礼拝メッセージ
第31課「信仰」
読むみことば: ヘブル10:22
覚えるみことば: ヘブル10:22
参考にするみことば: 第一ヨハネ3:21
教育目標: 神の子どもとして真心と全き信仰を持ち、主の御名によって求めるものは何でも答えを受けられるように助ける。
聖書66巻に記された神のことばは永遠に変わらない真実そのものです。創造主の神がお認めになって喜ばれる信仰を所有すれば、神のまことの子どもとなり、求めるものは何でも答えていただけます。
<マタイ21:22>に「あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」とあるからです。
それでは、ある人は直ちに答えを受ける反面、ある人はなぜ答えが遅かったり、受けられなかったりするのでしょうか。
1. 真心と全き信仰との関係
<ヘブル10:22>に「そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」とあります。
ここで「真心」とは、偽りがない真実な心、すなわち、イエス・キリストに似た心です。「全き信仰」とは、聖書66巻のみことばを疑いなく信じて、神が下さった命令をすべて守り行うことを言います。
ところで、全き信仰は真心に変えられた分だけ所有できます。真心を持つ人の告白こそ真実な信仰の告白ですから、神もその祈りにすみやかに答えてくださいます。
多くの人が信仰の告白をしますが、その中に込められた真実はそれぞれ違います。真心に変えられて100パーセント真実な信仰の告白をする人もいますが、完全に変えられていなくて50パーセントしか真実でない人もいます。そんな場合、神は「あなたはわたしを半分しか信じられないのだな」と言われるしかありません。このような真実の程度がまさに神がお認めになる信仰の量りです。
人間関係でも「信じる」という告白と、相手を信頼する程度が違うことが見られます。たとえば、お母さんが小さい子どもを家に置いて外出するとき、「おとなしくお留守番してるのよ。お母さんはあんたを信じてるから」と言ったとしましょう。では、お母さんは本当に子どもを信じて言ったのでしょうか。本当に信じるなら、「信じてるから」という言葉が必要ありません。「何時までに帰って来るから。よくお留守番してるのよ」と言ってもいいのに、信じられないから「信じてるから」という言葉を付け加えたのです。
「お母さんがきれいに掃除しといたから、散らかさないで。お母さんの化粧品、触っちゃだめよ。ガスの火は危ないから付けちゃいけないよ」など、心配だから注意するのです。そのように注意して外出していても、信頼できないから「今何してるの? 変わったことないでしょう?」ともう一度確認します。普段から親の言うことをよく聞いて、何でもそのまま従う子どもに「あんたを信じてる」と言ったとすれば、子どもを100パーセント信じるから出て来た真実の告白です。
このように、どれほど従順であり真実なのかによって、信頼できる子どもがいるかと思えば、信じられない子どももいるのです。もし100パーセント信頼している子どもが何かを要求するなら、親は理由も聞かないで言うとおりにあげます。「当然必要だからほしいと言うんだろう。いい加減な事をする子じゃないから」と、子どもを完全に信頼して、求めるとおりに聞いてあげるのです。
しかし、子どもに対する信頼が完全でない場合には、要求が妥当な時でこそはじめて聞いてあげます。子どもを信じられないほど、親は子どもの要求事項を何回確認しても聞き入れるのをためらうのです。それでも子どもがせがみ続けて駄々をこねるなら、親としては子どもの話を信じたからではなく、しつこい願いに勝てずに仕方なく聞いてあげることもあります。
このような原理は、神と神の子どもとの関係でも同じように適用されます。したがって、信じられない子どもがしつこく願うので仕方なく少し下さるのではなく、子どもがすべてにおいて真理の中を歩んでいて、非難されることがないから、求めるものは何でも下さるように、私たちは真心と全き信仰を所有しなければなりません。
2. 真心と全き信仰を持っていたアブラハム
アブラハムが信仰の父になれた理由は、真心と全き信仰を持っていたからです。彼は一度神が約束してくださったことはどんな状況でも疑わず、そのとおりに信じました(ローマ4:19~22)。
アブラハムが75歳になった年に、神は彼を大いなる国民とすると言われましたが、20年以上過ぎてもアブラハムは子孫を得られませんでした。そうするうちにアブラハムが99歳、妻サラが89歳で、すでにみごもれないからだになった時に、神がはじめて一年後に男の子を得ることを教えてくださいました。人の思いでは全く不可能ですが、約束のおことばを全く疑わないアブラハムの信仰を、神がお認めになったのです。結局、神が約束なさったとおり、翌年息子イサクを生むように祝福してくださいました。
ところが、アブラハムが信仰の父になるためには、もう一度信仰の試みが残っていたのです。百歳で得たひとり子イサクを全焼のいけにえとしてささげなさいと仰せられたのです。アブラハムは愛する息子イサクをどう全焼のいけにえとしてささげたでしょうか。
アブラハムはすでに神がイサクを通して多くの子孫が生まれることを教えてくださったので、彼を全焼のいけにえとしてささげたとしても、よみがえらせてくださると信じました(ヘブル11:17~19)。
それで、ただ信仰によってイサクを縛って祭壇の上のたきぎの上に置いて、刀を取ってほふろうとしました。この時、神は御使いを通して「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」と言われました(創22:12)。
このようにアブラハムは心から神を恐れかしこんだので、聞き従えないことにも聞き従って、信仰の試みを通して全き信仰を認められ、信仰の父となる祝福を受けました。
3. 真心と全き信仰を持つには
堂会長先生の場合、7年間、あらゆる病気のため何の希望もなく、死を待っていた時がありました。そうするうちにお姉さんの伝道で聖殿に行って、ただひざまずいただけなのに、神の力によってすべての病気がいやされたのです。
このように神の大いなる愛と恵みを受けたので、家の近所の教会に出席して、各種の礼拝はもちろん、あちこちリバイバル聖会を訪ね歩いて、みことばを熱心に学んで行いました。当時、きつい力仕事をしながらも、毎日のように早天礼拝に参加するなど、「どうすればみことばをもっと聞いて、神様のみこころを悟ることができるだろうか」という心だけでした。
説教を聞いて、神を信じる人がお酒を飲んでタバコを吸うのはふさわしくないというので、直ちにやめてしまいました。十分の一献金と感謝献金もするべきだというので直ちにささげたし、その時から今まで一度もみことばに背いたことがありません。
聖書を読みながら「しなさい」とあることはしたし、「守りなさい」とあることは守りました。「してはならない」とあることはしなかったし、「捨てなさい」とあることは捨てていきました。もし簡単に捨てられなければ、断食して祈ってでも捨てたのです。
みことばのとおり聞き従うほど、神は尊い信仰を賜物として下さいました。ですから、神に対する信仰が日増しに堅くなって、どんな試練が来ても、困難に会っても、決して神を疑ったことがなかったのです。すべてを全知全能の神にゆだねて、ただ信仰によって祈っていたら、いつしか偽りのない真心になっていきました。
主のしもべとして召された後にはみことばと祈りに専念し、神の力を行うしもべになるために火のように祈りました。教会を開拓した後には、試練がやって来るたびに真心と全き信仰で神に求めたので、すべての試練を十分に通り抜けることができました。そのたびに神は上から大いなる力を授けてくださいました。
このように神が下さった力あるわざを基に、2000年からは本格的に海外聖会を行い、数えきれないほどの魂を救いの道に導きました。
私たちも真心と全き信仰を所有するには、どうするべきでしょうか。聖書66巻に記されたみことばを少しも疑わずに完全に信じ、命令を守り行わなければなりません。
罪を血を流すまで戦って捨て、悪はどんな悪でも避けてこそ変えられて、主の心に似ていくことができます。神に喜ばれる真心と全き信仰を持って、求めるものは何でも答えていただき、神に思う存分栄光を帰しますように。
●まとめと適用
1. ( )とは、偽りがない真実な心、すなわち、イエス・キリストに似た心である。また( )とは、聖書66巻のみことばを疑いなく信じて、神が下さった命令をすべて守り行うことを言う。
2. アブラハムはどんな信仰を所有したので、ひとり子イサクを全焼のいけにえとしてささげることができたのでしょうか。
●今週の課題
もしイエス様が皆さんに「あなたは、わたしをだれだと言いますか。」と聞かれたなら、どう答えるでしょうか。<マタイ16:15~19>を読んで考えてきましょう。
●知って力にしましょう!
「イサク」
信仰の父アブラハムと妻サラの間に生まれた息子である。イサクは、父が自分を全焼のいけにえとしてささげようとしたとき、逆らわなかった。彼は40歳でリべカと結婚し、60歳でふたごのエサウとヤコブを生んだ。イサクはヤコブよりエサウのほうを愛し、年をとってエサウを祝福しようとしたが、リべカとヤコブのはかりごとでヤコブに長子の祝福を与えてしまう。イサクは神からカナンの地と子孫についての約束を頂くとともに祝福されて、富豪になった。ペリシテ人が井戸をふさいでしまった時も、対抗しないで、むしろ譲ることで平和をつくった。
『神の良きみこころ』
『六日間のマナ1』
第7課 「十字架につけられて水と血をすべて注ぎ出されたイエス様」
第8課 「イエス様の着物を互いに分け合い、下着をくじ引きにするようにされた摂理」
第10課 「いばらの冠をかぶって手と足に釘を打たれたイエス様」
第16課 「人の子の肉を食べ、またその血を飲んでこそ永遠に生きる」
『六日間のマナ2』