束を信じました。

これについて[民数記32:11、12]「『エジプトから上って来た者たちで二十歳以上の者はだれも、わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓った地を見ることはできない。彼らはわたしに従い通さなかった。ただ、ケナズ人エフネの子カレブと、ヌンの子ヨシュアは別である。彼らは【主】に従い通したからである。』」とあります。

結局、カレブは初めのカナン偵察の時に見てきたヘブロン山地を得て、世々代々そこを相続の地としました。このように、変わらない信仰が神の約束を実現させる公義を満たすのです。


もちろんモーセも神の約束を疑わなかったけれど、彼は指導者としての責任を負わなければならなかったのです。民をカナンの地のすぐ前まで導いて、自分の使命をみな終えたとき、カナンの地よりはるかに良い安息の場所である天国に入るようになりました。

[エゼキエル36:36-37]でも、神はイスラエルの民に「あなたがたの回りに残された諸国の民も、【主】であるわたしが、くつがえされた所を建て直し、荒れ果てていた所に木を植えたことを知るようになる。【主】であるわたしがこれを語り、これを行う。神である主はこう仰せられる。わたしはイスラエルの家の願いを聞き入れて、次のことをしよう。わたしは、羊の群れのように人をふやそう。」と言われました。


父なる神が言われたなら、そのおことばを必ず成し遂げられます。それでも私たちのほうから、その通りに成し遂げてくださるように求めなければなりません。
 

朝の学び56 創世記6章 8

「あなたは自分のために、ゴフェルの木の箱舟を造りなさい。箱舟に部屋を作り、内と外とを木のやにで塗りなさい。それを次のようにして造りなさい。箱舟の長さは三百キュビト。その幅は五十キュビト。その高さは三十キュビト。」
創世記6:14-15

 

アダムがこの地上に定着してから約1,600年経ったとき、この世にはすでに罪と悪が増大していました。公義によってはこれ以上赦されることができなくなると、神は結局、さばきの判決を下されました。その方法を「大洪水」と決めて、ノアに洪水に備えて箱舟を造るようにされました。箱舟の様式と製作方法を神ご自身が教えてくださいました。きょうの本文にその内容があります。

神は箱舟の材料と大きさと構造まで教えられましたが、これにはみな霊的な意味が含まれています。まさにノアと彼の子孫が今後どのように生きるべきか、洪水のさばきを通して何を悟って心に留めなければならないか、箱舟のあちこちに意味をこめてくださったのです。

箱舟の霊的意味


まず[6:14前半節]「あなたは自分のために、ゴフェルの木の箱舟を造りなさい。」とあります。ここで「箱舟」とは、霊的に「神のことば」を表しています。ノアと彼の家族は神のことばに聞き従って、箱舟を造ってその中に入ったので、洪水のさばきを免れて救われました。

このように、私たちも神のことばの中にとどまってこそ、救われることができます。神は救いの道と罪の赦しの基準を、聖書に正確に提示しておかれました。神がこのように定めておかれた法に従って、各人の救いの有無が決定されます。

たとえば、[ヨハネ3:18]「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」とあります。また、[マタイ7:21]では、私たちのイエス様が「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」と言われました。

この他にも、神のことばである聖書には、どうすれば救われるのかについて、具体的な内容が記されています。みことばどおり生きた人は天国、そうでない人は地獄に行くようになります。ノアの箱舟に入れなかった人はみな洪水のさばきのとき死んだように、誰でも神が定められた救いの道から外れた時は、永遠に死の刑罰を受けるようになります。

救われない罪、死に至る罪について、救いの箱舟のような役割をするこのようなみことばを必ずよく理解して、心に刻んでおきますように。それで、自分が救いの箱舟の中にいるのか、外にいるかを見分けなければならないし、箱舟の中に入ってきたあと、また外に出て行くこともあってはなりません。皆さんが天国に至る時まで、信仰によって期待するその望みをしっかりつかんでいるようお願いします。

「ゴフェルの木」の霊的意味


神は箱舟の材料を「ゴフェルの木」と指定してくださいました。これにも霊的な意味が含まれています。まずゴフェルの木の特徴を説明いたします。これは松の木の一種です。この木は常緑針葉高木であり、高さは最高30メートルまで、太さは1メートルまで育ちます。根を深く下ろして、幹がまっすぐに育つ特性を持っています。

木の材質は強くて堅く、この種類の木材は、家を建てる時に、柱や垂木のような構造材として使われます。家具を作る時も、家具の基本形を維持する構造材として利用されるのです。この他にも、堅い特性ゆえに土木材、船舶材としても使われるのです。また、この木材はやにを含んでいて、加工は難しいけれど、かえってこのために強度が大きいのです。

神はこのような特性を持ったゴフェルの木を箱舟の材料とするようにされました。ノアの箱舟は大洪水の中で激しい波に耐えなければなりません。山のような大波が来てぶつかってもつぶれないほど、堅くて丈夫でなければなりません。それで、神は強くて堅いこの木を使って箱舟を造りなさいと言われたのです。

私たち人の子らも、険しい世の波をかき分けて、天国まで安全にたどりつくためには、霊的にこの木のような性質が必要です。まっすぐで堅いゴフェルの木のように、まっすぐな心を持ち、どんな困難にも移り変わることがあってはなりません。

[第一ペテロ4:12]「愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、」とあります。皆さんがこの世で信仰を守ろうとすると、時には火のような試練にあうこともあります。

たとえば、家庭が福音化されていなかったなら、先祖を祭るとき、手を合わせないという理由で家族から迫害されたりもします。職場では、上司がすすめる酒を遠慮すると、わけもなく割に合わないことにあうこともあります。皆さんは神を信じるから光の中を歩もうとするのに、闇の霊どもはそれが嫌いなので、悪い人々を操って皆さんを困難にあわせたりするのです。

心がまっすぐな人は、このように世からどんな火のような試練がやって来ても、世と妥協しません。信仰が弱くなったり、揺れたりしないのです。初めに決心したとおり、変わらず神の御目に正しいことを行うのです。すると、神は生きておられるので、必ずすべてを働かせて益としてくださいます。

また、[第一ペテロ1:9]「これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」とあるように、まっすぐな心をもって信仰を守った人は、結果的に救われるようになります。

「箱舟に部屋を作り、」の霊的意味


次に[6:14後半節]を見ると「箱舟に部屋を作り、」とあります。これは、箱舟に部屋を作って、空間を分けなさいという意味です。「箱舟」が霊的に「神のことば」だと言いました。このように「箱舟」が丸ごとの神のことばを指しているなら、部屋が作られている箱舟は何を意味するでしょうか? 

それは、みことばに照らしてすべてをわきまえ知る心を意味します。真理と真理に逆らうものを見分けて、善と悪を見分け、光と闇を見分けられるのです。

私たちがこの世を生きていくとき、必ずこのような力がなければなりません。そうでなければ、まかり間違えば盲人に手引きされて、ふたりとも穴に落ち込むこともあります。神が願われるみこころとは反対に行くこともあるのです。

[ローマ12:2]にも「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」とあります。自分が見ての善でなく、神が認める善が何かわきまえ知らなければなりません。また、自分が正しいと思う義ではなく、神が正しいと思われることを悟らなければなりません。

このためには、すべてにおいて自分を徹底的に捨てて、みことばを基準にしなければなりません。また、自分の心から悪を引き抜いて捨てるとき、いつも良いものを下さる神のみこころが悟れます。みことばに照らして、すべてを正しくわきまえ知るためには、まずはみことばを知識的によく理解して、覚えておかなければなりません。

そして、これとともに必ず霊的な武具として身につけなければなりません。つまり、心が真理に変えられなければならないのです。心を真理に変えさせた人は、聖霊の声を聞いて働きかけられるので、神が望まれるみこころをわきまえ知ることができます。


特に御霊に属する分野は、御霊に属する心になってこそ完全に解くことができます。

[第一コリント2:13後半節]「その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。」とあるとおりです。ですから、皆さんはみことば、すなわち、霊の知識をまめに身につけますが、心に糧とすることにさらに努めますように。

内と外とを木のやにで塗りなさい。」の霊的意味


神は箱舟をゴフェルの木で造り、「内と外とを木のやにで塗りなさい。」と命じられました。この「木のやに」は、ここでは原油を精製して残ったアスファルトやピッチのことです。石油を採取する油田では、天然でも得られます。これは、防水、防腐などのために使われます。

[出エジプト2:3]にも、赤ちゃんだったモーセがパピルス製のかごに入れられてナイルの岸の葦の茂みの中に置かれたとき、それに瀝青と樹脂とを塗ったとあります。このように瀝青を塗ると、防水の役割をして、水に浮きやすくなります。
ところで、神は箱舟の内と外とをこのような役割をする木のやにで塗りなさいと言われました。木と木が接している小さい隙間にまで、やにをきちょうめんに塗って、水が入ってこないように徹底的に備えるようにされたのです。

これからノアと家族が箱舟の中で過ごす日は1年を超えます。もし木で造った箱舟に隙間ができたら、水が入ってきて、生存がおびやかされることもあります。初めは少しずつ入ってきた水がますます隙間を大きくして、後には手のほどこしようもないようにします。

それでは、木のやにで箱舟の内と外とに塗りなさいというみことばに含まれた霊的な意味は何でしょうか? それは、世の中で生きていくけれど、世のものを心に受け入れてはならないという意味です。

皆さんはこの地上で耕作を受けている間、どちらにせよ世の中で生きていきます。世から離れて隠れる人はまことの耕作を受けにくいです。皆さんがこのように世の中で混ざって生きても、世の水が皆さんの生き方に入ってきてはなりません。箱舟の外だけでなく、内にまで几帳面に木のやにで塗りなさいと言われたように、世のものが入ってこないように、世を遮断しなければならないのです。

私が「世の歌やテレビ、映画を断ち切らなければならない」「インターネットも注意しなければならない」といつも強調するのには理由があります。反キリストの勢力が世の文化を支配して、自分たちの道具として広く活用しているからです。暴力的で淫らな映像物はもちろん、一般的な大衆文化にも、すでに反キリストの思想が入り込んでいます。皆さんが単におもしろいからといって視聴しても、無意識のうちに悪い影響を受けるようになります。

私たちのイエス様は「あなたがたは、地の塩です。」と言われました。塩はしょっぱい味を出すだけでなく、腐敗しないようにする役割をします。ところが、塩がその味を失えば、何の役に立つでしょうか。世に染まっている人は、その味を失った塩のようなものです。皆さんは真理で自分をよく守って、味をしっかり出す塩になりますよう、主の御名によってお願いします。

ノアの箱舟の大きさ


本文[15節]で、神は箱舟の大きさを教えてくださいます。「それを次のようにして造りなさい。箱舟の長さは三百キュビト。その幅は五十キュビト。その高さは三十キュビト。」とあります。

この「キュビト」とは長さの単位であり、一キュビトは成人の指先からひじまでの長さです。一キュビトをメートル法に換算すれば、ほぼ46センチから56センチになります。個人的な差、時代的な差があるために、絶対的な数値に規定しにくいです。それで計算しやすく、一キュビトを約50センチとして、箱舟の大きさを計算してみます。

「長さは三百キュビト」とあるので、箱舟の長さは約150メートルです。一般のサッカー競技場の長さは90から120メートルです。ノアの箱舟の長さはサッカー場よりはるかに長いです。ノアの箱舟の幅は「その幅は五十キュビト。」とあるので、約25メートルです。また「その高さは三十キュビト」とあるので、箱舟の高さは約15メートルになります。ふつう建物の一階の高さが2.5メートルから3メートルなので、ノアの箱舟は5、6階の高さです。

ノアの箱舟は内部が3階に分けられています。ノアの箱舟は神が指定された動物をみなのせて、彼らの食糧までも十分にのせられる大きさでした。科学者たちの計算で、これが事実であることが証明されました。今から約4,400年前に、このように大きい箱舟が造られたという事実はまことに驚くことです。

ノアの箱舟の設計比率


ノアの箱舟の設計比率には、さらに驚くべき神の知恵が含まれています。船舶工学者たちは長い間かけて大型船舶の設計安全率を見つけました。それは、船舶の長さが幅の6倍でありながら、高さの10倍のとき、最も安全だということです。(幅×6)=長さ=(高さ×10)それでは、ノアの箱舟はどうでしょうか? 長さ(150メートル)は幅(25メートル)の6倍で、また高さ(15メートル)の10倍です。大型船舶の設計安全率と正確に一致することがわかります。

人類が100メートルの長さの大型船舶を最初に建造したのは1843年です。(最初の大型船舶エスエス・グレート・ブリテンSS Great Britain)これは長さ98メートル、幅15.5メートル、高さ9.75メートルで、設計安全率のとおり建造されました。船舶工学者たちが近代になって見つけた比率を、知識の初めである神がすでに知っておられたので、ノアの箱舟をその比率に造るようにされたのです。

ノアの箱舟と関連した興味深い実験が1992年6月、韓国で実施されました。国家支援機関である海事技術研究所は、韓国創造科学会の依頼で、ノアの箱舟を造船工学の立場からアプローチして、実験してその研究結果を発表しました。

実験のために、ノアの箱舟を50分の1に縮小したテスト用箱舟を造りました。これを大型水槽に浮かべて、これに人工波を起こし、いくつか箱舟の安全性を測定しました。一般に船舶の安全性は、三つの要素を測定して評価します。復元性、波浪に対する安全性、構造安全性です。簡単に言って、高い波にも転覆したりつぶれないのか、船体内部の乗客や貨物はどれほどよく守られるのかを評価するのです。

今まで観測された最高の高さ、30メートルの波を人工に作って実験してみたりしたが、模型箱舟はこの環境でもびくともしなかったのです。ノアの箱舟は、現代の先端科学技術で建造される大型船舶に次ぐ驚くべき安全性を持っていることが、科学的にも立証されたのです。

知識と知恵の初めである神ご自身がノアの箱舟を設計された


今から4,400年前にこれが可能だった理由は、知識と知恵の初めである神ご自身がノアの箱舟を設計されたからです。


[箴言3:5-6]にも「心を尽くして【主】に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」とあります。父なる神は皆さんが心を尽くして神を認めて、神だけに拠り頼むことを願われます。

だれも自分を欺いてはいけません。もしあなたがたの中で、自分は今の世の知者だと思う者がいたら、知者になるためには愚かになりなさい。なぜなら、この世の知恵は、神の御前では愚かだからです。こう書いてあります。『神は、知者どもを彼らの悪賢さの中で捕らえる。』
第一コリント3:18-19

まことに信仰のある方は、父なる神の御前で謙虚に自分を低くするしかありません。へりくだって助けと恵みを求めるようになります。いつも父なる神にへりくだってひざまずいて、恵みと慈しみ、力と知恵を求めますように。それで、父なる神の栄光を帰すわざをあふれるまでに現しますよう、主の御名によって祝福して祈ります。
 

朝の学び55 創世記6章 7

地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。そこで、神はノアに仰せられた。『すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。それで今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうとしている。』
                               創世記6:11-13

ダムがこの地上に定着した後、正統の系図を受け継いだセツの子孫以外の人々は、神を忘れて罪に深く落ちていきました。特に[創世記6:2]に「神の子ら」と表現された、エデンの園から降りてきた人々の悪行により、世は急速に罪と悪が増大するようになりました。
それで、父なる神は「それで人の齢は、百二十年にしよう」と仰せられ、さばきの猶予期間を宣言されました。また、エデンの園から降りてきた人々が再び帰れないようにして、光の領域であるエデンの園の汚染を防がれました。
神のこのような措置にもかかわらず、人々は悔い改めないで、悪行を日常的に行い続けました。それで、結局、本文のような状況になったのです。

 


「地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。」


本文[11節]を見ると、「地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。」とあります。人々の心があまりにも腐敗して、何でもないように悪を行って、その結果、全地に暴力が満ちるようになりました。特に、神に敵対することをはばからないで行いました。

神をほめたたえるために造られた口で自分たちの人生をほめたたえて、自分たちが見て良いものをほめたたえました。創造主がおられるという事実を忘れたまま、自分たちはもともとあった存在だと思いました。肉の欲と目の欲を追い求めて、暮らし向きの自慢のために生きました。彼らの心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾いていて、神のみこころとは正反対の生き方をしました。

ノアと家族を除いたほとんどの人が、真理から外れた生き方をしました。神が人を創造された目的とは完全に反対の生き方をしていたのです。

ここで「地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。」とは、父なる神が定められた線、すなわち、赦してくださる線を彼らが超えてしまったことを意味します。
この時点は、アダムがこの地上に定着してから約1,600年経った時です。その時、すでに世は悪が増大して、神である 【主】が大洪水のさばきをなさるしかない状況だったのです。


「神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。」


次に[12節]を見ると、「神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。」とあります。
父なる神は本来、この地上を美しく創造されました。アダムがたとえ罪を犯して、この地上に追い出されたとしても、アダムと彼の子孫が神のみこころに従って耕作をしっかり受けて、「神の子ども」として生きることを願われました。

ところが、今は「神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。」とあります。
つまり、本来創造されたその美しさはなくなって、汚くて醜く腐敗してしまったのです。
その理由はまさに、この地上に住んでいる「
すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。」とあります。この地上に住んでいる者たちが悪行を日常的に行うから、地上でその道が乱されてしまったのです。

[詩篇14:1]にも、「愚か者は心の中で、『神はいない』と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい事を行っている。善を行う者はいない。」とあります。


敵である悪魔・サタンの働き


当時、ノアとその家族の他には、すべての人が神から遠ざかっていました。このようになった理由は、ルシファーと悪い霊どものためです。敵である悪魔・サタンは、アダムがこの地上で生んだ子孫の心をとらえました。彼らの心にある肉の属性を巧妙に利用して、罪を犯すようにしました。

人々は日が経てば経つほど、ますます罪に深く染まるようになりました。人々は悪の霊どもに心を奪われて、神が望まれる生き方をしなかったのです。反対にむなしい偶像を拝み、それどころか神に立ち向かいました。神がこれ以上彼らを神の子どもと認められないところに至ったのです。

敵である悪魔・サタンは速いスピードで自分の勢力を拡張していきました。この地上は闇に属する領域になってしまったのです。その結果、神はこの地上に「公義の法則」をそのまま適用するしかありませんでした。神が造られた地で、神のかたちに造られた人であっても、厳しいさばきを避けることができなくなったのです。

それで、結局、本文[創世記6:13]「そこで、神はノアに仰せられた。『すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。それで今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうとしている。』」とあるのです。

父なる神がノアにこう仰せられたということは、ノアが神と交わっていたことを表しています。父なる神はノアに、もうさばきの時が来ていることと、どのようにさばきを行われるのか、またどう備えるべきかを教えてくださいました。


「彼らを地とともに滅ぼそうとしている。」


まず本文に「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。」とあります。これは、世の中に息をして生きている者たちがどれほど父なる神に立ち向かって、どれほど神から遠ざかっているのかをもう一度強調されたみことばです。ですから「終わりが、わたしの前に来ている。」と言われました。人々の悪とすべての罪が公義の線を超えたので、さばきが臨むしかないということです

次に「それで今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうとしている。」と言われました。ここで「彼ら」すなわち「肉にすぎない人々」「地とともに滅ぼす」ということは、どういう意味でしょうか? これは「地の支配者である敵である悪魔・サタンの権威も、ともに打ち倒す」という意味です。

かといって、敵である悪魔・サタンの勢力が完全になくなるという意味ではありません。神は、闇の霊どもが人間耕作が終わる時まで、この地上で活動することを許してくださいました。ところが、闇の霊どもは洪水のさばきの前に、すでに自分たちが勝利したように思いました。それで、父なる神は、闇の世の支配者たちのこの高慢な思いを洪水のさばきを通して打ち砕くという意味で、「彼らを地とともに滅ぼそうとしている。」と言われたのです。

創世記講解の初めのほうで説明したように、人間耕作は公義に従って始まりました。父なる神は、ルシファーをかしらとする闇の勢力に、暗やみの力を持つことを許してくださいました。彼らが人間耕作の間、同等な条件で神と競えるようにされたのです

その時、ルシファーは、自分が神より大きい力と権威があることを表してみようと豪語しました。それで、人間耕作が始まった後、ルシファーは自分の手下の悪い霊どもを働かせて、人々を罪と悪に引き入れているのです。人々が創造主の神から遠く離れて、神とかかわりなく生きるようにして、自分が神より優れていることを証明しようとしたのです。

ところで、世は本当にルシファーのほしいままになっていくようでした。この地上の人々はすみやかに罪と悪に陥り、正しい人を見つけにくい世になったのです。それで、ルシファーは非常に意気揚々となりました。この地上はすっかり罪と悪が増大したので、神が公義のさばきによってすべての人を滅ぼされることを知っていました。すると神の人間耕作は失敗に終わって、ルシファーは自分が勝利すると信じたのです。これはつまり、自分の力と知恵が神より優れていることを表すのだと思いました。


父なる神の反転のみわざ


ところが、このような計算は、大洪水の時にたったひとりも生き残れないという前提から出てきます。しかし、私たちの父なる神はどんなお方でしょうか? ルシファーのこのような心を知らないはずがありません。
それで、父なる神は既にはるか前からこの時に備えてこられました。大洪水のさばきが臨んでも、公義に従って生き残れる正しい人を備えられたのです。まさにアダムの息子セツの子孫に代々恵みを与えられ、神を忘れないで恐れるようになさったのです。
そして、大洪水のさばきの時に合わせて、人間耕作の新しい歴史を始めるノアが生まれるようにされました。

このノアは、神の御目に正しい人であって、その時代にあっても、全き人であり、神とともに歩みました。したがって、世の中を滅ぼす公義のさばきの中で、救いの恩寵をいただいたのです。父なる神はこのノアを通して、人間耕作を続けることがおできになりました。

一方、サタン・悪魔が操っていた肉にすぎない人は、大洪水のさばきによって、みないなくなりました。これは、ルシファーがこれまで構築してきた闇の世が壊れたようなものです。ルシファーと悪い霊どもは自分たちが神に勝ったように喜びましたが、父なる神は大洪水のさばきによって、かえって彼らの世界を打ち倒されたのです。

神は正しくさばく方であり、歴史をつかさどられる方であることを明らかに表されました。反転のみわざを起こされたのです。まさにこれが「彼らを」すなわち「肉にすぎない人々」「地とともに滅ぼそうとしている。」というみことばの意味です。

神は生きておられ、公義に従って歴史をつかさどられる方です。私たちが神を信じて正しく生きるなら、敵である悪魔・サタンが妨げて、ゆさぶってみようとしても、私たちは勝利できます。神の栄光をより大いに現すことができるのです。

愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びおどる者となるためです。
                              第一ペテロ4:12-13


厳粛な公義に込められた神の愛


父なる神が「彼らを地とともに滅ぼそうとしている。」と言われたみことばには、厳粛な公義とともに「愛」も込められていることを悟らなければなりません。父なる神が大洪水のさばきをなされたことには、神性と人性がバランスよく働いたのです。

当時、洪水によって滅ぼされた肉にすぎない人々は、神が「ご自身の子」とは認められない者でした。彼らは自由意志に従って、心と思いをサタン・悪魔にすべて渡してしまったからです。これ以上神の人でもなく、あわれみと慈しみの対象にもなれなかったのです

[ヨハネ8:34]にも「イエスは彼らに答えられた。『まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。』」とあります。

もし大洪水のさばきがなくて、その当時の肉にすぎない人々が死ななかったとすれば、彼らは生きている間、罪ばかりもっと犯していたでしょう。彼らの子孫は悪がより増大している世に生まれ、もっとひどい悪を行うようになったでしょう。
したがって、当時、父なる神が大洪水のさばきによって彼らをこの地上で片づけられたことは、「愛」から始まったものであることを悟らなければなりません。

実際、[伝道者の書3:18]「私は心の中で人の子らについて言った。『神は彼らを試み、彼らが獣にすぎないことを、彼らが気づくようにされたのだ。』」とあります。

神のかたちを失った人は、神の御目には獣にすぎないのです。創造主である父なる神は、このように価値のない存在になってしまった彼らを整理したほうがよいと思われました。水で世を洗いきよめた後、新しく人間耕作を続けるほうが、霊的に益になると思われたのです。

これを、多くの羊を飼う牧者の立場になって、一度考えてみてください。数多くの羊の群れに、伝染病にかかって生きる見込みのない羊がいるとしましょう。それなら、その病気にかかった羊がかわいそうだからといって、小屋に置いておくのが愛でしょうか?
他の羊と今後生まれる羊のために、伝染病にかかった羊は、残念ながら始末しなければなりません。

神が大洪水のさばきを決められたのも、これと同じです。すでに獣にすぎない存在になった人々をかわいそうに思って、さばきを後回しにし続けることだけが愛ではないということです。公義に従って整理した後、人間耕作を新しく始めることがまことの愛なのです。
このように、父なる神が大洪水のさばきをなされたのには、公義と愛、人性と神性がバランスよく適用されたことを悟らなければなりません。

皆さんが御霊の歩みに深く入ってくるほど、全く聖なるものとされ、100%に近くなるほど、このような神の公義と愛が明らかに悟られるようになります。公義と愛、どちらか一方にも偏らず、バランスよく適用できるようになるのです。

[エペソ5:9]にある光の結ぶ実の属性にも「あらゆる善意」とともに「正義」が含まれています。善意と正義が偏らないでバランスをとっていてこそ、完全な光を放てるからです。また、それが変わらず持続すること、すなわち「真実」の実を結ばなければなりません。

朝の学び54 創世記6章 6

【主】は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。それで【主】は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。そして【主】は仰せられた。『わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。』しかし、ノアは、【主】の心にかなっていた。これはノアの歴史である。ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。ノアは三人の息子、セム、ハム、ヤペテを生んだ。
                                創世記6:5-10

神の人間耕作の摂理の中で生まれた「ノア」


ノアはどのようにこの驚くべき恵みをいただいたのでしょうか? [8-10節]にその理由があります。「しかし、ノアは、【主】の心にかなっていた。これはノアの歴史である。ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。ノアは三人の息子、セム、ハム、ヤペテを生んだ。」とあります。

父なる神は人間耕作を始める前から、将来人が堕落することをご存じでした。また、時になると、さばかざるを得ないところに至ることも知っておられました。もしそのさばきによってすべての人類が滅ぼされるなら、神の人間耕作は失敗するようになります。そうなってはいけないので、父なる神はこの時に備えられました。

アダムの子孫のうち、セツの系図の子孫に代々恵みを与えられたのです。創造主の神を恐れることで、罪と悪に染まらないようになさいました。そして、この地上に罪と悪が増大して、さばきが臨む時代に合わせて「ノア」が生まれるように、摂理のうちに働かれたのです。それで、神は公義によって世をさばかれる中でも、ノアが正当に救われるようにされたのです。敵である悪魔・サタンが「どうしてノアだけさばきから除かれるのか」と訴えることができなくなるようにしました。

全き人「ノア」が誕生した背景


それでは、今からノアが具体的にどのように【主】の心にかなっていたのか調べましょう。
本文に、ノアについて
「正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。」とあります。どうしてこのような人物が出てくることができたのか、ノアが誕生した時点に行ってみましょう。

[創世記5:28-29]「レメクは百八十二年生きて、ひとりの男の子を生んだ。彼はその子をノアと名づけて言った。『【主】がこの地をのろわれたゆえに、私たちは働き、この手で苦労しているが、この私たちに、この子は慰めを与えてくれるであろう。』」とあります。ノアの父レメクは、このように今後のことをおおまかに感知していました。アダムが罪を犯すことによってこの地上が呪われたので、世は罪と悪が増大するだろうし、ついにさばきが臨むことを予想しました。

ところが、それで終わりではなく、息子のノアがそのさばきからも生き残り、人間耕作の新しい出発点になることを知っていたのです。それで、迫ってくるさばきのゆえに不安にならず、心に慰められるようになりました。レメクがこのように今後の事を予想したということは、彼が父なる神と明らかに交わっていたことを物語っています。これは、それほど神の御前にふさわしい姿で生きていたという意味でもあります。

このレメクの祖父がまさに「エノク」です。ノアはエノクが天に移された後に生まれましたが、ノアの父レメクはエノクと約100年を一緒に暮らしました。同じ家で暮らしてはいないとしても、エノクがこの地上で神とともに歩んでいた300年のうち、後半100年ほどの時間をともに過ごしました。神を愛して愛されたエノクについて、死を見ることのないように移されたことについて、よく知っていたのです。ですから、レメク自身も神を恐れて、子どもたちも何としてでも真理で育てようとしました。

また、ノアの祖父で、エノクの息子であるメトシェラは、大洪水のさばきの直前まで生きていました。ノアの父よりもっと長く生きたのです。ノアは小さい頃から長い歳月、父と祖父から神について正しい教えを受けることができました。まさにノアはこういう環境で生まれ育ちました。ですから、罪と悪が増大した世の中でも、聖別された生き方をすることができたのです。真理の中で成長して、正しい人で、その時代にあっても、全き人になれたのです。

その時代にあって神とともに歩んだノアの生涯


ノアが神の恵みにあって生まれたからといって、自分では何の努力もしなかったのではありません。自分の心を守って生きて、神に自分を完全にささげることを願いました。[創世記5:32]は、ノアのこのような心を断片的でありながら知らせてくれます。「ノアが五百歳になったとき、ノアはセム、ハム、ヤペテを生んだ。」とあるのです。

以前、アダムの系図について説明した時、代を継ぐ息子が初めての子でないことがあると言いました。たとえば、アダムの代を継いだセツも、初めての息子でありません。ところが、ノアの代を継いだセムは、ノアの初めての息子です。ノアはこの子を五百歳になった時に生んだ、とあります。これは当時の基準から見ても、だいぶ遅い年で子どもを生んだのです。

それなら、ノアはどうしてこんなに歳をとってからやっと子を生んだのでしょうか? ノアは当時、世に罪と悪が増大すると、結婚して子を生んで生きようとする心がなかったのです。自分のすべての人生を神に完全にささげることを願って、結婚しませんでした。

ノアは正しい心を持っていたので、毎日人々の不法な行いを見て聞き、嘆くしかありませんでした。そして、[第二ペテロ2:5]にあるように、義を宣べ伝えることに努めました。

こうだったノアが、五百歳近くになって結婚して子どもを生みました。これは自分に向けられた父なる神の摂理を悟ったからです。ノアは将来大審判があることと、それ以後、自分を通して新たに人間耕作が始まることを知るようになりました。それで、洪水のさばきを100年後に控えた、彼の歳が五百になったとき、やっとセム、ハム、ヤペテを生んだのです。

[ルカ17:27]「ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりしていたが、洪水が来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。」とあります。ノアは当時の人々のように、情欲に従って結婚したのではありません。ひたすら神の摂理を成し遂げる道具として、自分の使命を果たすために結婚しようという心を持つようになりました。そして、神が備えられた人に出会って家庭を作るようになったのです。


このように、ノアは自分の人生を、自分が見て良いようにではなく、神のみこころに従って生きました。ですから、神と明らかに交わることができ、ついに神とともに歩むようになったのです。

このようにノアが正しい人生の模範を見せたので、彼の妻と三人の息子と嫁たちもさばきから免れました。彼らがノアに属していたということがさばきを免れた最も大きい理由ですが、彼らもやはりノアの言うことに聞き従って、神のみこころを追い求めて生きようとしました。いくらノアの家族だったとしても、彼らがノアが伝える真理に従わないで世を愛したとすれば、このような救いの恵みをいただくことはできません。

ロトの妻と婿たちがそうではなかったでしょうか。神がソドムを滅ぼされる時に、アブラハムを覚えて、ロトを救ってくださいました。ロトだけでなく彼の家族も救おうとされましたが、結局、妻と婿たちは救われなかったのです。婿たちはロトの話を全く信じなかったし、妻は世の未練を捨てなかったからです。


これは今日も同じです。教会に出席することだけで、救いと祝福が保障されるのではありません。私達自らが神のみこころを追い求めて、光の中に生きなければなりません。さばきと救いはみことばどおりなされるからです。
さらに受けた恵みに感謝し、希望をもって変えられ、御霊の歩みに入り、全く聖なるものとされますよう、主の御名によって祝福して祈ります。

朝の学び53 創世記6章 5

【主】は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。それで【主】は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。そして【主】は仰せられた。『わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。』しかし、ノアは、【主】の心にかなっていた。これはノアの歴史である。ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。ノアは三人の息子、セム、ハム、ヤペテを生んだ。
                                創世記6:5-10

神が大洪水のさばきを決められた理由

本文[7節]を読むと、神があげくの果てに大洪水のさばきを決められる場面があります。そして、神がそのように決められるしかなかった理由が[5、6節]に書いてあります。まさに「【主】は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。それで【主】は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。」とあるのです。


この時はアダムがこの地上に定着して約1600年過ぎた時点です。神がこの地上をご覧になると、人の悪い行いが大きく広がっていました。心にいだくことや考えがいつも悪いものだけでした。
唯一、アダムの正統系図であるセツの子孫だけが神である主を覚えて愛したし、その恵みの中で生きていました。セツからノアに至るまで、神の恵みが代々受け継がれたのです。


当時、この地上にはセツの子孫だけでなく、カイン系統の子孫とアダムの他の息子の子孫など、数多くの人が住んでいました。
国連が使っている人口成長率計算式によれば、アダムからノアまで、一世代当たり息子三人、娘三人ずつ生んだと仮定するなら、ノアの時代には人口が約2億人以上になります。ところで、当時は子どもを数百年間生んだので、人口増加のスピードが非常に早かったのです。ですから、ノアの時代の人口を数十億人と言っても、言い過ぎではありません。

ところが、この多くの人の中で、ただセツの子孫だけが「神である主」を信じたのです。彼らの他には、ほとんどが神の存在自体を忘れて生きていました。このように神を忘れた人はただ食べて生きること、肉の欲を満たすのに汲々とした生き方をしました。男は女を、女は男のことを考えました。個人の情欲と利益だけを求めるのに忙しかったのです。

自分の部族と町の利益のために、戦いも辞しませんでした。戦いがなくて平安になると、淫らな放蕩生活をしました。罪と悪が非常に早く広がって、その当時の罪と悪が、今この終わりの時のような水準でした。ひどく乱れて淫蕩なことがすぐ目につくほどだったのです。「どうすればもっと食べて遊べるか、どうすればもっと快楽を感じられるか、どうすればもっと楽しめるか、どうすればもっと良いものが取れるか、どうすればもっと肉を満足させられるか。」このように人々は自分の情欲を満たすことだけに関心を傾けました。

彼らの心は肉の欲と目の欲と暮らし向きの自慢で燃え上がりました。すでに神を忘れていたので、情欲を満たせるなら、人目もはばからず罪と悪に向かって走りました。敵である悪魔・サタンに心と思いを奪われたまま、自分のことだけ考えて、自分だけを愛したのです。

人は人間耕作の初期に、すでにこのようにひどく変わってしまったのです。ですから、父なる神が彼らをご覧になると、自ずと悔やみ、心を痛められるしかありませんでした。それで、まずは120年の猶予期間を下さることで1次警告をされましたが、役に立たなかったのです。結局、大洪水のさばきを決められました。

正確な公義に従って行われる神の裁き

神がさばかれる時は、必ず正確な公義に従って行われます。選民イスラエル以外の国々の滅びも、神の公義に従って働かれました。一例として、[ダニエル5章]を見ると、B.C.539年にバビロンが滅びて、メディヤ・ぺルシャ帝国が建てられたのも、確かに神の摂理であることがわかります。

バビロンが滅びる前夜、バビロンの最後の王ベルシャツァルは、千人の貴人たちのために大宴会を催していました。エルサレムの神の宮から取って来た金の器でぶどう酒を飲み、偶像の神々を賛美しました。すると突然、人間の手の指が現れ、王の宮殿の塗り壁に物を書きました。「メネ、メネ、テケル、ウ・パルシン。」という字でした。

ダニエルがこのことばを解き明かすようになりました。その意味は次のようです。「『メネ』とは、神があなたの治世を数えて終わらせられたということです。『テケル』とは、あなたがはかりで量られて、目方の足りないことがわかったということです。『パルシン』とは、あなたの国が分割され、メディヤとペルシャとに与えられるということです。」このとおり、ベルシャツァル王はその日の夜に殺されて、バビロン帝国は滅びてメディヤ・ぺルシャ帝国が建てられるようになりました。

このように、個人であろうが国であろうが、神がさばかれる時は、正確な公義に従ってなされるのです。神とかかわりのない国の滅びもこうなのに、神が全人類を滅ぼすさばきを決められるとき、どれほど測りに測って考えたでしょうか。それでもさばきが臨んだということは、この地上に罪と悪があまりにも増大していたことを証明しています。それで、結局、神は大洪水のさばきを決められたのです。

本文[7節]に「そして【主】は仰せられた。『わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。』」とあります。それでは、神はなぜ人だけでなく「家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。」と言われたのでしょうか?

神が「家畜やはうもの、空の鳥」まで滅ぼそうとされた第一の理由はそれらが人間の堕落と関連があるからです。

人々はさまざまな材料をもって、これらのかたちに似た物で偶像を作って仕えました。家の中を飾ったり、からだを装ったりもしました。神だけが礼拝と賛美を受けるべき方なのに、人々は単なる被造物がその代わりをするようにしたのです。

不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。                                            ローマ1:23

創造主である神より被造物のほうを恐れ敬うことは、あまりにもふさわしくありません。しかも人は神と交われる霊がある存在なのに、そうでもない低次元の被造物に仕えるなら、これはどれほどおかしいことでしょうか。

ところが、人間耕作が始まっていくらも経たないうちに、人々は偶像を拝み始めました。歳月が流れるほどその程度がひどくなって、ノアの時代には極に達したのです。それで、神は「家畜やはうもの、空の鳥」まで滅ぼそうとなさいました。これで偶像がどれほどむなしいものであり、偶像として拝まれる動物も単なる被造物にすぎないということを明らかにしようとされたのです。

ところで、水の中の生き物はさばきの対象から除かれたことがわかります。なぜでしょうか? 先に説明した理由と同じです。水の中の生き物は偶像の対象にならなかったからです。また、当時は人々が海に大挙して出て行ったり、海で多くの活動をする前でした。海について多くを知らなかったのです。ただ陸地に広がっていたのです。


したがって、人々は陸地と空の動物のかたちに似た物ではよく偶像を作りましたが、海の動物をもってはそうできませんでした。それで、水の中の生き物はさばきから除かれて、陸地の動物と空の鳥はさばきの対象になったのです。

神が「家畜やはうもの、空の鳥」まで滅ぼそうとされた第二の理由は、それらが人々に属していたからです。

は各種の動物のかたちに似た物で偶像を作って仕えただけでなく、所有物として作って自慢したりしました。たとえば、どれほど多くの家畜を持っているかが富の尺度になりました。したがって、家畜、すなわち、所有物による多くの犯罪が起きたりしました。欲張って多く持とうとする人、多く持っているものを誇示する人、他人のものを盗んだり強奪する人々が出て来たのです。

金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。   第一テモテ6:10

金銭自体は悪いものではないけれど、人が金銭を愛することによって、数多くの悪行が行われました。大洪水のさばきの前は「家畜」が人の代表的な所有物でした。「家畜」が罪を犯したのではありませんが、人に属していたので、人とともにさばかれるようになったのです。

人とともに家畜がさばかれる例は、聖書のあちこちにあります。


たとえば、[申命記13:12-15]には、神がイスラエルの民に、将来カナンの地に入って住む時に心に留めるべきことを語られる場面があります。

「もし、あなたの神、【主】があなたに与えて住まわせる町の一つで、よこしまな者たちが、あなたがたのうちから出て、『さあ、あなたがたの知らなかったほかの神々に仕えよう』と言って、町の住民を迷わせたと聞いたなら、あなたは、調べ、探り、よく問いたださなければならない。もし、そのような忌みきらうべきことがあなたがたのうちで行われたことが、事実で確かなら、あなたは必ず、その町の住民を剣の刃で打たなければならない。その町とそこにいるすべての者、その家畜も、剣の刃で聖絶しなさい。」
                               申命記13:12-15

神である【主】以外の、他の神々に仕えることを徹底的に警戒されたみことばです。それで、もし他の神々に仕えるなら、その町にいるすべての者を打つだけでなく、その家畜も聖絶しなさいと言われています。

[第一サムエル15:3]で、神がサウルにアマレクを聖絶せよと命じられた時も同じでした。「今、行って、アマレクを打ち、そのすべてのものを聖絶せよ。容赦してはならない。男も女も、子どもも乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも殺せ。」と言われました。このように洪水の大審判の時も、人はもちろんのこと、人の所有および治めていた動物にまでさばきが臨んだのです。

神は大審判を決められましたが、人間耕作を始めたこと自体を悔やまれたのではありません。ただ、ご自身のかたちに造られた人間が神のかたちを失って、敵である悪魔・サタンの奴隷になっていることが、あまりにももどかしくて残念に思われました。


その上、エデンの園の人の中でも、一部がこの地上を行き来しながら、肉に染まって情欲に従って生きていくのをご覧になると、大変心を痛められたのです。それで、神は人間耕作の歴史の新しい場を開こうとする計画をいだかれ、大審判を決められたのです。
まさに「ノア」と彼の家族を除いた
すべての人を滅ぼそうと定められたのです。

朝の学び52 創世記6章 4

さて、人が地上にふえ始め、彼らに娘たちが生まれたとき、神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした。そこで、【主】は、『わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう』と仰せられた。神の子らが、人の娘たちのところに入り、彼らに子どもができたころ、またその後にも、ネフィリムが地上にいた。これらは、昔の勇士であり、名のある者たちであった。」
                           
      創世記6:1-4
 

 

神はこの地上に悪が蔓延する状態をご覧になって、嘆いて憂えられました。そして、重大な決定を下されました。その内容が次の本文[3節]にあります。


「そこで、【主】は、『わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう』と仰せられた。」神は憐れみと慈しみが豊かなので、予告なしに直ちにさばかれず、一次的に警告をしてくださいました。その内容は二つでした。

神の警告―わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。


まず「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。」と仰せられました。ここで「肉にすぎないからだ。」ということは「敵である悪魔・サタンが支配する闇、すなわち、罪と悪と不法、不義の中で生きる人になった」という意味です。

光と闇がともにあることができないように、神は罪と悪の中で生きる人とともにおられることができません。「神の子ら」は本来、光の領域であるエデンの園に住んでいた人でしたが、この地上に降りてきて、肉に染まって罪と悪を日常のように行ったので、今は神とかかわりがなくなりました。

このみことばは当時、この地上に住んでいた人にも同じように適用されました。神は肉にすぎない人に「永久には人のうちにとどまらないであろう。」と宣言されたのです。肉にすぎない人は神の子どもではなく、敵である悪魔・サタンの奴隷であり、子どもです。その結末は死であり、地獄なので、神が永久にはそのうちにとどまることができなくなります。

このみことばは今日も同じように適用されます。


正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。
コリント人への手紙第二6:14後半節


神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。
                            第一ヨハネの手紙1:5 

光の中を歩む時神がともにおられる


そして、私たちが光の中を歩んでいてこそ、互いに交わりを保つと言いました。
神がともにおられるなら祝福が臨むけれど、神がともにおられないなら、サタンの試みに陥ることがあります。神の霊がそのうちにとどまらない人は、敵である悪魔・サタンに属するからです。敵である悪魔・サタンは人々が罪を犯すように操り、罪を犯せば患難にあわせます。

皆さんの中に、ひょっとしてでも「私は熱心に信仰生活しているようなのに、私は神様をちゃんと信じているようなのに、神様がともにおられる証拠がなぜないのだろうか」「私はなぜ栄えないのか」「私はなぜ祝福されていないのだろうか」こう思われる方がいるでしょうか? 今日のみことばから答えを見つけますように。皆さんが光の中を歩むなら、神が必ず皆さんとともにおられます。

反対に、神を信じると言っても、相変わらず暗やみの中を歩んでいるなら、神の霊はその人のうちにとどまることはできません。したがって、皆さんに何か問題が起こったなら、まず自分を顧みますように。「私はまだ肉にすぎないのではないのか」「私はやみの中を歩んでいるのではないのか」真実に探らなければなりません。

もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行ってはいません。 
                      第一ヨハネの手紙1:6

皆さんが光である神のみことばを守り行わないなら、いくら「私も神様を信じます」「私も信仰生活を一生懸命にしています」と言っても、何の役にも立ちません。その告白は真実でないからです。しかし、皆さんがまことに光の中を歩むなら、神は皆さんとともにおられ、必ず祝福を下さます。完全になるための訓練を受けていても、神がともにおられる証拠が伴います。

ヨセフがまさにそうでした。ヨセフはよその家で奴隷になっていた時も、濡れ衣を着せられて監獄に入れられていた時も、神がともにおられました。神を信じない周りの人もはっきり感じられるように、彼が何をしても、【主】がそれを成功させてくださったのです。

ところが、監獄に入れられたのでもなく、奴隷として縛られている身でもないのに、何をしても成功することなく、いつも大変そうに生きている方がいるでしょうか? それなら「私は御霊の人とはどれほどかけ離れた肉の人なのか」を悟らなければなりません。

神はすでに数千年前に「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。」と宣言しておかれたからです。

神の警告―「それで人の齢は、百二十年にしよう」


神は[3節の後半節]にあるように、肉にすぎない人について「それで人の齢は、百二十年にしよう」と仰せられました。このみことばを直訳すれば、「人は120年しか生きられない」ということです。ここで「人」とは誰のことで、「120年しか生きられない」というみことばはどういう意味でしょうか?

これにはいくつかの意味が含まれています。その時、人の娘たちを見て、情欲に引かれて彼女たちを妻とした「神の子ら」は、エデンの園とこの地上を行き来しました。ところが、神が「それで人の齢は、百二十年にしよう。」と宣言されてからは、エデンの園に行くことができなくなりました。神は彼らがこれ以上この地上と霊の世界の秩序を乱さないようにと、制裁を加えられたのです。その結果、彼らは肉の人に転落しました。

エデンの園に住んでいたなら寿命が永遠だったはずなのに、肉の人になった後は限定されました。このような寿命の変化は、もともとこの地上で生きていた肉の人にも起きました。900歳以上の寿命が一気に120歳になったのではありませんが、ノアの洪水以後、だんだん短くなりました。

[創世記11:10-25]にあるノアの息子、セムの子孫の寿命がこれを証明しています。セムは600歳、その次のアルパクシャデは438歳、その次のシェラフは433歳、その次のエベルは464歳、その次のペレグは239歳、その次のレウは239歳、その次のセルグは230歳、その次のナホルは148歳です。大洪水のさばきの前は、平均寿命が900歳を超えていましたが、その後は寿命が短くなり続けました。

ところで「それで人の齢は、百二十年にしよう」というみことばには、「人の寿命が短くなった」という意味の他に、もう一つ重要な意味が含まれています。人の齢を110年にすることも、130年にすることもあるのに、神は120年にしようと仰せられました。このように、なぜあえて120年にしようと言われたのでしょうか?

120には「光の数」である12が入っています。したがって、神が人の齢を120年に定められたことには、「光と闇を分けられる」という霊的な意味も含まれています。これは具体的に「闇に属する肉にすぎない人が光の領域に再び入れないように線を引く」という意味です。まさに本文[2節]の「神の子ら」は、その後はエデンの園へ帰ることができなくなったのです。

「120年」さばきが臨むまでの猶予期間


これとともに、この地上に住んでいた人には、神が言われた「120年」がさばきを受けるための猶予期間を意味します。当時、この地上には人の罪と悪が満ちていました。エデンの園から降りてきて情欲を追い、無秩序に行った人々によって、この地上の人もさらに乱されてしまったと言いました。神はこの地上の人の悪がだんだん増し加えられることをご存じでした。そして、結局さばかれるしかないところに至ることも知っておられました。このように、さばきが臨む時までの猶予期間を「120年」という年数で表現されたのです。

だからと言って、その時から正確に120年後にさばきが臨む、という意味ではありません。「120年」は、さばきが臨むほど悪が満ちるまでの猶予期間、という象徴的な年数です。神がこのように「猶予期間」を例示された他の例を、聖書で見つけることができます。

まず[創世記15:16]に、神はアブラムに「そして、四代目の者たちが、ここに戻って来る。それはエモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである。」と仰せられました。今後アブラムの子孫であるイスラエル民族がエジプトで暮らして、カナンの地へ帰ってくるだろうが、その時が四代目だという意味です。その理由は、当時カナンの地に住んでいたエモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからだと言われました。

ところが、四代目になれば、彼らの罪と悪が滅びのさばきを受けるほど満ちるということです。神はこのように、今後起こることを正確に知っておられるので、それに合わせて摂理を成し遂げられます。さばきも祝福も、公義に従って成し遂げられます。

本文に神が仰せられた「120年」も、このような場合です。将来、神のさばきが確かになされるが、そうなるまでには猶予期間がありました。神は悪が満ちることを待っておられたのではありません。滅ぼすことを望まれる方ではないのです。何としてでも罪と悪から立ち返って、救われることを望まれるので、あらかじめ知らせて機会を与えてくださいます。

しかし、当時の人々は神の第一次の警告を無視したまま、引続き罪と悪の中を歩んでいきました。それで結局、洪水のさばきを迎えるようになったのです。

しかし、悪者でも、自分の犯したすべての罪から立ち返り、わたしのすべてのおきてを守り、公義と正義を行うなら、彼は必ず生きて、死ぬことはない。彼が犯したすべてのそむきの罪は覚えられることはなく、彼が行った正しいことのために、彼は生きる。わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。──神である主の御告げ──彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか。
エゼキエル書18:21-23

このみことばのように、当時の人々が神の警告を聞いて徹底的に悔い改めたなら、救いの機会をつかむこともあったでしょう。

ニネべの人々の悔い改め


[ヨナ書]にあるニネベの人々がその良い例です。
彼らの立場では、ヨナは他国イスラエルの預言者でした。それでもヨナが伝えたさばきの警告を決して無視しなかったのです。「もう四十日すると、ニネベは滅ぼされる」というヨナの叫びを聞いたとき、「そこで、ニネベの人々は神を信じ、」とあります。そして、直ちに悔い改めの姿勢を取ります。王と大臣たちとすべての人が断食するのはもちろんのこと、さらに家畜までも断食させました。ひたすら神にお願いし、おのおの悪の道と、暴虐な行いから立ち返るようにしました。

神は、彼らが悪の道から立ち返るために努力していることをご覧になった。それで、神は彼らに下すと言っておられたわざわいを思い直し、そうされなかった。   
ヨナ書3:10

このように、私たちの父なる神は人の子らを大切にして愛されるお方です。
ところが、神が愛をもって機会を与えても、人が罪と悪を積み続けるなら、公義に従ってさばきが臨むしかありません。それで結局、神もノア時代に洪水のさばきを決められたのです。

 

朝の学び51 創世記6章 3

さて、人が地上にふえ始め、彼らに娘たちが生まれたとき、神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした。そこで、【主】は、『わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう』と仰せられた。神の子らが、人の娘たちのところに入り、彼らに子どもができたころ、またその後にも、ネフィリムが地上にいた。これらは、昔の勇士であり、名のある者たちであった。」
                           
      創世記6:1-4
 

 

本文にある「神の子ら」とは「エデンの園に住んでいたアダムの男の子孫」と言いました。彼らの一部がアダムについてこの地上に来て、定着した後、人の娘たちを取り、妻としました。エデンの園でのように、神が定められた秩序に従って結婚して、子どもたちを生みました。この子どもたちがまさに「ネフィリム」だと言いました。

ところが、これとは違って、エデンの園から来た「神の子ら」のうち、「人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした。」者たちがいました。彼らから生まれた子どもたちがまさに「昔の勇士であり、名のある者たち」でした。


エデンの園に住んでいる人たちは完全な霊ではなく、自分の自由意志に従って肉を求めれば、肉に染まることのある存在です。エデンの園から降りてきた人の一部は、だんだん肉に染まっていき、ついには情欲に従ってこの地上の女性を取っていきました。そうしながら、エデンの園を行き来することによって、霊の世界の秩序も乱す結果を生みました。

罪の属性


これを通して、私たちは罪の属性を悟ることができます。
[ガラテヤ5:9]「わずかのパン種が、こねた粉の全体を発酵させるのです。」とあります。聖書では、誤った教訓や罪の性質を「パン種」にたとえています。
たとえば
[マタイ16:11]で、私たちのイエス様も「ただ、パリサイ人やサドカイ人たちのパン種に気をつけることです。」と言われました。

パン種は少ない量でパンを大きく膨らませることができます。罪の属性がまさにこうです。いのちの息が吹き込まれていたエデンの園の人々も、自由意志に従って肉を追い求めると、肉に染まって、霊肉ともに秩序を乱す罪を犯しました。彼らのそのような行動は、この地上の肉の人がもっとすみやかに罪に陥るようにあおりました。「わずかのパン種が、こねた粉の全体を発酵させる」ような現象が起こったのです。

いのちの息が吹き込まれていた彼らもこのようになるなら、肉にあるこの地上の人はどれほどさらにすみやかに肉に染まるでしょうか。


また、[第一ペテロ5:8]「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」とあります。したがって、聖徒の皆さんはこの地上で生きている間、いつも身を慎み、御霊によって目を覚ましていなければなりません。

さらにこの世代は罪と悪がはびこっています。それで、皆さんが少しだけ油断すれば、罪の誘惑に陥ることがあります。もしかすると、私心、欲を満たそうとすると「詐欺」の罠にかけられることもあります。簡単に正道から離れて不法を行いながらも、大胆になることもあります。その結果は確かに「不幸」です

また、皆さんが「さびしい、つらい」と感じる時は、そのような感情をもてあそぶサタンの計略に簡単に引っかかることもあります。聖書があれほど警戒している肉の行いを再び犯すことが生じることもあるのです。

これについて[第二ペテロ2:22]「彼らに起こったことは、『犬は自分の吐いた物に戻る』とか、『豚は身を洗って、またどろの中にころがる』とかいう、ことわざどおりです。」とあるのです。

このように前に悔い改めた罪をもう一度犯したら、どれほどもどかしいことでしょうか。再び恵みをいただくためには、どれほど身もだえして、胸を引き裂く悔い改めをしなければならないでしょうか。他の人は霊の流れによく乗って、信仰の岩に立って、また御霊の歩みに入っているのに、このように退歩していてはいけません。

したがって、皆さんは自分を真理で守っていきますように。信仰がまだ小さい方なら、罪を犯しやすい環境から自分を遠ざけることが上策です。真理でなければ見ることも聞くこともせず、真理でなければ伝えることもしてはなりません。反対に、真理であるみことばを読んで聞くことを楽しまなければなりません。


信仰の岩の上に立ったとしても、肉の属性をすべて脱ぎ捨てたのではないので、警戒を緩めてはいけません。御霊の歩みに入るまで、いつもみことばと祈りによって聖められるために努力しなければならないのです。

ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。
                       第一コリント10:12

私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。           
ピリピ3:12-14

このような使徒パウロのようにいと低い者のへりくだった心をもって、立ち止ることなく御霊の歩みに進んでいかれますように。「今まで走ってきたから、もう、今はちょっと休もう」と思ってはならないでしょう。「今からまた出発だ」という心で、いつも新たに挑戦されますように。それで、最後の瞬間、審判台に立つその時、父なる神に賞賛と報いをいただきますよう、主の御名によって祈ります。

二つのグループの「神の子ら」の子孫


今からは二つのグループの「神の子ら」の子孫について、もう少し説明いたします。
まず、一番目のグループの子孫であるネフィリムは、その容貌が非常に優れていました。神の子らの気を受け継いで生まれたので、この地上の普通の人とは違いました。ネフィリムの父たちはこの地上の人生を自ら選んで降りてきたとしても、肉に深く染まらなかったのです。それで、彼らが持った良い気質、すなわち、エデンの園の人としての飛び抜けた面を子どもたちにもたくさん伝えることができました。

二番目のグループの子孫も、基本的にエデンの園の人の気を受け継いで生まれたので、この地上の人々よりは優れた面がありました。それで、彼らはどこでも目について、普通の人には非常に特別な存在と思われました。また、身体条件や知恵など飛び抜けた面もあって、彼らの中から「勇士」で、名のある者たちも出てきました。

ところが、彼らの子孫は代々飛び抜けた気質を持って生まれることはできませんでした。彼らの二世たちも急速に肉に染まり、「肉にすぎない人」になったからです。これは、アダムとエバがこの地上で生んだ子孫が肉の人であることと同じです。アダムとエバも、エデンの園ではいのちの息が吹き込まれていた存在でしたが、罪を犯して肉の人になった後は、彼の子孫も肉の人として生まれました。同じように、「神の子ら」と彼らの子どもたちがこの地上で肉にすぎない人になると、子孫も肉にすぎない人として生まれました。

これは「神の子ら」から受け継いだ良い気質が、肉の属性と混ざりながら相殺されてしまった結果です。それで「神の子ら」の子孫も、三代目からはこの地上の人々とあまり変わらなくなりました。もし彼らが代々飛び抜けた力を持って生まれたなら、恐らくこの地上は彼らの世になってしまったでしょう。「勇士で、名のある者たち」と呼ばれるほど飛び抜けた彼らが、この地上の人々を支配して従えるようになったでしょう。


幸いに、こうしたことは起こりませんでした。彼らは寿命が尽きて死んで、人々の記憶の中にだけ「伝説的な人物」として残るようになりました。さらに洪水のさばきの時に、ノアの八人の家族の他には救われた人がいなかったので、この時、神の子らの子孫も絶滅してしまいました。

ところで、[民数記13:33]に、イスラエルの十二の偵察のうち、十人の報告内容に「ネフィリム人、ネフィリム人のアナク人」が登場します。「そこで(すなわちカナンの地です。具体的に「キルヤテ・アルバ」とも呼ばれる「ヘブロン」を指します。) 私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」とあります。

この時、彼らが見たという者たちが本当に「ネフィリム人」でしょうか? そうではありません。彼らが見た人はヘブロンに住んでいたアナク人です。アナク人は丈夫(ますらお)のように強く見えて、非常に恐ろしい存在とみなされました。それで、十人の偵察は、自分たちの主張に説得力を加えるために、アナク人を「ネフィリムの人」と遠まわしに言って表現したのです。


カナンの地を探らせたのは、ノアの洪水から約1千年が流れた後にあったことです。それでも「ネフィリム」という存在が人々の記憶の中に残っていたのです。ノアの子孫によって人が再びふえる時に言い伝えられたのです。

ネフィリムはこの地上にいたとき、問題を起こさなかったのです。一方、情欲を追ってこの地上に降りてきた神の子らとその子孫は、問題をよく起こしました。本文[2節]にあるとおり「人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とする」など、神の御怒りをかう行動をしたのです。

さらに彼らは、この地上とエデンの園を行き来しながら、この地上の秩序はもちろん、エデンの園の秩序までおびやかすに至りました。彼らの行動はこの地上の人に莫大な影響を与えます。この地上の人も簡単に彼らのあとを追って、一緒に乱れた悪行を日常的に行うようになりました。神は事態がこのように深刻になるのをご覧になって、嘆いて憂えられました。そして、重大な決定を下されました。

朝の学び50 創世記6章 2

 

さて、人が地上にふえ始め、彼らに娘たちが生まれたとき、神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした。そこで、【主】は、『わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう』と仰せられた。神の子らが、人の娘たちのところに入り、彼らに子どもができたころ、またその後にも、ネフィリムが地上にいた。これらは、昔の勇士であり、名のある者たちであった。」
                           
      創世記6:1-4
 

 


本文1節「さて、人が地上にふえ始め、彼らに娘たちが生まれたとき、」は前回説明しました。ここで「さて、人が地上にふえ始めたとき、」とは、まず、多くの人がこの地上にふえ、広がり始めた時です。第二、人々が罪と悪に染まって、神からかなり遠ざかった時を指しています。

当時の人々は、神への信仰を失うことによって道徳性が欠けてしまうなど、悪に濃く染まっていました。[1節後半節]「彼らに娘たちが生まれたとき、」とあるのは、罪と悪に深く染まり始めた時に生まれた娘たちが[2節]の出来事と関連があるからです。


[2節]を見れば、「神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした。」とあります。これと一緒に[4節]も見ましょう。「神の子らが、人の娘たちのところに入り、彼らに子どもができたころ、またその後にも、ネフィリムが地上にいた。これらは、昔の勇士であり、名のある者たちであった。」とあります。

この二つの節をまとめてみれば、当時に「ネフィリム」という存在がいました。そのころ、「神の子ら」が、人の娘たちが美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、妻とすることが起こりました。そして、4節の「これら」と記してある子どもができたのです。このように、神の子らが人の娘たちのところに入って生んだ子どもたちは「昔の勇士であり、名のある者たち」でした。それでは「ネフィリム」とは誰で、「神の子ら」とは誰でしょうか?

「神の子ら」

まず、「神の子ら」について説明します。彼らを「御使い」と主張する人がいます。しかし、[ヘブル1:5]を見ると、そうでないことがわかります。「神は、かつてどの御使いに向かって、こう言われたでしょう。『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。』またさらに、『わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。』」とあります。このように神は御使いには「わたしの子」と言われないのです。

また、[マタイ22:30]を見れば、イエス様が「復活の時には、人はめとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。」と言われました。これを通して、御使いは人のようにめとったりとついだりしないことが、はっきりわかります。したがって、本文にある「神の子ら」は決して御使いではありません。

また、ある人は、この「神の子ら」がアダムの子孫の中で正統系図を継いだ「セツの子孫」だと主張します。しかし、これもやはり説得力がありません。聖書のどこからも「セツの子孫が神の子らだ」という根拠が見つからないからです。

それでは、はたしてこの「神の子ら」とは誰でしょうか? ここで言う「神の子ら」とは「エデンの園に住んでいたアダムの男の子孫」です。アダムがこの地上に追い出された後も、彼らはエデンの園に住み続けました。彼らの一部はエデンの園と地球を行き来することもできました。アダムが罪を犯す前は、エデンの園がある第二の天と地球が属する第一の天を支配していました。それで、エデンの園と地球を自由に行き来することができたのです。

その当時、アダムの子孫の中には、アダムと一緒に地球に来たことのある者もたくさんいました。アダムが罪を犯した後は、エデンの園から地球に来ることに制約ができました。誰でも行ってくることもできないのはもちろん、霊の世界の門をつかさどるケルビムの許しを得なければならなかったのです。

その結果、この地上に降りて来れる人は、以前と比べてみたら非常に制限されました。本文の「神の子ら」という表現も、その当時「制約条件」があったことを表しています。このように制約的でありながらエデンの園とこの地上を行き来した神の子らは、大きく二つのグループに分けられます。

「ネフィリム」

一つは、アダムがこの地上に追い出された後、アダムについてこの地上に降りてきて、定着した神の子らです。彼らは地球で生きていくアダムを見守りながら、憧れるようになりました。自分たちが生きているエデンの園は、地球と比べるとはるかに環境が良いです。何一つ乏しいことなく、永遠に生きられます。それでも彼らには、肉の世である地球で生きるアダムの暮らしが良く見えました。

このグループの神の子らが重要に思ったのは、まさに「愛するアダムとエバと一緒に暮らしたい」ということでした。特にアダムとエバが生んだ子どもたちは、さらにこの心が強かったのです。当時は肉の寿命も普通で900才だったので、彼らはこの地上でもエデンの園のように、一緒に生き続けられると思ったのです。それで、この地上の人生を選んだのです。

ところが、この選択をした人の数がそんなに多くはありませんでした。彼らはこの地上に定着した後、人の娘たちを取り、妻としました。エデンの園でのように神が定められた秩序に従って結婚して、子どもたちを生みました。この子どもたちがまさに「ネフィリム」です。

「昔の勇士で、名のある者たち」

エデンの園とこの地上を行き来した神の子らの二番目のグループは、「人の娘たちが美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした」者です。そして、彼らから生まれた子どもたちが「昔の勇士で、名のある者たち」でした。

エデンの園の男性がこの地上の女性をめとるようになった過程を、もう少し詳しく説明します。アダムがこの地上に追い出された後、地球の状況を知りたがっていた者たちがいました。自分たちの先祖であるアダムがどう生きているのか、見たがったのです。そのうち一部はアダムのようにこの地上に定着して、一部は行き来し続けました。この地上に定着した者は、先に説明した一番目のグループで、彼らは何の問題も起こさなかったのです。

一方、行き来した者は問題を起こしました。彼らが「肉」に染まり始めたのです。この地上に人がふえ始めながら、罪と悪も急速に広がりました。エデンの園の男たちは、このような地球に降りてきて、肉の人を見て接しながら、だんだん肉に染まるようになりました。

本文の「神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、」というみことばは、目の欲が生まれる状況を説明してくれます。エデンの園の人は完全な霊の存在ではなく、「いのちの息」が吹き込まれて生きものとなったので、自分のほうから肉を求めて受け入れれば、肉が入ることもあります。

彼らにも自由意志がありました。この自由意志に従って自ら肉を求めると、肉に染まることがあるのです。彼らがエデンの園で生きていた間は、いつも光の中で守られていたので、自由意志があったとしても、自ら肉を求めることはなかったのです。

ところが、この地上を行き来しながら、肉の人にしばしば接していたら、だんだん自由意志によって目の欲を受け入れるようになりました。するといのちの息が吹き込まれていた彼らにも「肉の欲」が入り始めるようになりました。結局、彼らは情欲に従って、人の娘たちを妻とし始めました。しかも「好きな者を選んで」自分たちの妻としたのです。

ひょっとして「エデンの園の女性のほうが人の娘たちよりはるかに美しいはずなのに、どうして彼らはあえてこの地上の女を妻としたのだろうか」と思う方がいるでしょうか? 心が御霊に属するのか、肉に属するのかによって、「美の基準」が違うことが見られます。御霊の人は、きよくて純粋で、天国を連想させる場面で美しさを感じます。一方、肉の美しさを追い求める人は、たいてい情欲的で世の感じがする時に「洗練されていてすてき」と思います。

本文の「神の子ら」も、肉に染まる前は、エデンの園の女性のほうを当然美しいと思いました。エデンの園の女性は、神が造られた美しさをそのまま維持していたからです。一方、この地上の女性は世的で情欲的な姿に変わって、服や飾りも肉的に華やかだったのです。「神の子ら」が初めてこの地上の女性を見た時は、異質な感じがしました。ところが、自分が肉に染まるようになると、この地上で生きている肉的な女性が美しく見え始めました。結局、情欲に従って、好きな者を選んで、自分たちの妻とするようになったのです。

霊と肉の秩序の混乱

彼らのこのような行動は、霊と肉の秩序をどちらも乱して、多くの混乱をもたらしました。彼らはこの地上の女性をめとりながらも、エデンの園を行き来しました。肉に染まっている存在が霊の世界であるエデンの園にとどまるということ自体が、霊の秩序を乱すものです。

これとともに、彼らは肉の秩序も乱しました。彼らの乱れた行動は直ちにこの地上の人々にも伝染しました。この地上の人々が見るとき、エデンの園から降りてきた者はほとんど神のようでした。彼らは容貌も秀でていて、知識や知恵の面でもこの地上の人よりはるかに飛び抜けていたからです。そんな彼らがこの地上に降りてきて、自分の好きな者を選んで妻とすると、この地上の人々も簡単に後を追ったのです。結果的に、この地上には情欲に従って行うことが急速に広がりました。

ひょっとして「神がエデンの園とこの地上との通路を徹底的に封じ込めてしまわれたなら、こんなことが全く起こらなかったはずなのに。どうしてそうされなかったのだろうか?」こういう疑問をいだく方がいるでしょうか?

私たちの神は人間耕作の過程を人の自由意志にゆだねられました。神は任意に介入して、強制的に操るお方ではありません。霊の世界の門を制約的でありながら開いておかれたのも、アダムと彼の子孫のためでした。これは、エデンの園を懐かしがるアダムのため、また先祖であるアダムに会いたがるエデンの園の子孫のための、神の配慮でした。
ところが、彼らの一部が自由意志に従って肉を追い求めて、霊肉ともに秩序を乱す結果を生んだのです。

朝の学び49 創世記6章 1

 

さて、人が地上にふえ始め、彼らに娘たちが生まれたとき、神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした。そこで、【主】は、『わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう』と仰せられた。神の子らが、人の娘たちのところに入り、彼らに子どもができたころ、またその後にも、ネフィリムが地上にいた。これらは、昔の勇士であり、名のある者たちであった。」
                           
      創世記6:1-4
 

 

死を見ることなく天に移されたエノク

エノクがすみやかに全く聖なるものとされた理由は、第一、善を積むことを楽しんだ、第二は、神を第一に愛したと言いました。エノクが神をこの上なく愛すると、神も愛の表現をしてくださいました。するとエノクは神を親しく感じて「父」と呼べました。65歳からは神とともに歩む生き方をしました。その時から神への愛はさらに大きくなって、やがて「神に喜ばれる者」という証拠をいただきました。

主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。
                           
 ゼパニヤ書3:17後半節

    

このように、父なる神はエノクがかわいくて仕方がなく、一時も離れていたくありませんでした。それで、この地上でも300年間ともに歩んでくださって、結局エノクが死を見ることのないように、天に移されました。
エノクは神と明らかに交わっていたので、神がどの時点になれば自分を移されるのか、知っていました。それで、家族や周りの人々にもあらかじめ知らせておきました。彼らがエノクが移されても驚かないで、かえって光栄に思えるように、よく説明してあげたのです。

預言者エリヤの昇天

エリヤが天に上げられた時も、神はエリシャにその栄光の場面を見るようにしてくださいました。

こうして、彼らがなお進みながら話していると、なんと、一台の火の戦車と火の馬とが現れ、このふたりの間を分け隔て、エリヤは、たつまきに乗って天へ上って行った。
                                第二列王2:11

エリシャは、神が恩師のエリヤを死を見ることなく移されるのをはっきり見ました。あまりにも光栄なことで感激でした。それで、その後、他の弟子たちが山や谷にエリヤを捜しに行くと言った時も、そうする必要はないと引き止めました。それでもついに五十人が三日間捜し回りましたが、結局見つけることができなかったのです。このように、エノクが天に上げられた時も、神は周りの人々がそのことを光栄だと思えるようにしてくださいました。

天国にあるエノクの家

一方、エノクは光の通路を通して、速く移動しました。それは一瞬のことでしたが、その中の雰囲気と感動をすべて感じられました。エノクはこの地上で生きていた時も、父を思うことでいつも幸せでしたが、父のふところにいだかれた時のうっとりした気持ちは言葉に尽くせないほどでした。

父なる神は天国にエノクの家を用意してくださいました。その家で目に最もよくつく所には、特別な装飾品があります。それは、エノクが父にささげた告白の内容が宝石で彫られたものです。文字一つ一つが宝石で縫い取られ、きらびやかな光を放っています。また、エノクがこの地上でささげた賛美に、父が光と香を加えて編曲された音楽がかすかに鳴り響いています。


父なる神はエノクが愛の心を込めてささげた告白ひと言、賛美一節も、聞き流してしまわれませんでした。喜んでかがれ、このように天国で美しい報いとして返してくださったのです。このような希望をもって、さらに心を尽くし、精神を尽くして、父なる神を愛するすべての聖徒の皆さんになりますように。

父なる神様の慰めと喜び

愛する聖徒の皆さん、今までエノクについて説明しました。父なる神がこのようなエノクをご覧になると、どれほどいとおしかったでしょうか。人間耕作を始めて以来、人類はすみやかに罪に染まっていきました。

ところが、エノクが神を切に捜して心から愛する香をささげると、父なる神は慰められました。永い歳月を耐え忍んで待って期待されたまことの子どもを得た喜びによって、非常に楽しまれました。父なる神が望まれる子どもは、このエノクのように善と愛が満ちている人であることを後世に教えてくださるために、聖書に書き残されたのです。

この世代は、エノクの時代よりはるかに罪と悪がはびこっています。それでも皆さんが御霊の歩みに入り、さらに全く聖なるものとされるなら、父なる神がどれほど喜ばれるでしょうか。皆さんすべてが父なる神に慰めと喜びを差し上げるまことの子どもになりますよう、主の御名によって祈ります。

創世記6章-洪水のさばきの背景

聖徒の皆さん、今からは[創世記6章]です。アダムがこの地上に追い出されてから、約1,600年が過ぎたとき、世はすでに罪と悪がはびこっていました。それで、神が「洪水のさばき」を決められ、ノアに箱舟を作るように命じられました。

きょうの本文には、神が世をさばこうとされた重要な理由の端緒が出てきます。また「神の子ら」「ネフィリム」「昔の勇士」が出てきます。聖書を読む人ならば「彼らははたして誰だろうか」という疑問を持ちます。聖書学者の間ですら意見がいろいろとあります。皆さんは聖書の著者である父なる神ご自身が解き明かしてくださったみことばを通して、これから明快な答えを得るでしょう。

多くの人がこの地上にふえ、広がり始めた時

まず[1節]から詳しく調べましょう。「さて、人が地上にふえ始め、彼らに娘たちが生まれたとき、」ここで「さて、人が地上にふえ始め、彼らに娘たちが生まれたとき、」とは、どのような時を意味するでしょうか?
まず文字どおり、多くの人がこの地上にふえ、広がり始めた時です。たとえば[創世記4章]にあるカインの子孫のうち、レメクはふたりの妻をめとりました。その結果、子孫も二倍得られたのです。これが人口増加のスピードをさらに速くした重要な要因になったと言いました。

人々が罪と悪に染まって、神からかなり遠ざかった時

また、レメクの代を起点に、人類の文明が以前とは違う次元で大いに発達しました。業種別の専門家が出てきて、技術が発達して、人々の暮らしがかなり安定しました。暮らしの余裕ができると、遊興文化も形成されました。このように文明が発達するほど、人は神からますます遠ざかっていきました。神中心の生き方が人間中心の生き方に変わったのです。

これは今日も同じです。物質的に豊かな国であるほど、人本主義思想が支配的で、キリスト教に対して排他的なのが見られます。個人的にも、人々は富と権勢を得るほど、神を捜さないで遠ざけます。「神がいなくても、これくらいいい暮らしができる」という高慢な心が生じるからです。レメクの代を起点に、人類は物質的に豊かで暮らしが安定するようになると、急速に罪と悪に染まって神から遠ざかりました。

したがって、本文の「さて、人が地上にふえ始め、彼らに娘たちが生まれたとき、」とは、第二、人々が罪と悪に染まって、神からかなり遠ざかった時を指しています。

本文の「地上」という単語は、単純に目に見えるこの肉の地だけを指しているのではありません。アダムが生きていたエデンの園、この霊の世界と対比される「肉の世」を指しているのです。ですから「人が地上にふえ始め」というみことばは、「人がだんだん肉の世に染まって、肉の人になっていく」という意味です。

当時の状況をまとめてみれば、人々が神への信仰を失うことによって、道徳性が欠けてしまうなど、悪に濃く染まっていたことを知らせてくれます。このように、このみことばは神がなぜ洪水のさばきを決められたのか、その理由を察するようにしてくれるのです。

彼らに娘たちが生まれたとき、

聖徒の皆さん、続く[1節の後半節]に、「彼らに娘たちが生まれたとき、」とあります。このみことばを誤解して、「その前までは息子だけを生んで、この時になってから娘たちが生まれたようだ」と思ってはいけません。娘たちがいなかったなら、息子たちも生まれなかったでしょう。
それなら、どうしてあえてこのように表現されたのでしょうか? それは、続く[2節]の出来事を説明するためです。以前ももちろん娘たちはいたが、人がこの地上にふえ始めたとき、すなわち、罪と悪に深く染まり始めた時に生まれた娘たちが、[2節]の出来事と関連があるからです。

[2節]を見れば、「神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした。」とあります。

朝の学び48 創世記5章 7

 

エノクは六十五年生きて、メトシェラを生んだ。エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神とともに歩んだ。そして、息子、娘たちを生んだ。エノクの一生は三百六十五年であった。エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。
                                創世記5:21-24

神を父と呼んだエノク

皆さんはエノクの告白を聞いて、何か特異な点を発見できなかったでしょうか? それはまさにエノクが神を「父」と呼んだことです。一般的に、旧約時代の人々は神をあえて「父」と呼べませんでした。神の御名を呼ぶことさえも、むやみにできなかったのです。ところが、エノクは神を堂々と「父」と呼びました。これを通して、私たちは父なる神とエノクとの間がどれほど親密だったのかがわかります。

人が神を父と呼べるようになった時

人が神を父と呼べるようになった時は、イエス様が十字架を負われた後からです。イエス様が木にかけられて、尊い血を注ぎ出して、すべての人類の罪を贖ってくださいました。また、何の罪もなかったので復活、昇天されました。これを心に信じる人は、主の尊い血の力によって罪が赦されます。神が聖霊を遣わして、子どもとしてくださるのです。

しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。                   ヨハネ福音書1:12

 

神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父』と呼びます。」        ローマ人への手紙8:14-15

 

 

最初の人アダム

このように神の御霊に導かれる人がすなわち神の子どもであり、神を父と呼べるのです。いのちの息が吹き込まれていた最初の人アダムもやはり、エデンの園で生きている間は神を父と呼べました。アダムがエデンの園で生きている間は、神の御霊に導かれていたからです。

また、アダムは自分を造って養われる方が神だと知っていたので、自然に神を「父」と感じました。さらにアダムは神のかたちに造られたので、神を堂々と父と呼べたのです。

ところが、罪を犯してこの地上に追い出されてからは、状況が変わりました。神との間を隔てる罪の壁によって、また自分が父のかたちを失っていくという事実のゆえ、堂々と父と呼べなくなりました。あまりにも心苦しくて申し訳なく、とても「父」と呼びにくかったのです。その結果、アダムがこの地上で生んだ子孫も神を「父」と思うことができなくて、【主】と呼ぶしかなくなりました。

 

 

善と愛を満たしたエノク

このような流れで、アダムの七代目のエノクは神を父と呼んだのです。これはエノクが善と愛を心にぎっしり満たして、神に非常に似せられていたので可能なことでした。また、これは神とそれだけ親密に交わったという証拠です。エノクは、宇宙万物を創造されて、また自分も創造された方がまさに神であることを、非常に明らかに知っていました。ですから、神を父と呼ぶしかなかったのです。神もエノクを子どもと認められたので、エノクは神を堂々と父と呼べたのです。

旧約の預言者たち

ところで、父なる神はエノクだけでなく、すべての人から「父」と呼ばれることを願っておられます。旧約時代にも、多くの人が神を堂々と父と呼べる、まことの子どもに変えられることを願われました。それで、神と明らかに交わった預言者たちも、神を父と呼んだことが見られます。

まことに、あなたは私たちの父です。たとい、アブラハムが私たちを知らず、イスラエルが私たちを認めなくても、【主】よ、あなたは、私たちの父です。あなたの御名は、とこしえから私たちの贖い主です。                    イザヤ書63:16

しかし、【主】よ。今、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの手で造られたものです。
                                イザヤ書64:8

わたしはどのようにして、あなたを息子たちの中に入れ、あなたに、慕わしい地、諸国のうちで最も麗しいゆずりの地を授けようかと思っていた。また、わたしは、あなたがわたしを父と呼び、わたしに従って、もう離れまい、と思っていた。
エレミヤ書3:19

神がイスラエルの民を養子にして子どもとされ、他のどの国の地より麗しいゆずりの地を授けてくださいました。そして、これからは彼らが神を「私の父」と呼んで、裏切らないことを願われた、ということです。それでもイスラエルの民はむなしい偶像を拝んで、自ら滅びを招きました。異邦人に国を奪われて、70年の間、捕虜生活をしたのです。

皆さんは神様を堂々と父と呼べるでしょうか? 聖霊時代に生きている私たちは、感謝なことに神様を父と呼ぶことができます。

そして、あなたがたは子であるゆえに、神は『アバ、父』と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。

ガラテヤ書4:6

神が遣わされた「御子の御霊」、すなわち、聖霊を受けた人は、神を「アバ、父」と呼べます。

ところが、実状はちょっと違います。聖霊を受けたからといって、誰でも神を父と呼ぶのではない、ということです。ある人は神を呼ぶ時に「父」という言葉がとても出てきません。ただ「神様」と呼んだり「父なる神様」と呼びます。個人の祈りをする時も、神を「父」と呼べないなら、これはそれだけ神を親しく思えないという証拠です。

しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。
第一ヨハネへの手紙1:7前半節

神との交わりが深いほど、父という言葉がすぐ出ます。
一方、みことばどおり生きられない人、すなわち、闇の中を歩んでいる人は、神と交わりを保っていません。ですから、何かを求めようと祈る時も、心苦しくて申し訳ない心が先立って、父と呼べなくなるのです。

心から神を愛して、みことばどおり生きている人は、誰かがさせなくても聖霊に働きかけられて神を「父」と呼ぶようになります。ただし、公式の集まりや礼拝の時、会衆を代表して祈る時は「父なる神様」と呼んだほうがかなっているでしょう。そこには信仰の小さい聖徒もいるからです。初心の方は会衆を代表して祈っている人が呼ぶ「父」とは肉の父なのか、神のことなのか、よくわからないこともあります。

一つ付け加えるなら、神を「父」と呼ぶからといって、「まことの子ども」とされるのではありません。父なる神も皆さんをご覧になり「わたしの愛する息子、娘だ」と認めてくださらなければなりません。つまり、悪はどんな悪でも避けて聖められ、父なる神のお心に似せられなければならないのです。その時、「お父様」と呼べば、直ちに答えて祝福してくださるのです。このメッセージを聞いている方のすべてがこのような神のまことの子どもになりますよう、主の御名によって祈ります。

朝の学び47 創世記5章 6

 

エノクは六十五年生きて、メトシェラを生んだ。エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神とともに歩んだ。そして、息子、娘たちを生んだ。エノクの一生は三百六十五年であった。エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。
                                創世記5:21-24

善を積むこと楽しんだエノク

本文のエノクはこの地上に生きていた時も、神とともに歩み、時に応じて神のお姿を拝見することもありました。エノクもそのようになるまで訓練を受けました。本性にある悪まで脱ぎ捨てて、善と愛を満たす過程がありました。

良い心の地を持って生まれたからといって、自ずから聖められて全く聖なるものとされるのではなかったのです。エノクはどのようにして、御霊の歩みに入って、さらに全く聖なるものとされたのか、二つの理由のうち一つは前回、説明しました。

第一エノクは善を積むことを楽しんだと言いました。神のことばにはもちろん、両親の言うことにもそのまま従って、すべての兄弟とも平和を追い求めました。どんな時でも自分を目立たせようとせず、いつも他の人に配慮して譲ったのです。

           
エノクが御霊の歩みに入って、さらに全く聖なるものとされた第二の理由

第二 エノクは神を第一に愛しました。エノクは小さい時から、両親やその上の世代のおじいさん、おばあさんから神について聞きました。神はどんな方で、どのようにこの世を創造されたのか聞きました。人がなぜこの地上に生きるようになったのか、どのように定着したのかも知るようになりました。

そうするほどエノクは神についてさらによく知りたくなりました。神にお目にかかりたい心がもっと切実になったのです。どうすれば神をもっとよく知ることができるか、もっと深く感じられるのかを探り窮めました。

反対に、世に目を向けたり追い求めたりしたい心はほとんどなかったのです。いつも神のことを思っていて、神が喜ばれそうなことを探して行いました。このようにエノクが世を遠くするほど、神を慕う心は日増しに大きくなったのです。

世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。                         第一ヨハネ2:15

ひょっとして「当時は今日とは違って、世の中にやりたいことも多くなかったから、世を断ち切ることがやさしかったのでは」と思う方がいるでしょうか? 聖書で言う「世」とは、楽しむような娯楽だけを指しているのではありません。心に、神より優位に置いたり、さらに重要に思うことがあるなら、それらがすべて「世」に含まれます。

したがって、肉の家族や友だちも、世という範疇に入ると言えるでしょう。家族や友だちのゆえ、神にささげるべき心を分けたり、神にささげる時間を浪費するなら、これもまた世のほうを愛していると言えるのです。

エノクは兄弟の中で両親を最も愛して、両親の言うことにもよく従いました。また、兄弟とも愛が深かったのです。しかし、エノクはその誰よりも神を一番に愛していて、その何よりも神を第一に愛しました。エノクの神への愛は、親や兄弟への愛とは比べられなかったのです。

エノクはどうすれば神ともっと深く交わるのか、いつも探り極めました。そして、心に浮かぶことを実行しました。家族や友だちといる時より、ひとりで神を賛美するとき、神の愛が感じられることを知ってからは、そうしたりしました。

自然の中に出て行って、天を仰ぎ見て、神を思い描いたりしました。神と交わることを慕って、祈ることを楽しみました。そのような時間を一番幸せだと思ったのです。神とともに歩む前もそうでしたが、65歳以後、神とともに歩むようになってからは、よりいっそうそのように生きました。

エノクが65歳になる前、神にささげた告白の一部を紹介いたします。神に対する懐かしい思いで、自然の中から天を見上げてささげた告白です。この告白の内容を見れば、エノクが神とともに歩む前にも、どれほど神を慕っていたのかわかります。

神に対するエノクの告白

今まで先祖から教えてもらった多くの教えがあったが、私が今ひとりでいる時間の中で、木々と、繰り広げられている周りのすべてのものを見て、もう一度「本当にこれはどなたが造られて、この広大なものはどなたがお造りになったのか」と考えてみるのだ。

私のうちにおられる方、この美しいすべてを造られた方、私のおじいさんのおじいさん、そのまたおじいさんのおじいさんを造られたその方。果てしなく繰り広げられたすべての世界をお造りになって、私たち人を思って愛され、今日、ここに私がいるようにされたお父様。その方を考えてみるのだ。

私がひとりでいるとき、天を見上げて父のお顔を思い描いてみて、地を踏み、安らかに休みを得る時も、父の摂理と大いなることを感じ、感動するのだ。私がこのように口を開き、先祖から学んだすべての中から「父」という方を感じて賛美すると、一日一日その方をさらに愛するようになって、その方への懐かしい思いが加わっていくのだ。

「その方はどんな方だろうか」を考えれば考えるほど、先祖から学んだ教えよりも、その方への懐かしい思いが加わるので、ひどくこの懐かしさが胸にしみるのだ。その方のお顔はどうだろうか? どんな微笑みを浮かべておられるのだろうか? 

その方はどんなお方なので、私たちをここに遣わして、この地上の息遣いを聞かせ、天と天にある星を感じさせるのだろうか? 呼吸する空気の中からも、その方の息吹が感じられるのに・・・・・・。

口を開き、その方を賛美するようにして、口を開き悟ったことを告白するようにされる私の父、その方はどんな方だろうか? あの広い広いところにおられる方に、私がどうすればお目にかかって、どのように私の心に刻んで生きられるだろうか? 本当に胸にしみる懐かしい思いで、描いてはまた描いてみる私の父、その方ははたしてどんな方だろうか?


神を愛し自然に世を断ち切って全く聖なるものとされたエノク

この告白を聞いてみると、エノクが神をどれほど懐かしがって、どれほど慕っていたのか感じられるでしょうか? <詩篇42:1>にも「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、 神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。」という告白があります。エノクの告白からも、このような神への心、切に慕う心が感じられます。


父なる神はこのような告白をお聞きになって、感動されました。そして、エノクにいろいろな方法でご自身を現してくださったのです。

わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現します。                            ヨハネ14:21後半節

エノクは暮らしの中で、いつも神の愛の表現を見つけました。自分の小さい告白にも感動して、愛を表現してくださることを感じるたびに、神に向けられた愛はさらに大きくなりました。それで、よりいっそう濃くて全き愛を心に満たせたし、その結果、全く聖なるものとされたのです。

皆さんも、エノクのように神を愛するがゆえ、自然に世を断ち切って捨てれば、御霊の歩みにすみやかに入ってくることができます。御霊の歩みに入るという欲から無理に世を断ち切ろうとする時は、つらく感じることもあります。

父なる神を心から愛するので、その方が喜ばれることだけを探して行っていたら、自然に世と遠ざかること、これが理にかなうことです。楽に、楽しく世を断ち切って捨てる方法です。

今までエノクが全く聖なるものとされた理由二つを説明しました。それは、善を積むことを楽しんだことと、神を第一に愛したことでした。善と愛は霊である神のもともとの属性です。

したがって、私たちが心の中に善と愛を完全に満たすほど、神に似せられるようになります。聖徒の皆さんはこれをよく覚えておいて、すみやかに御霊の歩みに入って、さらに全く聖なるものとされますように。

朝の学び46 創世記5章 5

 

「エノクは六十五年生きて、メトシェラを生んだ。エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神とともに歩んだ。そして、息子、娘たちを生んだ。エノクの一生は三百六十五年であった。エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」
創世記5:21-24

聖霊時代には、神が私たちとどのようにともに歩んでくださるのでしょうか?

新約時代、すなわち、聖霊時代には、神が私たちとどのようにともに歩んでくださるのでしょうか? 三位一体の神のうち、聖霊と主が分かれた霊としてともに歩んでくださることができます。

[ヨハネ14:17後半節]「その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」とあります。聖霊は私たちとともに住み、また私たちのうちにもおられます。[マルコ16:20]には「そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。」とあります。


主の復活、昇天後、弟子たちが福音を伝える時に、主が霊でともにおられたということです。すると、みことばがまことであることを確かにするしるしが現れました。このように主がともにおられるなら、その証拠が確かに現れるのです。

「主がともにおられる人生」

ところで「主がともに歩んでくださる」時と、主がともにおられる時とでは、また違う次元のみわざが現れます。私たちの主は、主の御名を信じて、御霊によって新しく生まれた神の子どもとともにおられます。心にまだ真理に逆らうものがあっても、何としてでもみことばを守り行おうとする聖徒とは、ともにいてくださいます。また、恵みと愛を与えてくださるのです。

ただし、神のみこころを知っていながら、努力しないでみこころに任意に逆らって罪を犯す時は、ともにいてくださることができません。それは闇に属することだからです。神は光であり、主も光であるので、闇と光とは共存できないからです。闇のわざを打ち捨てて、悔い改めて光へと出てきてこそ、光である神と「ともに」いることができます。

「主がともに歩まれる人生」

罪を完全に捨てて聖められるなら、この時からは主とともに歩むようになります。御霊の歩みに深く入ってきた程度によって差はありますが、聖霊の声を聞いて働きかけられて、いつも聖霊に導かれて生きられるのです。ですから、すべてのことに栄える祝福をいただけるのです。

悪い者は触れることもできないだけでなく、何かの病気、病原菌も入ることができません。ひょっとして入ってきても、耐えられず離れてしまいます。罪を犯さないから、敵である悪魔・サタンは試練や患難をもたらすことができないのです。もし何かの試練がやって来ても、信仰をもって打ち勝つので、かえって神に栄光を帰すようになります。


御霊の歩みに深く入ってくるほど、祝福や栄える程度は変わってきます。全く聖なるものとされれば、また違う次元の祝福をいただき、神の大いなる栄光を現すことができます。

エノクも初めから神とともに歩める資格を持っていたのではありません。彼も他の人と同じように耕作の過程を経ました。本性にある罪の性質まで引き抜く訓練を受けたことを知らなければなりません。今からはエノクがどのように御霊の歩みに入って、さらに全く聖なるものとされたのか、大きく二つ説明します。

第一、エノクは善を積むことを楽しみました。

エノクには多くの兄弟がいました。本文[19節]に「エレデはエノクを生んで後、八百年生き、息子、娘たちを生んだ。」とあります。その間エレデはエノクの他にも、息子と娘たちをたくさん生みました。

エノクは多くの兄弟の中で成長しましたが、その誰とも引っかかることがありませんでした。兄弟にいつも譲ったからです。他の兄弟よりもっと持とうとしなかったのです。他の人より認められよう、もっと愛されようとしませんでした。ただ自分のすることに最善を尽くしただけです。親にもっと愛されようとする心がないので、他の兄弟が愛されるのを見ても、おもしろくないと思わなかったのです。むしろ喜びました。

また、自分がもっと認められるために、他の兄弟を牽制することもなかったのです。欲や私的な感情もなかったので、すべての人との平和を追い求めていたのです。それで、主なる神を拝する資格を備えたのです。

すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。              ヘブル人への手紙12:14

エノクは神のことばはもちろん、両親にも、真理にあっていつも聞き従いました。親が何か言うと、逆らう心自体がなかったのです。それで、自分の意見を振りかざしたり、主張したりしませんでした。親に言われたとおりに従いました。エノクはこのように善を追い求めて行い、善を積むことを楽しみしました。その結果、65歳から神とともに歩めるようになりました。

聖徒の皆さん、エノクが他の人より良い心を持って生まれたのは事実です。だからといって、エノクが善を積み続けなかったなら、神とともに歩む資格を得ることができなかったでしょう。ところが、エノクは他の誰よりも熱心に善を追い求めました


人はそれぞれ生まれた時から心に持っている善の量が違います。また、それぞれの環境も、善の影響を受けやすい場合があるかと思えば、悪の影響を受けやすい場合もあります。それでも人には自由意志があります。善と悪をわきまえられる基本的な認知能力も持っています。

したがって、善を追い求めるのか、悪を追い求めるのかは、自分の意志にかかっているのです。比較的良い心が少なく生まれたとしても、善を追い求めて生きるなら、心に善が積まれるのです。反対に、もっと良い心を持って生まれたとしても、悪を追い求めて生きるなら、悪が心に積まれるのです。[マタイ12:35]「良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。」とあるとおりです。「善」と「悪」は物質ではないけれど、積めば確かに積まれるのです。

霊の世界での計算はとても正確です。各人が積んだだけ積まれます。エノクが65歳から神とともに歩めるようになったのは、エノクが積んだ「全き善」の量が、その時ちょうど満たされたからです。

ヨセフが積んだ善

ヨセフが30歳でエジプトの統治者になったのも同じです。その前に奴隷として、また囚人として13年生きる間、着実に善を積んだ結果です。ヨセフはその時、善よりは悪を行いやすい環境に置かれていました。自分を奴隷に売ってしまった兄たちを恨んで、自分の身の上を嘆くこともできました。濡れ衣を着せられて監獄に入れられた時も、捨て鉢になる状況でした。

どうしても囚人は、一般の人よりは対するのが難しいです。死にもの狂いになった人、恨みが骨にしみている人、荒々しい性質のとおり言葉を吐き出して、ズケズケと行動する人が多いです。ヨセフはこのような劣悪な環境でも、神を信じたので善を積んだのです。

すると[創世記39:21]「しかし、【主】はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた。」とあります。その結果、監獄の長はヨセフに監獄にいるすべて囚人をゆだねました。ヨセフはそこでなされるすべてのことを管理するようになったのです。監獄の長は、ヨセフの手に任せたことについては何も干渉しませんでした。それは【主】がヨセフとともにおられることを、彼も感じたからです。

【主】はヨセフが何をしても、それを成功させてくださいました。ヨセフが置かれた環境は監獄であり、相手にする人は囚人でしたが、誠実に善を積み続けました。ついにヨセフの善が公義の基準を満たすと、神はエジプトのパロに夢で働かれました。その結果、ヨセフはエジプトの統治者になり、王の次になる権力を得ました。

善を行うのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。
                               ガラテヤ人への手紙6:9


したがって、どんな状況でも悪に負けず、善をもって打ち勝ちますように。「良い倉から良い物を取り出し」とあります。一度善をもって悪に打ち勝つと、それだけ善が積まれて、善が積まれただけ霊的な力が強くなります。次には、悪に打ち勝ちやすくなるのです。それで結局、神が認められる善、さらに全き善を実践できる皆さんになりますように。

エノクが御霊の歩みに入って、さらに全く聖なるものとされた理由は、善を積むことを楽しんだということでした。神がエノクを用いて、私たちに与えられる教訓は「悪がなくて心の良い人を、神はまことに愛して、みもとに置きたいと思われる。」ということでした。
エノクについてのメッセージを聞いて、私達がさらに善なる美しい心を持ちますように。

朝の学び45 創世記5章 4

エノクは六十五年生きて、メトシェラを生んだ。エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神とともに歩んだ。そして、息子、娘たちを生んだ。エノクの一生は三百六十五年であった。エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。
創世記5:21-24

人類歴史の初期に人々はどのように生きていたのか

人間の寿命が900歳以上の時代の人間の発達段階について説明しました。当時は人間発達の各段階、すなわち、幼児期、児童期、少年期が今よりもう少し長かったです。特に青年期ははるかに長かったのです。それで子どもを生める期間も、今よりはるかに長かったのです。


[創世記5:32節]を読むと、ノアは五百歳になったとき、息子たちを生んだことが書いてあります。したがって、当時は数百年にかけて多くの子どもを生んだことがわかります。これは、その当時の人々が健康なからだで永い歳月を生きていたことを証明しています。言いかえれば、人が生まれれば、健康に成長して成人になります。するとその時からとても長い間、その姿を維持しました。老化する時点が非常に遅かったし、その速度も非常に遅かったのです。


人類歴史の初期の人々は、老化するとしても今日のようにはなりませんでした。
もちろん、老年期に入るある時点になれば、これ以上子どもを持つことはできなくなります。年をとって老人であることはわかっていても、今日の病弱な老人のような姿にはならなかったのです。寿命が尽きて死ぬ時も、からだが衰えて、やっと生きてから死んだのではありません。たいていは健康なからだで老年を過ごし、寿命が尽きる頃には自然に息絶えて死にました。

大洪水のさばきの後も、信仰の人は平安に息を引き取ったことがわかります。たとえば、アブラハムは、[創世記25:7-8]で「以上は、アブラハムの一生の年で、百七十五年であった。アブラハムは平安な老年を迎え、長寿を全うして息絶えて死に、自分の民に加えられた。」とあります。


アブラハムの息子イサクも同じです。[創世記35:28-29]「イサクの一生は百八十年であった。イサクは息が絶えて死んだ。彼は年老いて長寿を全うして自分の民に加えられた。彼の子エサウとヤコブが彼を葬った。」とあります。[申命記34:7]には「モーセが死んだときは百二十歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった。」とあります。

アブラハムは175歳、イサクは180歳まで生きました。大洪水の後なのに長生きしました。モーセは120歳だったのに、目はかすまず、気力も衰えていなかったと書いてあります。神がモーセを召されなかったなら、この地上でもっと長く生きられるほど、十分健康なからだだったのです

今日も、心を御霊に属するものに耕すほど健康になります。[第三ヨハネ2節]のように、たましいに幸いを得ているように健康であるのです。前に「いのちの種」の説教で説明したように、御霊の歩みに入るなら老化が止まり、全く聖なるものとされれば若返りします。身体のすべての機能が最上の状態に回復するのです。

神様が私たちに聖書を解き明かしてくださる理由

平均寿命900歳以上だった時の時間の流れのスピード感と身体発達を分ける区間が、今日と違うことを説明しました。漠然と「その時はほとんど900歳以上長く生きた」とだけ言うなら、聖書を疑う人もいるかもしれません。ところが、きょうの内容を理解すれば、疑いの余地がなくなります。聖書がまことの記録であることが完全に信じられるのです。

このように、神が私たちに聖書を解き明かしてくださる理由がまさにこれです。私たちが聖書が神のことばであることを信じて、すべての記録が歴史的な事実であることを信じ、みことばどおり生きるようにするためです。

きょう伝えた創世記のみことばがまことであるように、大審判についての他のみことばもまことです。私たちの主イエス様も、[マタイ5:18]で「まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」と言われました。父なる神はみことばどおり成就して行い、さばきをなさいます。

したがって、聖徒の皆さんは父なる神のことばを「いのちの糧」としますように。毎日みことばを喜んで口ずさみ、また守り行うようお願いします。それで、「みことば」すなわち「神」と一つになった幸いな人生を歩みますよう、主の御名によって祈ります。

アダムの7代目エノク

エノクについての聖書の記述は短いけれど、私たちに与える教訓は非常に大きいです。第一は、エノクがこの地上でも神とともに歩む生き方をしたこと、第二は、死を見ることのないように天に移されたということです。私たちはこの二つだけても、エノクが偉大な昔の信仰の人だったことがわかります。

[第二テモテ3:16]にあるように「聖書はすべて、神の霊感によるもの」です。ところで、神が、記した人たちにご自身の霊感を与えられたとき、昔の信仰の人ごとに強調する点が違いました。

たとえば、アブラハムを通しては信仰について、モーセを通しては指導者として神に認められる生き方について、ダニエルを通しては妥協しない信仰、ダビデを通しては訓練を受けても神を愛するがゆえに見事に通り抜けて美しい器になったこと、またエリヤ、使徒パウロなど、それぞれ代表的な人物を通して、彼らが神のお心をどのように理解して、どれほど愛したかを表してくださいました。

それでは、神がエノクを通して、私たちに教えようと思われるみこころは何でしょうか? それは、神は悪がなくて心の良い人をまことに愛して、みもとに置きたいと思われるということです。

本文を読むと「エノクは六十五年生きて、メトシェラを生んだ、エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神とともに歩んだ。」とあります。そして、三百六十五歳で「神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」とあります。

当時は平均寿命が900歳を超えていました。したがって、エノクは当時の人々の3分の1程度だけこの地上で生きたのです。そして、死を見ることのないように天に移されました。

[ヘブル11:5]にも「信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。」とあります。エノクはこのように、この地上で生きる間「神に喜ばれていること」があかしされていました。ですから、この地上でも神とともに歩むことができたのです。

「神がエノクとともに歩まれた」とは

それでは、まず「神がともに歩まれる」ということが、どういう意味なのか調べましょう。神がエノクとともに歩まれたとは、はたしてどんな意味でしょうか? 神ご自身がこの地上に降りてきて、エノクとともにいてくださったのでしょうか? エノクの手を握って歩いたり、直接話をしたりしながらですか? そうではありません。

神がエノクとともに歩まれたという意味は「神がエノクといつも交わって、エノクの人生をご自身で導かれた」という意味です。その時、神はエノクに霊の知識をたくさん教えてくださいました。三位一体の神について、人間耕作の摂理について、霊の世界の奥義と天国についても明らかに教えてくださいました。やがて起ころうとしている事についても教えてくださったのです。

たとえば、[ユダ14-15]に、エノクが人間耕作の終わりに起こることを預言した内容があります。「アダムから七代目のエノクも、彼らについて預言してこう言っています。『見よ。主は千万の聖徒を引き連れて来られる。すべての者にさばきを行い、不敬虔な者たちの、神を恐れずに犯した行為のいっさいと、また神を恐れない罪人どもが主に言い逆らった無礼のいっさいとについて、彼らを罪に定めるためである。』」と記されています。

エノクはその時すでに、主が世の終わりの日に、空中に降りて来られることを知っていたのです。これらの事実は、神とともに歩む間、神と明らかに交わっていたので知ることができました。

エノクが神の姿を拝したということ

これとともに、エノクは時に応じて神の姿を拝することもできました。これにも二つの意味が込められています。
まずは、アダムがエデンの園で生きていた時のように、神が分かれた霊としてエノクのところに来られた場合がありました。エノクの心に感動を与えて、神がともにおられるような感じを与えられました。それとともに、他の誰にも知らせなかった父なる神の姿について、唯一エノクには教えてくださいました。エノクが父なる神を描こうとするなら、十分に描けるほど、神ご自身についてすべてを明らかにしてくださったのです。

エノクが神の姿を拝したということには、第二、モーセのように神の御姿のかたちを見たという意味が含まれています。[出エジプト33:18節以下]に、神がモーセにご自身をどのように現すのか、説明された内容があります。

[18節]で、モーセが「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」と言うと、神は[20-23節]「また仰せられた。『あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。』また【主】は仰せられた。『見よ。わたしのかたわらに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておこう。 わたしが手をのけたら、あなたはわたしのうしろを見るであろうが、わたしの顔は決して見られない。』」と答えてくださいます

モーセも神と明らかに交わっていたが、神の御顔は直接拝することはできなくて、「うしろ」だけが見られました。これはエジプトから出てきて満2年にならなかった時です。モーセが完全になる前のことでした。モーセも荒野で40年を送りながら、さらに謙遜で忠実に仕える者になりました。数百万人の民を導きながら、父なる神の心をもっと深く悟り、完全に似せられていきました。

それで、彼がすべての使命を全うして120歳で一生を終える時はどうなったでしょうか? 

モーセのような預言者は、もう再びイスラエルには起こらなかった。彼を【主】は、顔と顔とを合わせて選び出された。」                                                          申命記34:10

このようなモーセのように、エノクも神と顔と顔とを合わせることができました。もちろん、初めから神の御顔を直接拝することができたのではありません。モーセに比べてはるかに長い歳月をこの地上で神とともに歩む間、ますます父なる神と親密になりました。そうなった時に初めて神がエノクに御顔を現してくださいました。

ところが、エノクがそのように神を拝した時と、その後、死を見ることのないように移されて、父のふところにいだかれた時とでは、その感動の差は比べられないほど大きいです。私たちも同じです。この地上で御霊に感じて父の愛をたっぷり感じることはできるけれど、将来、天国に入って父に直接拝する時は、その感動がどれほど大きいでしょうか。

今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。
第一コリント13:12

私たちが天国の三天層以上に入れば、父の御顔も主の御顔も、直接拝することができます。[黙示録21:3-4]にも、神が直接私たちとともにおられ、私たちの神になられ、私たちの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるとあります。ただし心のきよい者、すなわち、聖められたまことの子どもになった時に、父なる神の御顔を拝することができるのです。また、すべての人と平和を追い求めた人が主を見ることができます。


エノクはこれらの条件をあふれるまで備えました。それで、この地上でも神とともに歩めて、時には神の姿を見ることができたのです。

朝の学び44 創世記5章 3

 

「アダムはセツを生んで後、八百年生き、息子、娘たちを生んだ。アダムは全部で九百三十年生きた。こうして彼は死んだ。セツは百五年生きて、エノシュを生んだ。セツはエノシュを生んで後、八百七年生き、息子、娘たちを生んだ。セツの一生は九百十二年であった。こうして彼は死んだ。エノシュは九十年生きて、ケナンを生んだ。エノシュはケナンを生んで後、八百十五年生き、息子、娘たちを生んだ。エノシュの一生は九百五年であった。こうして彼は死んだ。ケナンは七十年生きて、マハラルエルを生んだ。ケナンはマハラルエルを生んで後、八百四十年生き、息子、娘たちを生んだ。ケナンの一生は九百十年であった。こうして彼は死んだ。マハラルエルは六十五年生きて、エレデを生んだ。マハラルエルはエレデを生んで後、八百三十年生き、息子、娘たちを生んだ。マハラルエルの一生は八百九十五年であった。こうして彼は死んだ。エレデは百六十二年生きて、エノクを生んだ。エレデはエノクを生んで後、八百年生き、息子、娘たちを生んだ。エレデの一生は九百六十二年であった。こうして彼は死んだ。エノクは六十五年生きて、メトシェラを生んだ。エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神とともに歩んだ。そして、息子、娘たちを生んだ。エノクの一生は三百六十五年であった。エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。メトシェラは百八十七年生きて、レメクを生んだ。メトシェラはレメクを生んで後、七百八十二年生き、息子、娘たちを生んだ。メトシェラの一生は九百六十九年であった。こうして彼は死んだ。レメクは百八十二年生きて、ひとりの男の子を生んだ。彼はその子をノアと名づけて言った。『主がこの地をのろわれたゆえに、私たちは働き、この手で苦労しているが、この私たちに、この子は慰めを与えてくれるであろう。』レメクはノアを生んで後、五百九十五年生き、息子、娘たちを生んだ。レメクの一生は七百七十七年であった。こうして彼は死んだ。ノアが五百歳になったとき、ノアはセム、ハム、ヤペテを生んだ。」
                                創世記5:4-32

    

「人類初期の歴史」


[創世記5章]には、アダムからアダムの10代目のノアまでの系図があります。アダムがエデンの園からこの地上に追い出された時から約1600年間の記録です。
本文を見れば、アダムからノアまで十人が、何歳で誰を生んで、何歳まで生きたという記録があります。今から4千年もはるか前のことが、聖書にはこのように詳しく記されているのです。これは、聖書がどれほど正確な事実を語っているのか知らせてくれます。

また、人間耕作六千年の歴史の流れを把握することもできます。アダムがこの地上に定着した時からノアが死ぬまでは、約二千年です。これは人間耕作の歴史の三分の一に当たる期間です。これを便宜上、「人類初期の歴史」と言います。世界のどの本にも、この期間の記録がこのように詳しく残っているものはありません。ところが、聖書には正確な記録が残っているのです。きょう、この期間に生きていた人々について説明するとき、聖書がまことであることを心に刻みますように。

人類初期の平均寿命


本文にある十人のうち、エノクを除いてほかの九人の平均寿命を計算してみれば、約912歳です。エノクを除いた理由は、彼がこの地上で死を見ることなく、365歳で天に移されたからです。また、本文に「ノアが五百歳になったとき、ノアはセム、ハム、ヤペテを生んだ。」とありますが、[創世記9:29]には「ノアの一生は九百五十年であった。こうして彼は死んだ。」とあります。当時はこのように平均寿命が900歳を超えていたのです。今日では想像もできないほど寿命が長かったのです。

ところが、大洪水の後に生まれた人の寿命は、これに比べて非常に短くなりました。洪水以後、約千年が流れた時点、すなわち、モーセが生きていた時代には、平均寿命が70-80歳になりました。まさにモーセが書いた[詩篇90:10]「私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。」とあります。それから今日まで、人間の平均寿命はその範囲から大きく外れなかったのです。

ノアの洪水以後寿命が縮まった根本的な要因-人間の「罪」


それでは、人類歴史の初期とは違って、ノアの洪水以後はどうしてこのように寿命が縮まったのでしょうか? 根本的な理由は人間の「罪」です。アダムがエデンの園で生き続けたなら、永遠に生きることができました。寿命が無限大です。しかし、不従順の罪を犯した結果、この地上に追い出されてから、限られた寿命になりました。まさに「罪から来る報酬は死」という霊の世界の法則に従って、肉の世で一時生きて、結局、死を迎えるようになったのです。

アダムがこの地上にきて生んだ子孫も、永遠のいのちでなく、限られた寿命を持つようになります。もちろん、罪の問題が解決されなければ、霊的にも永遠の死に至るようになります。天国でなく、地獄に行くようになるのです。[ローマ5:12]「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、──それというのも全人類が罪を犯したからです。」とあるとおりです。

それでも人類の初期には、ほとんど900年ほどは生きることができましたが、この地上がだんだん罪に染まっていくにつれて、寿命も短くなりました。世の中に罪と悪がはびこるほど、人間の健康を脅かす要因が増えたからです。病気を起こす病原菌が生じて、自然災害ももっと頻繁に起こりました。このため人々は本来の寿命を全部全うせず、死ぬことが起こりました。それだけ人々は肉的な環境の影響をもっと受けるようになったのです。

そのうち、人間の寿命に決定的な影響を与えるきっかけになった「大洪水のさばき」が臨みました。[創世記6:5]を見ると「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になって」洪水のさばきを決められたことがわかります。
当時の洪水によって、地球が水の中に数日間も浸かるようになりました。その結果、地球の環境は大きく変わりました。その中で、特に大気層に大きい変化がありました。太陽の光に含まれた有害な成分が地球に到達しないように遮断したり、濾したりする大気層の機能が弱くなりました。その結果、人々は自然ともっと有害な環境に露出されました。

地球自体にも多くの変化がありました。自然法則が曲げられ始め、それによって自然災害や異常気候がもっと頻繁に発生したのです。このため人々は以前より危険な環境で生きるようになりました。その結果、人体はストレスをもっと受けるようになり、老化速度は速くなりました。また、病気を誘発する病原菌やウイルスは、さらに強くなりました。人のいのちをおびやかしたり短くする要素があちこちからたくさん生まれたのです。これらの要因が複合的に働いた結果、人の寿命は大洪水の後、急激に短くなりました。

ノアの洪水以後寿命が縮まった先天的な要因


ところで、これと共にもうひとつ知っておくべきことは、人の寿命の違いには先天的な要因もあるということです。すべての人が病気や事故のような外部の要因が排除された環境、言いかえれば、最適の環境で生きるとしても、それぞれの寿命は違います。これは、親から受け継いだ気と胎内に宿る時の条件や環境が寿命に影響を与えるからです。

まず人が胎内に宿るとき、どんな種と畑が出会ったかによって、各人の基本的な気質が決まります。強い気質を持って生まれて健康な人がいるかと思えば、弱い気質を持って生まれて虚弱な人もいます。知能も同じです。ある人は頭が良くて、ある人は頭が悪いです。これには先天的な影響もあります。性格も親のどんな種と畑が出会ったか、胎児だった時の環境がどうだったかにより、影響を受けることがあります。

神が特に誰かをかわいがって賢くて健康に生まれるようにしたり、誰かを憎んで虚弱体質に生まれるようにされたのではありません。神がみごもりの原理を定められ、人にみごもることができるように種を与えられたけれど、その「結果」まで決められたのではありません。赤ちゃんの性別や先天性障害の有無も、神がいちいち決めてくださるのではありません。どんな種と畑が出会うのか、みごもりの環境はどうだったかによって、結果が変わってくるのです。

人はこのような事実を知らないから、神を誤解して恨んだりもします。神が各人の運命をいちいちすべて決められたと思うのです。それで、苦境におかれたり不幸になれば、いつも天を恨みます。神は祝福と呪いが各人に臨む法則を定められただけです。「誰々は祝福されて、誰々は呪われる。」「誰々は長生きして、誰々は早く死ぬ。」「誰々は健康で、誰々は病気にかかる。」このようにひとりひとり決められたのではありません。誰でも神が決められた祝福の道を行けば、祝福されて健康になります。長生きなのか、短命なのかも同じです。

[箴言10:27]に、長寿の秘訣があります。まさに「主を恐れることは日をふやし、悪者の年は縮められる。」とあるのです。[伝道者の書8:13]にも「悪者にはしあわせがない。その生涯を影のように長くすることはできない。彼らは神を敬わないからだ。」とあります

悪者は生まれつきの寿命も全うすることができないけれど、神を敬う人は長生きすることができます。神を敬う人は悪を憎んで、悪はどんな悪でも避けようとして、善良な生き方をします。神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知って、生きていきます。父なる神はこのような子どもたちを愛して喜ばれ、祝福に祝福を加えてくださいます。

今まで説明した寿命について、もう一度総合して整理してみましょう。人類全体の平均寿命は、ノア時の大洪水のさばきを基点に、著しく縮まりました。平均寿命が900歳以上から徐々に70-80歳くらいに低くなりました。この根本的な原因は「罪」にあると言いました。一方、人によって寿命が違う理由は、先天的な要因もあると言いました。親から受け継いだ気や、胎児だった時の環境により、その程度が変わってくることもあります。そうであっても、神を敬う人はたましいに幸いを得ているほど健康であり、長生きする祝福をいただくことができます。しかし、悪者はほとんど生まれつきの寿命を全うすることができないのです。これを見ると、人類全体の平均寿命だけでなく、個人の寿命も、「罪」によって左右されることがわかります。

人々が感じた時間の流れの速さ


それでは、平均寿命が900歳以上だった時代に、人々が感じた時間の流れの速さはどうだったでしょうか? 一日が過ぎる速さが、終わりの時の今と比べて早く感じられたでしょうか? 遅く感じられたでしょうか? ちょっと考えると「100年のうちの一日より、900年のうち一日のほうが短かっただろう」と思うかもしれません。実際の感じは反対でした。

一日24時間という絶対的な長さは昔も今も同じです。「一日」という時間は、地球がひと回りするのにかかる時間だからです。地球の自転速度は創造以来変わりませんでした。それで、長生きしていた人類の初期には、一日一日を余裕をもって過ごしました。ですから、この終わりの時と比べると、時間の流れが「遅い」と感じたのです。

反対に、世の終わりの日が近づいてくるほど、時間の流れがますます速くなるように感じます。実際、時間の流れが速くなったのではないけれど、人々は「時間が流れるのが本当に早い」と感じるという意味です。

今日、多くの人が時間に追われて生きています。生き方が多様で複雑になるにつれて、することが多くなって、忙しく過ごしています。そのうち、すぐ中年を過ぎて老年になり、人生の晩年に至ります。人類歴史の初期でも、今の終わりの時でも、時間の流れの速度は同じなのに、生きていく日が長いか短いかによって、相対的なスピード感が違うということです。

人間の発達過程


平均寿命900歳以上だった時は、歳月の流れが遅く感じられただけでなく、人間の発達過程もゆっくり進められました。人間の発達段階は、たいてい幼児期-児童期-青少年期-壮年期-老年期に分けられます。たとえば、1歳から6歳までは幼児期、7歳から13歳までは児童期と言います。このように年令によって人間の発達段階を分けます。これは平均寿命が100歳未満の今日の区分です。

それなら、平均寿命が900歳以上だった時代は、どうだったでしょうか? その当時の人々も、発達段階をみな経て、成長しました。すべての人が胎児、乳児、児童、少年、青年、壮年、老年の時期を経ました。当時も妊娠期間は今日と同じでした。ふつう妊娠期間は10か月と言われていますが、正確には280日です。みごもって出産するまでの期間は、昔も今も280日で同じです。


ところが、出生後の発達段階は違いました。各区間の長さが今日よりもう少し長かったのです。たとえば、幼児期、児童期、少年期が今よりもう少し長かったということです。特に青年期は、はるかに長かったのです。それで、うわべの姿だけを見たら、今の基準では少年と言えるのに、当時の基準ではまだ児童でした。また、今の基準では青年のように見えても、当時の基準ではまだ少年だったこともあります。当時は今より環境が良くて、のびのび成長したからです。

理解を助けるためにたとえで説明します。人の発達段階のうち、第2次性徴が現れる時があります。児童期を過ぎて思春期になれば、男らしい姿、女らしい姿に、身体にはっきりした変化が現れます。たとえば、男は声変わりして、女は初潮が始まります。人によって発育速度が違って、第2次性徴が現れる時も少しずつ違います。同じ14歳であっても、すでに声変わりした少年がいるかと思えば、まだ変わらない少年もいます。ところが、声変わりしたからといって、彼を成人だと認めるでしょうか? そうではありません。人類歴史の初期には、たとえば30歳になって立派な成人の姿になったとしても、まだ青少年にすぎなかったのです。

最近はおもに20、30代で子どもを生みますが、その時は今よりはるかに年齢が高かったのです。これは、本文の記録を見るとわかります。セツからノアまで「代を継ぐ子ども」を生んだ年齢が書いてあります。それぞれ105歳、90歳、70歳、65歳、162歳、65歳、177歳、182歳で代を継ぐ子どもを生みました。もちろん、このように代を継いだ息子が初めての子でないこともあるという点は考えなければなりません。その息子より先に娘を生んだこともあって、すでに他の息子を生んだこともありました。

エノクの誕生


たとえば[15節]に、マハラルエルは六十五年生きて、エレデを生んだとあり、[18節]に、エレデは百六十二年生きて、エノクを生んだとあります。マハラルエルとエレデがそれぞれ子どもを生んだ年齢が、2倍以上差があります。エレデがエノクを162歳で生んだからといって、その前までは子どもをひとりも生まなかったのではありません。ただし彼が生んだ子どもたちの中で、162歳で生んだエノクが、代を継ぐ子に選ばれたのです。

朝の学び43 創世記5章 2

 

「男と女とに彼らを創造された。彼らが創造された日に、神は彼らを祝福して、その名をアダムと呼ばれた。アダムは、百三十年生きて、彼に似た、彼のかたちどおりの子を生んだ。彼はその子をセツと名づけた。」
                                 創世記5:2-3
   

アダムを祝福された神様


創世記5章には、アダムからノアまでのことが記されています。そのうち1-3節はアダムについての記録です。神は最初の人アダムを創造されたとき、「神に似せて」造られました。かたちだけでなく、内面まで神に似せられた完全なこどもを得ることを望んで、善悪の知識の木を生えさせ、人間耕作を始められました。

男と女とに彼らを創造された。彼らが創造された日に、神は彼らを祝福して、その名をアダムと呼ばれた。                                             創世記5:2

 

神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。『生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。』
                                                                                                                        創世記1:28

神は人を創造して祝福なさいました。良い環境を与えて、万物を支配する権勢と力も与えられました。神は愛そのものなので、もともと祝福を与えることをとても喜ばれます。一方、正しいお方なので、祝福する時も、公義に従って働かれます。
本文は、アダムとエバが罪を犯す前のことで、神が創造された、純粋な姿であった時の記述です。したがって、神も祝福することがおできになりました。しかし、アダムとエバが罪を犯してからは、権勢も取り上げられて、祝福もなくなりました。

まことの祝福とは


ところで、まことの祝福とは何でしょうか? いつかは朽ちてなくなる肉の世で、富と栄華を味わうことが祝福でしょうか? そうではありませんね? まことの祝福とは、永遠のいのちを得ることで、天国に入って永遠に朽ちないで変わらない報いを受けて味わうことです。

また、どんな人が最も大きい権勢を持つことができるでしょうか? 一つの国の大統領でしょうか? いくら強大国の大統領であっても、自分の思いのとおりできないことが本当に多いです。ましてこの世のある座に着いたとしても、大きい権勢が持てるでしょうか?

しかし、神の子どもとされれば、「霊的な特権」が与えられます。私たちの父なる神は万物を治められる方だからです。父なる神は子どもたちがまことの祝福と霊的な特権を受けることを願われます。人間耕作をしっかり受けて、永遠の天国に入って、父が備えておかれたすべてのすばらしいものを受けることを望まれるのです。そして、この地上でも祝福されることを願っておられます。

神様が与えられる霊的祝福


それで、ひとり子イエス様がこの地上で貧しくなられるようにされました。

あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。
                                第二コリント8:9 

  

したがって、主を信じる神の子どもたちは、この地上でも神のかたちを取り戻すほど、霊的な特権と祝福をいただくようになります。すべての生死禍福は父なる神がつかさどられるからです。神は祝福される器が備えられた人に、押しつけ、揺すりいれあふれるまでに注ぐことがおできになります。また、信仰で蒔いた人には三十倍、六十倍、百倍、それ以上に刈り取らせてくださいます。

あなたの神、主は、あなたのすべての手のわざや、あなたの身から生まれる者や、家畜の産むもの、地の産物を豊かに与えて、あなたを栄えさせよう。まことに、主は、あなたの先祖たちを喜ばれたように、再び、あなたを栄えさせて喜ばれる。これは、あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従い、このみおしえの書にしるされている主の命令とおきてとを守り、心を尽くし、精神を尽くして、あなたの神、主に立ち返るからである。
                                申命記30:9-10 

  

私たちが公義にかなうように器をよく備えて神にいただいた祝福は、なくなることはありません。世の中では、宝くじに当たったり、人の道にはずれる方法でたくさんお金を儲ける人がいます。このような人の中には、その金のゆえ不幸になることが多いです。思いがけない大きい収入が祝福でなく、むしろ災いになったのです。

しかし、聖徒が器をしっかり備えて神から祝福されれば、それによって不幸になることはありません。[箴言10:22]「主の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えない。」とあるからです。したがって、私達は器の準備をしっかりして、祝福を与えることを喜ばれる父なる神から、豊かにいただいて味わえますように。

アダムが受けた訓練とセツの誕生


アダムは、百三十年生きて、彼に似た、彼のかたちどおりの子を生んだ。彼はその子をセツと名づけた。                            創世記5:3

アダムがこの地上に定着して130年。アダムはそれまでいろいろなことを体験して、多くの訓練を受けてきました。その結果、父なる神の心をある程度知るようになり、その愛も心から感じるようになりました。エデンの園で生きていた時とは、とても違う心を持つようになったのです。


以前は真理に逆らうものと悪を知らなかったので、しみもなく澄んではいても、ひたすら子どものようだったとしたら、今はすこし物心がついたと言えます。罪についても、単に頭だけで知っている次元でなく、今は罪がどれほど汚れて醜いのか、心から悟るようになりました。

長男のカインが弟のアベルを殺したとき、子孫が増えていきながら部族の間に大小の紛争が起きたとき、アダムは悪がどれほど怖いのか感じました。それとともに、自分が神のみことばに逆らって、善悪の知識の木の実を食べる罪を犯したとき、父なる神の心はどれほど痛かっただろうか、少し推し量れました。そして、罪を犯した自分に御顔を背けられず、永遠のいのちの道に導かれる父なる神の愛に、心から感謝するようになったのです。

アダムがちょうどこのような心になったとき、みごもって生んだ子の名前がセツです。ところで、セツは「彼に似た、彼のかたちどおりの子を生んだ。」とあるほど、父のアダムに似ていました。容貌だけでなく、心遣いもアダムに最も似た息子でした。それで、神はセツにアダムの系図を継ぐようになさったのです。

私達にとって訓練は祝福です。アダムがこの地上に降りてきて訓練を受けていた時は、つらくて大変だったでしょう。しかし、それによって良いものを与えようとするみこころを悟って、神の愛を感じることができました。そのように130年が流れた後に、アダムは以前とは違う人になりました。まことの幸せが何かを知るようになったのです。アダムがたとえつらい歳月を過ごしたとしても、その結果、まことに尊い教訓を得るようになると、胸いっぱいだったでしょう。

訓練を与えられる神様の御心


すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。
                            ヘブル人への手紙12:11 

鉄を鍛える時は、熱い火に入れたり冷たい水に浸けたりもします。また、槌でたたいたりもします。このような過程を通して、とても固い鋼鉄になります。初めはあまり使い道がなかった鉄の塊りが、鍛練の過程を通して役に立つ道具に変わるのです。

神は訓練を通して人の心をためされます。[箴言17:3]「銀にはるつぼ、金には炉、人の心をためすのは主。」とあるとおりです。訓練を通して心から真理に逆らうものがはがれて、主が用いられるほどのきよい器に変えられることができます。

ですから、どんな訓練でも感謝して受ければ、すみやかに変えられるのです。熱い火の中に入るようでも、あるいは冷たい水の中に入るようでも、感謝して祈れば、父なる神が悟りを下さいます。この訓練を通してはがれるものは何で、整えられることは何か、教えてくださるのです。すると望みが生じます。訓練はたとえつらくて大変でも、それに耐えて勝てるのです。ついには父なる神が望まれる美しい心を所有するようになります。

ところが、もし訓練がつらいからといって、あちこちに避けるなら、どうなるでしょうか? 神が用いられるほどの道具にとうてい変えられないのです。まずきよくならなければならないのに、訓練を避ければ、真理に逆らうものが心からはがれないからです。


また、自分の義と枠を言い張るなら、主が思う存分用いられる道具になれません。訓練がやって来たとき、通り抜けられなかったり、わざと避けたりするなら、次に似た訓練がまたやって来ることもあります。事が絡まってうまく行かなかったり、この人、あの人といつもぶつかるのです。ですから、訓練がやって来たとき、感謝して受けることが上策です。

信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。
                            ペテロの手紙第一1:7

このみことばを信仰によって受け入れ、どんな訓練も望みを持ってよく通り抜けますように。「これが過ぎた後、どれほど良いきれいな心に変えられるだろうか。これが過ぎたら、私の信仰がどれほど成長するだろうか。これによって父がどれほど祝福してくださるだろうか。」このように訓練を通して変えられる姿を望みをもって思い描いて、感謝して勝ち抜き、私たちの主イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至りますように。

朝の学び42 創世記5章 1

 

これは、アダムの歴史の記録である。神はアダムを創造されたとき、神に似せて彼を造られ、                             
                      
           創世記5:1

[5:1前半節]に「これは、アダムの歴史の記録である。」とあるとおり、[5章]には、アダムからノアまでのことが記されています。アダムがエデンの園からこの地上に追い出された時から約1600年間の歴史です。

「神はアダムを創造されたとき、神に似せて彼を造られ、」


[創世記5:1後半節]を見ると、「神はアダムを創造されたとき、神に似せて彼を造られ、」とあります。ここで私たちはもう一度、神が私たちをどのように創造されたのかがわかります。神は人を「神に似せて」造られました。からだだけでなく「内面」も神に似せて造られました。永遠不滅の属性である「霊」を人に与え、霊的な存在にしてくださいました。


それで、神と交わることができて、愛を分かち合うようになさったのです。

人が神に似せて造られたとしても、初めから完全だったのではなかったのです。最初の人アダムとエバがエデンの園で過ごしていた時は、「悪」と「肉」を知りませんでした。ただ「善」と「霊」だけ知っていました。これは、彼らが当時「相対性」を知らなかったという意味です。


悪を知らない善、肉を知らない霊は完全ではありません。しかし、神は悪を深く知っておられながらも善そのものであり、肉の属性をみな知っておられるけれど霊そのものであられます。それで完全なのです。

「人間耕作」をされる神の心


神は、神に似せて造られた人々も、完全な存在になることを願われました。神の子どもたちが悪と善、どちらも知っているけれど、いつも善を選んで、肉の体験を通して結局は霊を追い求めることを望まれました。それで、人間耕作を始められたのです。神は創造のみわざを始める前、すでにこれらのご計画を心にいだいておられました。

ところが、「人間耕作」が幸いな道だからといって、神がアダムに無理にその道を行かせたのではありません。すでにアダムに自由意志を与えられたので、自分でその道を選ぶようになさいました。それで、善悪の知識の木をエデンの園の中央に生えさせて、その実を食べれば「あなたは必ず死ぬ。」と戒められたのです。

このように神は結果を明らかに教えて、しっかり戒められたのに、結局アダムは自由意志によってその実を食べてしまいました。その結果、この地上に追い出されて、ついに「人間耕作」を受け始めたのです。


エデンの園では感じたことのないもの、すなわち、涙、悲しみ、痛み、苦しみを感じました。まことの幸せが何か、まことの喜びが何か、まことの平安が何かを知るようになりました。神に従わず罪を犯すことがどれほどみじめな結果を生むのかも、切々と悟りました。アダムとエバはこの地上の生を終えて、結局、救われて天国に入りました。天国のうち一番下のパラダイスにいますが、そこはエデンの園よりすばらしいところです。

アダムとエバがこの地上で生んだ子どもたちも、皆が人間耕作を受けます。父なる神は、彼らの中から御霊の人、全く聖なるものとされた子どもが出て来ることを切に願われました。そのようなまことの子どもがひとりひとり出て来るたびに、永い間待った労苦と憂いを忘れ、喜んで慰められます。

父である神様の心


私たちの父なる神はまことに慈しみ深くて優しく、やわらかくて暖かい方であります。もちろん神性的な面、すなわち、大いなる威厳と権威も持っておられます。神はこういう「神性」と等しい量の人性も持っておられるのです。

神はご自分に似せて造られた人々がみな「神が父であること」を悟って、神のみもとに出て来ることを願われます。それで、イエス・キリストを受け入れた人には、神の子どもとされた特権を与えられます。心に悪がある肉の人も、自分の子にどのように対するでしょうか? ほとんどが、あまりにも子どもを愛するので、抱っこしてキスもします。どうやってでも愛を表現しようとするのです。父なる神と信仰の子どもたちも、このように親しい関係になれます。

信仰が小さい時は神の神性のほうを大きく感じるので、神を恐れたりします。しかし、私達の信仰が成長するほど、父の愛を深く感じるようになります。事々に、時々に、父の細やかな愛に包まれて守られ、いつもともにおられることを体験するからです。
全く聖なるものとされた昔の信仰の人々と神がどれほど親しい関係だったのか、聖書のあちこちに書いてあります。

昔の信仰の人々と神様との関係


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