
第9課「できるものなら、と言うのか(1)」
読むみことば: マルコ9:23-27
覚えるみことば: ヨハネ14:21
参考にするみことば: 第一ヨハネ5:3
教育目標: 全き信仰に至るための土台石であり、最小限の行いである肯定的な信仰の告白で、人生のどんな問題でも答えを受けるように。
世の中を生きていると、うれしくて良いことだけあるのではありません。時には悲しくて心痛むこと、周りから何の助けも受けられない絶望的なことにあったりもします。治らない病気や難病で苦しんだり、事業の場、職場の問題でわずかな希望さえないように見える時もあります。うわべでは何の問題もないように見える人も、子どもの問題、夫婦間の葛藤など、人に言えない問題で悩むことが多いです。
このような人生の問題の前で、どんなことでもおできになる神の力を体験して、栄える生き方になるためにはどうすればいいでしょうか。
1. 肯定的な信仰の告白をしなければならない
本文を読むと、ある父親が息子の問題でイエス様のみもとに出て来て、ただ一度で問題が解決される場面が記されています。ある日、イエス様が三人の弟子を連れて高い山に上ってから降りて来られた時でした。ある男が息子をイエス様の御前に連れて来ました。
その子はイエス様を見ると、激しい発作を起こして地面に倒れ、あわを吹きながら、ころげ回わりました。幼い時から悪霊に取りつかれていて、口もきけなくて聞くこともできず、てんかんまで起こしていたのです。一度発作が起こると、悪霊が火の中や水の中に投げ込んで、何度も死にかけました。このような息子のため、父親はいつも不安と憂いの中で生きていました。
ところが、ある日イエス様の噂を聞いたのです。「イエスという方がいろいろな病人をいやして、盲人の目もあけて、口のきけない者もものを言うようにする。悪霊を追い出して、それどころか死んだ人も生き返らせた」というのでした。
この噂はこの父親にとって一筋の希望の光となりました。「そんなに力のある方なら、息子を直してくれるかもしれない」と思って、息子を連れてイエス様を訪ねて来たのです。父親はイエス様に「この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」と願いました。この時、「おできになるものなら、お助けください」と言ったのは、完全な信仰の告白ではありませんでした。イエス様はあることはできて、あることはできない方ではなく、どんなことでもおできになるからです。
これは、父親が信仰を持たずにまぐれ当たりを期待して出て来たことを示しています。イエス様はこれを悟らせるために「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」(マルコ9:23)と言われます。すると、子どもの父親は「信じます。不信仰な私をお助けください。」と言います。
それでは、子どもの父親はなぜ「信じます。」と言っておいて、すぐ「不信仰な私をお助けください。」と言ったのでしょうか。本当に信じるなら、不信仰な私をお助けくださいと言う必要がありません。ですから、初めに「信じます。」と言ったのは肉の信仰であって、自分が聞いて知っている知識的な信仰にすぎなかったのです。
父親はイエス様の噂を聞いてよく知っていました。悪霊を追い出して、盲人の目をあけ、死んだ者を生き返らせるなど、驚くべきみわざを行う方であることを聞いていたのです。このように聞いて知っている知識的な信仰によって「信じます。」と言っただけです。しかし、心に信じられる信仰ではなかったので、「不信仰な私をお助けください。」と求めたのです。
父親は息子の問題に答えを受けられる霊の信仰が自分にないことを悟って、心に信じられる信仰を下さいと求めました。このようにへりくだった姿で求めると、イエス様が「口をきけなくし、耳を聞こえなくする霊。わたしがおまえに命じる。この子から出て行け。二度とこの子に入るな。」と命じられました。すると、直ちに悪霊が出て行きました。
神が認められる信仰は、自分の知識に合わなくても、神のことばならすべて信じて、無から有の創造を信じる霊の信仰です。ところで、心に留めておくべきことは、答えを受けられる霊の信仰が与えられないからと言って、すぐ口で否定してはいけないということです。いつも肯定的な告白をしながら、答えを受けられる信仰が与えられる時まで祈ってこそ、神が霊の信仰を上から与えてくださいます。
それでは、霊の信仰を所有して問題が解決されるには、どうすればいいでしょうか。
2. 信仰によって答えを受けるには
第一、神との間に罪の隔ての壁があってはなりません。
<第一ヨハネ1:5>に「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。」とあります。神は暗いところが少しもない、光そのものであられます。罪は光と反対になる闇です。行いで犯す罪だけでなく、思いや心で犯すすべての罪も闇に属します。光である神は闇をとても嫌われます。
<イザヤ59:1-2>に「【主】の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」とあります。このみことばのとおり、神との間に罪の隔ての壁があれば、祈っても答えを受けることができません。
したがって、神に答えていただくためには、まず悔い改めて、罪の隔ての壁を壊さなければなりません。これとともに、闇である罪を捨てるために熱心に努力しなければならないのです。罪を捨てるために熱心に祈って努力するとき、聖霊が助けてくださり、神が恵みと力を下さって、心にある罪の性質まですべて捨てることができます。そうすれば、罪のことを考えることさえ嫌になります。自然に闇から出て光の中で生きるようになり、心から闇がなくなるほど、上から信じられる霊の信仰が与えられます。
第二、神のみこころに従わなければなりません。
神を愛すれば、その方のみこころに従うのが当然です。身と心と知性と誠意、知恵と物質など、自分が持っているものをささげてみこころに従うようになります。自分がいくら好きなことでも、みこころでなければしません。いくら難しいことであっても、みこころなら喜びと感謝をもって聞き従います。
<第一ヨハネ5:3>に「神を愛するとは、神の命令を守ることです。」とあります。神を愛する証拠は神の命令、すなわち、聖書に「しなさい、してはならない、捨てなさい、守りなさい」とあるみことばどおりに聞き従うことです。
<ヨハネ14:21>に「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現します。」とあるように、神は喜んで戒めを守る人とともにおられます。みこころどおりに行うので、その人の心には信じられる信仰が与えられて、「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言われたみことばがそのとおりに成就されます。
第三、神に喜ばれなければなりません。
<詩篇37:4>に「【主】をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」とあります。主を喜びとするとは、主にあって喜び楽しむという意味です。ここで言う「喜び」とは、自分の利益に合うことが起こったとき、肉的な感情で喜ぶのではありません。聖霊に満たされて味わう、神が下さるまことの喜びなのです。
どうすればこのような喜びを味わうことができるでしょうか。私たちがまず神に喜ばれればいいのです。そうするとき、神もその喜びを返してくださって、まことの喜びが臨みます。聖書には神に喜ばれることについていろいろと記されています。
神はすべての善行と、心からささげるささげ物を喜ばれます。霊とまことによって礼拝して、神を高めて賛美することを喜ばれます。その他に、熱心に福音を伝えて、何をするにも神の栄光のためにするとき、喜ばれます。
私たちがこのように神に喜ばれると、不可能を可能にする信仰が上から与えられます。もちろん、悪はどんな悪でも避けて、あらゆる分野で忠実に働いていく時でこそ、完全に神に喜ばれることができます。
しかし、まだ少し欠けているとしても、自分の信仰の中で神に喜ばれると、その瞬間だけはどんなことでもできるという信仰を、神が下さいます。このような信仰を持てば、心の願いやどんな問題でも答えていただけます。
ひょっとして神との間に罪の隔ての壁があるなら、すみやかに壊して、肯定的な信仰の告白をし、光の中を歩んで、どんな問題であっても答えを受けますように。
●まとめと適用
1. 子どもの父親はなぜ「信じます。」と言っておいて、すぐ「不信仰な私をお助けください。」と言ったのでしょうか?
2. 霊の信仰を所有して問題が解決されるには、どうすればいいでしょうか?
①神との間に( )があってはならない。
②神の( )に従わなければならない。
③神に( )なければならない。
●今週の課題
次回も人生の問題を前に全能の神様を体験する秘訣を学びます。<エレミヤ33:3>を読んで、私たちは何をすべきなのか考えてきましょう。
●知って力にしましょう!
肯定的な信仰の告白の力
①肯定的な言葉は人生を変える。
②肯定的な告白の中で聖霊が働かれる。
③肯定的な信仰の告白の中に神がともにおられる。
『神の良きみこころ』
『六日間のマナ1』
第7課 「十字架につけられて水と血をすべて注ぎ出されたイエス様」
第8課 「イエス様の着物を互いに分け合い、下着をくじ引きにするようにされた摂理」
第10課 「いばらの冠をかぶって手と足に釘を打たれたイエス様」
第16課 「人の子の肉を食べ、またその血を飲んでこそ永遠に生きる」
『六日間のマナ2』