​礼拝メッセージ

第6課「肉の信仰と霊の信仰(2)」

読むみことば:ヘブル11:1-3

覚えるみことば:第二コリント10:5

参考にするみことば:ローマ10:17

教育目標:疑いをもたらすはかりごとと思弁を打ち砕き、みことばを熱心に読んで聞いて行って、霊の信仰を所有しましょう。

 

 「肉の信仰」とは目で見て確認でき、自分が知っている常識や知識と一致するから信じられる信仰です。これは有から有の創造、すなわち、ある物から何かを作り出すことを信じる信仰です。このように自分のはかりごとと思弁に合うことだけを信じる肉の信仰は、真理の中で完全な行いが伴えないので、死んだ信仰とも言います。

 それでは、これと反対である霊の信仰とは何であり、どうすれば霊の信仰が所有できるでしょうか。

 

  1. まことの信仰は霊の信仰

 

 霊の信仰は肉の信仰と反対に、自分の知識や思いに合わなくても、みことばならばすべてを信じる信仰です。無から有の創造を信じて、現実と条件に関係なく移り変わらない信仰なのです。

 また、知識として知ることで終わらないで、行うことによって証拠を見せる信仰であって、神が認められるまことの信仰です。

 <ヘブル11:1-2>では「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。昔の人々はこの信仰によって称賛されました。」と信仰を定義しています。

 霊の目で見たら望んでいる事がらが保証され、目に見えなくても信仰の目で見たら、見えないものが確信させられます。

 肉の信仰、知識的な信仰によっては有りえないことが実際に現れて目に見えるのです。多くの昔の人々は信仰によって望んでいる事がらを保証されました。また、目に見えないものを確信させるものとして、無から有を創造される神の力を体験しました。

 たとえば、モーセは神のことばを信仰の目で望んで、杖を差し伸ばして葦の海を分けました。彼が神に命じられたとおりに杖を上げた手を海の上に差し伸ばすと、一晩中強い東風が吹きました。強い風で海の水は分かれて、イスラエル人は海の真ん中のかわいた地を、進んで行きました。

 ヨシュアとイスラエルの民は信仰の目で望んで、エリコの町を七日間回って叫んで城壁をくずれ落としました。堅い城壁が民の叫びでくずれ落ちるということは理解できないことです。しかし、信仰の訓練を受けた出エジプト第二世代は、ヨシュアに命じられたとおりに城の周囲を回って叫びました。本当に城壁がくずれ落ちて、町を征服することができました。

 このように人の思いや知識に合わなくても信じて行いが伴うことが、神が認められるまことの信仰であり、霊の信仰です。このような信仰があれば、健康、家庭、職場、事業の場の問題が解決されるのはもちろん、人としてはとうてい不可能なことであっても、祈って答えを受けます。その上、美しくて栄えある天国を所有して、永遠のいのちを味わうようになります。

 肉の信仰は自分が知っている分だけ持てます。しかし、霊の信仰は人が自分で持てるのではありません。<ローマ12:3>に「だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」とあるように、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて持てます。

 もし人が欲しいだけ霊の信仰が持てるなら、多くの問題が起こるでしょう。隣人を憎んで、「あの人が交通事故に遭うようにしてください」と祈ったのに、答えを受けるなら、どうなるでしょうか。したがって、神はふさわしい心と資格を備えた人だけに答えが伴う霊の信仰を下さるのです。

 それでは、私たちが霊の信仰を所有するためにはどうすべきでしょうか。

 

2. 霊の信仰を所有するには

 

 第一、疑いをもたらすはかりごとと思弁をすべて打ち砕かなければなりません。

 霊の信仰を持つのに最も障害物になる要素は、まさに真理と反対のものから始まったはかりごとと思弁です。ある人は聖書に記されているさまざまな不思議としるしを疑います。神がみことばで天地を創造されたということも信じられないのです。このような疑いは人の知識や思弁から出てきて、敵である悪魔・サタンがもたらすものです。

 「思弁」とは、純粋な論理的思考だけで事物を分別して判断する論理体系です。これは人が作ったものですから、全部が真理ではありません。ですから、一つの現象についていろいろな思弁があったり、以前は正しいと思われていた内容が時間が経つと正しくないと思われたりすることも生じます。

 このように思弁は時代によって変わったりもし、その中には真理もありますが、神のことばに相反する真理と反対のものも多いです。神を信じられないようにする真理と反対の思いにこだわったり、聖書のみことばと反対になる思弁に執着したりすれば、神のみわざを信じにくいし、みことばに聞き従うこともできません。

 したがって、<第二コリント10:5>に「私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、」とあるように、霊の信仰を持てないようにするはかりごとと思弁を打ち砕かなければなりません。これは、自分のはかりごとと思弁がみことばに反していれば、徹底的に無にしなさいという意味です。ただ神のことばだけが真理なので、それに合わない時は何が何でも捨てなければならないのです。火のように祈って神に強くされれば、疑いをもたらす思い、誤った知識と思弁を打ち砕くことができます。そうするとき、みことばが受け入れられて、霊の信仰を持つことができます。

 

第二、神のことばを読んで、聞いて、教わって、熱心に行わなければなりません。

  <ローマ10:17>に「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」とあります。みことばを知らなければ、みことばどおりに行えないので、みことばを熱心に聞いて教わらなければなりません。

 しかし、みことばを知識としてだけ積んで行わない人は、かえって高ぶるようになることもあるので、神は霊の信仰を与えてくださいません。知識として入れておいたみことばが心の中で霊の信仰として満たされるためには、必ずみことばどおりに聞き従う行いが伴わなければなりません。

 立派なピアニストやスポーツ選手になろうとするとき、理論書を繰り返して読むだけでなれるでしょうか。理論を勉強した後、実際に絶え間ない練習と訓練をしなければなりません。同じようにみことばをたくさん読んで学ぶとしても、いざとなるとそのみことばどおりに行わなければ、何の役にも立ちません。知ることで終わらないで、行うことによって心を真理で満たしていく時でこそ、神が霊の信仰を与えてくださいます。

 「心を真理で満たす」とは、神が捨てなさいと言われた憎しみ、争い、ねたみ、姦淫など、真理と反対のものを捨てて、仕えて、相手の利益を求めて、敵をも愛するなど、真理の人に変えられることを言います。心の中を真理で満たしていけば、自然に真理と反対のものは抜けていきます。これによって主の心に似ていくほど、上から信じられる霊の信仰が与えられるようになります。

 もちろん、みことばを聞いたとおりにすぐ聞き従えない場合もあります。自分に間違ったことをした人であっても、何としてでも理解して愛しようとしますが、心に相変わらず憎しみとわだかまりがあります。また、姦淫を捨てたいのに、いざとなると気に入った異性を見て動揺したりもします。

 このような場合、火のように祈ってみことばに聞き従えるように強くされなければなりません。心から神の恵みと力を求めていけば、神は必ず強くしてくださいます。それで、みことばどおりに行っていけば、霊の信仰が所有できます。

 霊の信仰を持っている人はみことばどおりに行って、実際に祝福を体験します。たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、健康であり、心の願いにも答えを受けるのです。このような体験が積まれれば、より大きいことにも従えて、それによって信仰も大きくなります。信仰がキリストの満ち満ちた身たけにまで達すれば、神がいくら不可能なことを命じられても聞き従えます。この時は何でも求めたことに答えを受けるので、どんなことでもできます。ですから、まめにみことばを聞いて心に刻んで行いますように。

 

●まとめと適用

1.霊の信仰は肉の信仰と反対に、自分の(     )と(     )に合わなくても、みことばならすべて信じる信仰である。無から有の創造を信じて、現実と条件に関係なく(     )ない信仰である。

2.私たちが霊の信仰を所有するためにはどうすべきでしょうか。

①疑いをもたらす(     )と(     )をすべて打ち砕かなければならない。

②(     )を読んで、聞いて、教わって、熱心に行わなければならない。

 

●今週の課題

 霊の信仰を持つためには肉の思いを捨てなければなりません。肉の思いとは何で、どうしたら捨てられるでしょうか。<ローマ8:5-8>を読んで考えてきましょう。

 

●知って力にしましょう!

「ヨシュア」

エフライム部族のヌンの子である。アマレクとの戦いで軍隊の指揮官として輝かしい功績を立て、モーセの従者としてともにシナイ山に登った。カナンの地を偵察した十二人の中のひとりであって、悪く言いふらす十人の斥候とは違って、カレブと彼は神が下さった地であることを確信あふれる信仰によって告白した。モーセの跡を継いでイスラエルの指導者になって、民をカナンの地に導いた。カナンの地を十二部族に分割し、百十歳で死んで、彼の相続の地境ティムナテ・セラフに葬られた(ヨシュア24:29-30)。

神の良きみこころ

第1課 「主の幻と定めの時

第2課 「神の良きみこころ

第3課 「涙で御足をぬらしてくちづけして

第4課 「私が示す地へ行きなさい

第5課 「あなたの行かれる所へ

第6課 「罪を犯さないでください

第7課 「もしそうでなくても

第8課 「食卓から落ちるパンくずはいただきます

第9課 「あなたの信じたとおりになるように

第10課 「一握りの粉と、ほんの少しの油があるだけです

第11課 「あなたのよいと思うとおりに

第12課 「多くの良いわざと施しをしていた

第13課 「どうして私は神に罪を犯すことができましょうか

第14課 「【主】は与え、【主】は取られる

第15課 「私はその者を全焼のいけにえとしてささげます

六日間のマナ1

第1課 「創造主の神」

第2課 「人を耕作なさる神」

第3課 「善悪の知識の木を置かれた理由」

第4課 「土地の買い戻しの権利のあるイエス・キリスト」

第5課 「世界の始まる前から隠されていた奥義」

第6課 「木の十字架にかけられたイエス様」

第7課 「十字架につけられて水と血をすべて注ぎ出されたイエス様」

第8課 「イエス様の着物を互いに分け合い、下着をくじ引きにするようにされた摂理」

第9課 「全身に打ち傷を負って血を注ぎ出されたイエス様」

第10課 「いばらの冠をかぶって手と足に釘を打たれたイエス様」

第11課 「十字架上の七つのことば(1)」

第12課 「十字架上の七つのことば(2)」

第13課 「十字架上の七つのことば(3)」

第14課 「水と御霊によって新しく生まれてこそ救われる」

第15課 「霊的な子ども」

第16課 「人の子の肉を食べ、またその血を飲んでこそ永遠に生きる」

第17課 「光の中を歩んでいる時の祝福」

第18課 「肉の信仰と霊の信仰」

第19課 「救われるための信仰の一段階」

第20課 「みことばどおり行おうと努力する信仰の二段階」

第21課 「みことばどおり行える信仰の三段階」

第22課 「神をこの上なく愛する信仰の四段階」

第23課 「神に喜ばれる信仰の五段階」

六日間のマナ2

第1課 「すべてのはかりごとと思弁を打ち砕こう」

第2課 「信仰の種を蒔こう」

第3課 「真心と全き信仰」

第4課 「求めなさい、捜しなさい、たたきなさい」

第5課 「どうすれば答えられるのか」

第6課 「できるものならと言うのか」

第7課 「火の答えを受けたエリヤ」

第8課 「永遠なるもののために」

第9課 「天国の宴会に招待された人たち」