​礼拝メッセージ

第1課「起きよ。光を放て」

読むみことば: イザヤ60:1

覚えるみことば: 第一ヨハネ1:5

参考にするみことば: 第一ヨハネ1:5、エペソ5:8

教育目標: やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっているこの時に、起きて光を放ち、神の栄光を国々に現す聖徒になりますように。

 

 夜が深くてやみが濃くなるほど、人々は光に対する感謝を感じるようになるので、その価値はさらに高くなるものです。

 同じように、罪がはびこっていて日増しに暗くなっていくこの世代の中で放つキリストの光は、数多くの魂を死からいのちに、やみから光に導いているので、その価値は言葉で言い尽くせないのです。

 したがって、神の子どもたちはさらにキリストの光を放って、世の道しるべのような役割をよく果たさなければならないでしょう。

 

1.「起きよ。光を放て。」というみことばが私たちに与える意味

 

 神は預言者イザヤを通して「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、【主】の栄光があなたの上に輝いているからだ。」と仰せられました(イザヤ60:1)。

 これは神の子どもたちに向けられた命令であり、彼らの輝かしい未来についての御告げです。

 預言者イザヤがこのおことばを告げた当時、イスラエルは絶望とやみで満ちていました。全国が偶像礼拝などの宗教的な罪とともに、神の公義を無視して道徳的に堕落し、弱い者を抑圧する風潮が蔓延していたのです。

 もちろん神は数えきれないほど悔い改めを勧められましたが、彼らがこれを無視して悪を行い続けると、ついには彼らをバビロンの手に引き渡してしまわれました。結局、美しかったエルサレム聖殿は壊され、民は異邦人のあざけりとなり、七十年という長い歳月の間、捕虜生活をするようになりました。

 このような状況でイスラエルの民の心はどうだったでしょうか。

 捕虜生活も苦しかったのですが、神の栄光がもう自分たちから離れたという絶望感にさらに苦しめられていたでしょう。このような時に、神は再び輝かしい未来とメシヤの到来を約束して、「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、【主】の栄光があなたの上に輝いているからだ。」というおことばを下さいました。

 

 それでは、「起きよ。光を放て。」というみことばが私たちに与える意味は何でしょうか。

 今日はイザヤの時代よりさらに罪と悪がはびこっていて、世はすっかり暗やみでおおわれています。

 このような時、大胆に起きて、主の栄光の光を国々に照らす使命がまさに私たちにあるのです。

 今日、数多くの教会が福音を伝えていますが、心がかたくなな人々に、果たして何をもって見えない創造主の神を証しし、イエス・キリストを信じるようにできるでしょうか。

 何よりも神の生きておられるみわざを目に見える証拠として現さなければなりません。

 また、人間の知識と思想が混ざり合ったものでなく、ただ純粋な神のことばを伝えなければなりません。

 つまり、人間耕作の摂理と意味が込められた十字架のことばを明らかに悟らせるいのちのみことばが切に必要なのです。

 神はこの終わりの時に福音で完全に世界を福音化する使命を、恵みと聖霊に満たされていて神の力が現れる教会、すなわち、聖潔の福音で聖められた聖徒たちにゆだねられました。

 それで、私たちをふさわしい器にするために、時には鍛錬して、いろいろな形で練ってこられたのです。さらに試練を通り抜けた私たちに、神が「起きよ。光を放て。」と命じられた理由は何でしょうか。それは、本教会に向けられて隠されていた神のみこころと摂理が神のご計画によってすべての国々に現れる時が近づいているからです。

 

2.「起きよ。光を放て。」というみことばを実現するには

 

1) 自分自身が光の中を歩んでいて、キリストの香りを放たなければなりません

 霊的に「やみ」は罪と世を意味し、「光」は神そのもの、すなわち、真理を意味します。

 <第一ヨハネ1:5>に「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。」とあります。

 したがって、私たちが光を放つためには、何より光の根源である神のうちにとどまらなければなりません。

 使徒パウロが聖徒たちに向かって「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。」(エペソ5:8)と勧めたように、あらゆる善意と正義と真実を追い求めて、行わなければなりません。

 暗やみにとどまっている人は自分が暗やみにいることさえ悟れませんが、真理の光が照らせば、何が暗やみで光なのか明らかに見分けられます。

 主の中に入ってくるほど、前に行っていた罪を一つ一つ捨てて、光の中を歩んでいて、キリストの香りを放つようになります。

 人によって、神のことばをどれほど心に耕して、悪を捨てて聖められたかによって、光を放つ力が違います。

 ある人は強い光を所有して、暗やみを退けて堂々と神のみわざを現すかと思えば、ある人は暗やみの勢力と戦っていて、つい力を失って暗やみに埋もれてしまったりもします。

 しかし、確かなことは、光が臨んだ分、暗やみは必ず退くようになるということです。主は世を照らす光となって、暗やみの圧制を完全に打ち砕いて、その光の中でいのちを下さいました。使徒パウロは異邦人を照らす大きい光として、ヨーロッパとアジヤをはじめとする多くの国にいのちの光を伝えました。

 それでは、私たちはどうすべきでしょうか。自分の家庭や職場で暗やみを退けることができなければなりません。そうするとき、広くは社会から暗やみを退けることができ、ついには起きて、世界の国々に思う存分光を放つことができます。

 

2) 力を受けて、神のみわざを現さなければなりません

 

 よみがえられた主は天に上げられながら弟子たちに「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。

 そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」と言われました(使徒1:8)。 

 このおことばどおりに、初代教会当時、使徒たちだけでなく、ピリポ執事やステパノ執事のような聖徒たちが力を行い、福音を伝える所ではどこでも、ユダヤ人をはじめとして数多くの異邦人が主のみもとに出て来る驚くべきみわざが起きました。

 このように、主のしもべではなくても、聖霊を受けた皆さんも力を受けて、光を放たなければなりません。

 そのためには何よりそれにふさわしい器を備えることが第一です。

 つまり、悪はどんな悪でも避けて、神の御前に完全であって傷がない時でこそ、力を受けて思う存分神に栄光を帰すことができます。

 もし世から出た肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢が残っている状態で神から力を受ければ、その人は高ぶってしまい、かえって用いられてから退けられるだけです。

 聖書を読むと、力を受けた人々は一様に心が聖められて傷がなく柔和で、ただみこころのとおりに従いました。力は光である神から与えられるものです。したがって、主の美しい心に似て、火のような祈りを積んでこそ、神が下さる力を受けて、世に光を放つことができるのです。

 

3) いのちのみことばと神のみわざを知らせて、大胆に宣べ伝えなければなりません

 主の復活を目撃した初代教会の聖徒たちが、もし迫害を恐れて福音を伝えなかったとすれば、今日、キリスト教は存在しなかったかもしれません。

 皆さんは本教会を通して現れる生ける神の力あるみわざを見て、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通すいのちのみことばを聞きました。

 ですから、初代教会の聖徒たちのように出て行って、大胆に伝えなければならないでしょう。

 光が臨む所ではどこでも暗やみが退くように、私たちが神の確かな証しを告げ知らせるとき、これが光となって、悪い敵である悪魔・サタンの陣をすべて打ち破るようになります。

 さらに、数多くの人を暗やみから光に導くようになります。ですから、起きて光を放つ聖徒になり、いのちを尽くして福音を伝える使命を果たさなければならないでしょう。

 預言者イザヤは「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」と言っておられる主の声を聞いたとき、「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」と言って、みこころを実現していきました(イザヤ6:8)。

 使徒パウロはすべての手紙で「神のみこころによる使徒パウロ」と自分を紹介して、大胆に福音を伝えていきました。たとえ牢につながれていて、手紙でしか神のことばを伝えることができなくても、これを通して聖徒たちは元気づけられて迫害に勝ち抜き、あちこちに建てられた教会は堅く成長していくことができました。

 今年も神の栄光の光が本教会を通してまぶしく照らし、神のみこころが完全に実現される時を待ちながら熱く走っていきますように。

 

●まとめと適用

1. 私たちが起きて光を放つためにはどうしなければならないでしょうか。

①自分自身が光の中を歩んでいて、(     )を放たなければならない。

②(     )を受けて、神のみわざを現さなければならない。

③いのちの(     )と神の(     )を知らせて、大胆に宣べ伝えなければならない。

2. 霊的に(   )は罪と世を意味し、(   )は神そのもの、すなわち、真理を意味する。

 

●今週の課題

<第一コリント9:16>に「私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。」とあります。なぜ伝道しなければならないのでしょうか。次回までに考えてきましょう。

 

●知って力にしましょう!

「預言者イザヤ」

アモツ、ホセア、ミカと同じ時代に活動した預言者である。イザヤは神のことばを恐れることなく宣べ伝えて、メシヤに関する預言を多くした。彼は神殿で神に召され、ユダとエルサレムで預言者として活動した。ユダと国々に、近い未来、あるいは遠い未来に起こることを預言した。特にユダの政治、道徳、宗教的な腐敗を批判しながら、ユダが生きる道は神に立ち返る道しかないと叫んで、ユダへの神の懲らしめと回復の約束を伝えた。

 

神の良きみこころ

第1課 「主の幻と定めの時

第2課 「神の良きみこころ

第3課 「涙で御足をぬらしてくちづけして

第4課 「私が示す地へ行きなさい

第5課 「あなたの行かれる所へ

第6課 「罪を犯さないでください

第7課 「もしそうでなくても

第8課 「食卓から落ちるパンくずはいただきます

第9課 「あなたの信じたとおりになるように

第10課 「一握りの粉と、ほんの少しの油があるだけです

第11課 「あなたのよいと思うとおりに

第12課 「多くの良いわざと施しをしていた

第13課 「どうして私は神に罪を犯すことができましょうか

第14課 「【主】は与え、【主】は取られる

第15課 「私はその者を全焼のいけにえとしてささげます

六日間のマナ1

第1課 「創造主の神」

第2課 「人を耕作なさる神」

第3課 「善悪の知識の木を置かれた理由」

第4課 「土地の買い戻しの権利のあるイエス・キリスト」

第5課 「世界の始まる前から隠されていた奥義」

第6課 「木の十字架にかけられたイエス様」

第7課 「十字架につけられて水と血をすべて注ぎ出されたイエス様」

第8課 「イエス様の着物を互いに分け合い、下着をくじ引きにするようにされた摂理」

第9課 「全身に打ち傷を負って血を注ぎ出されたイエス様」

第10課 「いばらの冠をかぶって手と足に釘を打たれたイエス様」

第11課 「十字架上の七つのことば(1)」

第12課 「十字架上の七つのことば(2)」

第13課 「十字架上の七つのことば(3)」

第14課 「水と御霊によって新しく生まれてこそ救われる」

第15課 「霊的な子ども」

第16課 「人の子の肉を食べ、またその血を飲んでこそ永遠に生きる」

第17課 「光の中を歩んでいる時の祝福」

第18課 「肉の信仰と霊の信仰」

第19課 「救われるための信仰の一段階」

第20課 「みことばどおり行おうと努力する信仰の二段階」

第21課 「みことばどおり行える信仰の三段階」

第22課 「神をこの上なく愛する信仰の四段階」

第23課 「神に喜ばれる信仰の五段階」

六日間のマナ2

第1課 「すべてのはかりごとと思弁を打ち砕こう」

第2課 「信仰の種を蒔こう」

第3課 「真心と全き信仰」

第4課 「求めなさい、捜しなさい、たたきなさい」

第5課 「どうすれば答えられるのか」

第6課 「できるものならと言うのか」

第7課 「火の答えを受けたエリヤ」

第8課 「永遠なるもののために」

第9課 「天国の宴会に招待された人たち」