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朝の学び

聖書の著者である神様が李載禄牧師に親しく解き明かしてくださったメッサージを学んでいます。

主我を愛す
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朝の学び36 創世記4章 9

「『ああ、あなたはきょう私をこの土地から追い出されたので、私はあなたの御顔から隠れ、地上をさまよい歩くさすらい人とならなければなりません。それで、私に出会う者はだれでも、私を殺すでしょう。』主は彼に仰せられた。『それだから、だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける。』そこで主は、彼に出会う者が、だれも彼を殺すことのないように、カインに一つのしるしを下さった。」
創世記4:14-15

カインの悔い改め

カインは弟のアベルをねたみ、悪意をいだいて長い間、緻密な計画を立て、結局弟を殺しました。神はこれをみな知っておられましたが、カインに罪を告白する機会を与えられました。しかし、カインは告白しなかったのです。それで、神はカインの悪行を知っておられることを明らかにされました。そして二つの呪いを下しました。すると恐れを感じたカインは、その時やっと悔い改める姿勢を見せたのです。
これはまことの悔い改めではありません。まことの悔い改めは、自ら過ちを悟って真実に罪を告白することです。二度と同じ罪を犯すまいという覚悟がなければならないのです。しかし、カインは神にこれ以上隠すことができなくなると、やむを得ず悔い改めたのです。


カインの告白-私はあなたの御顔から隠れ

本文[14節]も、このような流れから出てきたカインの告白です。
まず「ああ、あなたはきょう私をこの土地から追い出されたので、」と言ったことには、カインが今まで受けていたすべてを失うという意味が含まれています。父であるアダムから分け前をもらっていたものを、これからは全部失うようになったことを表しているのです。

次に「私はあなたの御顔から隠れ、」と言いました。これは、カインがどれほど大きい罪を犯したかを自ら感じていることを物語っています。
カインはアダムから霊の世界の法則を学びました。「霊の世界の法に逆らう行動をすれば、すなわち、罪を犯せば、闇に属する。闇と光が共存できないように、闇に属する者は主にお目にかかれない。」カインはこのような基本的な霊の知識を持っていました。

ところで、今、自分が大きい罪を犯して、その罪が神の御前に明らかにされました。それで、自分は主の御顔から隠れると表現したのです。実際、このこと、すなわち、罪を犯した人は主の御顔から隠れるということは正しいです。このようなみことばが聖書のあちこちに書いてあります。


あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。          イザヤ書59:2

彼らがほかの神々に移って行って行なったすべての悪のゆえに、わたしはその日、必ずわたしの顔を隠そう。                        申命記31:18

私の神よ。私は恥を受け、私の神であるあなたに向かって顔を上げるのも恥ずかしく思います。私たちの咎は私たちの頭より高く増し加わり、私たちの罪過は大きく天にまで達したからです。                            エズラ記9:6


この時、エズラが罪を犯したのではなかったのです。イスラエルの民と、特にかしらであるつかさたちの罪のため、神に代わりにこういう悔い改めの祈りをしました。このように、人が罪を犯せば闇に属するようになり、光である神の御前で顔を上げられません。

心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。        
マタイの福音書5:8

「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。」              ヘブル書12:14


聖書に書かれてある、このようなみことばどおりに必ずなることを信じて、悪はどんな悪でも避け、罪とかかわりのない聖なる聖徒になり、父の御顔を拝する者になりますように。

カインの告白―私に出会う者はだれでも、私を殺すでしょう

本文[14節の後半節]を見ると、カインが「地上をさまよい歩くさすらい人とならなければなりません。それで、私に出会う者はだれでも、私を殺すでしょう。」とあります。この聖句は、多くの人が不思議に思う聖句の一つです。「当時、この地上にはアダムとエバ、カインとアベルだけがいたはずなのに、いったいカインは誰を恐れているのだろうか?」こう思う人が多いです。

アダムとエバがこの地上に降りてきて定着した後、まずは何人かの娘を生んだと言いました。その次に、初めての息子カインを生んで、次にアベルを生みました。また、[創世記5:3-4]を見ると、アダムは130歳でセツという息子を生んで、その後800年を生きて、子どもをもっと生みました。また、アベルとセツの間にも何人かの子どもを生んで、セツの後にも数多くの子どもを生みました。このように数多くの子どもたちのうち、主に系図を受け継ぐ息子たちの名前だけが聖書に記されています。

アダムとエバは、数多くの子どもたちの中でカインとアベルを特に愛して、家業をこのふたりの息子が受け継ぐようにしました。他の子どもたちは、大きくなると分け前を与えて、親を離れて生きるようにしました。他の子たちはある程度距離を置いて、それぞれの根拠地で家庭を作って、子孫を生んで増えました。当時は今日とは違って、病気、災害のような害になる要素が少なかったので、人口が非常に速いスピードで増えていきました。

当時、地球に存在していた人はカインとアベルの兄弟と妹であり、また彼らの子孫でした。ところが、長子であるカインが弟アベルを殺す、衝撃的な事件が起こったのです。
当時の人々は、今とは比べられないほど善良で純粋な心を持っていました。ですから、カインの犯罪を聞いた彼らは驚きを禁じえなかったのです。初めて接する殺人事件なので、どのように対処すべきなのかも知りませんでした。そのうち、ある者は怒りに耐えられず身震いしたり、ある者は悲しみに陥ったりもしました。

カインもこのような反応が十分に予想できたので、ひどい恐れに襲われたのです。自分が兄弟たちから非難されるほど、さらには復讐されることもあるくらい大きい罪を犯したことを悟り始めました。それで、カインは「それで、私に出会う者はだれでも、私を殺すでしょう。」と言ったのです。


カインに下さったしるし 

続く本文[15節]に「主は彼に仰せられた。『それだから、だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける。』そこで主は、彼に出会う者が、だれも彼を殺すことのないように、カインに一つのしるしを下さった。」とあります。

これは、私たちの神の大いなる愛をもう一度深く感じさせるみことばです。神が霊の世界の法則やすべての自然の理致と摂理を定められた時も、その根幹に置かれたものは、まさに「愛」でした。罪を犯したアダムをこの地上に送り出される時も、神は彼との交わりを完全に切られなかったのです。革の衣を作って彼らに着せられ、救いのひも、恵みのひもでつないでくださいました。また、霊の世界の通路を開いておかれ、エデンの園の子孫たちがアダムに会いに来られるようにしてくださいました。神の愛の配慮です。

神はこのような愛をカインにも現してくださいました。カインは自分が弟を殺したので、誰かが自分を殺すこともあるだろうと思い、恐れに震えてひどく苦しみました。神はこのようなカインを憐れんで、彼が殺されず、自分のいのちの期限を全うするようにしてくださったのです。神がこのようにされたのは、カインにも心を耕す機会を与えられるためでした。それで、神は誰もカインをむやみに殺せないように「しるし」を下さったのです。

しかし、このしるしは神の栄光と威厳を表すしるしでなく、「罪と恥を表すしるし」でした。人々がそのしるしを見れば「神がこの人を守られる」という事実とともに、「彼がどんな罪人なのか」もわかりました。カインはこのしるしによって、誰からも害を受けることはなかったけれど、同時にすべての人の前で「罪人」として生きなければならなかったのです。そのしるしはいつも、自分が犯した罪を思い起こさせたからです。カインにとって、そのしるしは一生消せない罪の記憶でした。カインはしるしを見るたびに、過ぎた日を後悔して「二度と罪を犯すまい」と心を固めました。

このように、カインはこの地上の人生が終わる日まで自分の罪を徹底的に悔い改めて、悔い改めにふさわしい実を結び、結局、救われました。カインはかろうじて救われたので、天国の最も低い場所であるパラダイスの端に入りました。事実、カインは徹底的に悔い改めはしましたが、罪に対する懲らしめが怖くてそうしました。もしカインが心を善に変えて、神に喜ばれようとまことを尽くしたなら、よりすばらしい天国に行くこともできたでしょう。しかし、カインはそのような心の所有者ではなかったのです。

カインが受けた「しるし」のようなものを今日もからだに刻む人々がいます。まさに「入れ墨」のことです。入れ墨は霊的に「私は罪人だ」と言っているのと同じです。それで、神は「入れ墨をすることを忌み嫌われる」と言われました。さらに、入れ墨には忌みきらう動物のかたちが多いです。


あなたがたは死者のため、自分のからだに傷をつけてはならない。また自分の身に入墨をしてはならない。わたしは主である。                レビ記19:28

そして、彼らの苦しみの煙は、永遠にまでも立ち上る。獣とその像とを拝む者、まただれでも獣の名の刻印を受ける者は、昼も夜も休みを得ない。     黙示録14:11後半節


将来ある七年患難の間、反キリストは人々の額や手に刻印を受けるようにします。これはすなわち「獣の刻印」です。人がこの刻印を受ければ、落ち穂拾い救いの機会さえ得られず、必ず死に向かうようになります。この獣の刻印は、もちろん入れ墨とはちょっと違いますが、からだに何かを入れるという点で、神の御前にふさわしくないのは同じです。

主を信じる前、霊的な意味を知らないで入れ墨をした場合、主を受け入れるとき、過去の過ちをみな心から悔い改め立ち返ったのなら、救われることに支障が
りません。聖なる神の子どもとなって神に栄光をかえしていきましょう。










 

朝の学び35 創世記4章 8

 

「『それで、あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその力を生じない。あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ。』 カインは主に申し上げた。『私の咎は、大きすぎて、にないきれません。』」
                                創世記4:12-13

いくら大きい罪を犯したとしても、それによって心がへりくだって、その償いをするなら、私たちの神はその人を退けることも、忌みきらうこともなさいません。また、絶ち滅ぼさないと言われています。神はカインにも救いの恵みを施してくださいました。私たちの父なる神は愛であられます。ひとりでも滅びることを願わず、すべての人が救われることを望んでおられます。このような愛でカインにも悔い改める機会を与え続けられました。

カインの悔い改め

カインは、神が自分の悪行を現して、それによって臨む刑罰について言われると、恐れを感じます。そして、初めて悔い改める姿勢を見せます。本文[13節]「カインは主に申し上げた。『私の咎は、大きすぎて、にないきれません。』」と告白したのです。

ところが、カインのこの告白は心の底から出た悔い改めではなかったのです。単に自分が受ける罰が怖くて、罪を認めただけです。神はこういう悔い改めを願われるのではありません。心の底からにじみでる悔い改めを願われるのです。まさに、愛の悔い改めを望んでおられるのです。


愛の悔い改め

愛の悔い改めとは、何でしょうか? たとえば私たちが親をとても愛して、心から尊敬しているとしましょう。ところが、思わず親が最も嫌いな行動をしてしまいました。これを親が知るようになりました。この時、親をまことに愛する子どもなら、当然親の前に出て行き、心の底から赦しを求めます。愛する親の心を痛めたことがあまりにも申し訳なくて、胸を裂いて後悔し、親のところに行って徹底的に悔い改めます。この時、子どもが親を愛するほど、心に感じる苦しみも大きいです。

一方、ある子どもたちは、自分のミスや過ちのゆえ親に嫌われるようになるのか心配で、すぐ悔い改めます。親に嫌われたら、財産を分けてくれるとき不利になるかもという計算で、うわべだけひざまずくこともあります。

私たちの父なる神が信仰の子どもたちに望まれる悔い改めは、愛するがゆえに心から立ち返ることです。すぐ何か処罰されるのが怖くて、罪を告白して悔い改めるのは、まことの悔い改めではありません。このような場合は、心から立ち返ったのではないので、いつでも同じ罪を犯すことがあります。「恐れ」を与える環境がなくなると、心から捨てられなかった悪が再び表に出てくるからです。


愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。
                              第一ヨハネの手紙4:18


刑罰を恐れて、無理に戒めを守る人は、神を愛すると言えません。愛するがゆえに戒めを守ることがまことなのです。
私たちのイエス様も、
[ヨハネ福音書14:15]「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。」と言われました。御霊の歩みに入って、神を第一に愛する人は、罪を犯しません。

ところが、御霊の歩みに入る前でも、神を愛する人は、ひょっとして罪を犯しても、すぐ悟って悔い改めます。「私がなぜ父なる神様のお心を痛めたのだろうか」と重ね重ね後悔して、再びそのような罪を犯さないために、身を慎んで生きます。


ダビテ王の悔い改め

このような愛の悔い改めをした代表的な人物として、ダビデが挙げられます。ダビデがバテ・シェバを取って、彼女の夫ウリヤを策略を立てて殺したことについて、神に厳しく責められたことがありました。その時、ダビデは何の言い訳もせず、その場で悔い改めました。

その当時のダビデの心が、[詩篇51篇]に書いてあります。


神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。                                   詩篇51:1-3

ダビテは自分の罪を率直に認めて、罪の赦しを求めています。

私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。   
                                           詩篇51:11-12


ダビデは恐れによって神を遠ざけたのでなく、むしろ子どもがお母さんのふところにしがみつくように、神の恵みを求めました。

神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。                          詩篇51:17

ダビデ自身が心からわき上がる愛の悔い改めをしたから、神も聞いてくださるだろうと確信しています。

父なる神様が望まれる悔い改め

私たちの父なる神が望まれる悔い改めは、まさにこのような愛の悔い改め、まことの悔い改めです。当座の状況を免れるために、口だけで「間違っていました」と言って、心から立ち返らないのは、まことの悔い改めではないのです。

人はだますことができますが、神をだますことはできません。敵である悪魔・サタンも、肉の人について、どんな罪を犯したかを詳しく知っています。それで、サタンがまだ赦されていない罪を種に訴えるなら、神はその人が試練を受けることを許されるしかありません。その結果、そのわざに応じて報いられる公義に従って、代価を払うようになるのです。
カインも心からまことに悔い改めなかったので、罪に対して代価を払うようになります。

これまで、神がカインに下された二つの呪いとそれに対するカインの反応を学びました。私たちの父なる神は愛であられます。そのわざに応じて報いてくださる神の公義も、結局は神の愛から始まったものです。公義が欠けている愛は、一方に偏りやすいので、完全ではありません。したがって、私達はどんな状況でも神の愛のひもをつかみますように。


しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。私は、神なる主を私の避け所とし、あなたのすべてのみわざを語り告げましょう。
                                   詩篇73:28


私達が訓練を受けていても、試練にあって苦しんでいても、もっと神の近くにいますように。慈しみ深い私たちの父なる神を私達の避け所としますように。それで、父なる神の愛に包まれて、十分にすべての訓練を通り抜けて純金のような信仰を持つことができますように。










 

朝の学び34 創世記4章 7
 

「『それで、あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその力を生じない。あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ。』 カインは主に申し上げた。『私の咎は、大きすぎて、にないきれません。』」
                               創世記4:12-13

神は殺人をしたカインに何回も悔い改める機会を与えられました。しかし、カインは最後までその機会を払いのけました。結局、カインは公義に従って二つの呪いを受けました。
その第一は「あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその力を生じない」ということでした。これは「神の恵みが生活の場から離れるので、豊かな生活ができなくなる」という意味でした。
神がいくら愛と力が多くても、罪を犯して闇に属する人には、恵みと祝福を与えることがおできになりません。しかし、誰でも神のことばどおり従って、光の中にとどまるなら、神に導かれて守られることができます。生活の場で実を豊かに刈り取ることができます。



イサクに臨んだ祝福

[創世記26章]を見ると、イサクが飢饉を避けて、居住地を移す場面があります。
その時、神がイサクに現れ、仰せられました。


「エジプトへは下るな。わたしがあなたに示す地に住みなさい。あなたはこの地に滞在しなさい。わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福しよう。それはわたしが、これらの国々をすべて、あなたとあなたの子孫に与えるからだ。こうしてわたしは、あなたの父アブラハムに誓った誓いを果たすのだ。 そしてわたしは、あなたの子孫を空の星のように増し加え、あなたの子孫に、これらの国々をみな与えよう。こうして地のすべての国々は、あなたの子孫によって祝福される。」
創世記26:2-4


神はアブラハムに下さった約束の地にイサクが住むことを願われました。しばらく飢饉だからと言って、神が下さった地を捨てて離れるなら、これは神の約束を信じないという証拠です。イサクは神を信じたので、そのみことばどおり従いました。すると本当に驚くべき祝福が臨みました。

イサクはその地に種を蒔き、その年に百倍の収穫を見た。主が彼を祝福してくださったのである。こうして、この人は富み、ますます栄えて、非常に裕福になった。                                           創世記26:12-13

このように、誰でも神のみことばに聞き従えば、土地は彼のために力を生じます。つまり、神がその人の生活の場に驚くべき祝福を与えられるのです。


安息年の祝福

神はこのような内容をおきてとして定めて、イスラエルの民に下さいました。
それは[レビ25:3-4]にある安息年のことです。


「六年間あなたの畑に種を蒔き、六年間ぶどう畑の枝をおろして、収穫しなければならない。七年目は、地の全き休みの安息、すなわち主の安息となる。あなたの畑に種を蒔いたり、ぶどう畑の枝をおろしたりしてはならない。」

カナンは乳と蜜が流れる、肥えた地です。その地に入って定着したら、六年間地を耕して、次の七年目には地を休ませなさいということです。六年目に豊作を下さり、これから三年間の糧を豊かに下さると約束されました。神はこのようにみことばに聞き従う子どもたちには、最後まで責任を負ってくださいます。


十分の一献金の祝福

又今日、聖徒は十分の一献金を通してこのような神の祝福がいただけるのです。

『 十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。――万軍の主は仰せられる。――わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。』 
                                マラキ書3:10


このように、聖徒が「完全な十分の一献金」をささげれば、神は事業の場や職場を守って、祝福してくださいます。神がいらない支出を防いで、天の窓を開いて、あふれるばかりの祝福を注いでくださいます。


インへの第二の呪い

第二の呪いは「あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ。」ということです。
これは「父から受け継いだすべてを失って、根拠地から離れるしかない」という意味です。カインのように、やむをえず、あるいは強いられて、さすらい人となることは非常に大きい罰です。おもに戦争難民になったり、捕虜として連れて行かれる場合にこうなります。まことに悲惨な身の上になります。



南ユダの王マナセ

南ユダの王マナセは、自分の子どもを火の中をくぐらせたりするほどはなはだしく偶像礼拝を行ったので、国全体がかつてなかったほどの偶像礼拝の罪に陥りました。又、マナセは神が送られた預言者たちを迫害して殺すなど罪のない者の血をあまりにもたくさん流しました。主はマナセとその民に語られましたが、彼らは聞こうともしなかったのです。それで、神はマナセをさばかれます。

そこで、主はアッシリヤの王の配下にある将軍たちを彼らのところに連れて来られた。彼らはマナセを鉤で捕え、青銅の足かせにつないで、バビロンへ引いて行った。
                       第二歴代誌33:11


北イスラエルを滅ぼしたアッシリヤ軍が、今度はユダを攻撃したのです。神が保護膜を完全に取ってしまわれると、エルサレムは簡単に陥落して、マナセは青銅の足かせにつながれて、バビロンへ引いて行かれたのです。マナセはその時初めて、正気を取り戻します。

しかし、悩みを身に受けたとき、彼はその神、主に嘆願し、その父祖の神の前に大いにへりくだって、神に祈ったので、神は彼の願いを聞き入れ、その切なる求めを聞いて、彼をエルサレムの彼の王国に戻された。こうして、マナセは、主こそ神であることを知った。   
                           第二歴代誌33:12-13 


マナセはそれから新しい人になりました。エルサレムからすべての偶像を取り除いて、主の祭壇を築いたのです。


種を蒔いて刈り取る霊の世界の法則

種を蒔けば、その刈り取りもして、そのわざに応じて報いられる、この霊の世界の法則は正確です。それで、信仰と善と愛と義を蒔けば、必ず祝福が臨みます。反対に、悪と罪を蒔けば、病気、事故などの試練や患難がやって来ます。

自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。
                                ガラテヤ6:8


したがって、ひょっとして何かの問題や困難が起こったら、まず自分と神との間に罪の隔ての壁があるのではないか、顧みなければなりません。罪の壁がある限り、祝福が臨まないからです。ひどい肉の行いを犯した場合は、悔い改めたとしても報いが伴います。このように罪について報いを受けている間は、祝福が留保されます。こういう場合、「彼らの咎の償いをする」なら、結局、神が憐れんでくださいます。

レビ記26章に、これについて書いてあります。イスラエルが滅びて、民が国々の間に散らされてさすらい人となった時も、このみことばを覚えなさいと言われました。

彼らは、わたしに不実なことを行ない、わたしに反抗して歩んだ自分たちの咎と先祖たちの咎を告白するが、しかし、わたしが彼らに反抗して歩み、彼らを敵の国へ送り込んだのである。そのとき、彼らの無割礼の心はへりくだり、彼らの咎の償いをしよう。わたしはヤコブとのわたしの契約を思い起こそう。またイサクとのわたしの契約を、またアブラハムとのわたしの契約をも思い起こそう。そしてわたしはその地をも思い起こそう。  
レビ記26:40-42


それにもかかわらず、彼らがその敵の国にいるときに、わたしは彼らを退けず、忌みきらって彼らを絶ち滅ぼさず、彼らとのわたしの契約を破ることはない。わたしは彼らの神、主である。                             レビ記26:44

いくら大きい罪を犯したとしても、それによって心がへりくだって、その償いをするなら、私たちの神はその人を退けることも、忌みきらうこともなさいません。また、絶ち滅ぼさないと言われています。神はカインにも救いの恵みを施してくださいました。私たちの父なる神は愛であられます。ひとりでも滅びることを願わず、すべての人が救われることを望んでおられます。このような愛でカインにも悔い改める機会を与え続けられました。









 

朝の学び33 創世記4章 6
 

 

主はカインに、『あなたの弟アベルは、どこにいるのか。』と問われた。カインは答えた。『知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。』」          
「そこで、仰せられた。『あなたは、いったいなんということをしたのか。聞け。あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる。今や、あなたはその土地にのろわれている。その土地は口を開いてあなたの手から、あなたの弟の血を受けた。それで、あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその力を生じない。あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ。』」
                                創世記4:9-12                            

父なる神はカインに悔い改める機会をあたえられた。

父なる神は弟を殺したカインに悔い改める機会を与えようとされました。カインが自ら過ちを認めて、神に罪を告白することを願われたのです。それで、カインに「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」と問われました。これにカインは「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。」と答えました。自分の悪行を隠すのに汲々として、嘘をつくのをはばからなかったし、神に傲慢な態度で答えたのです。

すると神は、カインがアベルを殺したことを知っておられることを明らかにされます。まさに本文
[10節]で「あなたは、いったいなんということをしたのか。聞け。あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる。」と仰せられたのです。

神は、カインがアベルを「どこで」「どのように」「なぜ」殺したかをみな知っておられました。それでもまずはカインに問われることによって、自ら悔い改める機会を与えられました。カインは最後までその機会をつかまなかったのです。


蒔いたら刈り取る霊の世界の法則

すると神はカインに臨む呪いについて言われます。本文[11-12節]です。「今や、あなたはその土地にのろわれている。その土地は口を開いてあなたの手から、あなたの弟の血を受けた。それで、あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその力を生じない。あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ。」
このみことばは、蒔いたら刈り取りもして、そのわざに応じて報いられる霊の世界の法則が、カインにそのまま適用されるのを見せてくれます。
[ローマ2:6]にも、「神は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになります。」とあります。                   

「土地はもはや、その力を生じない」

カインに臨んだ第一の呪いは、「あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその力を生じない」ということです。カインは父のアダムから地を耕す方法を教わりました。当時、アダムが持っていた知識と知恵は非常に優れていたので、カインも地を耕す方法をとてもよく知っていました。それに関しては専門家と言ってもかまわないほど上手でした。このようにカインがいくら上手であっても、土地が、彼のためにその力を生じないなら、良い実を結ぶことはできません。

ここで
「土地はもはや、その力を生じない」とは、どういう意味でしょうか? これは土地が認知能力を持っていて、カインを差別待遇するという意味ではありません。農夫が良い地に良い種を蒔いて、いくらよく育てても、神が助けてくださってこそ良い実を得ることができます。つまり、神が適当な雨、風、太陽の光をくださってこそ、作物がよく育ちます。地を耕す人も賢くてまめでなければなりませんが、根本的には神が良い環境を整えてくださらなければなりません。

カインに臨む公儀

ところで、カインはこれからは自分の悪行について、公義に従って報いを受けなければなりません。もし神がカインに地を耕すに良い環境を整えつづけるなら、これは公義に外れることです。したがって、これからは神はカインの作物を自然災害や病虫害から守ってくださることができなくなりました。
その結果、カインがいくら知恵を働かして地を耕しても、自分の力で良い実を刈り取ることはできなくなりました。つまり、神の恵みの中で守られないので、豊かな生活ができなくなったのです。このように
「土地はもはや、その力を生じない。」というみことばには、「神の恵みが生活の場から離れたので、豊かな生活ができなくなる」という意味が込められています。

カインが罪を犯す前は、土地は、彼のためにその力を生じました。作物がよく実って、豊かな実を刈り取り、豊かな人生を味わっていました。誰でも神のみことばどおり従うなら、神に導かれて守られることができます。生活の場で実を豊かに刈り取ることができます。










 

朝の学び32 創世記4章 5 
 

しかし、カインは弟アベルに話しかけた。『野に行こうではないか。』そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。
                                創世記 4:8

 

アベルに話しかけるカインの心

本文[8節の前半]「しかし、カインは弟アベルに話しかけた。『野に行こうではないか。』」とあります。これは、カインが自分の心にあるわだかまりをアベルにぶつけようとしたということです。自分がアベルにどんな感情を持っているのか、また、なぜそうなったのかを口に出したという意味です。それによって弟のアベルをとてもつらくさせたのです。    言いかえれば、「お前が気にくわない。お前のせいで腹が立って、神様に諭された。」 こう言って、心の苦しみをいだかせたということです。 神がカインに怒りを鎮めて、これ以上罪を犯さないようにと言われましたが、カインは悪を治めたのではなく、かえってもっと大きくしていきました。はなはだしくは、神のお勧めのことばも聞かなかったのです。時間が過ぎるにつれて悪い感情はつのりました。

罪の属性

カインも父のアダムから真理を学んで、自分がそうしてはいけないことを知っていました。それで、自分の感情を治めてみようとしたが、制することができなかったのです。むしろだんだん悔しさが積まれていき、やがて悪い行動に出てくるしかないところにまで至りました。 罪の属性とはこうです。心に悪が植えられるとき、すぐ引き抜かないと、直ちに大きくなって心を従えます。敵である悪魔・サタンに操られて、自分で心を制することができなくなります。「こうしてはいけないのに・・・」と思っても、罪の奴隷になってしまうのです。
したがって、こういう段階に至る前に、「これは罪だ。神様が喜ばれない」と悟ったとき、すぐ立ち返なければなりません。 これは人の力だけではできないのです。父なる神が下さる恵みによって強くされて、また聖霊に助けられなければなりません。したがって、いつも目を覚まして祈らなければなりません。


カインの綿密な計画

続く[8節の後半]を見ると、「そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。」とあります。人類最初の殺人事件が起こりました。それも即興的に起きた事ではなかったのです。カインが常々心にいだいていた恨みを、時を狙って行動に移したという点で、この罪が本当に大きいと言えるのです。 さらにカインは神からお勧めのことばを聞いたのに、それを無視して、罪が自分を恋い慕っているのに治められず、罪を犯してしまいました。これは、すでにその心に悪がどれほど多く植えられていたのかを表しています。「そして、ふたりが野にいたとき、」という表現から見ると、カインが弟とたったふたりで人里離れたところにいる時を待っていたことがわかります。 すでに弟を殺す心をいだいて、適当な機会を狙っていました。カインは緻密に殺人計画を企んだのです。このように同じ殺人でも、わざと人を打って殺した場合は、その罪をもっと重く思うのです。

律法による定め

人が悪意をもってわざと誰かを害すれば、その罪について必ず報いを受けるようになります。 [民数記35章]のモーセの律法にも、わざと人を殺した場合、すなわち、殺人をした場合、「殺人者は必ず殺さなければならない」とあります。

もし、人が憎しみをもって人を突くか、あるいは悪意をもって人に物を投げつけて死なせるなら、あるいは、敵意をもって人を手で打って死なせるなら、その打った者は必ず殺されなければならない。彼は殺人者である。その血の復讐をする者は、彼と出会ったときに、その殺人者を殺してもよい。
民数記35:20-21


一方、何の敵意もないのに誤って、あるいは偶然に人を殺した人には、生きる道を開いてやりました。あちこちに「のがれの町」を置き、そこに逃れるようにしました。

犯罪の動機と刑罰の重さ

今日、法廷でも、こういう部分はある程度考慮して、判決を下します。たとえふたりが同じ罪を犯しても、犯罪の動機によって刑罰の重さが変わります。偶発的だったのか、計画的だったのか。悪意をもってわざとしたのか、生計のためにやむを得ずしたのか。罪を犯した理由によって判決が変わってくるのです。  私たちの父なる神は人の子らの心の底まで見抜いておられます。誰かが罪を犯したなら、信仰が弱くて一瞬罪の誘惑に落ちたのか、でなければ、悪意をもってわざと不従順になったのか、熱心にみことばどおり生きてきたのに一度倒れたのか、あるいはいつも不従順であったのか、各人のすべてを考慮してさばかれます。

心にあるわだかまりが現れるとき

わざと相手を困らせたり害を与える行動はしなくても、誰かが気に障ったことがあったり、わだかまりを持っていてそれを解かないでいるなら、いつかはそれが突然出てくることがあります。二つの例を挙げてみます。

第一の状況   まずは、相手がほめられる時です。誰かがほめられると、喜ぶことが真理です。しかし、その人が以前、気に障ったことがあったり、わだかまりを持っている相手なら、喜べないのです。「あの人は私には良くしてくれなかったのに、目上の方にだけ良くしてほめられているんだ」と、もっと気に障るようになります。まるで自分が悔しいことにあったように、他の人に相手の欠点を知らせて、相手を引き降ろそうとします。 ですが、このように相手を引き降ろすからといって、自分が高くなるでしょうか? 仮に人々の前では自分のほうが高くなっても、どうして神の御目を欺くことができるでしょうか。人の心にあるすべての悪は神の御前に一つ一つ現れるようになります。まして心にあった悪を計画を立てて行動に移したなら、どうして神がご存じないでしょうか。

第二の状況   わだかまりをもっていた相手が何か間違ったことをして、窮地に追い込まれたり、他の人に非難される時です。この時、まるで待っていたかのように、一緒に非難する人がいます。「私はあの人がそうなるとずっと前から知っていた。もともとそんな人だ。」このように過去の自分の感情を加えるのです。これは以前、その人について持っていた悪い感情をいまだに持っていたという証拠です。


「悪はどんな悪でも避けなさい」

神は、敵をも愛しなさいと言われ、怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。(エペソ4:26)、だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。(ローマ人への手紙12:17)と言われています。 ところが、悪い感情を解かないで心に持っていて、時を狙って悪行で報いるなら、どれほど大きい悪なのか知らなければなりません。  [第一ヨハネ3:15の前半]「兄弟を憎む者はみな、人殺しです。」とあります。それなのに、一度だけ憎んだのではなく、憎しみを積みに積んで、また積むなら、これはどれほど多くの殺人を行なったことでしょうか。それによって祈りに答えられないでいて、祝福が遮られていて、試練や患難がやって来たのに、悟れないこともあります。恨みや悔しさなどの悪い感情が心にたまりにたまった結果、大きい病気になることもあります。

肉の人は、悪をもって悪に報いてこそすっきりすると思うかもしれませんが、決してそうではありません。悪をもって悪に報いることはもちろん、悪をいだいていることだけでも、自分自身にとって大きい害になるということを本当に悟らなければなりません。 相手は自分に悪を行なったとしても、自分の方からはかえって善をもって報いることが神のみこころです。そうする時、相手も生かせて、自分も生きることができて、神に受け入れられる良いことを実践することができます。私たちは、もっと正しい行ないを慕い、「悪はどんな悪でも避けなさい」というみことばに込められているみこころ、すなわち、父なる神に受け入れられる良いことは何かを悟って行うことができますように。









 

朝の学び31 創世記4章 4 
 

そこで、主は、カインに仰せられた。『なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。』
創世記4章 6-7

問題の根本原因

カインは、弟のささげ物にだけ主が目を留められると、そねみ、ねたみ、怒りが起こりました。さらにその心の悪が表に現れ、顔を伏せました。神はカインの心からこのように悪が動き出し、表に現れ始める姿を全部見ておられました。それで諭されました。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。」当時、カインは神に恨めしい心をいだいていました。心は悪い感情で煮えくり返り、顔を伏せたのです。それに神がお勧めのことばを言われるから、さらに顔が上げられなかったのです。それで、神は「あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。」と言われました。ここで「あなたが正しく行なったのであれば、」とは「あなたがみことばに従って、神が願われるいけにえをささげたなら、」という意味です。カインがアベルのようにしたなら、神の御前に堂々としていられるでしょう。しかし、カインは自分が正しく行なわなかったことは忘れていました。むしろ神が自分とアベルを差別待遇されると恨めしく思いました。それで、神は問題の根本原因をカインに悟らせてくださったのです。

霊的な光と闇

神のことばは正しいものです。神が何々を「しなさい、してはならない、捨てなさい、守りなさい」と命じられたなら、そのみことばには、神が良いと見られる意味が込められています。したがって、私たちがこの事実を信じて、みことばどおり行なえば、自然に正しいことを行なうようになります。また、このように正しいことを行なう人は、霊的に光の中にとどまるようになります。反対に、悪を行なう人は、霊的に闇の中にとどまります。今、本文のカインも、みことばに聞き従わなかった状態です。霊的に闇が彼に宿りました。ですから、自然に光である神の御前に受け入れられなかったのです。光と闇は決して一緒にいることはできません。

悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。
                              ヨハネの福音書3:20


カインを諭される神のことば

神はカインが今でも悔い改めて、闇にこれ以上深く染まらないことを願われました。それで、カインに続けて次のように告げられました。「ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、」ここで「戸口」とは「真理の戸口、救いの戸口、天国の戸口」を意味します。そして「罪は戸口で待ち伏せして」というみことばは「罪ゆえにその『戸口』を越えることができなくなって通れない」という意味です。神はカインに諭されました。「カインよ、あなたが正しいことを行なわず、悪を行なえば、真理の中にとどまることができなくなる。また『罪』が成立して、霊の世界の法に従って、救いでなく死に至るようになる。言いかえれば、天国の戸口を通れなくなる。」

「あなたが罪を治めるべきである。」

続けて神は多少強い口調で言われました。「罪はあなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」ここで「罪がカインを恋い慕っている」とは、まさにアベルへの憎しみとそねみ、ねたみを行ないとして現したい心を意味します。人はおなかがすけば、空腹を満たすために食べ物を探します。このように誰かを憎んで、そねんでねたむなら、その相手に害を加えようとします。相手を見るとき、とげとげしい目で見ます。言葉も優しくなくなり、口調も無愛想です。さらに相手を非難したりさげすんだりして、その人の存在価値を引き下ろそうとします。ひどい場合は、直接的に傷害を負わせたり、相手が損害をこうむるように策略を立てたりします。

良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すからです。 
                                ルカの福音書6:45


今カインも、アベルをそねみ、ねたんで、悪い行ないを表に現そうとしています。神はこのようなカインの心を知っておられ、再び勧められたのです。「カインよ、罪があなたを治めたがっている。負けてはいけない。あなたが罪を治めるべきである。」

肉の欲に打ち克つ方法

私達は、罪を十分に治めなければなりません。罪を犯したがる「肉の欲」に負けてはいけません。

ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。                
ローマ人への手紙8:12-14


このみことばのように、肉の欲に勝てなくて肉に従って生きるなら、死ぬのです。「肉の思いは死である」というみことばもあります。反対に、御霊によってからだの行ないを殺すなら、生きるのです。まことのいのち、永遠のいのちを得るようになります。皆さんは聖霊を受けた神の子どもなので、十分に肉の欲を治めることができます。人の意志と努力だけでは難しいけれど、私たちのうちにおられる聖霊に助けられれば、簡単にできます。祈って聖霊に満たされると、自分では勝てなかった悪い感情に勝てます。したがって、いつも切実な心で聖霊に助けられることを求めますように。聖霊に満たされることを慕いますように。絶えず祈ることによって「神の御霊に導かれて」、罪とかかわりのない御霊の子どもになりますように。

私達を助ける聖霊の働き

カインは、父なる神から何回かの勧めのおことばを聞いたにもかかわらず、結局、罪を治めることができなかったのです。神は今日も、ご自身の子どもたちに「真理に従いなさい」「兄弟を憎んではならない」「惑わされないように」「正しいことを行ないなさい」といつも語っておられます。まさに聖霊の働きです。

しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。
                            ヨハネの福音書16:13


父なる神は罪と悪がはびこっているこの世を生きていく子どもたちを捨てて、孤児にはなさいません。助け主聖霊を子どもたちの心に遣わされて、彼らの弱さを助けるようにされました。私達が真理から外れて倒れる時は、御霊がうめかれ、父に祈り求めます。反対に、私達が真理を行なう時は、聖霊も喜ばれるので、心に喜びと幸せが臨みます。父なる神は人間耕作の歴史の間、このようにいつも人の子らを愛をもって見守って養われておられます。









 

朝の学び30 創世記4章 3 
 

ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来た。また、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た。主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。
                                            創世記4:3-5

贖いの原則

アダムとエバはこの地上に定着した後、数多くの子どもを生みました。まず何人かの娘を生んで、やがて初めての息子カインを生み、それからアベルを生みました。アダムとエバは子どもたちの中でカインとアベルを最も愛して頼り、家業を受け継ぐようしました。カインには土を耕すことを、アベルには羊を飼うことを譲ったのです。当時は肉食をしなかったけれど、羊を飼った重要な理由は、羊が神にいけにえをささげる時に必要だったからです。神は罪人としてこの地上に降りてきたアダムとエバに「罪が赦されて神と交わる方法」を教えてくださいました。それは、羊を贖いの代価として血を注ぎ出すようにし、火で焼いていけにえとしてささげることでした。

なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。
                                                      レビ記17:11
    
                                                            
すべての肉のいのちが「血」の中にあるから、血を注ぎ出してこそ罪が贖われるという原則は、人間耕作のために必要な一番基本的な霊の世界の法です。これがモーセの時代になって、具体的ないけにえをささげる法として制定されました。アダムは神からこの霊の世界の法である贖いの原則を学んで、子どもたちにも教えました。

カインとアベルの捧げもの

ある時期になって、この法を変えてしまう出来事が起こります。その主犯はカインでした。カインは地の作物から主へのささげ物を持って来ました。カインは明らかに「血のいけにえ」に込められた霊的な意味を聞いて知っていました。それでも、ある時期になると、肉の思いを働かせて別のささげものを持って来たのです。カインがささげた「地の作物」には、単に「野の草や果物、穀物」をささげたこと以上の意味が含まれています。「アダムが罪を犯すことによって呪われた地の気運が宿った作物」という意味です。このような「地の作物」を聖なる神にささげたのですから、どうして目を留められるでしょうか。これとは違って、アベルはアダムから学んだとおり、血のいけにえをささげました。しかも「羊の初子の中から、それも最良のもの」をささげたのです。これは「全力を尽くして、すなわち、心と思いと最善を尽くしていけにえをささげた」という意味です。アベルはそれだけ神にいけにえをささげることの重要性を心に刻んでいて、完全な行ないを見せたのです。カインとアベルは兄弟なのに、このように心の地が違いました。兄のカインは、弟のアベルに比べて、心の地が良くなかったのです。したがって、簡単に肉に染まって、だんだん肉の思いを働かせていき、結局、不従順の行ないを見せたのです。その結果について、聖書には「主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。」と記されています。カインはその時でも自分の過ちを悟るべきでした。

肉の思いと御霊の思い

本文を見ると「それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。」とあります。カインは神が弟のささげ物にだけ目を留められたことに悔しくなって、それを制しないでひどく怒り、弟のアベルをそねんでねたみました。このようなカインの姿は肉の人の特徴をよく示しています。肉の人は肉の思いを働かせて、不従順の実を結びます。その結果、自分に不利益が返ってくれば、悔いるより、つぶやいたり恨んだりします。一方、心を御霊に属するもので満たすほど、肉の思いを働かせる回数が減ります。仮に肉の思いを働かせて不従順になり、不利益をこうむっても、人のせいにしたり恨んだりしません。自分に欠けていることを悟ろうとして、過ちを犯したことについて責任を負おうとします。肉と霊には、このように差があります。

肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。
                
              ローマ人への手紙8:5


願わなくても、心に肉の性質があるほど、肉の思いが浮び上がるようになります。この肉の思いは、[ローマ8:7]のみことばのように、神の律法に服従しない、いや服従できないようにします。肉の人はアベルのように神に認められている人を見ると、「真理を喜ぶ」というみことばどおり行ないません。自分と相手を比べて気を落としたり、相手の別の面、すなわち、欠けているところが思い出されて、気にさわるからです。


自分の義

分の義を持っている人は、自分でも知らないうちに神のみこころに逆らうことが多いです。カインも「地の作物」を持って来たとき、自分が見て最上品を選びました。「私は最も良い物をささげるから、神が喜んで受け入れてくださるだろう」と思いました。カインの立場からは、これがあまりにも正しかったのです。しかし、それはカイン、自分が見る時の義でした。神のみこころに全然合いませんでした。それで、[出エジプト15:26前半節]にも「もし、あなたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行ない、」とあるのです。

自分の義を打ち砕く為には

自分の義を打ち砕いて、神が正しいと見られることを追い求めるためには、どうしたらよいでしょうか? 神のことばに耳を傾けて、そのまま心に刻まなければなりません。
ふつう自分の義が強い人はみことばを聞くとき、自分の好きなことだけを選んで聞いて覚えやすいです。または、みことばを自分の任意に解釈して適用します。みことばを基準として自分を変えていくのでなく、自分の目的のためにみことばを利用します。私達は自分の義を悟って捨て、肉の思いもすみやかに打ち砕き、アベルのように神のみこころに完全に従い、「義人」と認められますように。



信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。
                            ヘブル人への手紙11:4前半










 

朝の学び29 創世記4章 2 
 

彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。                            

創世記4:2

アダムの息子たち

アダムとエバは長男のカインに続き、もうひとりの息子アベルを生みました。
[創世記5:3-4]「アダムは、百三十年生きて、彼に似た、彼のかたちどおりの子を生んだ。彼はその子をセツと名づけた。アダムはセツを生んで後、八百年生き、息子、娘たちを生んだ。」とあります。アダムは百三十歳でセツという息子を生んで、それから八百年を過ごして、子どもをもっと生みました。ここでアダムの歳は、彼がこの地上に定着した年を基点として数えた年数です。アダムはこの地上に定着した後、何人かの娘を生んで、初めての息子カインを生みました。次に息子のアベルを生みました。百三十歳では、またほかの息子「セツ」を生みました。聖書には、アダムとエバがこの地上で生んだ子どものうち、カインとアベル、そしてセツ、この三人の名前だけが出てきます。ところが、聖書に名前が記されていない子どもたちがもっと多くいました。アベルとセツの間にも何人かを生んで、セツの次にも数多くの子を生みました。聖書には、人間耕作の歴史で重要な意味を持つ人物を中心に、その名前が記されました。おもに代を継いだ子孫の名前が記されたのです。

アダムとエバは、数多くの子どもたちの中で、カインとアベルを特に愛しました。このふたりの息子は、アダムとエバが最もつらくて苦しい時に生まれて、大きい慰めと喜びになってくれたからです。特にアダムはアベルをもっと愛して、エバはカインをもっと愛しました。それで、アダムとエバは家業をこのふたりの息子が受け継ぐようにします。
一方、他の子どもたちは、大きくなれば彼らの分け前を取ってあげて、親を離れて住むようにしました。彼らは互いにある程度距離をおいて、各自の根拠地を決めて、家庭を作って子孫を生んで増えました。当時は、今日とは違って、病気や災害のような害になる要素が少なかったので、人口が非常に速いスピードで増えることができました。


アダムとエバが受け継いだ家業

カインとアベルがそれぞれ受け継いだ家業は、土を耕すことと羊を飼うことでした。父のアダムは息子たちにそれぞれ生業に必要な知識と技術を教えました。アダムはこの地上の暮らしに適応するために、父なる神様が教えてくださった自分の豊かな知識を活用していきました。アダムは家畜をはじめ、すべての動物の属性や特徴をよく知っていました。また、地に蒔いた種が芽生えて、育って、実を結ぶようになる過程もよく知っていました。アダムはそのような知識を活用して、土を耕すことも、家畜も飼うこともできました。そして、その後は、息子たちに自分が積んだ経験と知識を教えたのです。兄のカインには土を耕す方法、弟のアベルには羊を飼う方法を教えました。土を耕すことは、糧を得るために必須的なことですが、まだ肉食をしなかった時代に羊を飼うことはなぜ必要だったでしょうか?羊の毛が生活にいろいろな面で役に立つということも一つの理由でしたが、羊を飼う重要な他の目的がありました。それは、神にいけにえをささげる時に使うためでした。

神様が教えられた神と交わる法

いけにえをささげる方法は聖書のレビ記に記されています。これは、モーセがシナイ山で神からいただいたみことばです。アダムがこの地上に定着した時から、約二千五百年後のことです。ところが、アダムはすでにいけにえをささげる法を知っていました。父なる神が教えてくださったからです。アダムとエバがエデンの園からこの地上に追い出された後も、神は彼らと交わることを願われました。時に応じて彼らに必要なことを教えてくださり、彼らがささげる心の香を受けることを願われたのです。しかし、罪を犯した身分では、聖なる神とは交わることができません。それで、神は、罪が赦されて、神と交われる方法を教えてくださったのです。それがまさにいけにえをささげる法です。この法にはいくつかの種類がありますが、罪のためのいけにえは、罪が赦される法です。

霊の世界の法によると、「罪から来る報酬は死」です。罪を犯した人は死に向かうようになります。ところが、この罪のためのいけにえをささげれば、罪人が死の法から自由になります。その方法は、罪人の罪をいけにえに転嫁した後、そのいけにえを代わりに殺す方法です。この時ささげるいけにえが、まさに「羊」でした。ですから、アダムも羊を飼って、自分の息子にもその方法を教えたのです。また、アダムは子どもたちに創造主なる神についてや神と交わる方法、すなわち、いけにえをささげる方法を詳しく教えました。神を見つけて体験できる、まことに大切な道だったからです。しかし、時間が流れながら、このいけにえをささげる方法が徐々に変わり始めました。


神様に喜ばれる礼拝

アダムとエバがこの地上に降りてきて今のイスラエル地域に定着し、何人かの娘を生んだ後、長男のカインを生み、そして、もうひとりの息子アベルを生みました。アダムは自分の豊かな知識と知恵を使って、土を耕して羊を飼うことを始め、息子たちにも教えました。当時、羊が必要だった重要な理由の一つは、神にいけにえをささげるためでした。いけにえをささげることを通して、神と交われたからです。旧約のいけにえをささげることは、今日の礼拝です。父なる神様は礼拝を通して私たちに語られ、私たちの心の香を受けられます。旧約時代には、羊や牛のような動物をほふって、いけにえをささげなければなりませんでした。しかし、イエス様が罪のためのいけにえとしてご自分をささげ、すべての人類の罪を贖ってくださってからは、イエス・キリストを信じて、礼拝をささげるようになりました。


神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。
                              ヨハネ福音書4:24



こんにち私達が心と思い、最善を尽くして礼拝を捧げる時、聖霊に満たされ父なる神と深く交わることができ、父が喜ばれる心の香を捧げることができます。







 

朝の学び28 創世記4章 1 
 

人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、『私は、主によってひとりの男子を得た。』と言った。
                                  創世記4:1

創世記4章の背景

[創世記3章]の空間的な背景は、第二の天にあるエデンの園でした。[創世記4章]の背景は、第一の天に属する地球、まさにこの地上です。[創世記3:23]に「そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。」とあります。ここで「自分がそこから取り出された土」には、二つの意味が含まれています。まずは、この地球の土を意味します。神が地球の土でアダムを創造されたからです。したがって「自分がそこから取り出された土を耕す」という意味は、これからアダムが地球に降りてきて、この地を耕さなければならないことを表します。

神が定められた人間耕作の舞台

次に、霊的な意味で「心の地」を意味します。心の地を耕す本格的な人間耕作が始まったのです。アダムが初めて定着したこの地域は、今日の「イスラエル」がある地であり、後には「カナンの地」と呼ばれるようになりました。洪水のさばきの後、ノアの孫「カナン」がその地域に定着して増えたからです(創世記10:15-19)。その後神はこのカナンの地を、アブラハムと彼の子孫に永遠の所有として与えられました。

わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。
創世記17:8


この約束はイスラエルの民がエジプトから出て、40年の荒野生活をした後、カナンの地に定着したことにより成就されました。それから約1500年後には、人類の救い主であるイエス様がこのカナンの地でお生まれになりました。父なる神は人間耕作という絵全体を構想され、最も適した所にアダムが定着するようにされました。このように、今のイスラエルの地は、人間耕作の初めの出発点から最後の瞬間まで、重要な舞台です。
アダムは一生、エデンの園を懐かしく思いました。その当時は、父なる神がその地域に置かれた、エデンの園とつながった霊の通路がありました。アダムがその通路を通してエデンの園に再び行くことができたのではありませんが、エデンの園からの知らせを聞くことや、制約的ではあったが、エデンの園の子孫がその通路を通して、アダムとエバに会いに来ることがありました。


エバがこの地上で体験するみごもりの苦しみ

アダムとエバはエデンの園で、数多くの子どもを生みました。この地上に定着した後も、何人かの子どもをみごもって生みました。しかし、彼らのからだ自体がいのちの息が吹き込まれた存在から肉の人に変わったことにより、この地上で子どもを得ることはエデンの園での状況とは異なりました。エデンの園でも、この地上でも、新しいいのちが宿る原理は同じです。しかし、エデンの園では、男女が子どもがほしい時だけ精子と卵子が生成され、みごもりましたが、この地上では、女のからだで卵子が生成、排出される期間だけ、みごもることができるようになりました。また、エデンの園では感じなかったつわりやからだの変調によって、妊産婦が多くの苦しみを受けます。出産する時も、神がエバに「あなたのみごもりの苦しみを大いに増す」と言われたとおりになりました。エデンの園では、子どもを産むのと同時に産婦のからだの中で、それ以上必要のない物質が分解されてなくなります。子どもを産んだ瞬間、すべての処理が終わってきれいになるのです。それに比べると、この地上での出産は、まことに労苦が伴うものです。しかしエバは、この地上で子どもを産むことを通して、子どもを産む労苦と共に又、子どもを得た感激をも体験しました。

みごもりは神の所管

エバがカインを産んだ後、「私は、主によってひとりの男子を得た。」と言いました。この時、エバの心はどうだったでしょうか? エバがエデンの園で子どもを産んだ時には、神の恵みが悟れなかったのです。神がいのちの元になられることは知っていましたが、実際、子どもを産むか産まないかは自分で調節できたためです。自分が願わなかったのに子どもができたり、願っても子どもが持てないことはなかったのです。したがって、みごもって産むことが神の所管であることを切実に感じられなかったのです。しかし、この地上に降りてきて、暮らしてみると、状況が完全に違いました。いつでも子どもが持てるのではなく、神が定められた自然の法則に従わなければなりませんでした。言いかえれば、この地上ではみごもるためには、女性のみごもれる期間とすべての環境・条件が整わなければなりません。こういう新しい環境で子どもを得たエバは、自分が子を得るのは全面的に神の恵みであることを悟りました。自分の意志だけではみごもることはできなくて、神が働いてくださらなければならないことがわかりました。つまり、胎の門を開いて閉じる権限が神にあることを初めて悟ったのです。

胎を開いたり閉じることをつかさどられる神

神が胎を開いたり閉じることをつかさどられる例が聖書のあちこちにあります。[創世記20:18]に「主が、アブラハムの妻、サラのゆえに、アビメレクの家のすべての胎を堅く閉じておられたからである。」とあります。また、[創世記29:31]には「主はレアがきらわれているのをご覧になって、彼女の胎を開かれた。」とあり、[創世記30:22]には、神がラケルの胎を開かれたことが書いてあります。この他に、イサク、サムソン、サムエル、バプテスマのヨハネも、神が働いてくださったので生まれました。それで、[詩篇127:3]には「見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である。」とあるのです。

エバが「私は、主によってひとりの男子を得た。」と言ったことには、隠された事実があります。エバが子どもを下さった神に感謝しながら「ひとりの男子を得た。」と言いました。エバはなぜそれほど「息子」を得たことに感謝したのでしょうか?
実際、アダムとエバはカインを生む前に、この地上ですでに何人かを生みました。その子たちはみな娘でした。何人かの娘を生んだ後、やっと男の子を生んだのです。それで、この子を得た感激がさらに大きかったのです。人間耕作のためには人が増えなければならないので、神がアダムとエバに、先に娘たちを与えられたのです。








 

朝の学び27 創世記3章 26
 

そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。
                              創世記3:23-24

いのちの木への道を守るために、神様がとられた措置

それまで「いのちの木への道」を守ることは、アダムの責務でした。父なる神は、これからアダムの代わりに、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれ、その働きをさせました。ケルビムは神に仕える霊的な存在です。人の姿をした御使いとは違って、おもに動物の姿をしています。

「輪を描いて回る炎の剣」
 

「炎の剣」は、文字どおり、炎と結びついた剣です。霊の目が開かれてみれば、まるで風車のように見えます。表は聖霊の炎に包まれていて、その中で剣が早く回っています。聖霊の炎がごうごうと燃え上がる音と、剣が早く回る音が一緒に合わさって、非常に威厳のある音を出します。悪い霊どもはこの音だけを聞いても、恐ろしくて震えます。炎の剣には聖霊の力が入っていて、悪い霊どもがこの剣に触れれば、直ちに力を失うからです。炎の剣は、まるで生きているように動きながら、悪い霊どものすべての動きを把握します。それで、悪い霊どもがいのちの木への道に寄りつくのを最初から封鎖できます。

悪い霊どもの計略

なぜそのようにいのちの木への道をしっかり守るようにされたのでしょうか?それは、悪い霊どもの領域がエデンの園の東に隣り合っているからです。悪い霊どもはエデンの園を侵入する機会を虎視耽々と狙いました。アダムを惑わして堕落させ、その後エデンの園にあるいのちの木の実を得るためでした。悪い霊のかしらであるルシファーはいのちの木の実がどんな力を持っているのか、よく知っていました。まさにその実を食べれば、永遠に生きることができます。ルシファーと悪い霊どもは、自分たちも永遠に生きられるなら、「神に永遠に立ち向かうことができる」という計略を持っていました。それで、永い間、エデンの園を狙っていたのです。

サタンの計画の挫折

やがて、敵である悪魔・サタンはアダムを惑わすことには成功しましたが、サタンの本来の計画は「アダムを惑わした後、彼を通していのちの木の実を得る」ことでした。しかし、サタンの計略をご存じであった父なる神はアダムが罪を犯した後、直ちにアダムとエデンの園にいたすべての蛇をこの地上に追い出され、サタンが取りつくようなどんな余地も、エデンの園に残しておかれなかったのです。これに、大きい威厳と権勢を持った存在、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣がいのちの木への道を守るようにされました。神はこのようにすみやかに措置されることによって、悪い霊どものエデンの園への接近を徹底的に防がれました。サタンがいくら闇の電波をエデンの園に向かって送っても、それを受けるような対象がいなくなったので、悪い霊どもはいのちの木の実をあきらめなければなりませんでした。罪を犯した後のアダムを操って、いのちの木の実を得ることがサタンの計画でした。ところが、もうすべての可能性がなくなりました。「永い歳月が過ぎれば、いつかはまた機会ができるだろう」と、後日を期待することもできなくなったのです。

新たな悪魔・サタンの策略

それで、ルシファーと悪い霊どもは怒って、自分たちのターゲットをこの地上に変えます。いのちの木の実が食べられなくなった代わりに、人間が耕作を受けるこの地に、闇の世界を構築していこうとしました。そうして神に立ち向かい、神の国を妨げようとしたのです。人々を操って偶像を造るようにして、自分たちが拝まれようとしたのです。何としてでも、ひとりでも多くの人が神を信じないようにしました。そのようにこの地上を悪で染めていけば、自分たちが神に立ち向かえるだろうと錯覚したのです。
さらに、敵である悪魔・サタンも、将来自分の頭を踏み砕くメシヤが来るという事実を知っていました。それで、神の人が現れさえすれば、どんなことがあっても彼を迫害して殺そうとしました。ついには悪い人々を操って、メシヤとして来られたイエス様までも、十字架につけて殺すようにしたのです。このように人間がどれほど悪いのか見せて、神のお心を痛めようとしたのです。一方、自分たちが構築した世界がどれほど大きいのかを誇示しようとしました。


十字架の救いと悪魔・サタンの反撃

しかし神は、すでに世界の始まる前から、この時のための奥義である計画を備えておられました。この計画どおり、イエス様は十字架で死なれ、よみがえられました。これによって、人類に救いの道が開かれたのです。また、神は聖霊を送ってくださいました。罪人たちに、死んでいた霊が生き返って、新しい人生が得られる道を開いてくださったのです。

すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。                           
コリント人への手紙第一15:22


聖書に『最初の人アダムは生きた者となった。』と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。                           
コリント人への手紙第一15:45


敵である悪魔・サタンは、イエス様を殺しさえすれば、自分たちの世界が続くだろうと思ったが、結果は正反対でした。結局、敵である悪魔・サタンは神の知恵の前にひざまずくしかなかったのです。
しかし、彼らは人間耕作が進められている間は、闇の力が行使できます。その力で最後まで、ひとりでも多く地獄に引いていこうとします。それで、人間耕作の終わりが近い今日、この世は敵である悪魔・サタンが支配して、罪と悪がはびこっているように見えたりもします。[イザヤ60:2節前半]に「見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。」とあるとおりです。


神様の終わりの時のご計画

神はこの終わりの時をただこのように放っておいて、人間耕作を終えるのでしょうか? そうではありません。まさに神の驚くべき力のわざによって、神の生きておられることと、イエス様が救い主であることを全世界に宣べ伝えるようになります。それで、数多くの魂に救いの門がパッと開かれる時が来ます。このための父なる神の計画が一寸の誤差もなく進められています。

しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現われる。国々はあなたの光のうちに歩み王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。目を上げて、あたりを見よ。彼らはみな集まって、あなたのもとに来る。あなたの息子たちは遠くから来、娘たちはわきに抱かれて来る。                                                                                            
イザヤ書60:2-4  
 
まことに、水が海をおおうように、地は、主の栄光を知ることで満たされる                          ハバクク書2:14



[創世記3章]には、アダムとエバがサタンに惑わされて、罪を犯して変わってしまい、罪の報酬を払う姿がありました。この過程は単にアダムとエバにだけ当たるのではありません。アダムとエバがこの地上で生んだ子孫も、すべての人類は罪人になりました。しかし、イエス・キリストと聖霊の働きを通し、数え切れない神の子どもたちが出てきました。主の心に似せられた「まことの子ども」たちも出てきました。「まことの子ども」たちは父なる神が人間耕作で勝利されたことを証明します。







 

朝の学び26 創世記3章 25
 

そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。
                              創世記3:23-24

「自分がそこから取り出された土」とは何でしょうか?

肉的には、この地球の土です。父なる神がアダムを創造されたとき、この地球の土を根本材料として使われました。アダムは罪を犯した後、地球に降りてきて、土地を耕して、野の草を食として得ました。汗を流して働いてこそ糧を得ることができたのです。「自分がそこから取り出された土」を耕す人生になりました。

霊的に「自分がそこから取り出された土を耕すこと」とは

これとともに、アダムは霊的にも「自分がそこから取り出された土」を耕さなければならなかったのです。これはまさに、自分の「心の地を耕す作業」のことです。農夫が荒れ地を良い地にする時、どんな作業をするでしょうか? まずは雑木と雑草を取り除きます。次に、大小の石を拾い出します。その後は、地を深くすき返さなければなりません。霊的な開墾作業も同じです。心の地に植えられている「いばらとあざみ」を取り出して、硬い石を拾わなければなりません。深く根を下ろした悪の属性まで引き抜くためには、根本的に心をすき返す作業もしなければなりません。
アダムがエデンの園にいた時は、心の地に父なる神が植えて下さった善と真理だけがありました。ところが、善悪の知識の木の実を食べてから、真理に逆らうものと悪が植えられ始めました。アダムが自由意志によって、サタンの声に聞き従うと、闇の属性が心の地に植えられたのです。「霊」とは「肉の属性」が0.1%もない、純粋な状態です。もし霊の心に肉の属性が少しでも混ざれば、その瞬間から霊と言えなくなり、「肉的な存在」になります。生きものとされたアダム、エバが手渡したその木の実を食べた瞬間から、肉的な存在になりました。霊は死んで、たましいが主人になりました。このように肉の人になり、地球に降りてきたアダムは、「自分がそこから取り出された土」を耕さなければなりませんでした。つまり、心の地を耕さなければならなかったのです。心から真理に逆らうものと悪を捨てる作業をしなければならなかったのです。それで再び「霊の状態」に回復しなければなりませんでした。この作業をしなければ「死んだ霊」の状態にとどまっているしかなかったのです。耕されていない地が、何の使い道もないように、心の地も同様です。


真実な愛を分かち合えるまことの子どもが出てくることを願われる神

これについて[ヘブル人への手紙6:7-8]「土地は、その上にしばしば降る雨を吸い込んで、これを耕す人たちのために有用な作物を生じるなら、神の祝福にあずかります。しかし、いばらやあざみなどを生えさせるなら、無用なものであって、やがてのろいを受け、ついには焼かれてしまいます。」とあります。
父なる神はアダムをこの地上に追い出しながら「自分がそこから取り出された土を耕しなさい」と言われました。これは、アダムだけでなく、エバとふたりでこの地上で生んだすべての子孫にも当たるみことばです。この耕作は、実はとても貴重な過程でした。アダムが初めに創造された時に持っていた霊の心と、私たちが心の地を耕した後、持つようになる御霊の心には、多くの違いがあります。
たとえば、心の優しいふたりがいます。ひとりはもともとから優しいです。悪を見たり聞いたりしたことがなく、悪についてよく知らないままです。一方、もうひとりは世の悪がどんなものなのかよく知っているけれど、心を優しいまま守りました。あるいは、心から悪をみな捨てたので、優しい心になりました。このように、悪が何か知らないで優しい人と、悪をよく知っていても優しい人とは違います。父なる神の心をもっと深く理解できる人は後者、すなわち、悪についてよく知っていても優しい人です。父なる神は、アダムがそのように父の心をもっと深く知って、理解することを願われました。この時、人は神とさらに濃い愛を分かち合うことができます。
[ヨハネの手紙第一2:14]に「初めからおられる方を知った父の信仰」について書いてあります。父なる神は、アダムの子孫からそのように父を深く知って、真実な愛を分かち合えるまことの子どもが出てくることを期待して信じました。そのような望みをもって、アダムをこの地上に送り出されたのです。


23節に「そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので」とあります。それから次に[24節]には「こうして、神は人を追放して、」とあります。アダムがエデンの園からこの地上に来た同じ出来事について、どうしてこのように表現が違うのでしょうか? 二つの表現の観点が違うからです。

まず「追い出された」とは、父なる神のほうからの表現です。彼が罪を犯したからといって、冷たく対したり、御顔を背けたりされませんでした。それで、アダムを追い出された時も、最後まで愛の配慮をされたのです。これは父なる神が、罪を犯したアダムに罰を与えるために追い出されたのではないことを見せてくれます。父なる神は、人間耕作のためにもどかしい心でアダムをこの地上に追い出されました。すでに神は、アダムとエバに皮の衣を作り、着せられ、父なる神が見捨てなかったことを、アダムとエバがいつも覚えられるように、愛で配慮してくださったのです。このように、父なる神のほうからは、アダムとエバを追い出されたのは、耕作のためだったのです。

それでは、[創世記3:24]には、なぜ「神は人を追放して、」と書いてあるのでしょうか? ここで「追放した。」という言葉は、アダムの立場を客観的に表現したものです。アダムはいのちの息が吹き込まれた存在から肉の人に転落しました。エデンの園では食が豊かだったが、地球では自分で汗を流して働いてこそ、土から食を得ることができます。この他に、住居環境や生活水準で、この地上とエデンの園とは大きな違いがあります。アダムは地位が大きく墜落したし、暮らし向きもとても難しくなりました。まるで、ある国の王だった人が一日で平民になるようなものです。こういう外形的な条件を基準とすれば、アダムがエデンの園から地球に追放された、と見られます。父なる神はアダムが体験するようになるこのすべてを知っておられました。それにもかかわらず、アダムを地球に追い出されたことには、アダムに向けられた父なる神の深い愛と人間耕作の摂理が込められていたからです。アダムはこの地上に降りてきた後、多くの歳月を涙に明け暮れて、あれこれと考えました。アダムはエデンの園を懐かしく思いました。そうするほど、自分がどれほど愚かだったかを骨に凍みるほど感じました。その当時、アダムの心が込められた告白を紹介いたしましょう。

アダムの告白

「あまりにも遠い遠いところにあるんだなあ。以前、私が第二の天に住んでいた時は、第一の天があまりにも近いところで、ここから第二の天も近いところだったのに。今はこういう立場になり、ここから第二の天がある所をながめると、そこはあまりにも遠い遠い所なので。触ることも、行くこともできないし、見ることさえできないんだ。私の愚かさが父なる神様の心に影を落としたので、私がどれほど愚かで愚かな者だったのか。ここには何もない。ただ自分で自ら努力してやり遂げなければならない。第二の天で受けていた父の愛と栄光、そして力がすべて無に帰ってしまった。このように低くてみすぼらしい姿でこの地上に立ったので、どれほど愚かで愚かなことなのか。これから、ここで幾々日を生きて、どれほど多くの日々を数えて生きていかなければならないだろうか。自分自身を見ると、はなはだしくみすぼらしい。第二の天に住んでいて、この第一の天に降りてきた時とは、全然違う立場になったのだ。いまここに来てみると、以前見たその地も、その環境ではなく、その時に見た動物でもない。これによってはなはだ恐ろしくて震える思いだが、自分が罪を犯してこのように決められたので、ここで最善を尽くして生きなければならないだろう。私の気持ちを整理して、天を思い焦がれ、父が下さったこの人生をどれほど生きるべきだろうか。私の寿命が尽きる日まで、その日を数えてはまた数え、私がしたすべてのことを警戒に警戒しよう。私によってこの地上で起きたことのゆえ、本当に罪を贖う心で、大変心苦しくて申し訳ない心で、一日一日を過ごさなければ。今、目に見えるすべてが物寂しくて、限りなく物寂しい。天は届くようで届かないし、あまりにも遠い遠いところにあるのだ。嘆かわしい、ああ嘆かわしい。しかし、このように父から再び新しい人生を得たことを、幸いに思わなければ。新しい人生が恐ろしくて震えるけれど、与えられた人生を送るしかないのだ。将来、私のいのちが終わる日には、父にお目にかかるだろう。その方に再びお目にかかるだろう。本当に私がこの日々が尽きるまで警戒して、警戒して、警戒しながら生きるだろう。」

アダムが第二の天で受けていた栄華と威厳は大いなるものでした。そのようなアダムが以前と多くが違うこの地上に降りてきました。すべてを自分の力と努力でやっていくことは決してやさしくはありませんでした。何もない状態で、初めからすべてをやり直さなければならない、先が見えない状況に置かれました。そのショックから抜け出すまで、かなり多くの時間が必要でした。アダムは永い歳月の間、自分がしたことを悔いて後悔しました。「私はどうしてそうしたのか。あの時、惑わされてはいけなかったのに」と言いながらです。アダムは自分が嘆かわしかったけれど、限りなく後悔だけしてはいられませんでした。自分にもう一度の機会を下さった父なる神の愛を思い出して、自分を慰めました。新しい人生を下さったことに感謝して、自ら決断する告白をしました。神のお心を痛めた自分の行動を悔い改めて警戒して、新しい人生を歩むことにしたのです。




 

朝の学び25 創世記3章 24

神父なる神は、それからもアダムの子孫に、時代ごとに愛のしるしを見せてくださいました。イスラエルが罪を犯して神を捨てても、神はイスラエルを捨てられませんでした。神はまるで片思いのように、預言者を用いて愛のメッセージを伝え続けられました。

預言者を通して語られた父なる神様の愛

女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。 見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。あなたの城壁は、いつもわたしの前にある。                                  イザヤ書49:15-16


主は遠くから、私に現われた。『永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。』           エレミヤ書31:3



神はイスラエルの民だけを愛されたのではありません。異邦人も憐れみ、はなはだしきはイスラエルの敵国であるアッシリヤの民にも神の愛を現されました。

まして、わたしは、この大きな町ニネベ(アッシリヤの首都)を惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。           ヨナ書4:11


イエス・キリストの十字架-父なる神様の愛のしるし

しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。  
ローマ人への手紙5:8 

          
およそ二千年前、この地上に救い主として来られたイエス様が、まさに私たちに向けられた神の愛のしるしです。聖霊はこの大いなる神の愛を絶えず私たちに確認させてくださいます。

この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。          ローマ人への手紙5:5





神である主は仰せられた。『見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。』
創世記3:22


アダムについて話し合われる三位一体の神様

「神である主は仰せられた。」「われわれのひとりのように」という表現が出てきます。これを通して、父なる神がおひとりでおられたのではなく、御子、御霊の神とともに、アダムについて話し合われたことがわかります。父なる神は、アダムが罪を犯した代価として、公義に従ってどんな処罰を受けるべきか、よく知っておられましたが、アダムをエデンの園から地球に直ちに送りだされたのではありません。三位一体の神がご一緒に、もう一度熟慮されました。三位一体の神は絶対的な神性と共に、人の子らの心を理解しようとされる人性を持っておられます。また、どなたかおひとりが独断的に進めるのではなく、いつもご一緒に事を成し遂げられます。三位一体の神は、初めの神から外形だけではなく、内容に当たる力、神性、人性も同じように持って分かたれたのですが、それぞれ任された役割によって、御子の神は御霊の神に比べて神性が人性より少し強く、御霊の神は御子の神より人性が強くあられます。父なる神は、御子の神と御霊の神を同じ神の御姿としてご自分と同等に接してくださり、三人の方は、すべてのことにいつも意見が一致され、善と愛、公義にあって、心が一つで、思いが一つでした。

悪を知るようになったアダム

「アダムが三位一体の神のように善悪を知るようになった」とは、アダムは、以前は善だけを知っていたが、今は悪も知るようになった、という意味です。三位一体の神は善そのものでありますが、悪の深みにまで及ばれます。それで、悪い霊の世界も結局、神の統治から抜け出すことはできないのです。神が善と悪、どちらもご存じであるように、アダムもどちらも知るようになったのです。けれども、善悪を知る程度は非常に差があります。アダムはこの地上の土で造られた後、父なる神が吹き込まれたいのちの息によって生きものとされました。その時は不完全な霊であり、父なる神のように神性と人性を兼ね備えなかった存在です。生きものとなったアダムが持っていた人性は、相対性を知らない状態で、神が教えてくださった知識を通して得た人性にすぎないからです。アダムは霊に属する知識と力を持っていましたが、三位一体の神が持たれたものに比べるなら、極めて一部にすぎませんでした。このようなアダムが善悪の知識の木から取って食べると、今までは知らなかった新しい世界に目が開かれました。善でない悪、真理に逆らう世界があることを知るようになったのです。

肉の人になったアダム

このように新しい認識をしたこと自体が罪ではありません。善でない悪、真理に逆らう新しい世界に足を直接踏み込むことが罪です。アダムは善悪の知識の木から取って食べることによって、すでにその闇の世界に足を入れました。神のことばに従わなかったという明らかな罪が成立したからです。
これで、アダムは生きものとして造られた存在から肉の人へ帰りました。肉の人は霊の空間であるエデンの園で生きる資格がありません。肉の人が過ごすに適した空間は、肉の世であるこの地上であります。それで、三位一体の神はアダムとエバをエデンの園からこの地上に送り出すことにされました。このようなわけで「今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」と言われたのです。もちろん、このみことばは私たちに、いのちの木の実の効能を知らせてくれることにもなります。罪を犯したアダムでも、いのちの木の実を食べれば、永遠に生きるようになります。
神が当時の状況でこう言われたことには、さらに重要な意味があります。まさに神は今、このおことばで「肉の人に転落したアダムをエデンの園から送りだすしかない」という結論を下されたのです。アダムはエデンの園で永遠に生きてはならなくて、肉の世に行って、肉の秩序に従って生きて死を迎えるべきだ、という意味が含まれています。


人間耕作を受け天国に入ったアダム

父なる神は、アダムが肉の世で生きても、結局は悔い改めて救われることを知っておられました。すると、アダムはエデンの園より次元が高い天国で永遠に生きることができます。このように人間耕作を受けたアダムは、エデンの園で生きていた時とはまた違う人性を持つようになりました。エデンの園のアダムが持っていた人性は、知識的に知っている人性でした。今は相対性を体験して、全身と心で直接感じた人性を習得するようになりました。喜びをたとえとするなら、悲しみを感じたことのある人の喜びと、悲しみを知らない人の喜びは違います。幸せも、苦しみを体験した人の幸せと、何の苦しみもなしに過ごした人の幸せは、その深さと濃さが違います。

「神性に属する霊的な人性」と「肉的な人性」

神の人性は「神性に属する霊的な人性」であり、人の人性は「肉的な人性」と言えます。神の人性は善と悪を完全にわきまえて、善だけを行なう人性です。一方、肉の人が持った人性は、善と悪を完全にわきまえないまま、気分と感情に引かれる人性です。神は人の子らを愛するがゆえに、ひとり子まで惜しまず渡してくださいました。ご自分のすべてを渡される愛の極致を見せてくださったのです。このような霊的な神の愛と相反するように、人は肉的に愛します。誰かを愛するとはいえ、自分の利益に合わないなら、憎むこともあります。寛容を尽くすことができなくて怒ったり、気分によって好きだったり嫌いだったりします。自分の情欲を満たすために相手を苦しめたりします。これが肉の人の愛です。
ところで、神は私たちも神が持たれた霊的な人性が持てると言われます。


その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。
第二ペテロの手紙1:4


肉の属性を捨て去って御霊の心を耕したほど神のご性質を持つようになります。人性が霊的な人性に変わり、神の人性に近づくことができますが神と同じ人性を持つことはできません。神は全き神性を兼ね備えた人性を持っておられるからです。全き神性から全き人性が出てきて、全き人性から全き神性が出てきます。人は全き神性を持つことができないので、人性もやはり神のようにはなれないのです。御霊の心に変えられた分、神に属する神性が受けられ、神性が臨んだだけ人性も変わります。

四つの福音書に記されたイエス様の姿をよく調べれば、神の神性と人性が理解できます。驚くべき力を施されても、ご自分を叫ばなかったし、不正は我慢できなかったけれど、柔和でした。
昔の信仰の人々の中でも、エリヤ、エノク、アブラハム、モーセは神に属する神性と人性で満たされていました。それで、エリヤは死を見ることのないように移されたし、エノクはこの地上でも神とともに歩みました。アブラハムは神の友となって、モーセは神と友のように話をしました。




 

朝の学び24 創世記3章 23

神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。
                                                                                                             創世記3: 21

皮の衣-十字架の贖いの奥義(神の裁きと憐み

アダムとエバの目が開かれたとき最初に芽生えたのは羞恥心でした。彼らは自分たちの裸を覆うために「いちじくの葉」をつづり合わせて、自分たちの腰の覆いを作りました。(創世記3:7)それは人が自らの罪や罪悪感を覆うためのあらゆる努力を象徴しています。羞恥心と罪悪感を覆い隠そうとするすべての営み思想、哲学、宗教など、人間が自分たちで作ったもの、すなわちいちじくの葉のような人間的な努力では、人は神の御前に立つことはできません。それは、一時的には満足し役立つかのように見える「いちじくの葉」のようなものです。なぜなら、いちじくの葉は夕方には枯れてしまい、役立たなくなってしまうからです。神が人に与えた皮の衣は、日が昇ると枯れてしまうような一時的な衣ではなかったのです。皮の衣を作るためには動物を屠って血を流す必要があります。

それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。
                                                                                                  へブル人への手紙9:22


いのちの代価である血によって罪が覆われるということが「罪の赦し」です。神がアダムとエバに与えた衣は、血を流すことによって作られた「皮の衣」でした。これは、こののち4000年後に成就するキリストの十字架の贖いを予表しているのです。神が御子イエスを十字架に架け裁かれ、私たちの罪を覆って下さることを示しています。

わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」
                                    創世記3:15 


アダムは神さまのさばきの中にも、神さまによる救いを信じることができました。いのちへの希望を抱くことができたのです。それはアダムが、「女の子孫から救い主が生まれ、その子孫が蛇の頭を踏み砕く」という、神さまのみことばの約束を信じることが出来たからです。それで「人は妻の名をエバと呼んだ。彼女が、生きるものすべての母」となる祝福に預かったことを知ったからです。「ここにいのちがある」と知ったのです。神さまのさばきの中にも祝福の約束があることを知ったからです。

皮の衣-神の愛のしるし

父なる神はアダムとエバをこの地上に行かせる前、彼らに皮の衣を作って着せられました。彼らが自分たちが裸であることを恥かしく思ったので、父なる神はその恥を覆ってくださいました。これは皮の衣を作って着せられた肉的な意味であり、このように行われたことには、霊的な意味も込められています。
皮の衣はまず、神の愛を表しています。父なる神は、これから地球に降りて行って生きるアダムとエバを非常に痛ましく思われました。彼らのため心が痛かったのです。それで、彼らを憐れむ父の愛の表現として、皮の衣を作って着せられたのです。地球の環境はエデンの園と全く異なり、又地球の土地も今や呪われ、彼らが罪を犯す前とも変化しました。父なる神は、彼らがそんなに変わってしまった土地で受ける衝撃と直接体験する苦しみがどんなものかご存じでした。それで、皮の衣を作って着せられ、からだを守るようにされたのです。


皮の衣-救いのひも

皮の衣は、次に「救いのひも」を意味します。皮の衣は神とこのふたりの間をつないでくれる救いのひもでした。父なる神が彼らを捨てないで、最後まで手放さないという意味が込められています。それで、アダムとエバにとって皮の衣は恵みのひもであり、救いのひもでした。
アダムとエバがこの地上に降りてきてからは、神と以前のように交わることはできなくなりました。罪を犯す前は、まるで神と顔と顔とを合わせたように話すことができました。彼らを構成する霊、たましい、からだの中で霊が主体だったので、霊であられる神とも明らかに交わったのです。罪を犯した後は、たましいが主体になりましたが、神との交わりが完全に断たれたのではありませんでした。霊の気運が一気に全部抜け出たのではなく、徐々に抜け出たからです。霊の気運が残っている分は、神と交わることができたのです。


アダムとエバの悔い改めと救い

アダムとエバは、この地上に追い出された後も、時々神と交わりました。しかし、時間が流れるほど、その頻度は減りました。父なる神はこうなることを知っておられ、アダムとエバに皮の衣を作って着せられました。アダムとエバが本格的に人間耕作を受けると、善悪の知識の木から取って食べたことがどれほど大きい罪なのか、心の奥底から悟るようになります。善悪を知るようになるほど、自分たちが犯した罪の深刻性を感じるようになるのです。あんなに愛してくださった神のお言葉に逆らい、戒めを無視したことを後悔して気を落とすたびに、彼らは神が作ってくださった衣を思い出し、神の愛を再び覚えるのです。「神が作ってくださった皮の衣」まさにこの愛のしるし、救いのひもがあったので、アダムとエバはこの地上の暮らしに耐えられたのです。そして自分たちの罪を悔い改めて、結局救いに至ることができました。


 

父なる神様。私たちは私達の罪や恥を覆ういかなるものをもってでも、あなたの御前に立つことはできません。ただ、神様が備えて下さった主イエス・キリストの血の贖いを仰ぐのみです。アダムとエバから始まった人間耕作を私達も受けながら、神様の愛と憐みに感謝し、私達に与えて下さった救いのひもを決して手離すことがないようにお助け下さい。

朝の学び23 創世記3章 22

さて、人は、その妻の名をエバと呼んだ。それは、彼女がすべて生きているものの母であったからである。                       

  ​                                       創世記3:20

人間耕作を与えられる父なる神の心

アダムが神から受けた罰をひと言で要約するなら、「あなたの糧はこれから自分で求めなさい」ということでした。このために、まず土地を耕して、苦しんで農作業をしなければなりませんでした。これには神の深い愛が込められています。伝道者の書3章13節に「また、人がみな、食べたり飲んだりし、すべての労苦の中にしあわせを見いだすこともまた神の賜物であることを。」とあります。農夫が農作業をする時は苦しいけれど、豊かに刈り取ると、やりがいを感じます。どんな労苦もしないで、初めから豊かさを味わった人にはとうてい感じられない、そんな幸せを感じます。神は愛するアダムにこのような幸せを感じさせたかったのです。それで、アダムがつらいと思っても、人間耕作を受けるようにされました。私たちは、どんな方法で人間耕作を受けていても、人生そのものが神の賜物であり、その中には、私達に良いものを与えようとされる神のみこころが込められていることを信じなければなりません。それでいつも喜んでいて、すべてのことに感謝しながら人生を誠実に歩み、父なる神の御前に美しい喜びの実として出てくることを望みます。

「すべて生きている者の母」エバ

創世記3章20節に「さて、人は、その妻の名をエバと呼んだ。それは、彼女がすべて生きているものの母であったからである。」とあります。
アダムは妻に「エバ」という名前をつけました。これは「すべて生きているものの母」という意味です。「すべて生きているものの母」、これには二つの意味が込められています。

第一は、肉的な意味です。エバは人類最初の女性です。エデンの園のすべての人はアダムとエバの子孫です。そして、地球上のすべての人もアダムとエバの子孫です。したがって、エバはすべての人類の母であります。こういう意味から、エバを「すべて生きているものの母」と言ったのです。

第二、霊的な意味で、エバは「すべて生きているものの母」であります。今日、地球の人口80億の人が霊的に「生きているもの」ではありません。神の御目には、まことのいのちである「永遠のいのち」を持っている人だけが、霊的に生きているものです。聖霊を受けていなくて、いのちの種が眠っている人は、霊的に死んでいるもののようです。イエス・キリストを受け入れて、罪の赦しを得て、水と御霊によって新しく生まれた人だけが永遠のいのちを得て、霊的に生きているものなのです。
では「エバ」が霊的に生きているものの母であるとは、どういう意味でしょうか?
今後、エバの子孫から、霊が生き返って、永遠のいのちを得る人々が出てくることを示しているのです。また、アダムとエバも救われるという意味が込められています。アダムとエバはこの地上で耕作を受けながら、自分たちの罪を徹底的に悔い改めました。その結果、救いに至ることができました。このように「すべて生きているものの母」という意味の「エバ」という名前には、二つの意味が込められているのです。


「死んだものの母」ルシファー

「生きているものの母」がいるように、「死んだものの母」もいます。霊的に「死んだもの」とは、救われないで死んだ人のことです。それでは「死んだものの母」とは誰でしょうか? 、それは「ルシファー」です。ルシファーは堕落した御使いであり、悪い霊どものかしらです。ルシファーはその使者たちとサタン、悪魔、悪霊どもを用いて、何としてでもひとりでも多くの人を地獄へ引いていこうとします。黙示録19章2節にも、ルシファーについて「不品行によって地を汚した大淫婦」とあります。ルシファーは人々が霊的な不品行を犯すようにします。神より世のほうを愛するようにして、神を知ろうとしたがらないようにします。はかない罪の楽しみを受けて、結局、永遠の死である地獄に至るようにします。


身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。
                              第一ペテロの手紙5:8



今日、このみことばのように私たちは、いつも霊的に目をさましていなければなりません。


サルデス教会

黙示録3章に出てくる「サルデス教会」は、「生きているとされているが、実は死んでいる。」と指摘されました。サルデス教会は直ちに立ち返って悔い改めないなら、救いとは関係のない状態でした。しかし、彼らは真理を聞いて学んだので、それでも知識的には真理を知っていました。それで、この知識的な信仰を、行いがある生きている信仰に変えなければならなかったのです。心に植えつけられたみことばの種を、最善を尽くして育てて、豊かな実を結んでいく人が本当に新しく生まれたのであり、「生きている」と言えるのです。

 

生きている信仰と、死んでいる信仰とがあることを教えてくださり感謝します。まことに生きている信仰とは何かを悟るようにしてくださり、そのためにいつも目を覚まして祈り、真理の中でみことばを守り行なって生きることができるよう、お助け下さい。

朝の学び22 創世記3章 ㉑

『土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。』
​                                創世記3:18-19

アダムが受ける苦しみ

「あなたは、野の草を食べなければならない。あなたは、顔に汗を流して糧を得、」とは、糧として「野の草」だけを食べなければならない、という意味ではありません。ここで「野の草」とは、人がこの地上で苦しんで得る食を代表しています。したがって、アダムが糧を得るためには、これからは顔に汗を流すほど苦しまなければならないことを、もう一度強調したみことばです。

主イエスの祈り

霊的な分野でも、苦しんでこそ実を刈り取ることができます。たとえば、祈りも、イエス様が模範になってくださったとおりにしなければなりません。
「イエスは苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。」ルカの福音書22章44節には、罪人の代わりに十字架を負って救い主になられるために、ゲッセマネの園で、このように苦しみもだえ切に祈られたイエス様のお姿が記されています。まさにこのような祈りが神に届いて、答えと祝福を引き下ろします。

預言者エリヤの祈り

第一列王記18章には三年六か月の日照りを終わらせる雨を引き下ろすために、神に答えられるまで、切に信仰で祈り求めたエリヤの姿があります。

エリヤはカルメル山の頂上に登り、地にひざまずいて自分の顔をひざの間にうずめた。
                                 第一列王記18:42


エリヤは命をかけた切ない祈りの為に、はらわたがちぎれるように痛み、自然に腰が折り曲がって、顔を膝の間にうずめるようになりました。エリヤは、それだけ切迫した心で切に祈りました。そして、たった一度の祈りではなく完全の数七度祈った時、人の手のひらほどの小さな雲が海から上ってきました。エリヤはそれを見て答えを確信して、雨が降ることに備えました。

「エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように祈ると、三年六か月の間、地に雨が降りませんでした。そして、再び祈ると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。」
                               ヤコブの手紙5:17-18


エリヤは、私たちと同じような人でしたが、驚くべき神の答えを引き下ろしました。その秘訣は、命をかけた祈りでした。

祈りに答えられる為に

祈りに答えられるためには、まず、神との間に罪の隔ての壁があってはなりません。
「もしも私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない。」と詩篇66編18節にあるように、神との間に罪の隔ての壁がなくて、光の中を歩んでいる人は、何でも大胆に求めることができます。

「愛する者たち。もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ、また求めるものは何でも神からいただくことができます。なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行なっているからです。」
                             第一ヨハネの手紙3:21-22 


アダムに臨んだ肉の法則-肉の死

「ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」
このみことばは、アダムがこれから第一の天の法則に従うようになることを言っておられます。アダムはこの地球の土のちりで形造られた存在です。しかし、神がいのちの息を吹き込まれて、生きものになりました。第一の天の公義、すなわち、肉の法則を超えることのできる存在でした。ところが、罪を犯して霊の気運が抜け出てしまうと、肉の人として肉の法則に従うようになったのです。歳月が過ぎるほど老いて衰えていき、ついに死ねば、朽ちてちりになるのです。私たちの肉のいのちが絶えれば、殻のようなからだは結局、一握りのちりになります。

あなたが御顔を隠されると、彼らはおじ惑い、彼らの息を取り去られると、彼らは死に、おのれのちりに帰ります。 
                                   詩編104:29 
                                                                      
みな同じ所に行く。すべてのものはちりから出て、すべてのものはちりに帰る。
                                  伝道者の書3:20


本当に重要なのは殻にすぎない肉のからだでなく、中身である霊とたましいです。
世の人々はほとんどこの事実を知りません。結局、朽ちて、ちりに帰るからだのために多くを投資します。「何を食べるか、何を飲むか、何を着ようか」を考えて生きていきます。

ガラテヤ人への手紙6章8節には
「自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。」とあります。
私たちは、心と才能、時間と物質を結局は朽ちてなくなるこの世のものではなく、永遠の天国に蒔くものとなりますように。

 

父なる神様。空しいこの世の人生の中で永遠なるものを見つけることができるように導いてくださったことを感謝申し上げます。更に聖められて、この地上のものではなく上にあるもの天国を慕い求め、天国に蒔く者に、神の国の為に仕えるものとして下さい。

朝の学び21 創世記3章 ⑳

また、アダムに仰せられた。『あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。 
​                                創世記3:17-18

神は、「食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べた」と言われ、アダムが罪を犯した事実をはっきりさせました。そして「あなたが、妻の声に聞き従い」と言われ、罪を犯すようになった経緯を諭してくださいました。私たちの神はこのように、正確なお方で、すべての人の子らの心と思い、言葉と行ないを明らかに知っておられ、すべてのことを公義に従って正確にさばかれる方です。イエス様は、このような父なる神の属性をよく知っておられました。

「わたしはあなたがたに、こう言いましょう。人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません。あなたが正しいとされるのは、あなたのことばによるのであり、罪に定められるのも、あなたのことばによるのです。
                                  マタイ12:36-37


このような神様の御前で、いつも善を追い求め、真理を行なうことを願います。

土地に臨んだ呪い

アダムが罪を犯したことによって、アダムだけでなく、土地、すなわち、第一の天の空間も呪われました。被造物の根本に潜在していた本性が現れ始め、毒性を持つ動植物、トゲが生じるなど、外形が醜く変わった種、病原微生物が現れました。この前までは、すべてが美しく循環して、秩序に従って調和をなしていました。しかし、土地が呪われると、その時から自然界に弱肉強食という肉の秩序が立てられました。

アダムとその子孫に臨んだ呪い

土地がアダムのゆえ呪われた結果、一番致命的な余波はまさにアダム自身に及びました。
エデンの園では、園にある多様な美しい果物を簡単に取って食べることができ、食を得るために苦しむ必要が全くありませんでした。このように豊かな環境で生きていたのに、これからは種を蒔いて育てる苦しみがなければ、食を得ることができなくなったのです。
「あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。」と言われたみことばは、これから本格的に人間耕作が始まったことを表します。この地上でアダムの子孫として生まれた人々は、一生苦しんでこそ食を得るようになりました。


呪いから祝福への道

この呪いの道から抜け出し祝福される方法は、罪を犯す前のアダムの状態に回復することです。まずは罪の赦しを得て、神に似せられた聖なる子どもに変えられていくほど、罪を犯す前のアダムのように霊が主人になって、たましいとからだをもっとよく支配して従えることができ、呪いが祝福へと変えられていきます。

愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。
                               第三ヨハネの手紙2


「いばらとあざみ」の象徴的な意味

第一に、人に「必要のない植物」を指しています。もしアダムが呪われる前の土地で農作業をしたなら、種を蒔いて、特に世話をしなくても、三十倍、六十倍、百倍に刈り取ったでしょう。しかし、土地が呪われてからは、役に立たない木、雑草が生えてきました。食を得るためには、どうしても土地を耕し、雑草を引き抜く作業が必要だったのです。「いばらとあざみ」は、このように農作業に邪魔になる木と雑草を象徴的に表現したものです。

第ニに、「いばらとあざみ」は霊的にアダムの心で育ち始めた「悪」を象徴しています。アダムが罪を犯す前は、心に悪と真理に逆らうものが全くなく、ただ霊の知識だけが入っていました。しかし、罪を犯した後は、まるでいばらとあざみが育つように、心に「悪」が植えつけられて霊の気運がふさがれるようになりました。アダムがこの地上に追い出された時、神はいのちの息をほとんど取り上げて、痕跡のように残されましたが、あざみのような悪が心に育つことによって、肉の気運に取り巻かれ、霊的ないのちの活動ができなくなり、霊的ないのちの死が臨みました。


霊の命の回復と成長

しかし、このような人類にも霊の命を回復し、祝福される道が開かれています。
それは、イエス・キリストを受け入れて、罪の赦しを得て、御霊によって新しく生まれることです。この時はじめて、いのちの種が目をさまして芽を出すようになります。霊が育ち続けて実を結ぶためには、心の地から「いばらとあざみ」をみな取り出さなければなりません。つまり、悪はどんな悪でもすべて引き抜いてしまわなければならないのです。
このように心の地から、霊的ないばらとあざみを引き抜く作業が、まさに霊的に心を耕すことであり、これがまことの信仰生活なのです。


あなたがたは正義の種を蒔き、誠実の実を刈り入れよ。あなたがたは耕地を開拓せよ。今が、主を求める時だ。ついに、主は来て、正義をあなたがたに注がれる。
                                  ホセア10:12

父なる神様。心の地を耕し、いばらとあざみをこまめに引き抜く作業ができますように、お助けください。

朝の学び20 創世記3章 ⑲

女にはこう仰せられた。『わたしは、あなたのみごもりの苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる』。 
                                 創世記3:16

創世記3章16節後半にはエバの犯した罪の代価として、アダムとエバの関係が変化することを神様はエバに告げておられます。では、神様が女を創造された時、女を男のあばら骨を取って造られた摂理を通して神様はどのようにご計画されたのでしょうか?



そこで神である主が、深い眠りをその人に下されたので彼は眠った。それで、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。こうして神である主は、人から取ったあばら骨を、ひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。すると人は言った。『これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。』
                                創世記2:21-23


神による女の創造

神はアダムを地球の土と水が混ざった泥で形造られ、女はアダムのからだから、あばら骨一つを取って造られました。あばら骨はからだが外部から強い衝撃を受けても衝撃を緩和して心臓、肺、胃、腸など、重要な臓器を守る役割をします。神が女をあばら骨で造られた理由は、男にとって女が「あばら骨」のようにふさわしい助け手であり、重要な存在であることを表されるためです。アダムはこのような神のみこころを悟り、神が造られたエバを見て「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。」と告白しました。

男女の秩序

神が女を別の土から形造られたのではなく、男から造られたことのなかには、夫と妻は別々ではなく、一つのからだ、一体だということ、男が主体であり、女は男のからだの一部という意味が込められています。アダムは神が自分のあばら骨から造られた助け手を見て、「これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから」と言いました。女は男から造られ女と名づけたのも、男であるアダムです。これによって、男が先であり主であることが明確にわかります。神がアダムに女を造ってくださったとき、男は女を自分のからだのように大切に愛し、女は心から男を愛して男の心に合わせて仕え従う、このような霊の愛を分かち合うことを願われました。

神がその目的に従って創造された男女はなんと麗しいことでしょう。エデンの園で心に罪の性質が少しもなかったアダムとエバは、多くの子供を得はかりしれない歳月を幸せに過ごしました。しかし、善悪の知識の木の実を取って食べた後、肉に属するたましいの働きがはじまり、ふたりの関係は変化してゆきます。


肉の愛

「あなたは夫を恋い慕う」と言われたのは、エバが夫であるアダムを愛する心が肉的に変化することを意味します。肉の愛は変節するものであり、互いに相手が自分の心に合わせてくれるように願います。二人が罪を犯した後、アダムはエバのせいにし、エバは蛇が惑わしたからだと蛇のせいにし、相手に責任を転嫁する姿が現れました。肉の空間である地球で生きるようになってからは、霊の愛が抜けて互いに愛し合って仕え合おうとするよりは、自分の利益を求めて仕えられようとする肉の愛に変化しました。

肉的な秩序

それで、神はアダムとエバの間に正確に秩序を立てられます。まさに、エバに「彼は、あなたを支配することになる。」と言われたのです。もちろん、その前もアダムが主体であり、エバはアダムの部分という秩序がありました。ところが、今は秩序の概念が変わりました。夫は強者の立場で、弱者の妻を力で支配するという肉的な秩序が立てられたのです。
ですから、使徒パウロも、コリント第一7章で結婚のことで触れている個所で「その身に苦難を招くでしょう。」とおっしゃっています。

神様、私達は肉の愛がどれ程、男女の間で、あるいは親子の間で苦しみ悩みをもたらすかを、人間耕作を通して体験しています。互いに相手の利益を追い求め仕え合う霊の愛が心に臨むように、心の根にある罪と悪を完全に引き抜き、根本の肉の性質まで捨て去ることができるように私達をお助け下さい。

朝の学び19 創世記3章 ⑱

「女にはこう仰せられた。『わたしは、あなたのみごもりの苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる』。 
​                                 創世記3:16

みごもりの苦しみ

エバが罪を犯した代価として、みごもりの苦しみが大いに増しました。アダムとエバが肉の人になり、彼らが生きるこの地上も呪われ、二人を取り巻く環境は大きく変化しました。今や彼らは苦しまなければ何も得ることができない状況になりました。特に子を得、育てるためには、まことに多くの苦しみを体験することになります。

まことの子供を得るための父なる神様の苦しみ

「みごもりの苦しみを大いに増す」と言われた霊的な理由は、まことの子供を得る為の人間耕作が終わるまで、父なる神様が多くの苦しみをされることを表しています。
父なる神様は人間耕作が始まって以来今まで、肉の親が子を愛する心よりはるかに切なる愛をもって魂を愛し、まことの子どもを得るために苦しんでおられます。一人の魂も滅びることなくすべての人が救われることを望んでおられるのです。


女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。
                                  イザヤ書49:15


使徒パウロの切なる魂への愛の告白

昔の信仰の人々も、父なる神の心を深く感じて知っていました。それで、罪人を救いに導き、神の子どもとされる働きに渾身の力を尽くしました。特に使徒パウロは、切なる魂への愛を告白しています。

私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。
                                   ガラテヤ4:19

だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。          
                                第二コリント11:29


父なる神、主、聖霊の神様の苦しみ

人々がごく小さい生物と思っている昆虫の中に、子のために自分のからだを犠牲にする「フクログモ」と呼ばれているクモがいます。木の葉を折り曲げて袋を作り、その中で産卵し、危険から守るとともに、自分が小グモの餌になり、死んでいきます。それと同様に神の御子である主は私達が救われる為にご自分の命を与えて下さいました。私たちは主の肉と血を食べて飲むことによって生き、永遠のいのちを得ました。そして御霊ご自身は、言いようもない深いうめきによって私たちのためにとりなしてくださって、弱い私たちを助けてくださいます。
罪人であるひとりの魂が神の子どもとして新しく生まれてくるためには、父なる神、主、聖霊の神様の苦しみがあってこそ可能であることを心に覚えていかなければなりません。魂が救われる為にまことの産みの苦しみをもって、見守ってくださる父なる神様の愛を深く心に刻むことができますように。

父なる神、主、聖霊様が被造物である人間を真実の愛をもって取り扱って下さっていること、そしてそのお苦しみがあってこそ私たちはあたらしく生まれ変わることができることを知りました。その愛をさらに心に深く悟り、神の子どもとしてみ言葉を守り行い、罪と悪に打ち勝つ者となることができますように切に祈り求めます。

朝の学び18 創世記3章 ⑰

「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」
                                 創世記3:15         
「女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧する。」
                             ヨハネの黙示録12:5

[15節]の「女の子孫」が「蛇の頭」を踏み砕くという御ことばには、重要な霊的な意味が込められています。それは、神が世界の始まる前から奥義として隠しておかれたイエス・キリストによる救いの道です。

イエス・キリストによる救いの預言


「女」とは霊的に「イスラエル」を、「女の子孫」は「イエス・キリスト」を意味します。
[黙示録12:5前半節]にある「この子は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧する」この子とは、まさに「イエス・キリスト」のことです。それと同様に「女の子孫」はイエス・キリストをあらわします。イエス・キリストが蛇の頭を踏み砕くという御ことばは「イエス・キリストが蛇を操ったサタンの権力を打ち砕かれる」ということであり、「おまえは、彼のかかとにかみつく。」とは、イエス様が将来、両足を木につけられたまま十字架の処刑を受けることを意味します。アダムにより人類に罪が入ってきた瞬間、罪人が救われる道を提示してくださったのです。


悪魔・サタンの策略

敵である悪魔・サタンは時になると、罪人を救う救い主をイスラエルで生まれるようにすることを知っていたので救い主を殺し、自分たちがとこしえにこの世の権力を握ろうと計画しました。「蛇の頭を踏み砕く女の子孫」を自分たちが先に捕えて殺し、世の権力を持ち続けようと思ったのです。イエス様を殺すために祭司長と律法学者たちをそそのかし、あらゆる策略を巡らせついにむごたらしい十字架刑で処刑しました。

霊の法則による結果

[ローマ6:23前半節]に、重要な霊の世界の法則があります。それは「罪から来る報酬は死」という法則です。イエス様は十字架につけられましたが、原罪も、ご自分で犯した罪もありませんでした。敵である悪魔・サタンは神様との約束である、罪によって死に至るという霊の世界の法則を破ったので、自分の権力を再び渡すようになりました。敵である悪魔・サタンはイエス・キリストを受け入れて信じる人々を治める権力を失い、イエス・キリストを受け入れて、信仰によって主と一つになった人は、悪魔の支配から神様の支配へ移されました。これがすなわち、世界が始まる前から隠しておかれたイエス・キリストによる救いの道、すなわち「十字架のことば」です。

イエス・キリストの勝利

また、イエス・キリストは十字架で死なれたことによって「かかと」にかみつかれましたが、罪がなかったので、死の力を打ち砕いて甦えられました。主と信仰によって一つになった魂も、主のように永遠のいのちを得て、天国で永遠に生きるようになります。
私たちの主はサタンの力を打ち砕いて、数え切れない罪人を救い出されました。
そして人間耕作の終わる日まで、更に多くの人々がこの恵みに預かるでしょう。
父なる神は人間耕作という未知の旅に出る人類に、創世記3章15節のみ言葉を通して
初めから希望の光を照らされたのです。

最初の書物、創世記に十字架の出来事と救いの摂理が預言されていることに、
感動を覚えます。

終わりの時代に生きている私たちは、作戦を変えて人々が救い主を迎え入れないように、よく信じないように妨げる、悪魔サタンの働きをしっかりと見分けて、勝利していきましょう。

朝の学び17 創世記3章 ⑯

「神である主は蛇に仰せられた。『おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。

                                 創世記3:14           
こう言った。「この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。

                              ルカの福音書4:6
                                                                 

[ルカ4:6]で、悪魔がイエス様に言った「それは私に任されている」とは、アダムからサタンに世の権力が渡され、この世はサタン、悪魔が支配するようになったということです。その結果、罪による呪いが地球全地、すなわち、あらゆる動植物に臨みました。


最も呪われた存在---「狡猾な属性」の故にあらゆる蛇に臨む呪い

なめらかできらびやかに光る肌を持つ華麗で美しい姿が、醜く気味悪い姿に変貌しました。もともとあった脚がなくなり、腹ばいで歩くようになり、動物の中で最も低い存在とされました。


ちりを食べない蛇に「一生、ちりを食べなければならない。」と神が命じられた霊的な意味

「ちり」とは「土地のちりで造られた人」のことであり、「蛇」は敵である悪魔・サタンを意味します。「蛇がちりを食べなければならない。」という御ことばは、「敵である悪魔・サタンが、罪を犯した人を餌食にして、試練、患難をもたらす」という意味が含まれています。神を信じない人々は初めからサタン・悪魔の奴隷ですが、神を信じる人も罪を犯せば、サタンに訴えられ、罪の代価を要求されます。


神を信じる人が罪を犯した場合

すみやかに悔い改めて立ち返り、イエス・キリストの尊い血潮によって聖められなければなりません。主がすでにその代価を払って下さっています。しかし、明白な肉の行ないを犯した場合、特に死に至る肉の行ないについては、訓練と報いが神の許しの下で臨むことがあります。

神の子供達には、イエス・キリストの流された血により救いの門が開かれています。私のために貴い血が流され、すでに代価を払ってくださったことを心に留め、罪から離れ、もっと聖められていきましょう。

朝の学び16 創世記3章 ⑮

神である主は蛇に仰せられた。『おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。』」 

                              創世記3:14

私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。

                             ローマ書8:22

公義により臨んだ神の裁き

被造物である地球のあらゆる動物、地球の植物に呪いが臨む。その中で蛇が最も呪われる。エバを惑わした、そのたった一匹だけでなく、エデンの園にいるあらゆる蛇が呪われて地球に追い出される。エデンの園にいる人々の中からは、アダムとエバだけが地球に追放されたのは、エデンの園にいるアダムの子孫には神の命令に逆らおうとする心がなかったからである。


罪による呪いが「土地」に臨んだ結果

土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。・・・土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、」                       ​                            創世記3:17-18


あらゆる被造物は地球の土と水を材料として造られ、被造物の根本材料として使われた土は、その種類と性質が非常に多様であり、その性質によって、被造物の本性が決定されました。霊的な光に支配されていた本性は、善であり美しかったのです。
                            
                                                               
しかし、アダムが罪を犯すことによって、あらゆる被造物の根本材料である「土」に呪いが臨み、その結果、次のような変化が現れました。 


・動物の性質が、根本の土質のまま現れる。(本性に潜在していた乱暴さ、狡猾さ、ずるがしこさ、残忍さ等)
・「毒性」のある動物の出現

・「トゲ」が生じるなど、外形の変化
・動物の外形が攻撃的になる。(弱肉強食の法則に従う生態系の変化)
・「病原微生物」の出現。人・動植物に病気をもたらす細菌とウイルスの総称。
(結核菌、破傷風菌、コレラ菌等、ウイルスがおもな原因の代表的な病気は、インフルエンザ、風邪、エイズ、小児マヒ、天然痘、口蹄疫)


世の終わりが近づくほど、毒性がもっと強い細菌とウイルスが登場し、この地上と人々の心は、敵である悪魔・サタンに支配されて、だんだんもっと荒れ果てていきます。


父なる神様のいやし

わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。
                            第二歴代誌7:14


罪によって荒れ果てた人の心も、父なる神はいくらでもいやすことがおできになります。ただし、そのような神の恵みと力は、みずからへりくだり、祈りをささげ、神の御顔を慕い求め、その悪い道から立ち返る人に臨みます。

神様の愛は、悔い改める者、善を慕い求める者の罪を赦し、光の中を歩み悪に染まらないよう願われています。失った神様のかたちを取り戻すために、神の恵みを慕い求めていきましょう。

朝の学び15 創世記3章 ⑭

人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」そこで、神である主は女に仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。」女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです」                                           創世記3:12-14                
                                      

父なる神様はまず第一の天とエデンの園のすべての被造物を支配する最高のかしらであるアダムに、そして次にエバに尋ねられました。
悪がなく霊だけであった二人の心でしたが、罪を犯したので恐ろしくなって、肉の思いを働かして答えます。



罪の転嫁

アダムは罪を認めましたが、同時に自分の妻のせいにしました。又、妻を自分に与えた神様にまで責任を転嫁しています。このように不従順の罪を犯して後、肉の思いが活発に働き、急速にアダムの心が変化したことがわかります。
エバは自分の過ちを認めようとはせず蛇にその責任をなすりつけようとしましたが、自分が蛇に惑わされて、その木から取って食べたことを自ら認めることになりました。



父の心

アダムとエバに見られるように、責任を回避しようとし、本来の過ちを環境のせい、他者のせいにして他人に罪を転嫁することは悪であり、大きな罪です。神様は自分の過ちを徹底的に認めて、二度と過ちを犯さないと真実な姿で悔い改める子どもの祈りを受けられ、罪を赦してくださいます。



                                   
                                  

自分の正しさや利益を守るために、他の人のせいにしていないか。
心に平安がない時、自分の行いを顧みて、過ちに気付いたなら、
罪の赦しを得る為に、神様の前に心砕いて祈りましょう。

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