​礼拝メッセージ

第43課「一主よ。私をお助けください」

読むみことば: マタイ15:24-28

覚えるみことば: ローマ1:17

参考にするみことば: 第一サムエル21章

教育目標: 自尊心を捨て、へりくだった心ですべての人に仕えて愛することによって、この地上ではもちろん、天国でも尊く思われる偉大な人になりますように。

 

「自尊心」とは「自分の人格を大切にする気持ち。また、自分の思想や言動などに自信をもち、他からの干渉を排除する態度。」のことです。神は他からの干渉を排除するような自尊心を捨て、へりくだった心で相手に仕えて愛することを望んでおられます。

ところが、自尊心にこだわって滅びる人がいるかと思えば、自尊心を捨てて尊く思われる人もいます。ダビデ王は神の御前でも人の前でもへりくだった人だったので、この地上ではもちろん、天国でも偉大な者になることができました。

 

1. 自尊心を捨てることで命拾いしたダビデ

 

ダビデがまだイスラエルの王になる前のことです。彼は自分をねたんで殺そうとするサウル王を避けて、ペリシテに属するガテの王アキシュのところに行きます(Iサム21章)。ペリシテはイスラエルの敵国であって、ダビデはサウルの下にいたとき、ペリシテ人をたくさん殺しました。これを知っているアキシュの家来たちは、ダビデのことを王に知らせます。

まかり間違えばいのちを失いかねない苦境に立ったダビデは、ペリシテ人たちの前で狂ったふりをし、門のとびらに傷をつけたり、ひげによだれを流したりまでしました。アキシュはダビデのこのような行動を見て、「私に気の狂った者が足りないとでもいうのか。私の前で狂っているのを見せるために、この男を連れて来るとは。」と言って、追い出してしまいました。

ダビデは自尊心を捨てて狂ったふりをして、危機を免れることができました。後日ダビデはイスラエルの王になり、ペリシテからみつぎものを受けるまでになりました。もしダビデが自尊心にこだわってアキシュの手にかかって死んだとすれば、偉大な王になれなかったのです。

このような状況で、皆さんならばどうするでしょうか。自尊心がある人なら、「死んでもそうはできない」と言うかもしれません。しかし、その自尊心には価値があるのか、自尊心守ることが正しいのか、考えてみてください。

ダビデはサウル王に追われているとき、彼を殺せる機会が二度もありました。しかし、神に油そそがれた王を殺す悪は行わなかったのです。かえって自分を死んだ犬や蚤にたとえて、サウルを殺す意思がないと言うと、これに悪いサウルも感動しました(Iサム24章)。結局、試練が終わった後、神はダビデを王として高めてくださり、彼は堅固な統一王国を建設しました。

 

2. 自尊心にこだわって悲惨な結果を迎えたサウルとゼデキヤ

 

サウルは預言者サムエルが罪を指摘したとき、悔い改めるどころか、民の前で自分の面目を立ててほしいと頼みました。また、神が自分を王位から退けて、ダビデを王として立てたことを知って、ダビデを殺そうと執拗に追いかけ回しました。そうして、結局、神に捨てられて悲惨な死を迎えたのです。

南ユダ王国の最後の王ゼデキヤはどうだったでしょうか。ユダは二度にかけて強大国バビロンに侵略され、風前の灯の危機に置かれました。反乱を起こす可能性がある賢い貴族たちはすべてバビロンに捕らえられて行き、無力な民だけがユダに残りました。この時、ゼデキヤ王はバビロンのネブカデネザル王に召還されて国政を報告し、みつぎものを納めて帰ったこともあります。

この後、ゼデキヤ王はエジプトの王パロと内通して同盟関係を結び、バビロンを裏切るようになります。すると預言者エレミヤがバビロンに降伏することが神のみこころだと伝えますが、ゼデキヤはこれを恥と思って、預言者を地下牢に入れてしまいます。何の力もないのに自尊心にこだわってだけいて、結局バビロンに三度目の侵略を許してしまいました。

エルサレムはバビロンに何と一年七か月間包囲され、町の中の補給物資が完全に途切れて食糧もなくなり、人々は飢えて死んでいきました。その上、バビロン軍によって町が破られ、ゼデキヤと戦士たちは夜のうちに町を出て、結局捕らわれてしまいます。結局、エルサレムの宮は火で焼かれ、完全に陥落してしまいました。バビロン王は裏切ったゼデキヤの目の前で彼の子らを虐殺し、ゼデキヤの目をつぶしてしまいます。そして、捕虜として連れて行って、死ぬ日まで獄屋に入れておきました。

ゼデキヤ王は自尊心にこだわったので、自分だけでなく国も滅びるという悲惨な結果を招きました。ですから、自尊心のために自分を低くできないことがどれほど愚かで自分を滅ぼすことなのか、悟らなければならないでしょう。

 

3. へりくだった心で答えを受けたスロ・フェニキヤの女

 

イエス様がスロ・フェニキヤ地方に行った時のことです(マタイ15:21-28)。ひどく悪霊に取りつかれている娘を持つある異邦の女がイエス様のみもとに出て来て、自分の娘から悪霊を追い出してくださるようにと求めました。彼女は「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」と叫び声をあげて直してくださいと言いました。

この時、イエス様は意外な反応を見せられました。一言もなく、黙っておられるのでした。彼女が叫び続けると、弟子たちがみもとに来て「あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです」と願うほどでした。

すると、イエス様は「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のところには遣わされていません」と言われるのでした。その女は来て、イエスの前にひれ伏して、「主よ。私をお助けください」と言いました。ところが、イエス様は「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです」と、異邦の女を犬にたとえられるのでした。

他の人ならば、犬扱いされたと自尊心を傷つけられて、帰ってしまったでしょう。しかし、彼女は悔しいと思わず、自尊心を傷つけられたという心そのものがありませんでした。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」と、へりくだった心で最後までイエス様に求めたのです。それで、イエス様が「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」と言われると、彼女の娘はその時から直りました。スロ・フェニキヤの女は自分を徹底的に低くすることによって信仰のテストをよく通り抜けて、心の願いがかなえられました。

 

4. 正しい心から出て来る信仰の告白

 

スロ・フェニキヤの女が「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」と言ったのは、ひたすら娘を直そうという一念で、無理に憤りを抑えるとか、自分に有利なほうに計算して口にした言葉ではありません。その心が正しくてへりくだっていたので、イエス様が予想できないことを言われた時も、信仰の告白ができたのです。一瞬知恵を絞り出して「私はこう答えて、イエス様の心を買おう」と思ったのではありません。心にある善と謙遜がそのまま出て来ただけなのです。

私たちも神に答えていただこうとするなら、高ぶりを捨てて、心を無にして、仕える者の姿をとられたイエス様の心に似ていかなければなりません。悪をもって悪に報いず、善をもって報い、肉の心を完全に捨てて、霊の心、正しい心を持たなければなりません。そうすればどんな問題にも答えを受けることができるし、信仰によって行うすべてのことが順調に進むのです。

<ローマ1:17>に「義人は信仰によって生きる」とありますが、スロ・フェニキヤの女はその心がへりくだっていて正しかったので、最後まで信仰の告白ができました。そのような心になると、どんな問題にぶつかっても信仰の行いが出て来るので、心の願いがかなえられるようになります。

信仰とは信頼することであり、その信頼に変わることがなく、また聞き従うことです。スロ・フェニキヤの女はイエス様について聞いたとき、それを信じてイエス様を信頼しました。また、イエス様がどんなことをされて、どんなことを言われても、てこでも動かず変わらない心で信じました。

それでは、従順はどのように現れたでしょうか。イエス様が「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです」と言われると、彼女は「主よ。そのとおりです。」と答えました。イエス様を信頼しているので、悔しいと思ったり自尊心を傷つけられたりしないで、へりくだった心でそのおことばを肯定する告白をしたのです。それとともにイエス様のお心を動かすようなことを言ったので、神の驚くべきみわざを体験することができました。このように正しくてへりくだった心で神に喜ばれる信仰を見せると、何でも答えを受けることができます。

したがって、自分の中にある自尊心、高められて仕えられようとする心、自慢したい心、自分の利益を求める心を捨てて、神に喜ばれるへりくだった心を所有し、すべてのことに答えを受けますように。

 

●まとめと適用

1. ダビデが自分を殺そうとするサウル王を避けて、ペリシテに属するガテの王のところに行ったとき、どんな行動をとって生き延びることができたでしょうか。

2. イエス様がスロ・フェニキヤの女を犬扱いされたとき、彼女はどんな心と行いを見せたでしょうか。

3.私は誰でしょう? 「南王国ユダの最後の王で、預言者エレミヤがバビロンに降伏せよという神のみこころを伝えたのに、自尊心にこだわって滅びました。」

 

●今週の課題

「栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。」とはどんな意味でしょうか。<マタイ6:26-33>を読んで考えてきましょう。

 

●知って力にしましょう!

「スロ・フェニキヤ」

パレスチナ北部のシリヤ地域のフェニキヤを指す。スロ・フェニキヤとは、ローマに支配されている「シリヤのフェニキヤ」という意味である(マルコ7:26)。<マタイ15:22>にはスロ・フェニキヤの女がカナン人の女と記されているが、これはカナンがフェニキヤの過去の名前だったからだと見られる。

 

神の良きみこころ

第1課 「主の幻と定めの時

第2課 「神の良きみこころ

第3課 「涙で御足をぬらしてくちづけして

第4課 「私が示す地へ行きなさい

第5課 「あなたの行かれる所へ

第6課 「罪を犯さないでください

第7課 「もしそうでなくても

第8課 「食卓から落ちるパンくずはいただきます

第9課 「あなたの信じたとおりになるように

第10課 「一握りの粉と、ほんの少しの油があるだけです

第11課 「あなたのよいと思うとおりに

第12課 「多くの良いわざと施しをしていた

第13課 「どうして私は神に罪を犯すことができましょうか

第14課 「【主】は与え、【主】は取られる

第15課 「私はその者を全焼のいけにえとしてささげます

六日間のマナ1

第1課 「創造主の神」

第2課 「人を耕作なさる神」

第3課 「善悪の知識の木を置かれた理由」

第4課 「土地の買い戻しの権利のあるイエス・キリスト」

第5課 「世界の始まる前から隠されていた奥義」

第6課 「木の十字架にかけられたイエス様」

第7課 「十字架につけられて水と血をすべて注ぎ出されたイエス様」

第8課 「イエス様の着物を互いに分け合い、下着をくじ引きにするようにされた摂理」

第9課 「全身に打ち傷を負って血を注ぎ出されたイエス様」

第10課 「いばらの冠をかぶって手と足に釘を打たれたイエス様」

第11課 「十字架上の七つのことば(1)」

第12課 「十字架上の七つのことば(2)」

第13課 「十字架上の七つのことば(3)」

第14課 「水と御霊によって新しく生まれてこそ救われる」

第15課 「霊的な子ども」

第16課 「人の子の肉を食べ、またその血を飲んでこそ永遠に生きる」

第17課 「光の中を歩んでいる時の祝福」

第18課 「肉の信仰と霊の信仰」

第19課 「救われるための信仰の一段階」

第20課 「みことばどおり行おうと努力する信仰の二段階」

第21課 「みことばどおり行える信仰の三段階」

第22課 「神をこの上なく愛する信仰の四段階」

第23課 「神に喜ばれる信仰の五段階」

六日間のマナ2

第1課 「すべてのはかりごとと思弁を打ち砕こう」

第2課 「信仰の種を蒔こう」

第3課 「真心と全き信仰」

第4課 「求めなさい、捜しなさい、たたきなさい」

第5課 「どうすれば答えられるのか」

第6課 「できるものならと言うのか」

第7課 「火の答えを受けたエリヤ」

第8課 「永遠なるもののために」

第9課 「天国の宴会に招待された人たち」