​礼拝メッセージ

第39課 「義のために迫害されている者」

読むみことば: マタイ5:10-12

覚えるみことば: マタイ5:10

参考にするみことば: 第二テモテ3:12

教育目標: 義のために受ける迫害を恐れずに大胆に勝利して、天の報いと栄光を受ける幸いな聖徒になるようにする。

 

迫害とは「弱い立場の者などを追い詰めて苦しめること。」です。私たちがイエス・キリストを信じれば、永遠のいのちを得て天国に入るので、敵である悪魔・サタンは何としてでも信仰を持てないように妨げて迫害します。

このような迫害がなければ、信仰生活がもっと楽にできそうですが、かえって怠けて信仰がなまぬるくなりかねません。キリスト教の歴史を調べても、昔の信仰の人々が義のために迫害されて殉教したとき、より多くの人に福音が伝えられたのです。

 

1. ローマ帝国がキリスト教国家になるまで

ローマ帝国の歴史を見ると、多くの聖徒がキリスト教を信じているという理由でコロッセウムでライオンのえじきになりました。飢えたライオンが飛びかかっても、信仰のある聖徒たちは天国への希望をもって少しも恐れず、かえって賛美して死んでいきました。

ローマ市民は時間が経つにつれて「なぜイエス・キリストを信じる人たちは恐れないで賛美して死んでいくのだろうか。彼らが信じているイエス・キリストとはいったい誰なんだ。死も辞さずに信仰を守るとは」と不思議に思いました。そして徐々にキリスト教に対して関心を持つようになって、福音を受け入れます。ついにコンスタンティヌス大帝はキリスト教を公認するようになります。

このように義のために迫害されて、聖徒たちがライオンのえじきになって血を流したので、当時、世界を支配していたローマ帝国がキリスト教国家になったし、全世界に福音が伝えられたのです。神は殉教者の血がむだにならないように天国で大きい報いを下さり、輝く栄光のうちにとどまるように祝福してくださいました。

 

2. 信仰生活をしながら迫害される場合

<第二テモテ3:12>に「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」とあります。もし私たちが適当に信仰生活すれば、迫害を受けないかもしれません。しかし、みことばを守ってお酒を飲まず、主日を守って真理のとおりに行うので迫害されるのです。このような迫害を通して自分の信仰が試されてさらに堅くなるので、真理にあって信仰で勝利しなければなりません。それなら、どんな場合に迫害されるのでしょうか。

 

第一に、神の働きをしていくとき、ねたみ、そねみのため迫害されます。

誰かがうまくいくのを見れば、ねたんで、事実を曲げて間違った噂を広げるなど、悪を行う人々がいます。その噂を聞いて、自分で確認してもみないまま、「本当にそうだろうか」と同調し、陰口を言う人もいます。

以前、私たちの教会も大いにリバイバルすると、ねたんでそねむ人々が偽りの噂を広げてそしりました。何の過ちもないのにひどく迫害されましたが、少しも憎まず、彼らのために祈りました。最後まで義を行って、善をもって行い、信仰によってすべてを神にゆだねると、神は善の方法で解決され、かえって祝福してくださいました。

神は<マタイ5:44>で「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」と言われたので、信仰の兄弟どうしねたんで憎んではいけません。相手を憎んでわだかまりを抱くことはかえって自分を苦しめるだけです。すべての人を愛せるならば、心に平安が臨んで、真理にあって自由を味わうことができます。

 

第二、神のみこころのうちに会わせられる迫害があります。

このような場合には、神がすべてのことを働かせて益としてくださいます。たとえば、知恵の欠けている人をもっと賢くするために迫害に会うようにされたりもします。迫害を通して神の知恵を体得できるからです。

世の人々は悪知恵を巡らしてうまくいくようでも、結局は倒れるのが見られます。反対に正道を求める人々は、その瞬間は不利なように見えても、神が善の知恵を下さって世の悪い知恵に勝って、大いに栄光を帰すのです。

そうかと思えば、大きい器を作って祝福を与えるために迫害に会うようになさる場合もあります。ダビデはペリシテの敵将ゴリヤテを倒してイスラエルの英雄になりました。しかし、サウル王のねたみ、そねみのため、あちこち苦労しながら身を避ける逃亡者になりました。10年近い歳月の間、サウル王から逃げて回りました。これは神がダビデを大きい器にするために必要な過程だったのです。

この他にも、神の特別なみこころがあって迫害に会うようになさった場合があります。初代教会の時、エルサレムに大きい迫害がありました。この時、使徒以外には、主を信じる人々が迫害を避けて、ユダヤとサマリヤのあちこちに散りました。これによって福音がユダヤとサマリヤの全土にまで広く伝えられました。

使徒ヨハネはパトモス島に流されましたが、そこで神と深く交わってヨハネの黙示録を記しました。このように神のみこころによって会う迫害を信仰によって受ければ、より優れた器になって、神が望んでおられることを大規模に行うことがわかります。

 

第三に、自分のミスや過ちによって受ける迫害があります。

もし神の働きをするからといって家事をまともにしないで、食事の支度もいい加減にするなら、家族が嫌がるでしょう。また、会社に通いながら教会の働きは熱心にするようでも、会社の仕事は疎かにするなら、職場の上司や同僚がよく思わないでしょう。教会に通っているのに徳を高めないで、後ろ指を差されるだけです。

このように自分のミスや過ちによって迫害を自分から招いて、神の栄光を遮る場合があります。ですから、自分の本分を尽くさないで、賢くないから迫害されるようなことは決してあってはなりません。

 

3. 迫害に打ち勝って祝福されるには

 

信仰生活をしながら迫害されている人は、なぜ迫害されるのか悟って賢く行わなければなりません。もし自分の過ちで迫害されるようになったとすれば、当然欠けている部分を直してこそ迫害されません。しかし、義のために祈って断食してみことばどおりに行ったのに迫害がやって来るなら、喜んで感謝して神により頼めばよいのです。

私たちが主を受け入れた後は世と聖め別たれるように生きるべきなので、時には家族や親戚から迫害されて不和になることもあります。この時、どれほどみことばに聞き従って真理のとおりに行うかが重要です。悪をもって対抗しないで最後まで善をもって対するとき、神がすべてのことを働かせて益としてくださるのです。悪を捨てて心を清くすれば、闇が退くのです。

それなら、神の働きをする過程で迫害される場合はどうすべきでしょうか。それにつまずかずに、真理にあって平和をつくらなければなりません。神の国のために忠実な自分をひどく迫害する人がいても、悪をもって悪に報いず、良い心で祈って祝福する人にならなければならないでしょう。

イエス様は敵までも愛して赦されました。自分を十字架につけた人々のために「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」と祈られたのです(ルカ23:34)。私たちも善をもって赦し、迫害する人のために祈りながら、相手を嫌って悪をもって悪に報いることがあってはなりません。

<マタイ5:10-12>に「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。」とあります。

したがって、自分の過ちによって迫害されることがないように自分の本分を尽くすものの、神の国のための迫害は喜んで感謝して通り抜けて、天の報いと栄光を受ける幸いな聖徒になりますように。

 

●まとめと適用

1. もし自分の(    )で迫害されるようになったとすれば、当然欠けている部分を直してこそ迫害されない。しかし、(    )のために祈って断食してみことばどおりに行ったのに迫害がやって来るなら、喜んで感謝して神により頼めばよい。

2. 神の働きをする過程で迫害される場合はどうすべきでしょうか。

●今週の課題

次回は、私たちがどうすれば神様に喜ばれる義人になって祝福を受けられるのか、ヨブの信仰を通して調べてみます。ヨブ記29:8-17、31:16-32を読んで来ましょう。

 

●知って力にしましょう!

「ポリュカルポス」

スミルナ教会の監督であり、使徒ヨハネの弟子として知られている。ポリュカルポスは、一度だけ主を知らないと言って、皇帝を主と告白すれば命を助けてやるというローマの官吏の言葉に「私の一生の間、主が私を知らないと一度も言われたことがないのに、私がどうして主を知らないと言えましょうか」と言って、きっぱり断った。結局、彼はイエス・キリストだけが主であると告白して、火刑に処された。しかし、燃えさかる炎も彼の主に対する信仰を奪うことができなかった。

神の良きみこころ

第1課 「主の幻と定めの時

第2課 「神の良きみこころ

第3課 「涙で御足をぬらしてくちづけして

第4課 「私が示す地へ行きなさい

第5課 「あなたの行かれる所へ

第6課 「罪を犯さないでください

第7課 「もしそうでなくても

第8課 「食卓から落ちるパンくずはいただきます

第9課 「あなたの信じたとおりになるように

第10課 「一握りの粉と、ほんの少しの油があるだけです

第11課 「あなたのよいと思うとおりに

第12課 「多くの良いわざと施しをしていた

第13課 「どうして私は神に罪を犯すことができましょうか

第14課 「【主】は与え、【主】は取られる

第15課 「私はその者を全焼のいけにえとしてささげます

六日間のマナ1

第1課 「創造主の神」

第2課 「人を耕作なさる神」

第3課 「善悪の知識の木を置かれた理由」

第4課 「土地の買い戻しの権利のあるイエス・キリスト」

第5課 「世界の始まる前から隠されていた奥義」

第6課 「木の十字架にかけられたイエス様」

第7課 「十字架につけられて水と血をすべて注ぎ出されたイエス様」

第8課 「イエス様の着物を互いに分け合い、下着をくじ引きにするようにされた摂理」

第9課 「全身に打ち傷を負って血を注ぎ出されたイエス様」

第10課 「いばらの冠をかぶって手と足に釘を打たれたイエス様」

第11課 「十字架上の七つのことば(1)」

第12課 「十字架上の七つのことば(2)」

第13課 「十字架上の七つのことば(3)」

第14課 「水と御霊によって新しく生まれてこそ救われる」

第15課 「霊的な子ども」

第16課 「人の子の肉を食べ、またその血を飲んでこそ永遠に生きる」

第17課 「光の中を歩んでいる時の祝福」

第18課 「肉の信仰と霊の信仰」

第19課 「救われるための信仰の一段階」

第20課 「みことばどおり行おうと努力する信仰の二段階」

第21課 「みことばどおり行える信仰の三段階」

第22課 「神をこの上なく愛する信仰の四段階」

第23課 「神に喜ばれる信仰の五段階」

六日間のマナ2

第1課 「すべてのはかりごとと思弁を打ち砕こう」

第2課 「信仰の種を蒔こう」

第3課 「真心と全き信仰」

第4課 「求めなさい、捜しなさい、たたきなさい」

第5課 「どうすれば答えられるのか」

第6課 「できるものならと言うのか」

第7課 「火の答えを受けたエリヤ」

第8課 「永遠なるもののために」

第9課 「天国の宴会に招待された人たち」