​礼拝メッセージ

~今月のメッセージ~

第19課「目の見えない者の目は開き」  

                                                   堂会長 イ・ジェロク 牧師

読むみことば: ヨハネ9:32-33

覚えるみことば: ヨハネ9:31

参考にするみことば: 詩篇66:18

教育目標: 良い心で神のみわざを認めて慕うことによって神の答えと祝福を受ける神の子どもとなりますように。

 

ヨハネの福音書9章を読むと、イエス様が道の途中で、生まれつきの盲人に出会うようになります。その時、弟子たちはイエス様に「彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」と伺います。

これに対してイエス様は、誰かの罪によるということでなく、神のわざを現わすためだと言われました。その次に、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られ、盲人の目に塗った後「シロアムの池で洗いなさい。」と命じられます。そこで彼が聞き従って、シロアムの池に行って洗ったところ、見えるようになって、世を見るようになりました。ところで、特異な点は、盲人がイエス様のもとに訪ねて来て「私の目をあけてください」と願ったのでもないのに、イエス様がまず彼のところに来て、直してくださったということです。彼がこのように驚くべき神の力を体験できた理由は何でしょうか。

第一に、従順の人だったからです。

イエス様は生まれつきの盲人をまず訪ねて来てくださいました。そして、地面につばきをして、そのつばきで泥を作って目に塗ってくださり、シロアムの池に行って洗いなさい、と言われたのです。泥を目に塗って水で洗えば見えるようになるということは常識にも合わないし、あり得ないことです。しかもイエス様がどなたなのか全く知らないのに、そんなことを言うならば「あなたは私をからかっているのか」と怒ることもあるでしょう。

しかし、盲人はイエス様のおことばに従って、シロアムの池に行って、目を洗いました。このように聞き従ったとき、生まれつき見えなかった目があいて、世をはっきり見るようになったのです。

ここで私たちが得るべき教訓は何でしょうか。ひょっとして神のことばが自分の常識と経験に合わないとしても、この盲人のようにへりくだった心で信じて従わなければならないということです。そうするとき、神の恵みが臨んで、盲人の目があいたように、驚くべきみわざを体験できます。

 

第二に、真理を見分けられる霊的な目が開かれたからです。

盲人がいやされた後、ユダヤ人たちと話をするのを見れば、彼がどれほど偽りがなくて良い心を持っていたのかわかります。また、何が正しくて何が間違っているか、真理を正確に見分けられる霊的な目が開かれているということがわかります。

しかし、ユダヤ人の宗教指導者は律法の強い枠のせいで霊的に目の見えない人になって、真実を見ても信じることができず、まことのものを悟ることもできませんでした。彼がイエス様が泥を目に塗っていやしてくださったと言っても信じないで、かえって「あの人が目をあけてくれたことで、あの人を何だと思っているのか。」と問い詰めます。すると「あの方は預言者です。」と答えます。自分の目を直すことができる方ならば、きっと神の人だろうと思ったからです。

それでもユダヤ人たちは彼の両親まで呼んで、息子がどのようにして見えるようになったのか、再度確認します。しかし、両親はイエスをキリストと告白すれば、ユダヤ人の会堂から追放される(当時のユダヤ共同体における最高刑罰)のではないかと恐れて、じかに息子に聞いてくださいと言います。これに対してユダヤ人がもう一度盲人であった人を呼び出して「神に栄光を帰しなさい。私たちはあの人が罪人であることを知っているのだ。」と言います。

神は「もしも私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない。」とあるとおり、罪人の祈りを聞かれません(詩66:18)。しかも罪人に神の力を与えて栄光を受ける方ではありません。それでもユダヤ人は真実を見ても信じられず、悟ることもできませんでした。

しかし、盲人であった人は彼らを恐れないで、堂々と真実を言いました。<ヨハネ9:31-33>に「神は、罪人の言うことはお聞きになりません。しかし、だれでも神を敬い、そのみこころを行うなら、神はその人の言うことを聞いてくださると、私たちは知っています。盲目に生まれついた者の目をあけた者があるなどとは、昔から聞いたこともありません。もしあの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできないはずです。」と言います。

生まれた時から目の見えなかった人の目があいたという知らせを聞いたとすれば、普通の人ならば一緒に喜んで祝うでしょう。ところが、ユダヤ人は正しい正しくないと議論して、安息日にいやすのは律法を破った悪行だと言って、イエス様に罪があると責めようとしました。神が行われたわざをかえって神に立ち向かうことと思ったのです。彼らがどれほど霊的に無知で心が悪いのかがわかります。

聖書を読むと、目の見えない人の目をあける方はただ神しかないということが明らかに記されています。「【主】は盲人の目をあけ、」(詩146:8)とあり、「そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。」(イザ35:5)とありますが、これはすなわち、キリストが来られれば、目の見えない人の目をあけてくださる、ということです。このように聖書に確かに記されているのに、ユダヤ人たちは自分たちの枠と悪のゆえに神のみわざを見ても信じられなくて、かえってイエス様をみことばを犯す罪人に仕立てていきました。

しかし、目の見えなかった人は律法について多くの知識を持ってはいなかったけれど、正しい良心に従って、神が罪人の祈りを聞き入れてくださらないという真理を知っていました。目をあけてくださるのはただ神だけにおできるになることだと悟ったのです。このように神の力あるわざを信じて認めるとき、祝福の主人公になることができます。

 

第三に、恵みを受けた後、新しい生き方を決断したからです。

私たちは、数多くの人が死ぬしかない病気からイエス・キリストを信じていやされ、人生のいろいろな問題が解決されるのを見ました。ところが、主にあって大きい恵みを受けても、神を離れて世へ向かう人々もいます。病気の時は「いやされれば主だけのために生きます」と言っておいて、いざいやされて健康を回復すれば、自分の利益を求めて恵みのそむきます。たとえ病気の問題は解決されても、救いの道から離れてしまったので、どれほどかわいそうな人でしょうか。

生まれつき盲目だった人は恵みにそむかない良い心を持っていたので、イエス様に出会って目を開きました。それだけでなく、最も大切な救いの祝福まで頂きました。イエス様が彼に「あなたは人の子を信じますか。」と尋ねられたとき、彼は「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。」と答えます(ヨハ9:35-36)。これに対し、イエス様が「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。」と言われると、彼はためらわずに「主よ。私は信じます。」と言いながらイエス様を拝します。イエス様を救い主として受け入れて、主だけのために生きるという信仰の告白だったです。

神はすべての人がこのような心をもって出て来ることを望んでおられます。病気をいやして祝福してくれるから神を捜すのではなく、ひとり子も惜しまない神の濃い愛を悟って、主をまことに救い主として受け入れてほしいと望んでおられるのです。また、口先だけで神を愛するのではなく、まことに神を愛するのでやみのわざを打ち捨てて、毎日光の中を歩むように望んでおられるのです。

神を愛すれば、神のことばどおり生きるということが決して難しくありません。<第一ヨハネ5:3>に「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。」とあります。

私たちが信仰と愛を持って神に何かを求めれば、どうして答えてくださらないでしょうか。<マタイ7:11>に「してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。」と約束されたように、どんなことにも答えてくださいます。

いくら重い病気でも、もつれた問題でも、心配する必要はありません。「主よ。私は信じます」という心からの告白とともに信仰の行いを見せますように。そうするとき、病気のいやしはもちろん、不可能を可能にし、困っていたことはうまくいくように変えてくださいます。

神の力を体験するには、盲目だった人のように良い心で神のみわざを認めて慕わなければなりません。信仰によって答えを頂く器をどれほどよく備えたかによって、神の力を体験できるからです。<詩篇18:25-26>に「あなたは、恵み深い者には、恵み深く、全き者には、全くあられ、きよい者には、きよく、曲がった者には、ねじ曲げる方。」とあるので、行ったわざに応じて報いてくださる神に喜ばれる信仰の行いによって神の力を体験されますように。

神の良きみこころ

第1課 「主の幻と定めの時

第2課 「神の良きみこころ

第3課 「涙で御足をぬらしてくちづけして

第4課 「私が示す地へ行きなさい

第5課 「あなたの行かれる所へ

第6課 「罪を犯さないでください

第7課 「もしそうでなくても

第8課 「食卓から落ちるパンくずはいただきます

第9課 「あなたの信じたとおりになるように

第10課 「一握りの粉と、ほんの少しの油があるだけです

第11課 「あなたのよいと思うとおりに

第12課 「多くの良いわざと施しをしていた

第13課 「どうして私は神に罪を犯すことができましょうか

第14課 「【主】は与え、【主】は取られる

第15課 「私はその者を全焼のいけにえとしてささげます

六日間のマナ1

第1課 「創造主の神」

第2課 「人を耕作なさる神」

第3課 「善悪の知識の木を置かれた理由」

第4課 「土地の買い戻しの権利のあるイエス・キリスト」

第5課 「世界の始まる前から隠されていた奥義」

第6課 「木の十字架にかけられたイエス様」

第7課 「十字架につけられて水と血をすべて注ぎ出されたイエス様」

第8課 「イエス様の着物を互いに分け合い、下着をくじ引きにするようにされた摂理」

第9課 「全身に打ち傷を負って血を注ぎ出されたイエス様」

第10課 「いばらの冠をかぶって手と足に釘を打たれたイエス様」

第11課 「十字架上の七つのことば(1)」

第12課 「十字架上の七つのことば(2)」

第13課 「十字架上の七つのことば(3)」

第14課 「水と御霊によって新しく生まれてこそ救われる」

第15課 「霊的な子ども」

第16課 「人の子の肉を食べ、またその血を飲んでこそ永遠に生きる」

第17課 「光の中を歩んでいる時の祝福」

第18課 「肉の信仰と霊の信仰」

第19課 「救われるための信仰の一段階」

第20課 「みことばどおり行おうと努力する信仰の二段階」

第21課 「みことばどおり行える信仰の三段階」

第22課 「神をこの上なく愛する信仰の四段階」

第23課 「神に喜ばれる信仰の五段階」

六日間のマナ2

第1課 「すべてのはかりごとと思弁を打ち砕こう」

第2課 「信仰の種を蒔こう」

第3課 「真心と全き信仰」

第4課 「求めなさい、捜しなさい、たたきなさい」

第5課 「どうすれば答えられるのか」

第6課 「できるものならと言うのか」

第7課 「火の答えを受けたエリヤ」

第8課 「永遠なるもののために」

第9課 「天国の宴会に招待された人たち」

 
 
 
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