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霊の糧

ヨブ記講解メッセージ
ヨブという実在の人物を通して、神様が私たちの人生を記録してくださいました。

12-3456-7890

ヨブ記講解 (4)

「ヨブ記講解(6)2022.3.25

 

説教:イ・スジン牧師

本文:ヨブ記4:1-11

 

1. 感情的にヨブを責めるエリファズ

 

ヨブが自分の生まれたことと親を恨んで嘆くと、ヨブの友だちエリファズが聞いていて、まず口を開きます。

「すると、テマン人エリファズが話しかけて言った。もし、だれかがあなたにあえて語りかけたら、あなたはそれに耐えられようか。しかし、だれが黙っておられよう。」(ヨブ4:1-2)

ここで「それに耐えられようか」と言っていますが、それは「聞きたがらないだろう」という意味なのです。「ヨブ、お前の話を聞いていたら、もう我慢できない。ちょっと忠告しなければ。おれの言葉を聞けば耳が痛いかもしれないけれど、指摘しよう」というような意味です。エリファズはヨブの話が気にくわなくて、しゃくに障り、腹が立ちました。

しかし、このようなエリファズの行いも真理に照らすと合っていません。神様は聖書のあちこちで、怒ってはならない、さばいてはいけないと言っておられます(ヤコブ1:19,4:11-12,マタイ7:1-2)。人の心は、ただ神様だけが探ることがおできになるからです。

いくら正しいことを言われても、感情的に言われれば、相手の心を開くことはできないのです。かえって鋭い剣で刺されたように心が傷ついて、元気をなくしてしまうかもしれません(箴言12:18)。どうしても必要なことを勧めるとしても、相手の心と立場を推し量って愛の心でするとき、相手の心が動かされて変えられます。相手に正しいことを言うのも大切ですが、どれほど善と知恵をもって接するかがもっと大切だということを心に留めなければなりません。

 

「見よ。あなたは多くの人を訓戒し、弱った手を力づけた。あなたのことばはつまずく者を起こし、くずおれるひざをしっかり立たせた。だが、今これがあなたにふりかかると、あなたは、これに耐えられない。これがあなたを打つと、あなたはおびえている。」(ヨブ4:3-5)

以前、ヨブは正しい生き方をしていたので、他の人々を教えて正しい道に導くことができました。「弱った手を力づけた」とは、生きる意欲がない人が生きる意欲を取り戻せるように勧めて導いた、ということです。

「つまずく者」とは、人生の希望を失った人を言います。一日で事業がつぶれたり、失恋したり、家庭が崩壊したりするなど、絶望的な現実の前に人生の希望を失ってあきらめようとする人々に、ヨブは真理のみことばで悟らせて力づけました。

ヨブが「くずおれるひざをしっかり立たせた」ということは、行う力がない人々に実際に助けになって力づけた、という意味です。お金がない人にはお金を施しして、食べる物がない人には食べる物を与えるなど、実質的な行いで助けていたのです。

ところで、いざ自分が病気になると苦しんで、ヨブが訓戒していた人々と同じ姿になってしまったと言って、エリファズは感情的にヨブを責めています。

 

2. ヨブとエリファズの姿を通して私たちが省みるべき点

 

神様は、ヨブの嘆く姿を通して、私たちが恵みに満たされていた時とそうでない時の心について悟らせてくださいます。試練、患難がやって来たとき、信仰の状態をチェックすることができるし、自分の心と信仰の現住所が明らかにされるのです。神様が自分を祝福してくださり、祈りに答えて認めてくださっていた時は「神様、愛しています」と言っていたのに、ひょっとして自分が試練に会っている時も変わらずその告白が出てくるか、省みなければならないでしょう。

使徒パウロは神様への姿がいつも同じでした。神様が認めて祝福してくださる時だけ、神様の働きに忠実だったのではありません。むちで打たれて、迫害されて、監獄に閉じ込められて、誤解されて、いのちが危なくなって時も、変わらず神様をほめたたえました。死に至るまで忠実であったし、多くの苦しみを受けましたが、主への愛はさらに深くなり、感動的な愛の告白を残しました(ローマ8:35-39)。神様は私たちもこのような信仰を持つことを望んでおられます。

 

次に、エリファズの姿から私たちが悟るべき点は何でしょうか。

エリファズは以前、ヨブから多くの訓戒を受け、助けてもらっていました。その時はヨブを尊敬する心もあったでしょう。ところが、今は自分が知っていた姿ではないから、ヨブを見ると、真理の知識でヨブをさばいて罪に定めているのです。

このように相手の状況が変わったからといって、以前受けた恵みを忘れて皮肉を言ったり、腹を立てて責めるならば、本当の愛ではありません。また、そういう言葉では相手も悟れないし、慰めも受けないで、かえってサタンが働いて相手の感情をさらに傷つけることがあるのです。

たとえ自分の考えが正しいとしても、感情的に話をすれば何の役にも立たないのです。完全に悪意がない状態で愛の込められた主の心で話をする時でこそ、聖霊が働かれて、相手が悟って変えられることを知らなければなりません。

 

3. 続けてさばいて罪に定めるエリファズ

 

「あなたが神を恐れていることはあなたの確信ではないか。あなたの望みはあなたの潔白な行いではないか。」(ヨブ4:6)

いつもヨブは神様の御前に自分の行いが潔白であり、神様の御前に潔白な者になりたいと思っていました。エリファズはヨブの友だちだったので、普段ヨブと話をしながら、ヨブのこのような望みについてもよく知っていました。ところが、いざヨブに試練がやって来て苦しみに会うと、いつも彼が言っていたこととは余りにも違った行いを見せているので、エリファズは続けてヨブの欠点を指摘します。

ここで、ヨブが本当に神様を恐れてより頼んでいたかは調べる必要があります。本当に神様を恐れる人ならば、ダニエルのようにどんな状況でも、どんな困難がやって来ても、神様により頼むでしょうし、神様を愛する心が変わりません。

ダニエルは、神様に祈れば獅子の穴に投げ込まれることを知っていながらも、変わらず感謝の祈りをささげました(ダニエル6:10)。神様を愛して、そのみこころを行うだけなので、生きるにしても、死ぬにしても、ただ感謝だけしました。本当に神様を恐れるなら、どんな状況でもダニエルのように神様のみことばを守り行うのです。また、私たちが「神様にはどんなことでもおできになる」ということを信じるなら、神様の御前にすべてをゆだねることができます。

エリファズは「さあ思い出せ。だれか罪がないのに滅びた者があるか。どこに正しい人で絶たれた者があるか。」(ヨブ4:7)とヨブに反問します。この言葉自体は真理です。もし何かの災いや事故、問題が起こったとすれば、そこには必ず罪または不正という根本的な原因があるのです(ローマ6:23,コロサイ3:25)。

問題は、こう言っているエリファズの心の中です。もし試練と患難の中にいる人に「すぐ悔い改めてください。あなたに罪があるから試練がやって来たのではありませんか!」と言うなら、これは愛ではなく、かえって傷つける言葉になってしまいます。

 

また、エリファズがヨブに「私の見るところでは、不幸を耕し、害毒を蒔く者が、それを刈り取るのだ。」(ヨブ4:8)と言ったのもそうです。

不幸で畑を耕して、害毒を種として蒔いたら、その実もやはり害毒という実になるしかないのです。しかし、これもまたエリファズがヨブの心がそれほど悪いとさばいているという点が問題です。

続いて「彼らは神のいぶきによって滅び、その怒りの息によって消えうせる。」(ヨブ4:9)とありますが、ここで「いぶき」とは神様のみことばを意味し、「怒りの息」とは神様の心を意味します。つまり、エリファズは「ヨブ、きっとお前が悪をもって畑を耕して種を蒔いたから、蒔いたとおりにその刈り取りもしているんだ! そんな人は神様のみことばで滅んで、神様の心によって消えうせてしまうんだ」と、自分が裁判官になって、ヨブを悪い人だと罪に定めています。

しかし、ヨブは良い地の心を持っている人だったし、潔白で正しい人でした。悪で地を耕したのではなく、善で地を耕した人で、害毒で種を蒔いたのでもなかったのです。ヨブが今つぶやいて嘆いているのは、その心の地が悪いからではなく、真理を知らなくて、まだ神様を見つけた体験がなかったからです。

 

「獅子のほえる声、たける獅子の声は共にやみ、若い獅子のきばも砕かれる。雄獅子は獲物がなくて滅び、雌獅子の子らは散らされる。」(ヨブ4:10-11)

これは、エリファズがヨブの境遇を獅子にたとえて遠回しに言っているのです。ヨブが以前は裕福だったし、多くの人から尊敬されていたのに、今はすべてを失ってしまったので、このような境遇をきばが砕かれた若い獅子、老いてもう狩りができない雄獅子にたとえたのです。

また、これは世の理(ことわり)についても言っています。「百獣の王であるライオンも、強い時があれば老いる時があるように、人間もこういう時があればああいう時もあるのだ。人間の運命はどうすることもできない」という意味で言っているのです。それで、世のことわざには「待てば海路の日和あり」というのがあって、今は思うように行かなくても、じっと待っていれば良い日が来ることもあると言ったりします。また「運命のいたすところだ」と言って、人の運命はどうすることもできないと言うこともあります。

しかし、これは神様のみことばに照らしてみれば合いません。神様は、私たちが神様のみことばどおりに生きれば、すべての病気から守ると言われたし(出エジプト15:26)、私たちを地のすべての国々の上に高くあげて、貸すであろうが借りることはなく、かしらとならせ、尻とはならせない祝福を与えると約束されました(申命記28:1-13)。

また、私たちが神様を恐れかしこみ、信仰によって生きていくなら、マルコの福音書9章23節に「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」とあるとおりになります。それだけでなく、必ず蒔けばその刈り取るもすることが神様の法則です(ガラテヤ6:7)。

 

4. まず自分の中の梁を取りのけてこそ

 

イエス様は「また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」(マタイ7:3-5)と言われました。

ここで「梁」とは「心にある大きい罪の性質」を意味します。まず自分の目の中から梁を取りのけてこそ、主の心と目ですべての人を見ることができるし、相手のちりを正確に見ることができます。自分の目の中に梁があれば、エリファズのように悪意をもって指摘するようになるので、相手を悟らせるよりは苦しみを与えて、つまずかせるかもしれないのです。

自分の中に霊の愛があるなら、相手がいくら正しくないことをしても、憎くなったり腹が立ったりするのではなく、愛をもっておおうことができます。梁がないから相手の良い点だけが見えて、その信仰に合わせて理解して、相手のために愛をもって祈るのです。

傷もしみもなかったイエス様は人々の過ちを指摘したり罪に定めたりしたのではなく、まず赦してくださって、そむきの罪をおおって、正しい道を歩めるように導いてくださいました。

まして神様の御前で多くの罪と過ちを赦された私たちはどうすべきでしょうか。まずはみことばと祈りで自分の心から悪を取り除くことに努め、一歩進んで互いの罪をおおう愛の心を所有しますよう、主の御名によって祈ります。

 

「ヨブ記講解(5)-ヨブの苦しみと心の痛み」2022.3.20

 

説教:イ・スジン牧師

本文:ヨブ記3:13-26

 

  きょうはヨブの心が痛んでいる姿を調べながら、まことの安らぎがない理由と聖霊に満たされている方法、恐れのない愛について伝えます。

 

人の口から出る言葉はいのちがある種のようなものです。ヨブのつぶやきと嘆きの言葉を調べながら、悪い言葉の無益さを悟り、いつも良い言葉、肯定的な言葉で美しい実を刈り取る聖徒の皆さんになりますように。

 

1. ヨブの苦しみと心の痛み

 

「今ごろ、私は安らかに横になり、眠って休み、自分たちのためにあの廃墟を築いたこの世の王たち、また議官たち、あるいは黄金を持ち、自分の家を銀で満たした首長たちといっしょにいたことであろうに。それとも、私は、ひそかにおろされた流産の子のよう、光を見なかった嬰児のようでなかったのか。」 (ヨブ3:13-16)

ここで「首長たち」とは、地方の民を治める高官を意味し、「議官たち」とは、何かの問題について論議して、問題解決を助けることができる人々を言います。ヨブは、自分が世に生まれなかったならば、すでに死んでよみに行ったこの世の王たちや議官たちと一緒にいただろうに、と言っているのです。これには特別に霊的な意味があるのではなく、ヨブの個人的な考えから出た、真理ではない言葉です。

ヨブはまた、母が自分を産んだとき、安産でなかったなら、流産の子のように世にいないから、今の苦しみを受けなかっただろうに、と嘆いています。

 

「かしこでは、悪者どもはいきりたつのをやめ、かしこでは、力のなえた者はいこい、捕らわれ人も共に休み、追い使う者の声も聞かない。かしこでは、下の者も上の者も同じで、奴隷も主人から解き放たれる。」(ヨブ3:17-19)

ヨブは、自分がもし死産してよみに行ったとすればいこいを得ていただろうと、よみの生活について説明し始めます。ここで「追い使う」とは、自由を奪って縛ることを意味します。自分で自分を縛ることもあり、目上の人や神様のみことばによって縛られることもあります。

つまり、よみでは何ものにも縛られない、下の者も上の者も同じで平等だ、と言っているのです。これもまた真理ではなく、ヨブの考えの中から出てきた真理と反対の言葉です。

ルカ16章を読むと、この地上で神様を恐れていた貧しい人ラザロは、死んでアブラハムのふところに抱かれましたが、ぜいたくに飲み食いして世を楽しんでいた金持ちは、よみに行って火の穴で永遠に苦しみを受けている姿が記されています。ラザロがアブラハムのふところで休んでいる所が上のよみであり、金持ちが火の穴で苦しみを受けている所が下のよみです。ヨブが言ったように、良い人も悪い人も同じよみに行くのではなく、同じ待遇を受けるのでもありません。しかも罪人と悪者が落ちる下のよみは、地獄の使いたちからひどい苦しみを受ける所です。

 

「なぜ、苦しむ者に光が与えられ、心の痛んだ者にいのちが与えられるのだろう。」(ヨブ3:20)

財産と子どもをみな失ったし、全身に悪性の腫物まで出たヨブはひどく苦しんでいました。それで、光といのちを下さった神様を恨んでいるのです。

今日も同じです。暗やみにいた人が光の中に出てきても、信仰生活をしているうちに試練が来れば、ヨブのように嘆くようになります。自分のうちにおられる聖霊様がうめきながら、「罪を捨てなさい、みことばどおりに生きなさい…」と言われるのに、それを守れないから心が苦しくなるのです。いっそ真理を知らなかった時は気楽だったのに、真理を知ったから「私はどうして光を見たのか、どうして神様を知ったのか」と嘆くのです。

 

「死を待ち望んでも、死は来ない。それを掘り求めても、隠された宝を掘り求めるのにすぎないとは。彼らは墓を見つけると、なぜ、歓声をあげて喜び、楽しむのだろう。」(ヨブ3:21-22)

ヨブは死ぬことを待ち望んだのですが、思いどおりになりませんでした。もしどこかに貴重な宝が埋まっていることがわかったなら、人々はそれを求めるためにどれほど熱心に地を掘るでしょうか。まさにこのような切なる心よりもっと切なる心で、ヨブが死を望んでいることを表現したのです。

ヨブは治る見込みがない悪性の腫物の苦しみのため、水があふれるようにうめき声が出てきたし、食事をするたびに嘆きが出てきました(ヨブ3:24)。死にたいのに、食物をとればいのちが延びるし、だからといって食べないわけにもいかないから、嘆きが出てきたのです。

これは霊的な糧を食べる時も同じです。多くの方がこの教会に出会って、神の力を見て、みことばを聞けば、恵みに満たされて幸せになります。しかし、時間が経っても心の割礼をしないで、みことばどおりに守り行わなければ、信仰生活がだんだんつらくなります。

「いっそこの聖めの福音を聞かなかったなら、他の教会で気楽に信仰生活をしていたのに…罪と戦うためにこんなに苦労しなくてもよかったのに…」と思うのです。悪を捨てたいのに、思いどおりにならないから心が苦しくて、聖霊に満たされなくなるのです。

だからといって霊の糧を食べないこともできないし、教会を離れることもできない。ああすることもこうすることもできないで、ヨブと同じ嘆きが出てきます。聖めの福音を聞いて救いの道と新しいエルサレムを知ったので、再び世に戻ることもできません。

また、聖霊に満されていた時は「新しいエルサレムを望んで走って行きます」と言っていた人が、ある瞬間「私はパラダイスに行くだけでいいから、ちょっと気楽に信仰生活をしたい」と言ったりすることもあります。

しかし「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。」(ローマ8:18)とあるので、新しいエルサレムの栄光を望んで、熱心に霊の糧を食べることを喜ぶ聖徒の皆さんになるべきでしょう。

 

2. ヨブの恐れ

 

ヨブは行いではほぼ完璧に信仰生活をしていましたが、いつも心に不安と心配がありました。神様が自分を打たれないだろうか、懲らしめられるのではないだろうか、ひょっとして子どもたちに何かの災いが臨みはしないだろうかと、恐れの中で生きていました。結局、彼が恐れていたとおりに災いが臨んだし、また、病気になるのではないかと恐れていたように、実際に病気にまでなったのです。それで「私の最も恐れたものが、私を襲い、私のおびえたものが、私の身にふりかかったからだ。」(ヨブ3:25)と告白します。

これは、まだ本性の中に悪があるので感じる恐れであり、神様の愛を完全に悟れないために感じる恐れでした。

聖徒の皆さんも、まだ心に罪の性質が残っていて恐れがあるなら、「すみやかに変えられて、神様に喜ばれる子どもになろう」という希望に変えていきますように。私たちがみことばどおりに行えば、神様の前に恐れがなくて大胆です(第一ヨハネ3:21-22)。また、与えられた信仰の量りの中で最善を尽くして神様のみこころのとおりに生きれば、いわれのない呪いはやって来ないのです(箴言26:2)。

しかし、ヨブはこのような神様のみことばを正しく知らなかったので、神様がいわれもなく懲らしめることができると思って、恐れていたのです。

 

3. 安らぎがない理由

 

「私には安らぎもなく、休みもなく、いこいもなく、心はかき乱されている。」(ヨブ3:26)

「安らぎ」「休み」「いこい」とありますが、これは安定した状態の暮らしを意味します。ヨブは財産と子どもたちを全部失ったので、もう安定した暮らしもないと言っているのです。ヨブが信仰と天の希望がない人であることを端的に表わしている言葉です。まことの安らぎと休みといこいは肉的な条件にあるのではなく、神様が下さるものです。

では、熱心に信仰生活をしている人でも安らぎがない理由は何でしょうか。

第一に、信仰がないからです。私たちが大小を問わず信仰によって神様にすべてをゆだねる時に、まことの安らぎが臨みます。神様により頼めなくて自分の思いと計画を持ってするので、失敗するのではないかと心配で、だまされるのではないかと不安で、あれこれと悩むのです。

第二に、天国への希望がないからです。この地上のものへの未練を捨てなければ、天国への希望が生じません。お金の欲、名誉欲、権力欲、自慢、自尊心、高ぶりなど、むなしいものを持っているので、天国への希望がないのです。

第三に、聖霊に満たされていないからです。たいていの場合、罪の壁があったり、肉の思いによって祈れなかったりすると、聖霊に満たされなくなります。私たちが罪から離れて真理の中にとどまるとき、聖霊に満たされます。神様のみことばを聞いて守り行うとき、聖霊が喜ばれるので満たされるのです。

また、信仰がある人は、ひょっとして病気が来たとしても、神様の前に信じてゆだねるので安らぎがあるのです。この地上で子どもやくつろぎの場所がなくても、天国への希望があれば、安息を得ることができます。

ところが、ヨブは死ねばすべてが終わると思っていたので、天国への希望もなかったし、ただ苦しみの中で嘆いてばかりいるのです。

「まことの休み」はたましいに幸いを得ている時に臨みます。たましいに幸いを得ていれば、物質、家族、健康の祝福が伴うので、どんなことにも心配がないだけでなく、安らかな信仰生活ができます。

また、まず第一に神の国と義のために祈るとき(マタイ6:33)、「まことの安らぎ」が臨みます。私たちがまず第一に神の国と義を求めれば、神様が衣食住はもちろん、私たちの必要を満たしてくださって、心の願いもすみやかにかなえてくださるからです。

 

愛する聖徒の皆さん、

神様を恐れるから仕えるのは、まことの信仰と全き愛がないからです。第一ヨハネ4章18節に「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。」とあります。

神様がアブラハムに息子イサクを全焼のいけにえとしてささげなさいと言われたとき、アブラハムは少しもためらわずに聞き従います。神様に理由を伺うこともなかったのです。息子を愛していないからでもなく、神様を恐れて聞けなかったのでもありません。善そのものである神様を見つけて体験したので、神様を完全に信じたのです。それで、少しも誤解しないで、喜んで聞き従ったのです。

神様はヨブともこのような関係になりたいと思われました。いつかは自分に不幸が降りかかるかもと心配して神様を恐れるのではなく、アブラハムのようにどんな状況でも神様を完全に信頼する、そういう関係でまことの愛と平安と祝福を受けることを望んでおられたのです。

したがって、ヨブ記講解を聞いて神様の愛を深く悟り、神様との間に完全な信頼関係、恐れのないまことの愛の関係を築きますよう、主の御名によって祈ります。

 

 

「ヨブ記講解(4)-ヨブのつぶやきと嘆き」2022.3.13

 

説教:イ・スジン牧師

本文:ヨブ記2:1-13, 3:1-12

 

きょうはヨブの2次試練と病気の原因、祝福と呪いに関する霊の世界の法則、そしてヨブのつぶやきと嘆きについて調べてみます。

 

サタンは人に訴えの種がなくなる時まで訴え続けます。ヨブは1次試練は通り抜けましたが、その内面には相変わらずサタンに訴えられるしかない真理と反対のものがありました。それで、サタンはヨブを続けて訴えたし、公義の神様は霊の世界の法則によってそれを聞き入れるしかありませんでした。

ここで一つ心に留めておくべきことは、敵である悪魔・サタンは試みた後にしばらく離れたとしても、相変わらず虎視耽々と機会を狙っているということです。

イエス様も四十日断食を終えた後、敵である悪魔から三度試みを受けられますが、三度とも神様のみことばで退けられます。ところが、ルカ4章13節に「誘惑の手を尽くしたあとで、悪魔はしばらくの間イエスから離れた。」とあるように、悪魔はしばらくの間離れたとしても、また機会をうかがっているのです。

 

1. ヨブの2次試練

では、サタンがヨブをどのように訴えるのか調べてみましょう。

「サタンは【主】に答えて言った。『皮の代わりには皮をもってします。人は自分のいのちの代わりには、すべての持ち物を与えるものです。しかし、今あなたの手を伸べ、彼の骨と肉とを打ってください。彼はきっと、あなたをのろうに違いありません。』」(ヨブ2:4~5)

「皮の代わりには皮をもってする」とは、いのちが危なくなるようにするという意味です。したがって、これは人にいくら財産が多くても、それより大切なのはいのちなので、ヨブも、もし自分のいのちが危なくなれば神様につぶやくだろう、という意味です。

骨は人の骨格を形成して、肉は人の形を維持します。「骨と肉とを打つ」とは、骨がずれて形がゆがむという意味で、これはいのちが危ない状況にまで置かれるということです。それだけヨブがこれから受ける試練、患難が厳しいということを表しているのです。

 

サタンは神様に生死禍福の主権と祝福権、呪い権があることを認めながら、ヨブの骨と肉とを打つように任せるように願いました。すると神様は今回もサタンの訴えを聞き入れてくださいましたが、「ただ彼のいのちには触れるな。」と仰せられました(ヨブ2:6)。いのちの主権はただ神様にだけあるからです。

神様のお許しを頂いたサタンがヨブを打つと、ヨブの足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物ができました。「悪性の腫物」とは、治りにくい悪性のできもののことを言います。ヨブにできた悪性の腫物は、骨の節々から膿が出て、皮膚にまで見えるようになり、皮膚からも膿が出て、ひどいかゆみを感じさせる病気でした。初めは小さいできものでしたが、かけばかくほど急速に全身に広がって、ついに足の裏から頭の頂までできたのです。

ヨブは灰の中にすわって手でからだをかいていて、我慢できないほどひどくなると、土器のかけらを取って自分の身をかきました。旧約時代に「灰の中に座った」ということは、神様の前に悔い改めて、自分を低くする最大限の行為でした。みずから低くなった姿で悔い改めるべきことを探し、神様を恐れて高める姿です。

 

2. 病気の原因と祝福と呪いに関する霊の世界の法則

 

ヨブの妻は苦しんでいる夫を慰めるどころか、皮肉を言って、無視して呪いの言葉まで口にします。ところが、ヨブはこのような妻に「あなたは愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。」(ヨブ2:10)と答えて、このすべてのことに口で罪を犯しません。

ヨブが妻にその愚かさを悟らせて、口で神様につぶやかなかったのは正しいことでした。ところが、「私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。」と言ったのは正しくありません。ヨブの誤解です。

神様は何の理由もなく幸いを与え、災いを与える方ではありません。聖書を読むと、病気の原因が何か、どうすれば祝福を受けることができるのか、霊の世界の法則が詳しく記されています。

出エジプト記15章26節で、私たちが神様のみことばどおりに生きさえすれば、すべての病気から守ると約束されました。また、申命記のあちこちに繰り返し記されている神様の命令を守れば、祝福され、そうでなければ呪いが臨むという内容です(申命記5:32~33,申命記28:1~68)。

もしこのような公義の法則を知らないなら、病気になっても神様の思し召し、呪いが来ても神様の思し召し、貧しくても神様の思し召しだと言って、神様は独裁者だと誤解することになるのです。

神様は愛と公義の神様です。私たちに災いを与えたいと思われるのではなく、何としてでも祝福を与えたくて、希望を与えたくて、私たちを良い道に導くことを望んでおられます(エレミヤ29:1,申命記10:13)。

しかし、私たちがみことばを守り行い、聞き従う時は祝福されますが、みことばに聞き従わずにそのすべて命令とおきてを守り行わない時は呪いが臨むのです。

 

ヨブ記はヨブの信仰の観点から記されているので、ヨブの言っていることがすべて正しいのではありません。この後もヨブと友だちの会話を読めば、真理に合わない内容も多いのです。このような点に留意してこそヨブ記を正確に解釈できます。

神様が祝福を与える時や懲しめる時には、必ずそれだけの理由があります。私たちが神様のみことばを守り行えば祝福されますが、反対にそのすべての命令とおきてを守り行わなければ、呪いが臨むのです。

ところで、ヨブは神様が祝福を与えると思っていたのは正しかったのですが、理由もなく災いも与える方だと誤解して、自分からサタンに訴えられる種を提供しています。神様は何の理由もなく病気や災いを与える方だと誤解しているので、自分を発見できず、悔い改めるべきことを探せなかったのです。

また、神様は与えておいて取り上げることもできる方、気が向くままにする独裁者のような方だと思っていました。このような間違った信仰によってヨブは守られず、サタンに訴えられて災いにあうようになったのです。

これは多くのクリスチャンが試練、患難にあう時によくぶつかる問題です。ヨハネの福音書8章32節に「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」とありますが、私たちが真理を知らなければ、ヨブのように真理の自由を受けることができなくて、サタンに訴えられる種を与えることになるのです。

イエス・キリストを受け入れて神の子どもとされた特権を受けた私たちは、決して敵である悪魔・サタンにもてあそばれてはいけません(ヨハネ1:12)。そのためには真理を正しく知って、神様のみこころを正しくわきまえなければなりません。

 

3. ヨブのつぶやきと嘆き

ヨブにはいつも徳があって、施しもよくしていて、知識も多かったので、周りに人がたくさんいました。このようなヨブが一日で財産と子どもを失って、全身が病気でボロボロになったという知らせを聞いた友だちが、慰めようとヨブを訪ねて来ました。

友だちが遠くからヨブを見ると、その姿が悪性の腫物のためどれほどひどかったのか、ヨブだとわからないほどでした。あまりにもみじめな状態だったので、彼らは何も言えないまま、先に話しかける人がいなかったのです。

それで、今まで神様を恐れて口で罪を犯さなかったヨブがついに口を開いて、自分の生まれた日を呪い始めます。

「その後、ヨブは口を開いて自分の生まれた日をのろった。…私の生まれた日は滅びうせよ。『男の子が胎に宿った』と言ったその夜も。その日はやみになれ。神もその日を顧みるな。光もその上を照らすな。…その夜には喜びの声も起こらないように。」(ヨブ3:1~7)

ヨブは自分が生まれた日と自分のいのちを呪って、自分にいのちを下さった神様までつぶやいたのです。一言一言つぶやいて嘆きながら自分の生まれたことを呪っているので、彼の苦しみがどれほどひどいのかがわかります。

 

ヨブ記3章8節に「日をのろう者、レビヤタンを呼び起こせる者がこれをのろうように。」とあります。ここで「レビヤタンを呼び起こせる者」とは、とうてい人としてできない悪いことまでためらわずに行える者、という意味が込められています。

つまり、ヨブは、レビヤタンのように邪悪な誰かがその日に両親のいのちでも、自分のいのちでも奪い取ったらよかったのに、と言っているのです。ヨブがこのように言ったのは、自分の生まれたことを呪っているのです。

次の一節に「その夜明けの星は暗くなれ。」とあります。聖書で「星」は霊的にそれぞれ違う意味で使われますが、ここではヨブの両親を指しています。ヨブの両親が「今夜愛し合おう」と約束したことを守らなかったならば、自分は胎に宿らなかっただろうに、という意味です。

また、ヨブは「光を待ち望んでも、それはなく、暁のまぶたのあくのを見ることがないように。」と言っていいます。両親が愛し合おうという約束を守らなかったなら、どんなに光を待ち望んでも子どもを得られません。また、もしこの世に暁が来なかったなら、暗黒の世界になって、すべてが終わることになるので、自分も生まれなかっただろうに、という意味です。

続いてヨブは、神様が母の胎を閉じてくださったならば、自分は胎に宿らなかっただろうし、今のような患難にあわなくてもよかったのに、と嘆きます(ヨブ3:10~12)。仮に宿ったとしても、胎内で死ぬとか、難産で死んでしまったら、今の苦しみを受けなかったはずなのにと、自分を生んだ親を恨んでいます。また、生まれたとしても、母が乳を飲ませなかったなら飢えて死んだはずなのに、母が乳を飲ませたので自分はこのように苦しんでいるというのです。

ヨブは自分のたましいは神様の主権のもとにあることを知っていながらも、自分が生まれたことを呪っています。結果的に神様につぶやいているのです。

次の時間に続いて伝えます。

 

愛する聖徒の皆さん、

箴言10章22節に「【主】の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えない。」とあるとおり、神様は祝福されるような人に祝福を与えられますが、苦労も与える方ではありません。人の方法で得た富はいつでもなくなることがありますが、神様がたましいに幸いを得ている人に下さった富は決してなくなりません。

しかし、ヨブは神様を正しく知らなかったので、神様を恐ろしい神様と誤解していました。ヨブが持っていた肉の思いは本性の中にある悪から出たものでした。このような本性の中の悪は試練に会って発見できます。ヨブは厳しい試練に会った後に本性の中の悪を悟るようになります。

ところで、必ずしも厳しい試練に会ってこそ本性の悪が発見されるのではありません。神様のみことばと祈りで自分を照らして、本性の中の悪を発見して捨てることができるのです(ヘブル4:12,第一テモテ4:5)。

したがって、ヨブ記講解のメッセージを通して本性の悪まで悟ってすみやかに捨てますよう、主の御名によって祈ります。

 

 

「ヨブ記講解(3)-ヨブの1次試練」     2022.3.6

 

説教:イ・スジン牧師

本文:ヨブ記1:13-22

 

 サタンは、ヨブが祝福されているから神様を恐れているので、ヨブの持ち物を打ってくださいと訴えました。これに対し、神様はサタンに「では、彼のすべての持ち物をおまえの手に任せよう。」と言われ、ヨブのすべての持ち物をサタンの手に任せました。しかし、「ただ彼の身に手を伸ばしてはならない。」と仰せられました。それから本格的にサタンの試みが始まるのですが、この内容を調べてみましょう。

 

1. ヨブの1次試練

ある日、ヨブの長男の家で祝宴が催されました。ヨブの子どもたちがその家で食事をしたり、ぶどう酒を飲んだりしていたとき、しもべが使いとして来て、ヨブに告げます。シェバ人が襲いかかり、牛とろばを奪って、働いていた若い者たちを剣の刃で打ち殺したというのです(ヨブ1:15)。

この知らせを伝えているしもべがまだ話している間に、他のひとりが走って来て、急報を伝えます。今度は神の火が天から下り、羊と若い者たちを焼き尽くしてしまったというのでした(ヨブ1:16)。

ヨブのこのような災いは、今日でたとえれば、一生懸命お金を稼いで大きい家と工場を建てたのに、火事が出て一日で焼けてなくなったり、台風や地震、洪水などの天災地変で農作物が大きい被害を受けることに比べられます。

このような自然災害も神様の主権の下にあります。もちろん、神様が台風や火を送られるのではありません。人が自然を破壊して公義を破ったので、それ相応の災いが来るのです。天災地変は誰にでも同じように被害を与えるのではないのかと思うかもしれませんが、神様を本当に信じている人は守られます。

たとえば、農業に従事する方々の場合、聖霊があらかじめ心に働きかけてくださって、日照りや台風に影響を受けない農作物を栽培して、損をしないことがあるのです。

 

続いてヨブに三番目の災いがやって来ます。今回も、また他のひとりのしもべが災いから守られて、知らせに来たのです。カルデヤ人が三組になって、らくだを襲い、これを奪い、若い者たちを剣の刃で打ち殺したというのでした(ヨブ1:17)。

ここで「三組になって」とは、サタンが計画的に働いた、という意味です。つまり、カルデヤ人が前もって相談して「三組に分かれてあちこちを打って、財産を奪おう」と計画して、実行に移したのです。

今日でたとえれば、周りの知り合いや神様を信じない世の人たちによって計画的に詐欺にあって、財産を奪われるケースです。

三番目の災いを知らせるしもべがまだ話している間に、また他のひとりが来てヨブに告げます。七人の息子と三人の娘たちが祝宴で食事をしたりぶどう酒を飲んだりしているとき、大風が吹いて来て、家の四隅を打ち、家が壊れてみな死んだというのです(ヨブ1:18-19)。

家の四隅にある柱は重要な位置という意味です。「家の四隅を打った」とは、ヨブにとって最も大切な大黒柱のような存在である子どもたちを打った、という意味です。

 

2. 神様をほめたたえて感謝するヨブ

 

財産は失ってもまた貯められますが、子どもを失えばまた得る道がありません。ヨブと同じ境遇になれば、多くの人は「神様はひどすぎる」と言いながらつぶやいたり、地面をたたきながら激しく泣いたりするでしょう。

しかし、潔白で正しかったヨブは不平不満を言わずに、上着を引き裂いて頭をそり、地にひれ伏して礼拝して、神様をほめたたえました。

「このとき、ヨブは立ち上がり、その上着を引き裂き、頭をそり、地にひれ伏して礼拝し、 そして言った。『私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。【主】は与え、【主】は取られる。【主】の御名はほむべきかな。』ヨブはこのようになっても罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった。」(ヨブ1:20-22)

 

「上着を引き裂き」とは、自分を低くしたことを意味します。自分はなく、自分は欠けていて弱いことを表現しているのです。神様が助けてくださらなければ自分は何もできない、という意味です。

ひょっとして自分が神様の前に正しくないことがあるのではないか省みて、「自分の力で子どもを生んだのでもないし、財産を得たのでもありません。これらすべては神様が祝福してくださったので存在するのであって、私は何者でもありません」と自分を徹底的に低くして悔い改めている場面です。

また、自分の愚かさと徳の足りなさを表しています。子どもたちを真理にあって正しく育てられなかった自分の無能力さと悲しみまで現わして、上着を引き裂いたのです。これが正しい悔い改めの姿勢です。

私たちが完全に悪から離れて真理のみことばどおりに生きていくなら、高ぶりや自我はなくなっていきます。自分の中に真理であるイエス・キリストだけが生きておられなければなりません。「私にはできないが、主にあってはできないことがありません」と告白して、全面的に神様を信じてより頼んでいく人ならば、たとえ自分の持ち物をみな取られたとしても、神様にぐちをこぼしません。

次に、頭をそったということは、自分のすべてがなくなったことを表現しています。第一コリント11章3節に「すべての男のかしらはキリストであり、」とあります。ここで「かしら」には三つの意味があります。前に立つということ、上ということ、地位が高いということです。このように男にとって髪の毛は実に重要です。

ところで、ヨブは自分の頭をそることによって「自分のすべてを失いました。これらすべては神様から来たものだし、神様が取り上げられたので、私には残ったものがありません」という心を表現したのです。当時は旧約時代なので、神様への信仰を行いで現しました。ヨブは頭をそって、地にひれ伏して礼拝して、神様への自分の誠実を堅く保っているのです。

これによって、「神様が持ち物の祝福を下さったので、ヨブが悪から遠ざかって神様を恐れていた」というサタンの訴えは正しくなかったことが証明されました。ヨブは全財産と子どもまで全部失った後でも、相変わらず神様を恐れて感謝し、礼拝していたので、神様はサタンに「ヨブは本当に潔白で正しいではないか」と言うことがおできになるのです。

 

3. ヨブの誤解

ここで私たちが見逃がしてはならないことがあります。

「【主】は与え、【主】は取られる。」というヨブの告白の中には「与えるのも取られるのも神様が思いのままになさることができる」という意味が込められているのです。つまり、ヨブは心から「神様が与えるのにも理由があり、取られるのにも理由がある」という神様のみこころを悟って言ったのではなくて、「神様は絶対的な主権者として、思いのまま与えることも取ることもできる」と誤解しているのです。神様は思いのまま主権を行使される、恐ろしい神様だという誤解が込められた告白です。

 

ところで、堂会長先生にはこのような試練が何度かありましたが、すべて感謝することで完全に通り抜けました。

堂会長先生が教会を開拓される前、一度は堂会長先生が神学校の休みを迎えて祈祷院に行って帰られたのですが、小学生だった長女が頭からつま先まで全身にできものができて寝ていました。少し動いても皮膚が裂けて、血が出ていました。

また、次女はトラックとぶつかる事故に遭って、顔は腫れて、口の中は傷だらけで、血まみれになったことがありました。そして、末娘の私は高校生とぶつかって倒れ、脳震盪を起こして意識がない危険な状況にいました。

三つの出来事で、周りの人たちはとても心配して、「すぐ病院に行って治療してもらわなければ」と言いました。しかし、堂会長先生はただ祈りながら神様にゆだねるだけでした。心配や不満は少しもなく、変わらずに感謝と信仰の告白をされました。果たして神様は堂会長先生の信仰のとおりに働かれたのです。

堂会長先生が祈ってくださった後、長女は全身のできものが一晩できれいに治り、次女も一週間も経たないうちに傷跡も残らず完全にいやされました。三女の私も、神様が祈りに答えてくださって、事故が起こって二日目で嘘のように意識が戻って、水曜礼拝までささげることができました。

このように信仰によって行って神様のみわざを体験するたびに、家族はさらに大きい信仰を持つようになっただけでなく、周りの人たちも神様に栄光をささげたのです。

 

開拓初期には、堂会長先生の幼い三人の娘と青年一人が一酸化炭素中毒になった出来事がありました。一晩中練炭から出たガスを吸っていたので、生き返る可能性がないように見えたのです。何の予告もなく一瞬にして起こった大きい事故でしたが、堂会長先生は神様に何もつぶやかず、心配もしませんでした。

静かに講壇に上がって「父なる神様、感謝します。三人の娘が主のふところに抱かれるようにしてくださって感謝します…しかし、この青年だけは聖徒なので、神様の栄光をさえぎらないように生かしてください」と祈りました。

堂会長先生のこのような告白は、善の神様、愛の神様、良いものを下さる神様を絶対的に信じる告白でした。

結局、堂会長先生の祈りで四人が順に意識を回復して、神様に栄光をささげました。また、堂会長先生はこれをきっかけに、イエス・キリストの御名によって祈れば、一酸化炭素も退けることができるという自信を持つようになったし、無生物も従えることができる神の力が臨むようになりました。このように試練や患難を喜びと感謝で通り抜けるならば、大きい祝福が臨むのです。

 

愛する聖徒の皆さん、

試練は何の理由もなくやって来るのではありません。神様が祝福を与えるためのテストでない以上は、必ずサタンが訴えるような理由があるのです。

ですから、試練がやって来たとき、自分を省みて悔い改めて立ち返り、神様のみこころを行わなければなりません。さらに、試練を通して自分の欠けた姿を悟らせてくださった神様に感謝しなければなりません。このような場合、試練が長くならないだけでなく、問題が解決されて祝福され、神様に栄光をささげることができます。

ヨブは自分では悪いとは思っていませんでしたが、深い本性の中に悪があったので、神様はそれを発見できるように試練に会うようにされました。ヨブの行いだけでなく心まで完全にして、祝福を下さるためだったのです。

したがって、聖徒の皆さんも何か試練や患難がやって来たとき、自分をよりすばらしい天国に導くための祝福だと信じて感謝しますように。信仰の試練には痛みが伴うこともあります。しかし、そんな時であるほど神様の愛を堅く心に刻んで忍耐し、神様が自分に望んでおられることを行って、祝福と栄光の主人公になりますよう、主の御名によって祈ります。

 

 

「ヨブ記講解(2) -サタンの訴えを聞き入れられた理由」

 

説教:イ・スジン牧師

本文:ヨブ記1:8-12

 

 きょうのメッセージは信仰生活において非常に重要な内容なので、よく心に刻み、試練に真理によって勝利する聖徒の皆さんになりますように。

 

1. サタンの訴えを聞き入れられた理由

 サタンは神様に愛されて認められているヨブを注意して見ていました。ヨブが神様から大きい祝福を受けているので、敵である悪魔・サタンはねたんで、何としてでも訴えの口実を見つけて、ヨブを倒そうと狙っていたのです。

創世記3章14節を読むと、神様はアダムとエバを惑わして善悪の知識の木の実を取って食べるようにした蛇に、一生、ちりを食べなければならないと仰せられました。ここで「ちり」とは、土地のちりで造られた私たち人のことを言い、「蛇」は敵である悪魔・サタンを意味しています。

サタンは闇の中にとどまっている人々を餌食にしているのです。つまり、真理と反対のことを行っている人々に試練や患難、病気などをもたらして苦しみを与える、という意味です。

このような霊の世界の法則によって、サタンは闇の中にとどまっている人を訴えるのです。すると公義の神様はその訴えを聞き入れられるようになります。

サタンはヨブのようにみことばどおりに生きようとする人々を何としてでも訴えようと、口実を見つけようとします(黙示録12:10)。主を信じていない人々は、どうせ罪を犯しながら生きていて地獄に行くので、わざわざ捜し求めて歩き回り、訴える必要がないのです。

うわべではみことばどおりに生きているように見えても、心に真理と反対のものがあれば、サタンはそういう人々を狙うのです。各種の礼拝をささげていて、祈りもしていて、奉仕して忠実である人が、心の割礼を疎かにしたまま「自分はよくやっている」と思うなら、サタンが高ぶりという属性を通してその人を倒すこともあります。

このように敵である悪魔・サタンはいろいろな角度から神様を信じる聖徒たちにわなを仕掛けようと狙っていることを知って、いつも目を覚ましていなければなりません。

 

2. ヨブを訴えるサタン

 神様はサタンに「彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。」とヨブをほめておられます。ヨブに潜んでいる悪いところは言わないで、良いところだけ挙げてほめられたのです。私たちに九つの短所があっても、一つの長所を挙げてほめ、励ましてくださる父なる神様の心です。

するとサタンは神様に「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。」と言いました。これは「ヨブにそれほどの理由と条件があるから神を恐れているのだ」という意味です。

サタンは、物質や健康、名誉などの祝福を受けている時だけ神様に感謝する人間のずる賢さと、変わってしまう肉の属性をよく知っていました。それで、神様がヨブに多くの祝福をお与えになったので、ヨブが神様を恐れているのだと訴えたのです。

そして、サタンは神様がヨブにどんな祝福を下さったのか、具体的に話をします。「あなたは彼と、その家とそのすべての持ち物との回りに、垣を巡らしたではありませんか。」と言いました。これは、ヨブが営んでいるすべてを神様が守って、豊かにしてくださった、という意味です。神様がこれまでヨブを祝福してくださったので、ヨブは神様を恐れているだけで、もし彼のすべての持ち物を取り上げれば、結局移り変わるだろうと言うのです。

サタンは祝福権と呪い権、生死禍福の主権が神様にあることを知っているので、ヨブのすべての持ち物を打つことをお許しくださいと願います。

すると神様はサタンに「では、彼のすべての持ち物をおまえの手に任せよう。ただ彼の身に手を伸ばしてはならない。」と仰せられます。ここで「持ち物」とは、ヨブの子どもたちを含めたすべての財産を意味します。

そうしてサタンがヨブの持ち物を打つことによって1次試練が始まりますが、ここで重要なことは、サタンの訴えが正しくなかったということです。なぜなら、サタンがヨブから物質と子どもたちをみな取り上げたのに、ヨブは神様を恨むのではなく、かえって御名をほめたたえたからです(ヨブ1:20-22)。1次試練はサタンの訴えが間違っていたことを証ししています。

このようにヨブにはすべての持ち物については訴える口実がなかったのに、神様がサタンの訴えを聞き入れられたのは、サタンの訴えが正しくなかったことを証明されるためでした。

 

3. 神の子どもたちが試練や患難に会う場合

 第一、正しくないことを行うように誘惑するサタンの試みがあります。

サタンは、人の中にある罪の性質が動き出して罪を犯させようと惑わします。まず人が情欲に従って罪を犯すようにして、罪を犯すと、それについて神様の前に訴えて災いをもたらします。

たとえば、ダビデがウリヤの妻を見て、目の欲に引かれて罪を犯し、人殺しまでしてしまいました。これによってサタンに訴えられる口実を作って、大きい災いに会ったのです。

ヤコブ1章14-15節に「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」とあるとおり、神様が人を誘惑するのではなく、人が自分の欲に引かれて誘惑されるのであり、自分の情欲に従って罪を犯すので災いが臨むのです。

世の人々は罪を犯したからといってすぐ災いに会うようには見えませんが、神の子どもたちは小さな罪を犯しても試練に会うように見えることがよくあります。神様は、このような苦しみに会うことを通してでも、子どもたちが罪を犯さないで、さらに罪と血を流すまで戦って捨てることを望んでおられるからです(ヘブル12:4-8)。

ですから、私たちは小さいことでも罪を犯して懲らしめが臨んだとすれば、つらくてへたり込むのではなく、直ちに悔い改めて立ち返らなければなりません。すると懲らしめによる苦しみが退きますが、立ち返らないで罪の中にとどまっていれば、災いが続きます。

それにもかかわらず聞き従わなければ、神様が御顔を背けられることになります。その時は懲らしめも臨まないので、これはもっと恐ろしいことです。神様が私生子として扱われるからです。

 

第二、根本の罪の性質を発見して捨てるようにするための試練があります。

ヨブのように罪を犯さなかった人でも、サタンが訴えて試練に会わせる場合です。これは、ヨブが行いとしては完全に見えましたが、自分でも発見できなかった根本の罪の性質、すなわち本性の悪が残っていたので、これを口実に訴えたのです。

もちろん、ほとんどの場合、肉の行いや肉的なことをもっぱら考えていたのではないし、心に罪の性質が残っていることだけで神様がその訴えを聞き入れられるのではありません。

しかし、ヨブのケースは特別なものでした。神様がサタンの訴えを聞き入れてくださった理由は特別な摂理があったからです。この試練を通してヨブの根本の罪の性質が現れるようにして、ヨブが自分で悟れなかった本性の悪まで引き抜いて捨てることによって御霊の歩みに入るように導こうと、試練に会わせられたのです。

 

第三、祝福を与えるために、神様がなさるテストがあります。

これは、サタンが罪を犯すように誘惑する試みでもないし、罪の性質を発見させるための試練でもなく、神様がその人の信仰を霊の世界に証明されるためのテストです。子どもが上の学校に進学するとき、入試というテストに合格したら進学できるように、さらに大きい信仰を証明して見せることで、さらに大きい祝福を受けるようにされるのです。

第一コリント10章13節に「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」とあるとおり、祝福のためのテストは、それぞれの信仰の量りに合わせて、耐えられる分だけ与えられます。

たとえば、神様はアブラハムにイサクをささげなさいと命じられました。アブラハムがこのテストに通ることを、神様はすでにご存じでした。

アブラハムは死者の中からよみがえらせることもできる神様の力を信じて、直ちに聞き従いました。モリヤ山に登って、祭壇を築いて、たきぎを並べた後、イサクを縛って祭壇の上に置きました。イサクに向かって刀をふり下ろそうとした瞬間、天からアブラハムを呼ぶ声が聞こえます。神様が御使いを遣わして、彼を止めるようにされたのです(創世記22:12)。

アブラハムが信仰によってこのテストを通った後に、神様は「今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。」と認めてくださいます。このように試練を通して確かなものとされることで、神様にも栄光をささげ、悪い霊どもの前でもアブラハムが祝福を受ける器であることが証明されたのです。神様は信仰によってテストに通ったアブラハムに大いなる祝福を下さいます(創世記22:15-18)。

 

神様が私たちに祝福を下さるためにテストなさる場合は、たとえ私たちが通れなかったとしても、災いに会うのではありません。必ず脱出の道を下さり、すべてを働かせて益としてくださるのです。資格がなければ祝福を受けられないだけで、それによって災いが臨む理由はないからです。

ヨブの場合も、1次試練の結果だけ見れば、サタンの訴えは確かに間違っていたし、理由のない訴えでした。ヨブは口で罪を犯さずに試練を通って、その証拠を見せたからです。

しかし、神様にはヨブをもっと大きい信仰のある全き姿に変えさせるご計画があったので、2次試練まで会うようにされます。

ヨブの試練については次の時間に続けて伝えます。

 

愛する聖徒の皆さん。

神様がヨブが試練に会うようにされたのは、それを通して根本の悪を発見するようにして、ついに悪を捨てて全く聖なるものの次元に入るようにされるためでした。

この時、サタンがヨブを練る道具として使われました。サタンは悪い霊の世界に属する存在であり、神様の大いなる摂理の中では、人間耕作を完全にするために必要な存在です。

私たちは敵である悪魔・サタンが空中の権威を持っている肉の世で耕作を受けているので、時にはサタンの訴えによって心の悪を発見し、捨てることができるのです。それで、相対性も体験して、神様に喜ばれる子ども、自由意志をもって聞き従うまことの子どもという実になることができるのです。

このような神様の愛の摂理を悟って、父なる神様が待ち焦がれておられるまことの子どもになりますよう、主の御名によって祈ります。

 

「ヨブ記講解(1)」 

説教:イ・スジン牧師

本文:ヨブ記1:1-7

 

きょうは「ヨブ記講解」最初の時間で、ヨブの心の出来と彼が受けた祝福、そしてサタンの正体について調べてみます。

 

多くの人々がヨブについて誤解しています。「神様は潔白で正しいヨブを何の理由もなく試練に会わせられた。ヨブは苦しみを受けたが、最後まで耐え忍んで倍の祝福を受けた。だから、私たちも試練に会ったとき、神様の答えの時を黙々と耐えて待っていればいい」と教えます。

しかし、愛であり、善であられる神様が、どうして理由なしに人に苦しみを受けさせるでしょうか。神様はヨブが霊の信仰へと発展できなくて停滞していたので、試練に会うようにされたのです。試練を通して本性の中の悪が現れて、結局、徹底的に悔い改めて、ついに霊の信仰に入るように導いてくださったのです。神様は、ヨブの例を通して私たちが自分の問題を発見して解決できる道を教えてくださり、祝福される方法も教えてくださっています。

ヨブ記講解をよく糧とすれば、自分は肉の人なのか、御霊の人なのか見分けることができるだけでなく、御霊の人に変えられる方法もわかるでしょう。したがって、「ヨブ記講解」を聞きながら自分の心をさらに深く発見して、霊的に成長しますように。

1. 潔白で正しく、神を恐れていたヨブ

 

ヨブ記1章1節に「ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。」とあります。

「潔白」とは、国語辞典では「心や行いがきれいなこと。後ろ暗いところがないこと。」と定義されています。しかし、神様が言われる霊的な意味の潔白とは「きよい心の中に御霊の実がぎっしりある状態」です。

ヨブはこのように完全に潔白な状態ではありませんでした。父なる神様がご覧になるとき完全ではなかったのですが、それでも良い心で柔和な行いを誠実に実践していたので、潔白だと認めてくださったのです。

 

次に、神様はヨブを「正しい」と言われました。

世の人々は、嘘をつかないで、人をだまさないで、信用を守る人を正しいと言います。つまり、人はうわべを見て「正しい」または「正しくない」と言うのです。

しかし、神様は心をご覧になります。神様が認めてくださる正しさは「人をだまさないだけでなく、自分自身も欺かないこと」です。自分自身を欺かない人ならば、人をだますことはないし、失礼なことをするはずもありません。人との約束はもちろん、自分自身との約束も必ず守るのです。

心の中で「こうしよう」と自分と約束しただけで、誰にも話さなかったとしても、移り変わらないでそのまま守る人を、神様は正しいと言われます。ヨブはこのように正しい人だったのです。

 

また、ヨブは神を恐れる人でした。

神様を恐れる人なら、決して真理から外れることをしないでしょう。箴言8章13節に「【主】を恐れることは悪を憎むことである。」とあるとおり、悪はどんな悪でも避けていきます。ついに悪はどんな悪でも避けて心を霊に変えれば、罪を犯さなくなるから恐れもなくなって、神様を心から愛するようになります。ですから、より深い恐れとは、怖がって恐れるのではなく、愛して聞き従う段階です。

イエス様は神様を恐れかしこみ、敬われたので、そのとおりに聞き従ってご自分を犠牲にされました。旧約の預言者たちやイエス様の弟子たちも神様を恐れかしこんだので、自分を完全に無にして神様のために献身することができました。

私たちも神様を恐れて悪から遠ざかり、さらに神様を深く愛して、いのちもささげることのできる従順の人になりますように。

 

2. ヨブが受けた祝福

本文にヨブについて「神を恐れ、悪から遠ざかっていた。」とありますが、これは本性の中の悪まで全部捨てたという意味ではありません。自分で悟れた悪は行わなかったし、最善を尽くして善を追い求めた、ということです。

このように神様から潔白で正しいと認められ、そうして神様を恐れて悪から遠ざかっている人は器が大きいと言えます。たましいに幸いを得ているだけに肉的にも祝福される器を備えていたのです。

ですから、ヨブは神様に大いに祝福されて、「東の人々の中で一番の富豪であった」と記されるほどでした。子どもと物質、健康、その他多くの祝福を受けていたのです。また、ヨブは心遣いや心の器の出来も良くて、人に尊敬されるような基本条件を備えた人でした。

 

ヨブが受けた祝福には家庭の平和もあります。

ヨブ記1章4節に「彼の息子たちは互いに行き来し、それぞれ自分の日に、その家で祝宴を開き、人をやって彼らの三人の姉妹も招き、彼らといっしょに飲み食いするのを常としていた。」とあります。ヨブが潔白で正しい人だったので、子どもたちも互いに仲が良かったということがわかります。一家の長であるヨブが手本になっていたので、自然に子どもたちも父を見ならって、平和をつくっていたのです。

ところが、ヨブの子どもたちの兄弟愛と平和は肉的な愛であり、肉的な平和でした。これは、ヨブの子どもたちが宴会を開いたら、ヨブが「彼らを呼び寄せ、聖別することにしていた。彼は翌朝早く、彼らひとりひとりのために、それぞれの全焼のいけにえをささげた。」ことからわかります。

ヨブの心の片隅には、子どもたちのことで不安と悩みがあったのです。子どもたちが神様を恐れかしこんでいなかったからです。それで、もしかして子どもたちに神様の前にふさわしくない姿があったのではないかと心配で、全焼のいけにえをささげて罪をきよめられるようにしたのです。聖霊が来られる前である旧約時代に生きていたので、子どもたちのために全焼のいけにえをささげる行いによって罪が赦されたのです。

このようなヨブの行いがいつも変わらなかったので、ヨブが実に潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた人であったかがわかります。

 

3. サタンの正体

ヨブ記1章6節に「ある日、神の子らが【主】の前に来て立ったとき、サタンも来てその中にいた。」とありますが、ここで「神の子ら」とは、「イエス・キリスト」と「聖霊様」を指しています。

では、神様はどんな汚れもない聖なる方なのに、どうやって悪いサタンがその前に来ることができたのでしょうか。これは、実際にサタンが神様のおられる天国に入って、その前に立っていたということではなく、神様がサタンとの会話をお許しになったという意味です。

サタンも霊なので、神様のお許しがあるなら霊を通して交わり、話すことができるのです。神様がサタンに「おまえはどこから来たのか。」と聞かれると、サタンは「地を行き巡り、そこを歩き回って来ました。」と答えます。サタンは食い尽くすべきものを捜し求めながら歩き回って、神様の前に訴えに来たのです(第一ペテロ5:8)。

神様のみことばどおりに生きていない人は、すでに敵である悪魔に属しているので、サタンが目をつける必要がありません。ヨブのように信仰があり、潔白な人でも、何としてでも倒そうと狙っているのです。

 

サタンとは、一言で言うならルシファーの心です。人の思いを通して働く存在で、実質的な形はありません。サタンはルシファーが持っている闇の力をそのまま持っていて、人々が悪い思いと心を持つようにして、悪を行うようにします。

サタンはまるで空中に飛びかっている電波のように、その心と力を続けて空中にまき散らします。電波が受信アンテナに会えばすぐ接続するように、サタンがまき散らしておいた闇の心と思いと力も、それを受け入れる準備ができた人々に働きます。この時、受信アンテナの役割をするのが人の心の中にある闇、すなわち真理と反対のものです。

たとえば、心の中に憎しみの属性があるとすると、それがサタンが空中にまき散らしておいた憎しみという電波を受け入れる受信アンテナの役割をします。サタンがまき散らしておいた闇の電波と、人の心にある真理と反対のものというアンテナの周波数が合うと、サタンは思いを通して直ちに闇の力を吹き込みます。

これによって真理と反対の心が強くなれば活動し始めるのですが、これを「サタンのしわざを受けた」または「サタンの声を聞く」と言います。このようにサタンの声を聞くと、思いを通していろいろな罪を犯し、行いでも罪を犯すようになります。

サタンは、人が真理から離れて罪を犯したり、真理に逆らったりしているとき、日夜神様に訴えています。神様は霊の世界の法則によって正しく治められるので、神様がご覧になって真理と反対のことを行えば、敵である悪魔・サタンを通して試練に会わせられるしかありません。敵である悪魔・サタンは、人が罪を犯して生きている分だけ神様の前に訴えて、試練、患難をもたらして思いのままに操っていきます。

しかし、神様のみことばに聞き従って、悪はどんな悪でも避けて光の中を歩んでいる人には触れることができません。第一ヨハネ5章18節に「神によって生まれた者はだれも罪を犯さないことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。」とあるとおりです。

 

愛する聖徒の皆さん。

ヨブはまだ完全な霊の心になってはいなくても、神様を恐れかしこみ、自分が知っている罪と悪は行わなかったし、最善を尽くして善を追い求めました。

しかし、私たちは明白な真理でないものだと知っていながらも捨てないで、あれこれ言い訳をして「なぜ私には祝福を下さらないのか。答えてくださらないのか」とつぶやかなかったでしょうか。

神様を信じて恐れかしこむなら、そのみことばどおりに生きて、悪から遠ざかるはずですが、相変わらず罪と悪の中で生きていながら神様を信じると言うから、祝福されないのです。

ですから、今からは罪と血を流すまで戦って捨てるものの、神様を愛して、喜びながら聖められていきましょう。ヨブの姿と自分を比べて「どうすれば神様の前にふさわしい者になって、サタンに訴えられないで信仰によって世に勝って、霊的に成長して神様に祝福されて栄光をささげることができるか」一つ一つ悟りますように。そして、ヨブが試練の後に受けた神様の大いなる愛と祝福を、皆さんも思う存分受けて栄光をささげますよう、主の御名によって祈ります。

ヨブ記講解 (1)
ヨブ記講解 (2)
ヨブ記講解 (3)
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