霊の糧

ヨブ記講解メッセージ
ヨブという実在の人物を通して、神様が私たちの人生を記録してくださいました。

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「ヨブ記講解(2) -サタンの訴えを聞き入れられた理由」

 

説教:イ・スジン牧師

本文:ヨブ記1:8-12

 

 きょうのメッセージは信仰生活において非常に重要な内容なので、よく心に刻み、試練に真理によって勝利する聖徒の皆さんになりますように。

 

1. サタンの訴えを聞き入れられた理由

 

サタンは神様に愛されて認められているヨブを注意して見ていました。ヨブが神様から大きい祝福を受けているので、敵である悪魔・サタンはねたんで、何としてでも訴えの口実を見つけて、ヨブを倒そうと狙っていたのです。

創世記3章14節を読むと、神様はアダムとエバを惑わして善悪の知識の木の実を取って食べるようにした蛇に、一生、ちりを食べなければならないと仰せられました。ここで「ちり」とは、土地のちりで造られた私たち人のことを言い、「蛇」は敵である悪魔・サタンを意味しています。

サタンは闇の中にとどまっている人々を餌食にしているのです。つまり、真理と反対のことを行っている人々に試練や患難、病気などをもたらして苦しみを与える、という意味です。

このような霊の世界の法則によって、サタンは闇の中にとどまっている人を訴えるのです。すると公義の神様はその訴えを聞き入れられるようになります。

サタンはヨブのようにみことばどおりに生きようとする人々を何としてでも訴えようと、口実を見つけようとします(黙示録12:10)。主を信じていない人々は、どうせ罪を犯しながら生きていて地獄に行くので、わざわざ捜し求めて歩き回り、訴える必要がないのです。

うわべではみことばどおりに生きているように見えても、心に真理と反対のものがあれば、サタンはそういう人々を狙うのです。各種の礼拝をささげていて、祈りもしていて、奉仕して忠実である人が、心の割礼を疎かにしたまま「自分はよくやっている」と思うなら、サタンが高ぶりという属性を通してその人を倒すこともあります。

このように敵である悪魔・サタンはいろいろな角度から神様を信じる聖徒たちにわなを仕掛けようと狙っていることを知って、いつも目を覚ましていなければなりません。

 

2. ヨブを訴えるサタン

 

神様はサタンに「彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。」とヨブをほめておられます。ヨブに潜んでいる悪いところは言わないで、良いところだけ挙げてほめられたのです。私たちに九つの短所があっても、一つの長所を挙げてほめ、励ましてくださる父なる神様の心です。

するとサタンは神様に「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。」と言いました。これは「ヨブにそれほどの理由と条件があるから神を恐れているのだ」という意味です。

サタンは、物質や健康、名誉などの祝福を受けている時だけ神様に感謝する人間のずる賢さと、変わってしまう肉の属性をよく知っていました。それで、神様がヨブに多くの祝福をお与えになったので、ヨブが神様を恐れているのだと訴えたのです。

そして、サタンは神様がヨブにどんな祝福を下さったのか、具体的に話をします。「あなたは彼と、その家とそのすべての持ち物との回りに、垣を巡らしたではありませんか。」と言いました。これは、ヨブが営んでいるすべてを神様が守って、豊かにしてくださった、という意味です。神様がこれまでヨブを祝福してくださったので、ヨブは神様を恐れているだけで、もし彼のすべての持ち物を取り上げれば、結局移り変わるだろうと言うのです。

サタンは祝福権と呪い権、生死禍福の主権が神様にあることを知っているので、ヨブのすべての持ち物を打つことをお許しくださいと願います。

すると神様はサタンに「では、彼のすべての持ち物をおまえの手に任せよう。ただ彼の身に手を伸ばしてはならない。」と仰せられます。ここで「持ち物」とは、ヨブの子どもたちを含めたすべての財産を意味します。

そうしてサタンがヨブの持ち物を打つことによって1次試練が始まりますが、ここで重要なことは、サタンの訴えが正しくなかったということです。なぜなら、サタンがヨブから物質と子どもたちをみな取り上げたのに、ヨブは神様を恨むのではなく、かえって御名をほめたたえたからです(ヨブ1:20-22)。1次試練はサタンの訴えが間違っていたことを証ししています。

このようにヨブにはすべての持ち物については訴える口実がなかったのに、神様がサタンの訴えを聞き入れられたのは、サタンの訴えが正しくなかったことを証明されるためでした。

 

3. 神の子どもたちが試練や患難に会う場合

 

第一、正しくないことを行うように誘惑するサタンの試みがあります。

サタンは、人の中にある罪の性質が動き出して罪を犯させようと惑わします。まず人が情欲に従って罪を犯すようにして、罪を犯すと、それについて神様の前に訴えて災いをもたらします。

たとえば、ダビデがウリヤの妻を見て、目の欲に引かれて罪を犯し、人殺しまでしてしまいました。これによってサタンに訴えられる口実を作って、大きい災いに会ったのです。

ヤコブ1章14-15節に「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」とあるとおり、神様が人を誘惑するのではなく、人が自分の欲に引かれて誘惑されるのであり、自分の情欲に従って罪を犯すので災いが臨むのです。

世の人々は罪を犯したからといってすぐ災いに会うようには見えませんが、神の子どもたちは小さな罪を犯しても試練に会うように見えることがよくあります。神様は、このような苦しみに会うことを通してでも、子どもたちが罪を犯さないで、さらに罪と血を流すまで戦って捨てることを望んでおられるからです(ヘブル12:4-8)。

ですから、私たちは小さいことでも罪を犯して懲らしめが臨んだとすれば、つらくてへたり込むのではなく、直ちに悔い改めて立ち返らなければなりません。すると懲らしめによる苦しみが退きますが、立ち返らないで罪の中にとどまっていれば、災いが続きます。

それにもかかわらず聞き従わなければ、神様が御顔を背けられることになります。その時は懲らしめも臨まないので、これはもっと恐ろしいことです。神様が私生子として扱われるからです。

 

第二、根本の罪の性質を発見して捨てるようにするための試練があります。

ヨブのように罪を犯さなかった人でも、サタンが訴えて試練に会わせる場合です。これは、ヨブが行いとしては完全に見えましたが、自分でも発見できなかった根本の罪の性質、すなわち本性の悪が残っていたので、これを口実に訴えたのです。

もちろん、ほとんどの場合、肉の行いや肉的なことをもっぱら考えていたのではないし、心に罪の性質が残っていることだけで神様がその訴えを聞き入れられるのではありません。

しかし、ヨブのケースは特別なものでした。神様がサタンの訴えを聞き入れてくださった理由は特別な摂理があったからです。この試練を通してヨブの根本の罪の性質が現れるようにして、ヨブが自分で悟れなかった本性の悪まで引き抜いて捨てることによって御霊の歩みに入るように導こうと、試練に会わせられたのです。

 

第三、祝福を与えるために、神様がなさるテストがあります。

これは、サタンが罪を犯すように誘惑する試みでもないし、罪の性質を発見させるための試練でもなく、神様がその人の信仰を霊の世界に証明されるためのテストです。子どもが上の学校に進学するとき、入試というテストに合格したら進学できるように、さらに大きい信仰を証明して見せることで、さらに大きい祝福を受けるようにされるのです。

第一コリント10章13節に「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」とあるとおり、祝福のためのテストは、それぞれの信仰の量りに合わせて、耐えられる分だけ与えられます。

たとえば、神様はアブラハムにイサクをささげなさいと命じられました。アブラハムがこのテストに通ることを、神様はすでにご存じでした。

アブラハムは死者の中からよみがえらせることもできる神様の力を信じて、直ちに聞き従いました。モリヤ山に登って、祭壇を築いて、たきぎを並べた後、イサクを縛って祭壇の上に置きました。イサクに向かって刀をふり下ろそうとした瞬間、天からアブラハムを呼ぶ声が聞こえます。神様が御使いを遣わして、彼を止めるようにされたのです(創世記22:12)。

アブラハムが信仰によってこのテストを通った後に、神様は「今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。」と認めてくださいます。このように試練を通して確かなものとされることで、神様にも栄光をささげ、悪い霊どもの前でもアブラハムが祝福を受ける器であることが証明されたのです。神様は信仰によってテストに通ったアブラハムに大いなる祝福を下さいます(創世記22:15-18)。

 

神様が私たちに祝福を下さるためにテストなさる場合は、たとえ私たちが通れなかったとしても、災いに会うのではありません。必ず脱出の道を下さり、すべてを働かせて益としてくださるのです。資格がなければ祝福を受けられないだけで、それによって災いが臨む理由はないからです。

ヨブの場合も、1次試練の結果だけ見れば、サタンの訴えは確かに間違っていたし、理由のない訴えでした。ヨブは口で罪を犯さずに試練を通って、その証拠を見せたからです。

しかし、神様にはヨブをもっと大きい信仰のある全き姿に変えさせるご計画があったので、2次試練まで会うようにされます。

ヨブの試練については次の時間に続けて伝えます。

 

愛する聖徒の皆さん。

神様がヨブが試練に会うようにされたのは、それを通して根本の悪を発見するようにして、ついに悪を捨てて全く聖なるものの次元に入るようにされるためでした。

この時、サタンがヨブを練る道具として使われました。サタンは悪い霊の世界に属する存在であり、神様の大いなる摂理の中では、人間耕作を完全にするために必要な存在です。

私たちは敵である悪魔・サタンが空中の権威を持っている肉の世で耕作を受けているので、時にはサタンの訴えによって心の悪を発見し、捨てることができるのです。それで、相対性も体験して、神様に喜ばれる子ども、自由意志をもって聞き従うまことの子どもという実になることができるのです。

このような神様の愛の摂理を悟って、父なる神様が待ち焦がれておられるまことの子どもになりますよう、主の御名によって祈ります。

 

 

「ヨブ記講解(1)」 

説教:イ・スジン牧師

本文:ヨブ記1:1-7

 

 きょうは「ヨブ記講解」最初の時間で、ヨブの心の出来と彼が受けた祝福、そしてサタンの正体について調べてみます。

 

多くの人々がヨブについて誤解しています。「神様は潔白で正しいヨブを何の理由もなく試練に会わせられた。ヨブは苦しみを受けたが、最後まで耐え忍んで倍の祝福を受けた。だから、私たちも試練に会ったとき、神様の答えの時を黙々と耐えて待っていればいい」と教えます。

しかし、愛であり、善であられる神様が、どうして理由なしに人に苦しみを受けさせるでしょうか。神様はヨブが霊の信仰へと発展できなくて停滞していたので、試練に会うようにされたのです。試練を通して本性の中の悪が現れて、結局、徹底的に悔い改めて、ついに霊の信仰に入るように導いてくださったのです。神様は、ヨブの例を通して私たちが自分の問題を発見して解決できる道を教えてくださり、祝福される方法も教えてくださっています。

ヨブ記講解をよく糧とすれば、自分は肉の人なのか、御霊の人なのか見分けることができるだけでなく、御霊の人に変えられる方法もわかるでしょう。したがって、「ヨブ記講解」を聞きながら自分の心をさらに深く発見して、霊的に成長しますように。

1. 潔白で正しく、神を恐れていたヨブ

 

ヨブ記1章1節に「ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。」とあります。

「潔白」とは、国語辞典では「心や行いがきれいなこと。後ろ暗いところがないこと。」と定義されています。しかし、神様が言われる霊的な意味の潔白とは「きよい心の中に御霊の実がぎっしりある状態」です。

ヨブはこのように完全に潔白な状態ではありませんでした。父なる神様がご覧になるとき完全ではなかったのですが、それでも良い心で柔和な行いを誠実に実践していたので、潔白だと認めてくださったのです。

 

次に、神様はヨブを「正しい」と言われました。

世の人々は、嘘をつかないで、人をだまさないで、信用を守る人を正しいと言います。つまり、人はうわべを見て「正しい」または「正しくない」と言うのです。

しかし、神様は心をご覧になります。神様が認めてくださる正しさは「人をだまさないだけでなく、自分自身も欺かないこと」です。自分自身を欺かない人ならば、人をだますことはないし、失礼なことをするはずもありません。人との約束はもちろん、自分自身との約束も必ず守るのです。

心の中で「こうしよう」と自分と約束しただけで、誰にも話さなかったとしても、移り変わらないでそのまま守る人を、神様は正しいと言われます。ヨブはこのように正しい人だったのです。

 

また、ヨブは神を恐れる人でした。

神様を恐れる人なら、決して真理から外れることをしないでしょう。箴言8章13節に「【主】を恐れることは悪を憎むことである。」とあるとおり、悪はどんな悪でも避けていきます。ついに悪はどんな悪でも避けて心を霊に変えれば、罪を犯さなくなるから恐れもなくなって、神様を心から愛するようになります。ですから、より深い恐れとは、怖がって恐れるのではなく、愛して聞き従う段階です。

イエス様は神様を恐れかしこみ、敬われたので、そのとおりに聞き従ってご自分を犠牲にされました。旧約の預言者たちやイエス様の弟子たちも神様を恐れかしこんだので、自分を完全に無にして神様のために献身することができました。

私たちも神様を恐れて悪から遠ざかり、さらに神様を深く愛して、いのちもささげることのできる従順の人になりますように。

 

2. ヨブが受けた祝福

 

本文にヨブについて「神を恐れ、悪から遠ざかっていた。」とありますが、これは本性の中の悪まで全部捨てたという意味ではありません。自分で悟れた悪は行わなかったし、最善を尽くして善を追い求めた、ということです。

このように神様から潔白で正しいと認められ、そうして神様を恐れて悪から遠ざかっている人は器が大きいと言えます。たましいに幸いを得ているだけに肉的にも祝福される器を備えていたのです。

ですから、ヨブは神様に大いに祝福されて、「東の人々の中で一番の富豪であった」と記されるほどでした。子どもと物質、健康、その他多くの祝福を受けていたのです。また、ヨブは心遣いや心の器の出来も良くて、人に尊敬されるような基本条件を備えた人でした。

 

ヨブが受けた祝福には家庭の平和もあります。

ヨブ記1章4節に「彼の息子たちは互いに行き来し、それぞれ自分の日に、その家で祝宴を開き、人をやって彼らの三人の姉妹も招き、彼らといっしょに飲み食いするのを常としていた。」とあります。ヨブが潔白で正しい人だったので、子どもたちも互いに仲が良かったということがわかります。一家の長であるヨブが手本になっていたので、自然に子どもたちも父を見ならって、平和をつくっていたのです。

ところが、ヨブの子どもたちの兄弟愛と平和は肉的な愛であり、肉的な平和でした。これは、ヨブの子どもたちが宴会を開いたら、ヨブが「彼らを呼び寄せ、聖別することにしていた。彼は翌朝早く、彼らひとりひとりのために、それぞれの全焼のいけにえをささげた。」ことからわかります。

ヨブの心の片隅には、子どもたちのことで不安と悩みがあったのです。子どもたちが神様を恐れかしこんでいなかったからです。それで、もしかして子どもたちに神様の前にふさわしくない姿があったのではないかと心配で、全焼のいけにえをささげて罪をきよめられるようにしたのです。聖霊が来られる前である旧約時代に生きていたので、子どもたちのために全焼のいけにえをささげる行いによって罪が赦されたのです。

このようなヨブの行いがいつも変わらなかったので、ヨブが実に潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた人であったかがわかります。

 

3. サタンの正体

 

ヨブ記1章6節に「ある日、神の子らが【主】の前に来て立ったとき、サタンも来てその中にいた。」とありますが、ここで「神の子ら」とは、「イエス・キリスト」と「聖霊様」を指しています。

では、神様はどんな汚れもない聖なる方なのに、どうやって悪いサタンがその前に来ることができたのでしょうか。これは、実際にサタンが神様のおられる天国に入って、その前に立っていたということではなく、神様がサタンとの会話をお許しになったという意味です。

サタンも霊なので、神様のお許しがあるなら霊を通して交わり、話すことができるのです。神様がサタンに「おまえはどこから来たのか。」と聞かれると、サタンは「地を行き巡り、そこを歩き回って来ました。」と答えます。サタンは食い尽くすべきものを捜し求めながら歩き回って、神様の前に訴えに来たのです(第一ペテロ5:8)。

神様のみことばどおりに生きていない人は、すでに敵である悪魔に属しているので、サタンが目をつける必要がありません。ヨブのように信仰があり、潔白な人でも、何としてでも倒そうと狙っているのです。

 

サタンとは、一言で言うならルシファーの心です。人の思いを通して働く存在で、実質的な形はありません。サタンはルシファーが持っている闇の力をそのまま持っていて、人々が悪い思いと心を持つようにして、悪を行うようにします。

サタンはまるで空中に飛びかっている電波のように、その心と力を続けて空中にまき散らします。電波が受信アンテナに会えばすぐ接続するように、サタンがまき散らしておいた闇の心と思いと力も、それを受け入れる準備ができた人々に働きます。この時、受信アンテナの役割をするのが人の心の中にある闇、すなわち真理と反対のものです。

たとえば、心の中に憎しみの属性があるとすると、それがサタンが空中にまき散らしておいた憎しみという電波を受け入れる受信アンテナの役割をします。サタンがまき散らしておいた闇の電波と、人の心にある真理と反対のものというアンテナの周波数が合うと、サタンは思いを通して直ちに闇の力を吹き込みます。

これによって真理と反対の心が強くなれば活動し始めるのですが、これを「サタンのしわざを受けた」または「サタンの声を聞く」と言います。このようにサタンの声を聞くと、思いを通していろいろな罪を犯し、行いでも罪を犯すようになります。

サタンは、人が真理から離れて罪を犯したり、真理に逆らったりしているとき、日夜神様に訴えています。神様は霊の世界の法則によって正しく治められるので、神様がご覧になって真理と反対のことを行えば、敵である悪魔・サタンを通して試練に会わせられるしかありません。敵である悪魔・サタンは、人が罪を犯して生きている分だけ神様の前に訴えて、試練、患難をもたらして思いのままに操っていきます。

しかし、神様のみことばに聞き従って、悪はどんな悪でも避けて光の中を歩んでいる人には触れることができません。第一ヨハネ5章18節に「神によって生まれた者はだれも罪を犯さないことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。」とあるとおりです。

 

愛する聖徒の皆さん。

ヨブはまだ完全な霊の心になってはいなくても、神様を恐れかしこみ、自分が知っている罪と悪は行わなかったし、最善を尽くして善を追い求めました。

しかし、私たちは明白な真理でないものだと知っていながらも捨てないで、あれこれ言い訳をして「なぜ私には祝福を下さらないのか。答えてくださらないのか」とつぶやかなかったでしょうか。

神様を信じて恐れかしこむなら、そのみことばどおりに生きて、悪から遠ざかるはずですが、相変わらず罪と悪の中で生きていながら神様を信じると言うから、祝福されないのです。

ですから、今からは罪と血を流すまで戦って捨てるものの、神様を愛して、喜びながら聖められていきましょう。ヨブの姿と自分を比べて「どうすれば神様の前にふさわしい者になって、サタンに訴えられないで信仰によって世に勝って、霊的に成長して神様に祝福されて栄光をささげることができるか」一つ一つ悟りますように。そして、ヨブが試練の後に受けた神様の大いなる愛と祝福を、皆さんも思う存分受けて栄光をささげますよう、主の御名によって祈ります。